黒子の絶叫が響き渡る。声を張るのは苦手だと言っていたが、出ないわけではないらしい。空間をつんざく彼女の大声に、赤司はいっそ感心してしまった。
弁明の機会もなくあれよあれよという間に分娩室に入ることになった赤司は、分娩台の上で大騒ぎしている黒子の頭のほうへ立った。
「い、痛い痛い痛い! まだですか、まだいきんじゃ駄目ですか!? もう耐えられません! 早く出させてください!」
掴むものを求めて虚空をさまよう手が、ふいに繊維状の何かに触れた。涙に滲む視界の中、赤い何かが見える。
「かがみ……くん?」
いるはずのない夫の名が思わず口をついて出る。が、それはすぐに否定された。
「残念だが火神じゃない」
「あ、赤司くん? ちょ、なんでいるんですか」
あれ、立ち会い出産の希望なんて出してましたっけ? あ、お母さんか誰かについててもらおうとして、希望していたかも。……いやいや、仮にそうだとしても、なんでこんなところに赤司くんが? 家族でも何でもないですよこのひと。何をどうしたら男友達が出産の立ち会いにやってくるんですか。ああ、でも、赤司くんならまだましか。青峰くんとか黄瀬くんとか絶対嫌です。死んでも嫌です。
激痛の只中にあっても、その思考だけはやけに冷静に頭の中を巡った。が、やっぱりわけがわからず、黒子は目をぱちくりさせて事情を説明せよと訴えた。数秒後には痛みのあまりそれも吹っ飛んだが。
髪に絡まりかけた黒子の指を外しながら、貴重にも赤司が申し訳なさそうに肩をすくめた。
「なんでだろうな。なんか成り行きでこうなっていた。すまない、さすがにこれはないな。すぐに出て行こう」
そう言って体を反転させようとした赤司に対し、
「ちょ、ちょっと待ってください! この状態の僕を置いて行く気ですか!? 薄情者!」
黒子は手を伸ばすと、がっちりと彼の腕を掴んだ。
「いや、しかし、テツヤ……」
僕は完全に部外者なのだがと目で訴える赤司。が、黒子は両腕で彼の右腕をがっちりホールドすると、
「ひ、ひとりじゃ怖いんです……」
涙目の上、震える声でそう言った。赤司は困ったように首を振って少し悩んだ様子だったが、すぐにはあと大きなため息をついた。
「……わかった」
了承の意を示した赤司の胸倉を黒子がぐっと掴んで引き寄せる。勝手に出て行かないでくださいね、と担保を取るように。と、身じろぎかけたところで、脚が分娩台のしかるべき場所に置かれていることを思い出す。当たり前だががっつり開脚されている。固定はされていないのでその気になれば動かせるが。
「足のほう見ないでくださいね!? 絶対ですよ!?」
「わかっている」
そこはやはり気にするらしく、絶対に下半身を見るなと念押しした黒子は、赤司の動きを制限しようとしてか、ますますきつく彼にしがみついた。赤司としても、そんなほうへ行く気はない。腹部に大きな布が掛けられているので、黒子の頭と同じくらいの位置にいれば、視覚的にインパクト絶大な光景を目の当たりにするのは避けられるだろう。
黒子の右横に立ち、斜め前から向き合うようにして陣取る。黒子は一旦赤司から手を離すと、
「て、手を、に、握らせて……」
「はい」
掴むものほしさに赤司の手を要求した。差し出された赤司の手を右手でぎゅっと握る。表情を変えない赤司だったが、黒子に掴まれた左手が割と危機的状況にあることは理解していた。このままだとおそらく折れる。が、離させることは難しいだろう。
眉間にしわを寄せ、ぐっと力を込めそうになるたびに、助産師にまだです、こらえてと制止され、黒子は惑乱気味に叫んだ。陣痛も大概苦しいが、このいきみ逃がしのつらさといったらない。
「ああぁぁぁぁぁ、無理! いきみたい! いきませてください! もうこれ以上耐えられません!」
「テツヤ、呼吸、呼吸」
「ふーっ、ふーっ……ひぁっ、う、はあ……」
赤司が呼吸の指示とリードを行い、黒子は必死でそれに従いいきみ感を逃がした。市主催の母親教室に赤司が同伴したいと言ってきたときは酔狂だと苦笑したものだが、いまとなってはありがたい申し出であったと感じる。ここへ入って来たときの赤司の態度からして、立ち会いを予想していたというわけではなさそうだが。あの赤司くんがラマーズだかソフロロロロ?……だかの呼吸やってるとか、すごいシュールなんですけど……と苦痛に喘ぎながらもなぜか突っ込まずにはいられなかった。
陣痛の波が引き、呼吸がわずかに落ち着く。
「逃がせたか」
「な、なんとか……。うう、苦しいです……。ああ、きみにわかりますか、この苦しみが……。バ、バスケット、ボールのような……巨大な宿便がお腹に溜まって、出てこないところを想像してみてください。あと少しで出せそうなのに、止められているんですよこっちは……。あるいは、ゴールリングの円周上に延々ボールが回っていて、ちっとも点になる気配がない、そんな苛立ちです……さあ、イマジネーションを働かせて……」
謎の表現力を用いて、自分がいまいかに苦しいかを赤司に伝えようとする黒子。赤司の表情がわずかに嫌そうなものに変わる。
「バスケで表現するのはやめてくれ。理由はよくわからないが、テンションが下がってくる」
「あうっ……また……! バスケットボールのようなとんでもなく巨大なうんこが……」
「こっちまで腹痛を催しそうなんだが……」
痛む場所が場所なだけに、排便関連の表現になるのは道理なのかもしれないが、そこにバスケを絡める意味はまったくないだろう。腹痛よりも先に頭痛がやってくるのを赤司は感じた。
いきみ逃がしに集中する黒子だったが、
「はあっ、はあっ……だ、駄目……出ちゃいます……。う!? あ、ああああああああああ!」
「テツヤ!?」
突然、雄叫びに似た大声を上げ、分娩台の上でばたばたと上半身を暴れさせた。
「い、痛い痛い痛い痛い痛い!」
黒子は唐突に左腕に刺さっていた点滴の針を引き抜くと、固定されていないのをいいことに足を台から外し、赤司の手を放して突き飛ばし、なんと台から降りてしまった。
「おい、テツヤ、何をする気だ」
「うあぁぁぁぁぁぁん! もう無理です、嫌です!」
「ちょっ……テツヤ!」
黒子は床を這って逃げ出そうとしていた。痛みの元が自分の腹にある以上、ここから逃げたところで何も解決しないわけだが、もはやそんな判断力もないのだろう。とにかく苦痛から逃避しようと必死だった。
当たり前だが、周囲は騒然とした。火神さんが消えた!? いったいどこへ!? 何が起きたんだ!? と医療スタッフの驚愕の声が頭上で飛び交っている。赤司は黒子の姿をすべて追うことができたので仰天はしなかったが、この状況でさえ影の薄さを活用可能であることには驚嘆した。放り投げた点滴やら舞い散る血飛沫やらに注意を逸らしている隙をついたのだろう。
慌てる看護師たちをよそに、黒子は分娩室から逃れようと出入り口に向かって這っていった。もちろん赤司に止められる。彼の白衣は黒子の静脈血が染み濃い赤茶色に汚れていた。
「テツヤ、スタッフはともかく僕にミスディレクションは効かない」
「無理です、助けてください!」
「どこへ行く気だ」
「かがみく―――ん! 助けて――――!!」
さらに驚いたことに、黒子は立ち上がって駆けだそうとした。どこにそんな余力があるというのか。いっそ畏怖の念さえ湧いてきそうだ。
「待て」
「放してください! もう嫌なんです! もう子供いいです! いなくていいです! だから助けてください! 痛いの嫌です! わぁぁぁぁぁぁ……!」
赤司が横から腕を回して黒子を制止する。死に物狂いで暴れる黒子だが、男性の赤司の力には及ばない。しかし黒子は動きを止められることでますます錯乱する。
「いや! 放して! 放してください! 助けて火神くん!」
助けを求めながら、この期に及んで怖いものなど何もないとばかりに赤司に暴力を振るう。胸や腹をぽかすか殴ったり、髪の毛を引っ掴んで頭突きしたり、やりたい放題である。
「テツヤ、落ち着け」
「だったらなんとかしてくださいよ! そうしたら落ち着きます! ああぁぁぁぁぁ、痛い痛い痛い!」
黒子の動きは緩慢なので、攻撃のガードや回避は容易なのだが、そのために腕を離すと本気で外に逃げ出しそうだったので、赤司は仕方なくサンドバッグに甘んじた。黒子をこれ以上混乱させることなく無力化するにはこちらからどうやって力を加えるべきか考える。……なんで出産の立ち会いで逮捕術的な発想が必要なのかと、赤司のほうが混乱しそうになる。
「あうっ!」
黒子が短い悲鳴をあげ、がっくりと膝が折れる。強い陣痛に、体重を支えられなくなったらしい。赤司に体を支持されながら、ぺったりと床に尻をつく。が、それでもなお手足を盛大にばたつかせている。
「耐えられません! 窓! 窓はどこですか!? いっそ飛び降ります!」
「落ち着けテツヤ」
「嫌です放して! もう嫌です! これ以上痛いの嫌です! もうひと思いに殺してください! 死んだほうがましです!」
「産まないとずっと痛いままだ。早く産めば早く楽になれる」
「気楽なこと言わないでください! こっちは死にそうなんです!」
さすがにミスディレクションも切れ、回りにスタッフが集まってくるが、黒子と赤司のもみ合いは続く。比較的大柄で力の強そうな女性看護師が黒子の背側に腰を下ろし、脇の下から腕を差し込み押さえようとする。腕の動きを制限されることに慌てたのか、黒子は力の限り脚を暴れさせた。
「いや、いや!」
「テツヤ、いいから言うことを聞……――――っ!?」
黒子の斜め前で、暴れる体を制止していた赤司の言葉が途切れる。
唐突な衝撃に襲われ、声を失ったからだ。
背筋から脳天に衝撃が突き抜ける束の間の時間、赤司はこのあと自分の身に起きる危難を予測して、嫌な汗が一気に噴き出るような錯覚を得た。
幸運にも今日までの人生で一度も経験したことはなかったが、これから大変なことが起きることは本能的に一瞬で理解した。
――最初の衝撃はどうということはない。確かに驚くしこれ自体にも痛みはあるが、一般的な打撃と大差ない。問題は次だ。下半身から脳へとじわじわ嫌な感覚がせり上がってくる。これは刹那の時間だろう。だが体感的には数分に感じられる。おそらくこれは覚悟を決めるための時間だ。覚悟なんて到底できるものではないがな。ここで思うのは、とにかくやばい、ただそれだけだ。頭の中で警報機が鳴り響き、有事のパトカーのごとく赤い光が点滅する。体の中で発狂したフードプロセッサーが暴走運転をしているかのような衝撃と鋭く激しい痛みが荒れ狂う。遅れて鈍い痛みもやってくる。地震のP波とS波のように。合流するとまさにクライマックスに達する。悪い意味で。痛みは被弾した場所だけでなく下腹部全体に渡る。内側から内臓を掴まれているかのような苦痛が続く。激痛だが、それ以上に苦しさが全面に出る。とにかく苦しい。そして気持ち悪い。なぜ下半身への打撃で気持ち悪くなるのかと理不尽に感じるが、内臓へのダメージに等しいのだから、それも当然かもしれない。呼吸もままならない苦しみだ。全身に浮かぶ冷や汗。じきに脂汗も浮かんでくる。呼吸の合間に苦悶の声がわずかに漏れる。が、意味のある言葉は出ない。結婚披露宴の恥ずかしい半生語りのように、人生のアルバムが次々と浮かんでは過ぎ去っていく。これが走馬灯というものかと、はっきり理解した。背景はプラネタリウムのように暗くて無数の光が点滅している。その美しさにうっとりする余裕などないのだが。何しろ死ぬ思いをしているのだから。BGMは般若心経と木魚の音だった。法事を連想した。三途の川は見えなかったが、多分臨死体験に近かったと思う。これまでの人生をすべてやり直したいという思いと、いっそ殺してくれという思いがせめぎ合った。悶絶の中、とにかく人生への後悔ばかりが浮かんだ。こんなことは生まれてはじめてだったよ。なんなんだろうな、あの圧倒的な絶望感は。この世のブルーをすべてかき集めてもまだ足りないと思えるくらい、異常な不安感に襲われる。身体の心配なんて即物的なものだけじゃない、もっと深遠な苦悩に及ぶ。魂のありかを問い掛けるかのような底知れぬ不安だ。
……などと、のちに赤司はこのときの体験について語ったという。男性陣の共感はおおいに得られたが、女性陣には「ふーん……」で済まされた。畢竟、男と女はわかり合えない運命にあるらしい。男に陣痛や出産の痛みがわからないのと同様、女性にはわからないのだ――金的蹴りの恐怖など。
なお現実には、この荒波を超えて津波状態のダメージを言語化する余裕などあるはずもなく、彼はただただ苦痛に沈んでいた。あまりの苦しみに、のたうちまわることさえできない。声もまともに出ない。涙も引っ込む。叫んだり暴れたりできる分、陣痛のほうがましなのではないかと思えるくらいだ。何しろこちらは苦しすぎて身動きが取れないのだから。どのくらいそうしていただろうか。目を開ける余裕が少しだけ生まれた。そっとまぶたを持ち上げると、視界がひどく白んでいた。床が近い。自分が床に転がって痛みのあまり体を屈曲させていることを理解する。人生で一番無様な姿をさらしているかもしれない。しかしどうでもいい。とにかくこの苦しみをやり過ごさねば。
……声が聞こえる。お経ではない。ひとの、女性の声。
「――みさん! 火神さん! 火神さん! 大丈夫ですか!?」
看護師が必死に呼びかけている。全然違う名前で。朦朧とする意識の中、赤司は火神はここにはいないはずだがとぼんやり思う。時間経過についてはわからないが、しばらくして、そういえばテツヤの旦那だと勘違いされていたんだと気づく。
「火神さん! しっかり!」
看護師ふたりが強制的に起こしに掛かる。両脇を支えられた赤司は、まだ鈍い痛みが続く下腹部に呻きを上げた。痛い、苦しい、気持ち悪い。そしてなんだか異様に気分が沈んでいる。鬱だ。ブルーだ。とてつもなく不安だ。とりあえず自分の体がどうなっているのかだけでも確認したい。まだちゃんと男なのかどうか。基本的なところがものすごく心配だ。
無理やり赤司を立ち上がらせた看護師が、焦燥に満ちた声音で訴える。
「奥さんが大変なんです。分娩台のほうへお願いします」
「僕も……大変なんだが……。まだちゃんとついてるのかこれ……」
息も絶え絶えになんとか言葉を紡ぐ。股間を確かめたくてならないが、さすがにここで実行するほど理性を失ってはいなかった。
「がんばってくださいお父さん!」
その言葉に対して思ったのは、火神、おまえはアメリカにいて正解だということだった。こんなハプニング満載の出産に立ち会ったらその後の黒子との関係が一変しかねない。妻を女性として見られなくなるとかいうありがちな話以前に、自分の身体が男としてやっていけるかどうかがまず問題になるだろう。
さまざまな妊産婦を見てきた女性看護師も、男のこの苦しみがいかなるものなのかは想像が及ばないのだろう、たいして気遣ってはくれず、赤司はずるずると分娩台のほうへ連行された。
台の上には人がいなかった。そこでようやく、黒子のことを思い出す。まさか本当に逃げ出してしまったのか?
と、下方からすすり泣く声が聞こえた。
「ふぇぇぇぇぇぇ……かがみくん……かがみくぅん、たすけてぇ……」
見下ろすと、分娩台の下でうずくまる黒子の姿があった。
「テツヤ? 何して……」
赤司はいまだ腹痛の残る体を抱え込むようにして床に膝をついた。そばに立つ看護師が説明をする。
「すみません、台のところまで戻したはいいんですが、これ以上動かなくなっちゃって……」
台に乗せようとすると泣き喚いて暴れるため、歴戦のスタッフも手が出せないらしい。黒子は周囲の人間などいないかのように、ぶつぶつと独り言を繰り返していた。
「痛いです。ごめんなさい火神くん、僕はもう駄目です……」
「テツヤ、そんなこと言ってないで。ここで力尽きたら火神に会えないぞ」
「火神くん……ふぇええええ……」
「火神に娘を会わせてやるんだろう?」
「はい……約束しました。火神くん、火神くん……」
「テツヤ……」
赤司が頭を撫でると、黒子はすんすんと泣き出した。顔はかなり憔悴している。彼女の体力からすると、限界は間近だろう。点滴も外れてしまっている。あまり余裕はない。
「テツヤ、台に戻るんだ。ずっとそれだと子供も苦しいだろう」
赤司が控えめに説得すると、黒子はようやくこくりと頭を縦に振った。
「はい……。あっ!?」
腰を上げ掛けたところで、黒子が短くも鋭い悲鳴とともに硬直した。
「どうした」
「やばい! 出る!」
「え」
「で、出ますよこれ! 出ます!」
出る。何が。この文脈なら言うまでもなく決まっている――赤ん坊だ。
「なら急いで――」
急かそうと、赤司が黒子の二の腕を掴む。が、黒子はぶんぶんと勢いよく首を横に振る。
「無茶言わないでください! 出かかってるんですよ!? 動いたらはずみでスポン! です!」
「スポンはないと思うが」
早く移動するよう赤司が促すが、黒子は少しでも体勢を変えたらポンと出てしまうという恐怖を訴え、動こうとしない。
「テツヤ落ち着け。自力で移動できないなら、僕が持ち上げるから」
「できますか? 重いですよ? お腹に子供いるんですから」
「その程度知れている。心配いらない」
赤司が黒子の背中と膝裏に腕を掛け、抱きかかえて立ち上がろうとするが、
「あぁぁぁぁぁぁ!? だ、駄目! 駄目です、動かさないで! 出ちゃいます! ちょっとでも動いたらほんとスポンです!」
途端に黒子がばたばたと暴れ出した。落下させたら危険なので、諦めるしかない。
「テツヤ、さすがにそんなスポンとはいかないと思う」
「いえ、いっちゃいますってこれ! いっちゃう! 出ちゃう!」
陣痛に呻き、いきみ感に耐えながら、台に戻れ、無理です、の攻防が繰り広げられる。その間に、スタッフは黒子の周囲にシートを敷き出した。床にへばりついたまま出産する可能性を見越してのことだろう。何度目かの波を根性でやり過ごした黒子が、ゆらりと首を持ち上げると、座りきった目で赤司を見た。
「埒が明きませんね……。赤司くん」
「なんだ」
「産みます」
と、シートの上に膝立ちになったかと思うと、右手で赤司の手を、左手で肩をがっちりと掴む。上半身だけ見れば、社交ダンスでもしているような格好だ。
「やっと覚悟を決めてくれたか。なら早く台に」
「いえ、ここで産みます。ていうか産まれます!」
「だから早く戻って――」
「そんな余裕ありません! ほんとにもう出かかってますよこれぇ! ここで産みます! しっかり支えててください!」
「ちょっ、待っ……」
「くっ……来ましたね……じゃ、いきみますからね!」
両手を力いっぱい握り締め、黒子がやっと解放されるとばかりにいきむ。
「う~~~っ! はっ、はあっ……」
「テ、テツヤ……本気か……」
問うまでもなく本気だ。尋常でない力で手を握られ、赤司は骨が軋むのを感じた。先刻の下半身への大ダメージが尾を引いているいま、手の骨が悲鳴を上げるくらいどうということはないと思えたが。
いつの間にか、シートの上に助産師が這いつくばっていた。子供を取り上げるためだろう。プロ根性に恐れ入る。
「ぐ……あっ……はぁ……」
「テツヤ……が、がんばれ……」
目の前で必死の形相でいきむ黒子に、赤司は自分でも聞いたことのない狼狽に上擦った声が上がるのを遠く自覚した。彼女に握られ続けている左手から、みし、と鈍い音が立つが、そこへ意識を向ける余裕などなかった。
赤ちゃんの頭見えてます、あと少しですよ――助産師の実況のような言葉に、解放が近いことを知る。あと少し。あと少し! 体力的にくたばる寸前の黒子にはもう、わが子に会える喜びへの期待を抱く余裕なんてなかったので、ひたすらこの苦痛が終わることへの希望に縋るのみだった。
三回目のいきみからしばらくすると、産声が聞こえてきた。
「産まれ……ました……?」
虫の息に近い声で黒子が呟く。
「そのようだ。がんばったな」
振り回され続けた赤司の声もまた力ないものだった。
「よ、よかった……」
「テツヤ、しっかりしろ」
「もう無理……僕はもう駄目です……火神く、ん……あとは、頼みました……。赤ちゃん、よろしくおねがい、しま、す……」
などと死に際のような不吉な台詞を残し、がくりと脚が折れて体が沈もうとする。もちろん疲労困憊のあまり息も絶え絶えというだけで、死ぬような状態ではない。赤司は黒子を支えたまま、医師や助産師たちの指示を待つしかなかったが、分娩室の中でこんな状況で出産するケースも珍しいのだろう、さすがのスタッフも多少指揮が混乱しているようだった。結局その場から動かせず、後産もそこで済ませることになった。これもいくらか痛むようで、痛いやめてと赤司の胸を叩いたが、風が撫でるほどの力しかなかった。ここまで来たら最後までつき合うしかあるまいと腹をくくっていた赤司だったが、そのときの大量出血と立ち込めたにおいには、軽く意識が遠のきかけた。スタッフに追い打ちとばかりに――記念のつもりなのかもしれないが――胎盤まで見せられた。グロい。臓器じゃないかこれ……。
疲労と睡眠不足でよろよろのぼろぼろになった黒子は、意識がぼんやりする中、周囲に介助されながら、どうにかこうにか生まれたばかりの娘を胸に抱いた。まだ血を拭っただけで布にくるまれた、小さな命を。
その瞬間、つい先刻までの苦痛はどこへやら、じんと耳や鼻の奥が熱くなった。
「や、やっと会えましたね……。よかった……」
ぽろ、と意識せず涙がこぼれる。
「火神くん……僕たちの子供、会えましたよ」
これが嬉し涙というものか。しわくちゃで不細工な、においのきつい新生児。けれども限りなくいとしいと感じる。我が子を胸に抱いた黒子は先刻までの疲労をすっかり忘れ、まだ開きもしない目をじっと見つめていた。
黒子が大仕事を終え、最高の感動に浸っているとき――
「火神さん、奥様ですが、あんなに分娩室で騒がれると、ほかの患者さまに非常に迷惑ですし、スタッフにも危険が及ぶのですが――」
「はあ……なんかすみません」
黒子の夫とすっかり間違えられている赤司が、準備室に連れて行かれ、分娩室での黒子の数々の所業に対し、助産師から説教を受けていた。理不尽としか言いようのない状況だが、いまだ下半身への大変な被害の爪痕が残る身はとんでもない憂鬱感に包まれており、抗弁の気力ひとつ湧いてこない。何を言われようとも、耳に届かない。なんかもういろいろどうでもよくなってきた。赤司が謝罪しなければならないいわれはないが、身内が大迷惑を掛けたような気分ではあるので、妙な責任感に駆られ、とりあえずすみませんと言っておいた。
それでも、形式的な説教をひと通りされたあとはスタッフからおめでとうございますの言葉をもらい、分娩室に戻された。きれいに洗われ真っ白な産着を着せられた黒子の娘を腕に抱かせてもらったときには(父親と間違えられ、半強制的に腕に押し付けられる格好だったが)、憂鬱の靄が晴れ、不思議な高揚感が湧き上がった。
「やあ。はじめまして。……でもないかな。外の世界でははじめましてだからいいか。ずいぶん小さいんだね、驚いたよ。僕がわかるかい? お母さんのお腹にいたときにも話したね――」
分娩台に戻されぐったりと沈み込む黒子の横で、赤司はもの言わぬ嬰児を凝視しながら真剣に話しかけていた。それはひどく奇妙な光景であったが、黒子は意識がほとんど飛んでおり、スタッフも黒子が引き起こしたハプニングの後始末に忙しく駆け回っており、そのときの赤司の姿を記憶にはっきりと残した者はいなかった。