そう長く生きてきたわけではないが、かつてここまで空気の重い食卓を経験したことがあっただろうか?
絶えずそんな疑問が頭の奥をちらつくくらいには、俺は緊張していた。ラフな格好で失礼しますと一応断った上で上下ジャージに着替えた俺を待っていたのは、赤司とふたりで囲む朝食だった。着替えのあと赤司に言われるがままあとをついて家の中を歩いていたら、たどり着いた先には建物の外観とギャップがある洋風のキッチンと台所。テーブルの上にはラップの掛けられた食器がいくつか置かれていて、四脚の椅子のうちふたつの前にそれぞれ箸や湯呑みが用意されていた。もしかして俺の分の朝飯まで? 狼ではないのに言葉ではなく目線で尋ねると、赤司は一言「先に座っていろ」とだけ残し、テーブルの上の陶器類をレンジに移し温めボタンを押した。ゆうべの残り物だという煮物と白だしの湯気と香りが鼻腔をくすぐったとき、胃のあたりににわかに鈍い痛みを感じた。強い空腹感だ。そういえば、昨日の昼を最後に何も食べていないんだった。部活中の補給以来、水分もろくに摂っていない。早めにここを出て自宅により、朝食と風呂(昨日は入れなかった)を済ませてから練習に向かう心づもりでいたのだが、入浴はともかく空腹についてはちょっともたないかも……という状態だった。気づいたらすでに彼がおかずや汁物の温めをはじめていたこともあり、結局宿泊のみならず朝食まで世話になることになった。
換気扇と空調の音が静かに響くダイニングの中、俺たちは黙々と箸を運んだ。食事の味は多分おいしいのだろうが、正直よくわからない。赤司と向い合って食事することがあるなんてつい五分ほど前までは想像を絶するシチュエーションであったため、シミュレーションをする間もなくこのような場に身をおくことになり、緊張で味覚がうまく働いてくれないのだ。外敵に対する警戒に味覚は必要ない感覚だろう? いや、スポーツにおける対戦相手という意味以外で別に赤司を敵だなんて思っていないし、突然押しかけた狼男の面倒を見てくれるなんてありがたい限りです、な心境であることに嘘はないのだが、やっぱり怖いものは怖いんだよ。ゆうべだって、多少怖い言動はあったものの、寝室で寝かせてくれたし、面倒だろうに水だのトイレだの用意してくれたし、明け方に変身の解けた俺の世話までしてくれたということだし……感謝しているというか頭の下がる思いだ。でも親切にしてくれるほど、申し訳なさで萎縮してしまう面も否めない。
真向かいの彼は無駄のない所作で煮物の根菜類を摘んでいる。食事中に話しかけるのはマナー違反だろうか。いや、口に食べ物を入れた状態でなければ大丈夫なんだっけ? 正直会話に踏み出すのも勇気が必要で一苦労なのだが、朝食についていまだ一言も礼を述べていないので、それだけは済ませたかった。何も言わないまま食事をいただくのはさすがに礼儀知らずというかなんというか。俺は箸を止めると、彼がこくんと嚥下したタイミングを見計らって口を開いた。
「ご、ごめんね、朝食までよばれちゃって」
お礼を言わねばと思っていたのに、開口一番出てきたのはお詫びの言葉だった。いや、お詫びも必要なんだろうけど、だったら感謝の弁もセットで付けようぜ俺。しかしそれを付加する前に彼の唇が動いた。
「半日以上絶食していたんだ、そろそろ食べないと体に悪いだろう。練習にも差し支える」
胃が驚くといけないからゆっくりめに食べるといい、なんて母親か養護の先生みたいなアドバイスをくれた。はい、と素直に返事をしたあと、俺はおずおずと尋ねた。
「練習……行ってもいい?」
「もちろん行くべきだ……と言いたいところだが、移動時に変身しかねないほど不安定だときみ自身が感じるなら、外出は控えるべきだろう。そのあたりの感覚については僕には判断がつかない。きみが考えることだ。どのみち日中は僕も用事があるから、きみのコントロール訓練につきっきりというわけにはいかない。だから自分の判断で時間を有効に使え」
正論を述べたあと、彼は長方形にカットされた海苔を小皿の醤油につけた。量に絶妙なバランスがあるのか、まったく垂らすことなく白米の上に持っていった。
「なんか……せっかくの帰省を邪魔しちゃってごめん……」
「いや、親戚づきあい面倒くさいから、切り上げる口実ができたのは都合がいい。せいぜいきみをダシにさせてもらう。さすがにここにこもりっきりというわけにはいかないが」
どうやら親族関連の用事があるようだ。この家の大きさと、都内に本宅があるという情報から、家柄が高そうに思える。となると親戚の数も多いだろうし、つき合いも煩雑なのかのもしれない。家庭の事情に踏み込めるような仲では全然ないのでそれ以上突っ込んだ質問をするのは控えた。おうちのひとが、いきなり押しかけた友達でも何でもない俺を泊めることに難色を示さないのかといった心配はあったけれど。
「ご、ごちそうさまでした……。あの……ご飯、おいしかった、です。ありがとう、ございました」
礼を述べることができたのは、結局朝食を終えて食器の片付けに取り掛かろうというときになってからだった。赤司は、洗い物をしようかと申し出た俺に、いいから登校の準備をしろ、自宅から誠凛に行く感覚で支度していたら間に合わないのではないか、と至極真っ当な弁でもって返し、荷物の置いてある寝室に俺を向かわせた。
スポーツバッグに練習に必要な手荷物と昨日の衣類を詰めたあと、俺は昨日黒子を見送った裏玄関に立った。施錠の都合があるのか、庭用と思しき和風の突っ掛けを履いた赤司も同伴した。なんだか見送りをしてもらうような心地で落ち着かない。
「じゃあ、練習行ってきます。あの……夜になったらまたお邪魔しても……?」
またご迷惑をお掛けしてしまってよろしいのでしょうか、そんな言葉を胸中で付け加えながら尋ねる。彼は左手を自分の腰にあてると、真剣なまなざしを俺に向けた。
「そのつもりでテツヤに肯定の返事を返したんだ、来てもらわないと困る。もしきみひとりの判断で途中脱落を決意し実行に移した場合、発覚次第全力をもって探し出し、きみがそのような決定を下した合理的理由についての説明を徹底的に求める所存であることを先に宣言しておこう」
え、なにこれ、脅迫……?
小難しい言い回しだったので若干理解が追いつかないところはあったが、「逃げるものは追いかける」的な発言内容であったことは理解できる。つまり、逃げるなよということだ。
「に、逃げません……!」
一宿一飯世話になっておいて途中で投げ出し離脱するような度胸はない。厄介になっている相手方が怖いというのもあるが、協力姿勢を見せてくれている彼に対して恩知らずな態度をとるのは人としてどうかという思いもある。しかし、どうしても恐怖が先立った場合、脱兎の可能性が依然としてあることを否定出来ない自分が悲しい。なので、逃げませんと答えたあと、心のなかで「多分」の一言を付け加えておいた。
「ところで、そちらのバスケ部側は事情をすべて把握しているのか? なんなら僕のほうから監督の女子生徒に電話しておくが。テツヤから必要な連絡先の情報はもらっている」
「いえ、自分で説明できるんで大丈夫です。今回のこと、カントクも了解してくれているから。っていうか治療優先しろときつーく言われてるんだ」
このままだと俺、ベンチ入りどころか会場にさえ立ち入れなくなりそうだし、火神の練習を妨害しかねないし、で我が誠凛バスケ部にとって俺の変身コントロール回復は急務なのである。そう思い返すとますますここで逃げ出すことはできないなと改めて感じる。
「ここへは何時くらいに戻ってくる?」
「ええと……七時くらい? 一旦自分ちに帰って、夕飯と風呂済ませてからにしようと思ってるんだ」
「わかった。それくらいなら僕も帰っている」
赤司はうなずくと、いってらっしゃい、と律儀に見送りの挨拶をしてくれた。彼にいってらっしゃいと言われることに激しい違和感を覚えつつ、無言のまま背を向けるわけにもいかず、じゃあ行ってきます、と事務的に答えたあと、俺はまず自宅へと向かった。黒子が用意してくれた赤司の別宅と俺の自宅及び誠凛高校への往復の道のりとアクセス方法によれば、意外と近いようだった。といっても徒歩で移動できる距離ではなく、あくまで公共交通機関の利用時間で考えた場合であるが。ほかの部活との兼ね合いもあり、今日の練習開始時刻は遅い。一度自宅に立ち寄る時間は十分ある。とはいえ、自宅から高校への移動時間も考慮するとそれほど悠長にはしていられない。シャワーを浴びて飲み物と補給食を詰めていればじきに出発時刻になるだろう。今回の件で親と直接話をしたいところだが、ふたりとも働きに出ているので俺が家に寄る時間では捕まえられないかもしれない。ただ、今朝母から来たメールには『明石くん(※誤字だよお母さん!)が協力してくれるんだって? よかったね(なぜかハートの絵文字)。家にお茶菓子を用意しておいたので、明石くんのところに持って行ってください(なぜか汽車の絵文字)』とあったので、どうやら事情は把握しているようだ。ついでに添付ファイルがついており、何かと思って開いてみたら、狼姿の父の写真だった。ファイル名は『otousan-ikemen3251.jpg』。写真に対するコメントは特になく、本気で意味も目的もわからなかった。返信の文面に困ったが、とりあえず了解の意と赤司の漢字が間違っている旨を伝えておいた。
*****
余裕をもって家を出たため、学校へは比較的早く到着した。準備係として早めに来ていた福田と部室で遭遇する。福田は俺の顔を見ると一瞬ぴしりと止まったあと、「フ、フリぃ……生きてたんだな! よかったよかった!」とやけに感極まった声で言いながら抱きついてきた。俺の背中を何度かさすったかと思うと、肩を掴んでちょっと距離を取り、改めて俺の顔を見つめながら肩をばんばんと叩き、再度「よかったよかった」と繰り返す。遭難事故から生還したかのようなオーバー気味の歓迎(?)だった。俺はこの日準備当番ではなかったが、前日片づけ当番だったのに不慮の事態(黒子たちにとっては計画的な事態だっただろうが)により役目を全うせず帰宅、正確には赤司の別宅への連行となってしまったので、埋め合わせ代わりに福田を手伝うことにした。
練習開始時刻が近くなり体育館に部員が集まりはじめた。出入り口から姿を表したメンバーは俺の姿を見とめると、みんな一様に部室での福田と同系統の反応をした。すなわち死地からの生還を祝うような、喜ばしいんだか辛気臭いんだかわからないムードだ。レスキュー番組の不本意な主役にでもなった気分だ。まあ気持ちは理解できなくもない。俺だって仲間が赤司みたいな人物のところに連行されたら心配するし、無事を確認できたらきっと喜ぶだろう。実際に一泊させてもらったあとの印象としては、そこまで奇天烈で話の通じない人物じゃないのかも……? という感じなのだが、それでも疑問符を取り外すことはできそうにない。しかし……元チームメイトの黒子を除き、誠凛のみんながこぞって異様に心配していることから、やっぱり赤司=危険人物としてマークされてるんだな、と改めて意識せざるを得ない。もっとも、赤司に一定の信頼を置いていると思われる黒子とて、彼に任せておけば一安心などとお気楽なことを考えているわけではないようで、
「降旗くん、どうですか、赤司くんのところに泊まって。こうして練習に来られたところからすると、無事に過ごせたようですが……」
休憩時間中、へばって体育館の壁際で仰向けに寝転がったまま、俺に昨夜の状況を尋ねてきた。
「さすがに一晩じゃどうにもならなかった。黒子が帰ったあと、二回も変身が勝手に解けちゃって、またしても全裸を晒しちゃったよ……最悪だ」
音声で語るとなお一層落ち込みが増す。全裸の件について、赤司はただの不可抗力として片付けているようで、揶揄や非難はされなかったが、現代日本に暮らすひとりの人間としては穏やかな気持でいられないというか、こう、人として大事なものを失わないまでも目減りさせているような気がしてならない。俺の深く大きいため息をどうとらえたのか、黒子が床に腕をつき上半身を軽く浮かせながら、若干焦ったような声を出した。
「な……なんか罵られたりしました?」
「いや、それは全然。仕方ないですませてくれた。物分かりいいのかな」
動物だから仕方ない、な心境に通じるものがあると思わないでもない。ていうか赤司の中で俺は動物扱いなんじゃないだろうか。他人に親切にしているというよりは、知恵ある霊長類として責任をもって動物の世話をしています、的な。
「まあ、裸の件についてはきみ自身の努力や配慮でどうにかなることじゃないですからね。そのへんの分別はあるひとですので。そのあたりに寛容ということは、きみが狼人間で、変身がコントロールできていないという現状は理解してもらえているということでしょうか」
黒子はのっそりとした動きで体を起こすと、疲労でだるいであろう脹脛に自分で軽く指圧を掛けはじめた。と、隅っこで向かい合って座っている俺たちの上にうっすらとした影が落ちる。見上げた先には、髪の毛の先から小さな水滴を滴らせている火神の姿。外の水道で顔を洗ってきたようだ。備品のクーラーボックスからドリンクのペットボトルをふたつ持ってきたようで、そのうち一本を黒子の頬に当ててやりつつ、もう一本を俺に渡してくれた。火神は、俺たち三人で正三角形をつくるような配置で腰を下ろした。俺の顔を見ると、なんだかばつが悪そうにぼりぼりと後ろ頭を掻きはじめる。
「降旗ごめんな、俺が犬苦手なばっかりに、おまえを赤司の家なんて危険な場所に放り込むことになっちまって……」
俺が自分の変身の不安定さが部活及び部員に影響を与えるのを懸念しているのと同様、火神もまた、自分の弱点が俺に負担を掛けているのではと感じているようだった。
「いや、おまえのせいじゃないよ火神。それに、黒子が俺を赤司のとこに連れて行くって案が出たとき、おまえ反対してくれてたじゃん? 狼の俺が怖くて気絶しそうなのに、必死で『やめろぉぉぉぉ、降旗を死なせる気かぁぁぁぁぁ!』って」
「とりあえず、おまえが今日無事にここへ来られてまじでよかったぜ……。黒子、あんまり無謀なことすんなよ。降旗が帰って来れなくなったらどうする気だったんだ」
「赤司くん、本当に信用がありませんねえ……」
本気ではないとわかる、けれども十分鋭い目つきでぎろっと黒子を睨む火神と、まるで効いたふうもなくしみじみと呟く黒子。
「あれを信用するのは無理だろ。行動の裏にどんな計算高さがあろうと、考えた結果としての行動が斜め上どころか遥か上空にぶっ飛んでたら、結局危険であることには変わりねえよ」
火神、まったくの正論である。天才であることと常識外れであることは別に表裏の関係ではないようだ。火神は、ペットボトルに頬を擦り寄せたまま「あー、つめたい、きもちいい……」なんてちょっぴり幸せそうに呟く黒子にデコピンをかまして離れさせると、頼まれたわけでもないのにごくナチュラルにペットボトルの蓋を開け、黒子に渡してやっていた。おまえら堂々といちゃつくなよ。いまにはじまったことじゃないけどさ。
練習が終わると、手早くコートを片づけ全員部室に引き上げた。今日は夕方から夜にかけて別の部が体育館を使うことになっている。今年度の功績から使用時間帯や回数の割り振りで暗黙の優先権をもらっている手前、先約が決まっている状況で長居はしにくい。ロッカーの前で着替えていると、先に身支度を整えた日向主将にとんとんと肩を叩かれた。はい、と小さく返事をしながら振り向くと、日向先輩が眼鏡の位置を正しながら真剣な表情で俺に問いかけた。
「降旗……昨日は大丈夫だったか? すまんな、おまえの意志を無視して怖いところに送り込んじまって」
「大丈夫です。そりゃ、やっぱり赤司はいるだけで怖いけど……なんか怖いことされたわけでもないんで。早く治せるようがんばります」
俺の言葉に日向先輩はうんうんとうなずいたあと、
「ああ。だが無理はするなよ。のっぴきならない危険を感じたらすぐにでも脱出するんだぞ」
がしっと両手で肩を掴み、強硬な説得でもするかのようにゆさゆさと俺の体を前後に揺さぶってきた。
「いや、そんな大袈裟な……」
「狼に変身中は携帯なんかの通信機器は使えないと思うが、常時狼姿なわけじゃないだろ? いいか、何かあったら遠慮なくメールなり電話なりで助けを求めてこい。深夜だろうが早朝だろうが構わん。人間の姿のとき、連絡できそうなチャンスがあれば迷わずものにしろ。正直俺たち部員が一丸になったところであの男に敵う気がしないが、それでも手は尽くす。いいか降旗、必ず生きて戻ってくるんだぞ。そしておまえを含め、俺たち全員で誠凛バスケ部三年目を迎えるんだ」
なにこの悲壮な覚悟。いや、俺の身を案じてくれていることは十分すぎるくらい伝わってくるのだけれど……逆に不吉なんですけど。
「赤司まじでイメージ悪いんだな……」
主に俺が(変身体質であるがゆえの)被害を被っているせいではあるのだが。俺も二十四時間前にはこの空間で恐怖に震え、木吉先輩と水戸部先輩が引っ張るリードにあらん限りの力で抵抗していたから、その気持はよーくわかる。いまでも赤司の名前は怖いイメージに結びついているけれど、勝手に想像を悪い方向に膨らませまくっていたのも一因だったのかもしれない。……まあ、不良がちょっと道端でおばあちゃんを助けたらものすごい善行をしたように感じられるというあの現象なのかもしれないけれど。
着替え終わった俺が荷物を鞄にまとめて踵を返すと、河原と福田が肩を寄せ合うように並んで俺を見ていた。
「ど、どうしたんだ?」
「フリ……あの、餞別の品ってわけじゃないけど、これ……」
「多分好きだろうなー、と思って」
と言ってふたりが俺の前に差し出したのは、何かの動物の大腿骨だった。鹿……だろうか。骨型ガムではなく、骨そのもの。しかも二本。三十センチほどの長さの大腿骨の真ん中には、それぞれラッピング用の可愛らしいリボンが結ばれていた。
「あ、ありがとう……」
これが料理の出汁用でないことはわかる。俺も変身中の口慰み兼遊び道具として親にもらったりするから。ペット用品の専門店に行くと割と普通に購入できたりする。人間からするとおよそ生ゴミにしか思えない骨だが、狼の顎の力なら問題なく噛み砕ける。しばらくガジガジ齧ったあと、バリバリ音を立てて砕くのである。市販品は犬用なので、ある程度の大きさのある犬なら同様に噛み割ることができるだろう。人間の状態でもらっても正直あまり嬉しくないしありがたさも感じない、当然おいしそうだとも思わないのだが、変身中にこれを見たら尻尾をぶんぶん振り回す自分の姿を脳内に浮かび上がらせるのは容易なお仕事である。しかしこれ、エコ精神の賜物なのか、リボン以外まったく包装がないんだけど。直接鞄に突っ込んで持ち帰るしかないか。幸いスペースはそんなにとらないので、収納することは十分可能だ。まさか手に持って帰るわけにはいくまい。運動部の服装とスポーツバッグを持った男子高生が、赤茶けた色のついた大腿骨らしきものをふたつ携え夕暮れの町を歩く……駄目だ、怪しすぎる。何の儀式に向かおうとしてるんですか、という話だよ。俺はバッグを開けると、中身を寄せて細い隙間を作り、そこに乾燥骨を突っ込んだ。骨の両端の膨らみがバッグの壁面を押してちょっとかたちが出てしまうが、手荷物検査を受けることはないだろうから大丈夫だろう。何かの間違いで警察や警備員の人に鞄の中身を見せろと言われたら凍りつきそうだけど。まあでも、普通のペット用品だからセーフだろう。
「降旗、昨日は無理矢理紐引っ張っちまって悪かったな。首痛いか?」
「いえ、大丈夫です。割と頑丈なので」
「そうか。それはよかった。昨日は慌ただしくて何も用意できなかったけど――」
続いて声を掛けてきたのは木吉先輩。そして半歩ほど後ろに無言の水戸部先輩。なんだかちょっと困り顔だ。さらに後ろに土田先輩が水戸部先輩と同じような困った顔で立っている。木吉先輩だけがいつもどおりのいい笑顔だ。
「河原たちとかぶっちまったっぽいが、俺らからはこれ。受け取ってくれ」
言いながら俺の前に差し出したのは、厚手のラップで包まれた肉塊だった。真ん中よりやや右にラベルシールが貼ってある。ラム肉らしい。それも一キロって。
「な、生肉!?」
「狼は犬みたいなメシは食わないんだろ? 動物園でももっぱら生肉がご飯だって話を聞いてな~」
あははははー、と呑気に笑う木吉先輩の後ろで、土田先輩と水戸部先輩がなんとも形容しがたい困惑気味の微笑をたたえている。企画立案実行、全部木吉先輩だったんだろうな……。
「あ、ありがとうございます……?」
生肉かぁ……。食性としては正しいのだが、変身中に本格的に食事をすることはあまりないので、ラム肉を一キロも渡されても、丸ごと食べられる気がしない。お父さんに渡す……? でも父親も俺と同じような生活習慣だしなあ。自宅の冷蔵庫に放り込んでおけば、母がなんとか調理してくれるだろうか。日本の家庭でラム肉は一般的でないから、何に使えるのかわからないが。
突然の生肉プレゼントに戸惑いつつもお礼を言って手を伸ばす。と、俺が肉塊に触れる前に誰かの手がその上に置かれた。腕の伸びる先を見上げると、日向先輩が立っていた。
「おい……これぬるいぞ。常温保存だったんじゃねえか?」
「だって冷蔵庫ねえし。いまの季節なら大丈夫かなと」
「ここは北国じゃねえんだぞ、わかってんのかダァホ!」
日向先輩が木吉先輩の後頭部をはたく。俺がラム肉の塊を受け取ると、ふたりはいつもどおりの漫才をはじめた。ああ、平和だなー、と感慨深く眺めつつ、両手に挟んだちょっぴりぬるい生肉をどう持ち帰ろうか、他人ごとのように考えていた。一キロ程度なら鞄に入れられなくもないが……ただでさえ汗臭いタオルだの衣類だのが押し込まれた鞄に、ラップに包まれているとはいえ生のラム肉なんぞを突っ込んで大丈夫だろうか。
その後、ひと通り木吉先輩とど突き合った日向先輩はふいに自分のロッカーに戻ると、中からティッシュ箱よりひと回りほど大きい発泡スチロールの箱を取り出し、俺の持つラム肉の上に置いた。なんか冷気が伝わってくる。これはもしや……と背中に冷や汗を浮かべながら俺が日向先輩の顔をうかがうと、
「持ち運びの利便性まで配慮するのがプレゼントの心ってもんだろ」
手ずから発泡スチロールの箱の蓋を開けてくれた。中には、牛の腿肉五百グラムが複数の保冷剤とともに収められていた。
「ほら、袋と保冷剤。余分にあるから持ってけ。誰かしらこういう無茶な贈り物を用意すると思って、いくつか用意しといた」
さすがキャプテン、気が利きますね!
「あ……ありがとう、ございます」
程度の差はあれど、結局日向先輩もボケだったらしい。俺は困惑に引きつった声で礼を述べると、合計一・五キログラムの肉と保冷剤、そして不透明な紙袋を受け取った。
ちょ……これどうすんだよ。微妙にずっしり重いんだけど。これ持って帰途につくの俺? みんなの気遣いはありがたい……ありがたいんだけど! なんかズレまくってないかこのひとたち。
仲間のユルさというかネジの飛び具合に脱力感を覚えつつ、日向先輩にもらった袋に保冷剤と肉を詰めなおしていると、
「降旗くん……僕のほうは先輩たちふたりと共同で購入したものになります」
唐突に眼前に黒子が現れた。いつものことだがいまだに多少驚くのは否めない。
「く、黒子……。な、何? まだ何かくれるの? あの、そんな気を遣ってくれなくても……」
今度は豚肉か? 鶏肉か? そんな予想をしている俺に、背後から急に腕が回された。
「そう言うなって降旗、いいもん買ってきたんだから」
「そうそう、きっと気に入るぜー」
「コ、コガ先輩、伊月先輩……」
黒子は小金井先輩と伊月先輩と共同出資らしい。三人はフフン、と音符でも飛んできそうな得意げな面持ちで俺の前に並ぶと、
「降旗、あの体格だと首輪にリードじゃつらいかなと思って」
「ほら、これ」
「ハーネスです。色に悩んだんですけど、一番売れ筋という赤にしました。これがあればより一層飼い犬っぽく見えますよ」
食べ物(骨と肉)の次は犬の散歩グッズだった。確かに家にも置いてあるし、これつけて親に散歩に連れて行ってもらったこともあるけど……! あるけどさ……!
「あ、ああ……ありがとう、ございます」
「これは変身対処グッズとして部室に置いておきますね」
黒子はそう言うと、俺がもしものときのために用意しておいた狼対応アイテムの鞄の中にそれを入れた。昨日も活躍したその鞄には、首輪やリードが数本、そしてペットトイレシートやウエットティッシュなども入っている。部員に散歩してもらう予定はなかったのでハーネスは入れていなかったのだが、昨日の出来事を鑑みて、新たなグッズとして加えることにしたらしい。
なんだろう、この、みんなにイヌ扱いされてる感は……。いや、みんな悪気がないのはわかるよ? むしろ俺のこと心配して元気づけようとしてくれているのであって、けっしてからかうような意図はないとわかってるよ? でも……なんだか無性に胸の内が荒涼としてくるのはなぜだろう。
「降旗」
この声は火神。そういえば部室に入って以来火神とは話していなかったっけ。いっそ火神にこの生肉を渡してしまいたい。火神なら自分で調理できそうだし、このくらい一食で片付けられると思う。貰い物をいきなりそんな扱いにはできないけれど。
「俺、あんま気の利いたもんは用意してねえんだけど、これ……」
火神は俺の目の前に小さな何かをちらつかせた。ストラップのような短い紐でつながっていて、真上にはそれを摘む火神の指。紐の先にぶら下がって小さく揺れているのは、青く平べったいガラスのようなものが五、六。そのひとつひとつはサイズがまばらだが、いずれも小ぶりだ。ガラスの中央には白と水色の目玉のような模様が描かれている。色合いがきれいなのでぱっと見はそれほど怖くないが、どことなく不気味な風情がある。
「え、な、なにこれ……?」
「俺もよく知らねえが、トルコの魔除けらしい」
ああ……なんか聞いたことがある(あとで調べたところによると、ナザール・ボンジュというらしい)。効能のほどはよく知らないが、『魔除け』であるとは耳に挟んだことがある。
「気休めにしかならねえだろうけど、おまえを赤司から守ってくれるよう、せめてもの魔除け、もといお守りだと思ってくれ」
火神の中では赤司は魔扱いらしい。赤司除けとして買ってくれたのかこれ……。火神はもちろん真剣かつ深刻である。唯一俺をイヌ扱いしないプレゼントではあるのだが、これはこれで別の方向にぶっ飛んでいる。
「は、ははは……ありがとう」
もはや乾いた笑いしか出なかった。俺は鞄から携帯を取り出すと、火神からもらった目玉つきストラップをさっそくつけた。おおう、怖い……。本当に魔除け効果がありそうな気がしてくる。赤司に通用するかは別として。
まるで送別会のような空気の中、俺は骨と生肉を提げて帰宅することになった。降旗、元気でな。明日も元気な姿を見せてくれよ。俺たちはいつだっておまえの味方だぞ。中にはちょっぴり涙ぐんでいる部員もいた。なんだこのムード。なんかすごい縁起が悪いんですけど……。まるで死への旅路を見送るかのような。
「あ、ありがとう、みんな。それじゃあ、また明日……」
俺が部室を出ると、部員総出で表に出て、ぶんぶんと腕ごと手を振りながら俺を見送ってくれた。いい仲間に恵まれたなあ……とほんの少しジンときつつ、彼らの愛の質的な重さを感じながら、俺は生肉の入った袋を片手に帰途についた。