黒子が妊娠七か月であると知ってから一週間、強行日程で日本へ一時帰国した火神は最小限の荷物とA4の茶封筒を持って、築二十年ほどのアパートの一室へ向かった。古臭いインターホンを鳴らし、ノイズの強い通話器に向かって家主に呼び掛ける。
「か、帰ったぞ! 黒子! 俺だ、火神だ!」
中から聞こえてきた返事は、はい、の一言と、近づいてくる足音。続いて解錠のがちゃんという音。チェーンの掛かったままの扉が薄く開けられる。隙間からのぞくのは、半年ぶりのいとしい恋人の双眸。
火神の姿を見とめた家主は、チェーンを外し扉を開放した。
「火神くん、お帰りなさい」
「黒子!」
出迎えた黒子を見るや、火神は鞄を床に放り、その体をぎゅっと抱きしめた。しばらく懐かしい熱やにおいを味わいたかったが、まずはここへ来た一番の理由を告げるのが先決だ。火神は黒子の肩を左手で掴んで少しだけ距離を取ると、右手に携えたままだった茶封筒をふたりの間にかざした。
「約束通り、婚姻届持ってきたぜ。なんかよくわからんけど、必要そうな書類も揃えてきた。書き損じてもいいように予備もある。俺の必要事項はもう書いた。あとはおまえの欄だけだ。書いてくれ」
いそいそと火神が取り出した封筒の中身は、市役所の職員等でなければ一生のうちそう何回も目にすることがないであろう公的書類――婚姻届。すでに何割か記入済みのそれを、黒子はやれやれとため息をつきながら受け取った。
「はいはい。まったく……婚姻届提出するために帰ってくるとか言いだすのでびっくりしましたよ」
「自分で見届けなきゃ不安なんだよ。赤司に任せんの怖すぎ」
さっそく書いてくれ。火神は荷物を回収すると、黒子に部屋へ入るよう促した。と、踵を返した黒子を横から見たとき、
「お?」
と火神が扉の内側で立ち止まる。どうしたのかと黒子が目をぱちくりさせる。
「はい?」
火神は頭からつま先まで黒子の全身を眺めてから、視線を体の中央あたりで止めた。
「お、お、お……。すっかり妊婦さんだな」
黒子は紺のジーンズにオフホワイトのチュニック、黒のカーディガンを合わせた服装だ。チュニックの構造上、正面からではわかりにくいが、横から見ると、腹部が明らかに前に出ている。体のほかの部分の細さと相俟って、改めて眺めるとかなり目立つ。黒子は、柔らかな曲線を描く自身の腹に手の平を置いた。
「はい、もう七か月のなかばになりますから、お腹も大きくなりますよ」
「けど、思ったより腹でかくないな。これでいいのか?」
確かにはっきりと膨らみの目立つ腹部だが、妊娠後期ということでもう少し膨らんでいる姿を想像していた火神は、こんなものなのかと首を傾げた。黒子は肩をすくめて見せた。
「最後の一ヶ月くらいで急激に大きくなるんですよ。いまはこれくらいで大丈夫です。標準範囲なのでご心配なく」
「な、なあ、触っていいか?」
「もちろん。でも、とりあえず中に入りませんか?」
そわそわしている火神に、靴を脱ぐよう促す。向こうでの習慣でそのまま上がりかけていたことに気づき、火神は慌てて靴から足を抜いた。
「あ、ああ……そうだな」
「テンパりすぎです。逃げたりしませんよ」
黒子のあとに従うかたちで室内に入る。ワンルームなのでものの十歩ほどで着いてしまう。中は生活感を感じられる程度の整頓具合だったが、机の周りの床には書籍が山積みになっていた。その一番上には、図書館から借りてきたと思しき妊娠出産に関する本が何冊が置かれていた。
飲み物も用意せず、取り急ぎ火神が帰国した最重要要件について片づける。机に腰掛けた黒子が婚姻届の必要事項を記載する間、火神は横で背筋をぴんと伸ばし、ボールペンが描くインクの跡を目で追っていた。見張っていなくてもごまかしたりしませんよ、と黒子が呆れていた。
記入漏れのないことをそれぞれ二回ずつ確認すると、その大切な書類を封筒に仕舞った。時計を確認すると、もう宵の時間帯だった。
「今日はもう遅いので、出すのは明日にしましょう。一応いつでも受け付けてくれるそうですが、その場でチェックしていただけたほうが安心ですので、確実に窓口が開いている時間がいいですね」
「一緒に行けるか? まだ仕事あるんだろ?」
ようやく給湯の準備をふたりでしつつ、火神が尋ねる。黒子は冷蔵庫の予定表を確認しながら答えた。
「大丈夫です、早めに切り上げられると思うので」
トレイに急須と湯飲みふたつ、それからクッキーを数枚置いて部屋に戻り、一人用の小さなローテーブルの周りをふたりで九十度の角度で陣取った。腰を下ろした火神が、両腕を後方につき、ようやく気が抜けたとばかりに宙を仰ぐ。
「は~……これで晴れて夫婦かぁ……」
火神には理解しがたい黒子の謎のこだわり――あるいは気遣いなのか?――により、意味があるのかないのかわからない微妙な紆余曲折を経て、ここまでこぎつけた。あとは明日、届出が受理されれば、法律上正式な夫婦となる。結婚の話が持ち上がってから半年なので、それほど長い時間は経過していないのだが、やけに遠い道のりであった気がしてならない。感慨深く息をつく火神に、黒子が小さくお辞儀した。
「結局急かすことになってしまい、申し訳ありませんでした。でも、嬉しいです」
「いや、急かしたの俺だし。けどおまえさ、身分としては公務員で、しかも学校の先生だろ? 大丈夫なのか? できちゃった結婚とか」
風あたり強くないか、と心配する火神。黒子は平然とした顔で湯呑を口に傾ける。
「大丈夫です。僕はともかく、きみは普通の人じゃないので」
「俺?」
どういう意味だろう。火神が目をしばたたかせていると、黒子が机周りの雑誌の山から、国内で発行されているスポーツ雑誌を一冊手に取り、テーブルの上に置いた。右端を折ったページを探して開くと、そこにはユニフォーム姿でプレイ中の火神の写真が掲載されていた。自分の記事を目にすること自体は慣れているが、日本語の雑誌を見る機会は少ないので、火神は少しどきりとした。黒子は珍しく得意げに微笑みながら説明する。
「パートナーが海外暮らしの上、結構名の知れたスポーツ選手とあっては、結婚もそれなりに面倒くさいはず――とまあ、こんな感じで勝手に想像してくれるので。あ、すみません、彼氏が火神くんだって、割と知られちゃってます。高校からの古いつき合いだということも、お互いとっても一途だということも。風あたりどころか羨ましがられて、ちょっといい気分です。自慢の彼氏ですよ。別にステータスがほしくてきみとつき合ってきたわけじゃないんですけどね」
相変わらず表情の薄い黒子だが、このときはルンルンという効果音が聞こえてきそうなほど、わかりやすく浮かれていた。火神は自分の記事よりも黒子の言葉に照れて、目線を泳がしつつ自分の後ろ頭を掻いた。
「いや別に、知られてても全然構わねえよ。事実なわけだし。おまえが職場で居づらくないならそれでいい」
「高学年の子の中には、火神くんファンの子もいるんですよ。僕もうにやにやしちゃいます。生徒には言わないようにしてるんですけど、もう言いたくて仕方ありません。あのかっこいい火神選手が、先生の彼氏なんですよって」
「な、なんか照れるな……」
嬉しいのだが恥ずかしさに負け、火神はそっぽを向いて、所在のない手でカーペットの短い人工毛をくりくりといじった。黒子は雑誌を自分のほうへ向け、写真の火神に指を触れさせた。
「火神くんこそ、お仕事に影響ないですか? 大丈夫ですか?」
僕の勝手に巻き込んでしまってすみません。黒子が不安そうな目を向けると、火神がぎくりと肩を揺らす。そして視線をずらしたまま、罰が悪そうにぼそぼそと話し出す。
「あー、そのことだが……悪い、実はもう結婚してるってことになってんだ。そのほうが説明楽だったから、つい。事実婚、みたいな。一緒に住んでないのに事実婚ってのも変な話だが、気持ちはすでに夫婦なんだ、みたいな感じでよ。昔からの交際相手が日本にいるってことは前々から知られてたし、日本の婚姻制度に詳しいやつなんてまずいねえから、堂々と話せば、へーそうなんだー、でだいたい終わる。……怒ったか?」
おずおずと尋ねる火神に、黒子は両手を左右に振って否定を示す。
「いえ、そんな、とんでもない。きみがそれで大丈夫なら、僕は構いませんよ。ご迷惑になっていないならよかったです」
「おまえのほうに変な記者とか行ってねえよな? 大丈夫だよな? 俺、スキャンダルのネタとしておいしいと思われるほどじゃないし」
「心配ありません。僕の影の薄さを忘れましたか。仮に写真撮られたって、心霊特集にしか使えませんよ」
「それもそうか」
めちゃくちゃな理屈だが、黒子に関しては言えば、冗談でも何でもなくそのとおりなので、火神はあっさりと納得する。と、雑誌に目を落としたまま黒子が少し顔を曇らせる。
「でもまあ、これで結婚して、しかも僕が妊娠しているとなると、多少の説明は必要でしょうね」
「足かけ十年くらいつき合った末の結婚だ。しかも超遠距離で成就。スキャンダルどころか美談だろ、美談。あ、おまえの名前は伏せるようにするからな」
そんなこと気にするなと火神は黒子の頭をぽんぽん撫でる。黒子は小さく微笑んだものの、晴れない顔をしている。
「でも……ほんと、ごめんなさい、火神くん。いまさらですが……」
うつむいてしまった黒子に、火神は大きなため息をつく。
「ああ、ほんといまさらだぜ。おまえは馬鹿だ」
「はい……そう思います」
火神は昔のようにがしがしと色素の薄い髪の毛を引っかき回してやりたい衝動に駆られたが、たとえ頭髪であってもいまの黒子に乱暴な動作を加えるのははばかられ、思いとどまった。
「……だーから! いまさらだっつってんだろ。結婚するってときに、そんな暗い顔すんな。何もかもがいまさらなんだから、開き直って能天気に喜べ。嬉しいんだろ?」
黒子の頬に手をあて、まっすぐ視線をとらえて尋ねる。黒子は火神の大きな手に自分の手を添え、
「はい」
彼女にしてはわかりやすい笑顔ではっきりと肯定した。火神もつられて微笑む。
「俺も嬉しい。おまえと結婚できる上に、もうじき子供まで生まれるんだからよ」
言いながら、黒子のふっくらとした腹部に視線をやる。この中に別の生命が入っているのかと思うと、不思議でならない。と、黒子が思い出したように言った。
「あ、そうだ」
と、火神のほうへ体ごと向き、腕を両サイドについて体重を後方へ倒し、膨らんでいる腹を火神に見せた。
「どうぞ」
「ん?」
「お腹、触りたいんでしょう?」
「お、おう」
火神は思わず慣れない正座を組んだ。自分から触らせてほしいと頼んだものの、いざその段になると、言い知れぬ緊張が湧いてくる。体の中で別の人間を育てるなんて、男の火神には想像もつかない感覚で、ある種の神聖さを感じもする。本当に触ってしまっていいのだろうか。
一方、すでに半年以上子供を宿している黒子にとっては日常にすぎないのか、何のためらいもなくさあどうぞと示してくる。
「さっきから蹴ってますから、触れば動いてるのわかると思いますよ」
「え、動いてんの? いま?」
胎動があるとは聞いていたが、外からでもわかるくらいなのか。子供の存在を知ったのはつい先日なのに、もうそんなに成長していたのかと、火神はちょっと驚いた。まあ、黒子の遅すぎる報告がすべての元凶なのだが。
「はい、元気に動いています」
「よし、じゃ、じゃあ……」
火神はゆっくり手を伸ばした。あと一センチほどで触れるというところで、指先が震えた。
「そんな恐る恐るじゃなくても……」
黒子の苦笑を聞きながら、火神はぎこちない動作でそっと手の平を当てた。見た目のまろさとは逆に、胎児とそれを守る羊水などを内側に抱える腹部の感触は、固く張っていた。
「お~……ここに娘が……」
黒子の体温の向こう側に自分たちの娘がいるらしい。まだ信じられない気持ちで、火神は手の平をゆっくり動かした。黒子もまた自身のお腹を撫でると、
「お父さんが来てくれましたよ」
と胎児に向けて呼び掛けた。すると、
「うわ! ほんとにポコってした!」
内側からわずかな振動が伝わってきたことに、火神は驚きの声を上げた。思わず手を引っ込めてしまう。
「はい、いま蹴ってきましたね。しゃべれないので挨拶代わりじゃないでしょうか」
そうか、蹴るとこんな感じなのか。火神はもう一度、おっかなびっくりといった手つきで黒子の腹に触れた。
「蹴られると痛かったりするのか?」
「いえ、痛くはないです。でも、最近赤ちゃんも体が大きくなって力も強くなってきたのか、踵のところがぽこって出るくらい蹴られるときがあって、そういうときはちょっと痛いですね」
「いまは?」
「これは普通です。日中にしてはよく動いているほうです。夜のが元気ですよ」
「そうなのか……。あ、また!」
先ほどと同じくらいの強さの震動を感じる。今度は手を引かず、そのまま微妙に伝わってくる体内の動きを感知しようと留める。
「声はいままでも聞かせてあげられていましたが、こうやってお父さんに会うの、はじめてですからね。嬉しいんじゃないでしょうか」
「へあー……」
意識せず、火神の喉からなんとも言いがたい声が漏れる。
「なに変な声出してるんですか」
「いや……ここに俺たちの子供、いるんだなあと思って」
「はい、います。きみと僕の子供です」
腹部に置かれた火神の手の上に、黒子が自分の手を添える。火神は申し訳なさそうに眉を下げた。
「悪ぃ、話には聞いてても、正直実感あんまなくてさ。こうやって触れて、存在を感じて、ようやくちょっとずつ、本当に子供がいるんだなって思えてきた」
「まだお知らせしてから日が浅いですから。それに、僕は子供とずっと一緒ですけど、きみは子供できてから直接会うのはじめてですもんね。実感なくても仕方ないですよ。あ、でも、婚約の挨拶できみと一緒に日本に帰ったときには、わかりようがありませんでしたが、すでにこの子がお腹にいたことになりますね」
黒子がいとおしそうに目を細めて腹部を撫でる。すっかり母親の顔で。
「俺たち、子供の親になるんだな」
「僕はもうお母さんですよ。この子ができたときから」
「あ、そっか」
「きみはあとちょっと待ってください。そうしたら直接会わせてあげられますから」
「すげえ楽しみ」
「僕も楽しみです」
まだ姿は見えないけれど、親子三人揃っているかと思うと、ふたりでいるときに感じたのとはまた違う幸福に包まれる。優しげに自分のお腹に視線を落とす黒子に、火神はどうしようもなく愛しさが募るのを自覚した。自分の子供を宿して幸せそうに微笑む姿に胸がいっぱいになる。と、その手が以前より丸みを帯びていることに気づく。
「あ、結婚指輪だけど……どうする? 指、浮腫んでるって言ってたし、どんなのがいいかわからなかったから、買ってこなかったんだが」
火神は黒子の、少しだけぷくっとした手の甲を見やった。この程度の浮腫みなら問題はないということだったが、こうして体に負担を強いて子供を守り育ててくれているのだと感じ、申し訳ない気持ちになった。意識せず、黒子の手の甲をさすった。火神の心情などお見通しのように、黒子は困ったように微笑んで、大丈夫ですよと言った。
「急ぐこともありませんし、指輪については子供生まれて元の体調に戻ってからにしましょう。挙式するにしても、出産後なんですし。……あ、火神くん、それ」
と、今度は黒子が火神の手に注目した。左手の薬指に光るプラチナは、ペアリングではない。
「ああ、婚約指輪な。普段はつけてねえけど、せっかくだから持ってきた」
言いながら、黒子の前に左手を掲げて見せる。
「つけてくれたんですね。僕がつけられないのが残念です」
「仕舞ってあるのか?」
「いえ、きみを参考にして、チェーンに通してみました」
黒子はチュニックの下に着たハイネックの中に手を差し込むと、細いチェーンを引っ張った。その先には、火神のものより数段小ぶりなリングがぶら下がっていた。
「チェーンが切れたりしてなくしたら嫌なので、いつもはケースの中なんですが、今日きみが来るということだったので、身に着けたくなりました」
「俺も同じこと思った」
「火神くん……」
「黒子……」
す、と火神の手に黒子の手が這い、指の間に自分の指を差し込んで絡める。どちらからともなく、互いに引き寄せられるように顔が接近していく。呼吸はもちろん、体温さえ伝わるくらいの距離。それがゼロになろうとしたとき、
「いいムードのところ邪魔をするが」
唐突にどちらのものでもない声が響いたかと思うと、座り込んだふたりの上にうっすらと影が落ちた。
ぎょっとして見上げると、そこには赤い髪をした青年が真顔で立っていた。
つづく