久しぶりに手料理を食べさせてほしいです――帰国前にメールでねだられ了承していたので、夕飯は火神がつくった。材料を買う時間はさすがにないので、必要な材料を聞いた黒子が事前に用意しておいた。塩分やカロリーに気をつける必要があったので、白身魚を薄味で煮つけ、ベーコンと玉葱とじゃがいもはペッパー中心に炒めた。前日の食べ残しも何品かあったが、黒子ひとり分の量なんて火神からしたらスズメの涙なので、冷蔵庫の野菜室から使いかけのキャベツを引っ張り出し、コンソメを適当に投入して野菜スープをつくった。全体的に薄味だというのがふたりに共通の感想だったが、本来はこのくらいの塩分でなきゃいけないんですね、と黒子がぼそりと呟き火神を不安にさせた。とりあえずこの一週間で作成した、やや健康オタクじみたレシピを渡しておいた。
ふたりで水場に立って洗い物を終えた後、食後の一服として緑茶を淹れた。赤司から渡されたものを含め、部屋に十冊ほどあるマタニティ雑誌をテーブルや床に並べ、興味深げに目を通す。付録の命名図鑑のような冊子を手にした黒子が、つんつんと火神を指でつついて注意を引く。
「どうした?」
火神が視線を落とすと、黒子はわくわくした様子で、目を輝かせながら口を開いた。
「あの、あの、火神くん。子供の名前なんですけど、何か候補あります?」
火神は顎に手を置き、軽くさすりながら悩ましさを表現するように頭を傾けた。
「あー、名前な。考えてはいるんだが、日本名ってあんまり思いつかなくてよ。でも俺ら日本人だから、わざわざ外国風の名前をつけるのもおかしいだろ。ある程度こっちの流行っつーか時代の感覚に合った名前のほうがいいんだろうけど、海外暮らし長いせいか、そういうの疎くてな。だからって奇抜すぎる名前もどうかと思うし」
「小学校にいると、おもしろい名前いっぱい見られますよ。個性的かついい響きだなっていうのから、笑っていいのか同情すべきなのかわからないようなのまで……。あえて古風な名前もちょくちょくありますねえ」
俗にいうDQNネームとかきらきらネームのことだろう、黒子は苦笑気味にふふっと息を漏らした。火神も黒子から、最近の子はほんと漢字見ても読み方わからないんですよ、なんて笑い話か苦労話か微妙な線のネタをスカイプ越しに聞かされたのは一度や二度ではない。
親から子に贈る最初の大切なものだ、きちんと考えなければならない――火神は真剣そうに腕を組んだ。とりあえず最重要かつ基本事項を改めて黒子に確認する。
「性別、女の子でいいんだよな?」
「はい、女の子だそうです。娘ですよ」
「おまえは何か名前の候補あんのか?」
やはりぱっとは思いつかなかったので、逃げのようだが相手に同じ質問を振ってみる。すると、黒子は思わせぶりに沈黙を置いたあと、
「実は……性別わかる前から、男の子だったらこれ、女の子だったらこれ、というのはちょくちょく考えてました」
なぜか視線をきょろきょろさせながら答えた。案があるならば、と火神は気軽な気持ちで質問を重ねた。
「どういうのだ?」
黒子はなんだか気まずそうにうつむいてから、火神の太腿に「の」の字を書きはじめた。一瞬、「の」ではじまる名前なのかと火神は考えたが、
「……ちょっと恥ずかしいです」
どうやら照れの表れだったようだ。火神は目をぱちくりさせた。
「変な名前なのか?」
「変じゃないですよ。ただ……」
黒子は火神の腕を持つと、筋肉の発達した上腕にすすっと頭を寄せて、恥ずかしげに呟いた。
「あの、結構昔から、ですね……もし将来きみの赤ちゃんを産むことができたら、こういう名前にしたいなっていうのがあったんです」
ということは、妊娠前から候補を持っていたということか。ならばそれなりに練られているのではないかと火神は期待した。見た目の印象に反して案外開けっぴろげな黒子が妙に恥ずかしがっているのを不思議に思いつつ。
「何? どんなのだ?」
「……る」
ささやきどころか呼吸と大差ない小さな声で黒子が何やら答えた。
「聞こえねえぞ」
火神が真顔で返す。黒子は一回大きく息を吸って気合を入れた後、先ほどよりボリュームを上げた。
「ええと、ですね。ひ……ひかる、とか。女の子ならひかりちゃんとか。あかりちゃんでもかわいいですけど」
語尾はやはり消えかけだったが、三つの候補は火神の耳にきちんと届いた。ひかる、ひかり、あかり。なんとなく系統が似ているが、特におかしな響きも印象もない。
「ひかる……? 別に普通の名前じゃねえか」
どこに恥ずかしい要素があるのだと、火神は首を傾げた。黒子はちょっぴり失望したように、一方で仕方ないですねと呆れたように、大きなため息をついた。
「……きみはほんとに鈍いですね」
なんでそこでそんなふうに罵られなければならないんだと眉をしかめかけた火神だったが、
「え?……あ、ああ!」
もう一度、胸のうちで黒子が挙げた名前候補を反芻したとき、それが意味するところに気づいて思わず声を上げた。黒子が考えていた名前とは、つまり。
「え、あ~……それってつまり、そういう由来?」
気づいたら最後、火神の頬もほんのり赤くなった。がしがしと頭を掻かずにはいられない。黒子が照れた気持ちがよくわかった。もちろん嫌な恥ずかしさではない。むしろ嬉しく感じる。
「はい……すみませんね、短絡的で。でもライトとかブリリアントとかよりはいいでしょう。そんな名前つけられたら僕だったら思春期グレます」
黒子はお腹を両手でさすりながら、ごまかすようにぼそぼそと早口に答えた。はにかむ彼女の姿を火神はたまらなくかわいく感じた。普段堂々と、場合によっては大胆に愛情表現をしてくる彼女だけに、レア感も一層だ。
「おまえ、あんま恥ずかしがったりしねえのに、そういうとこでは照れるのな」
「だって……正直なところ、高校のときから妄想してたんですもん」
両の人差し指の先をつんつん合わせながら、照れ隠しなのか、黒子がむぅっと口を尖らせる。高校のときから、と明かされ、火神は驚いた。確かにその頃からお互い惹かれあっていたが、火神はそこまで未来像を描いてはいなかった。漠然と、この先もこいつと一緒にいられたらいいな、とは思っていたけれど。
「それはまた……十年越しみたいな?」
黒子は両手で自分のピンクに染まった頬を包み込み、いたたまれない表情でなかばやけくそ気味に言った。
「おつき合いする前から子供妄想してたとか、痛々しくてもう……。保健体育の教科書レベルでしかセックスの知識なかった頃から……ああぁぁぁぁ、恥ずかしい……。しかもセックスすっ飛ばして妊娠する夢とか見てましたからね、もう痛々しすぎますよ」
手の平で顔を完全に覆うと、黒子はこの場から逃れたがるようにぶんぶんと頭を振った。どうフォローしたものかと火神は苦笑しつつ、珍しくかわいらしい態度の黒子をもう少し眺めていた気もした。俺もつき合う前からおまえ抱く妄想したり夢見たりしたぞ、と言おうと思ったが、さすがにデリカシーがないかと考え直し自重した。いや、黒子の性格からしてデリカシーのなさなんて気にせず、むしろ「僕をおかずにしてくださり誠にありがとうございました。光栄です」くらい返してきそうだが(実際過去に言われたことがある)、多分男の妄想と女の夢想は違うんだろうな、と感じた。
「いいじゃねえか、実現したんだから。俺は嬉しいぜ?」
よしよしとなだめるように背中を撫でてやると、黒子はぴたっと動きを止め、もじもじと手を擦り合わせながらも、素直に答えた。
「はい、ありがとうございます。僕にきみの子供をくれて」
火神は黒子の頭を抱き寄せると、ちゅっと額に口づけを落とした。そして、頬に手を触れさせて顔を見下ろす。
「俺のほうこそ、ありがとうって言わなきゃな。おまえが俺の子供産んでくれるなんて、すげえ嬉しい。いまだってこうして、腹の中で大事に守って、育ててくれてんだろ。感謝してもしきれねえよ」
もう片方の手を、黒子の膨らんだお腹にやんわりと添える。彼女と自分の子供がここにいる――その事実はこの上ない幸福感をもたらした。黒子は火神の手の甲に自分の手を重ねた。
「きみとの子供ですから。僕にとっては何よりも大切な宝物です」
少しだけ背筋を伸ばすと、察した火神が猫背気味になりながら近づいてきた。優しく唇を合わせる。一回、二回……と歯を立てないよう唇だけで柔らかく食んだ後、一旦顔を離し至近距離でふふっと微笑み合う。そしてまた呼吸を呑み込み合う。今度は深いキス。けれども音を立てず、幸福と平穏を味わうように、ゆっくりと。
「ん……火神くん、好き……大好き……」
「俺も……すっげえ好き」
うっとり交わし合ったかと思うと、
「ふふっ」
「ぷっ」
お互いに恍惚とした表情を見せた後、色気もなく同時ににかっと笑う。この先はもう少ししてからのお楽しみだとでも言うように。
黒子はいつの間にか床に放っていた命名図鑑を手に取ると、もう照れた様子もなく、気を取り直すようにぽりぽりと頬を掻いた。
「でも、さすがにひかり系はダイレクトすぎて恥ずかしいので、もうちょっとひねりたいと思います。なんか新幹線みたいですし」
それを聞いた火神が思いつくままにぼそっと提案する。
「いっそ、のぞみ、ひかり、こだまにするか? 鉄道オタクじゃねえから、こういう感じにしてもそんな恥ずかしくねえと思うけど」
すると、黒子が意味ありげに口の端を持ち上げた。なんだよ、と火神が目線で問うと、
「火神くん……子供は三人ご希望ですか?」
三つ名前を挙げたということはすなわちそういう意味ではないか。ちょっといじわるっぽい黒子の笑みを前に火神がたじろぐ。確かにそう解釈できる発言なのだが、彼の頭にそんなウェットを考え出す力はない。
「え! あ、いや、あの……そ、そこまで深く考えてたわけじゃ……」
「ふふ……がんばっちゃいますよ」
顔を紅潮させて慌てる火神とは対照的に、黒子は肘で彼の脇腹をつつき、彼女にしては明確に楽しそうな笑みを浮かべた。
つづく