赤司くん降旗くんのバカップルとは直接何の関係もない小金井先輩の突然の訪問、そして先輩が渦中の人物である降旗くんを連れていることに僕は驚愕を通り越して戦慄を覚えました。現在赤司くんが我が家に滞在中で、彼は小金井先輩に対して大変よからぬ思惑を抱えていて、撤回というか保留にはなったもののそれを語った当日の夕方に小金井先輩がこの家にやって来る……これを間の悪い偶然で済ませてよいものでしょうか。あまりに出来過ぎている気がします。いっそ大宇宙的な力が赤司くんに味方したと考えるほうが自然ではないでしょうか。やはり彼は人知を超えた存在に違いありません。ああ恐ろしい、いますぐ母星にお引取り願いたいです。
リビングに戻ると開かれた窓の先に宇宙船が停泊している……というような映像が脳内に流れます。現実逃避です。でも妙なリアリティを感じるのは、やっぱり赤司くん宇宙人説を僕の脳が熱烈に支持しているからでしょうか。
そんな思考が駆け巡る程度には一瞬にして混乱を極めた僕の頭ですが、下手に騒ぎ立ててこの場に災厄の元を引き寄せるのは避けるべきだとなけなしの冷静さが訴えてきたため、上擦りそうになる声をなんとか抑えながら小金井先輩に尋ねました。
「こ、小金井先輩? あの、これはいったい……?」
もうちょっと具体的に質問するべきなのでしょうが、いまの僕にはこれが精一杯です。だってわけがわかりませんよ、なんでこのタイミングで小金井先輩と降旗くんがうちに来ちゃうんですか。お願いいますぐふたりで逃げて! あの戸を開けた向こうには宇宙人の毒牙だか魔手だかが待ち受けているんです……!
やっぱり平静を保てない僕の脳みそは先程来訪したばかりのふたりに対し悲痛な訴えを叫びます。しかしこの家で現在起きている、そして起きつつあるかもしれない非日常を知る由もない小金井先輩は、間延びした呑気な調子で答えます。
「うーん、そうは聞かれても、どこから話せばいいものやら。ええと、あのな、今日の昼、メシ屋に行ったら降旗がいて――」
「黒子! あ、あのさ!」
「な、なんでしょう降旗くん?」
小金井先輩の言葉を遮り降旗くんが両の拳を胸の前で握りしめながらやや大きな声で僕に呼び掛けます。やめて降旗くん声は控えて! 赤司くんを呼び寄せちゃったらどうするんですか。仮に赤司くんが本人の仮説通り降旗くん及び小金井先輩の容姿に惹かれる傾向があるのだとしたら、あの宇宙人のことだから視界に入れた瞬間発情し、おふたりに3Pを迫るとかいう事態になりかねません。
このとき僕の愚かで俗物な脳細胞は、あろうことか赤司くんが降旗くんと小金井先輩を侍らせよくわからないけどご満悦な様子という謎の光景を投射しやがりました。しかもなんか無駄に肌色が多いような……。やめて僕の脳みそ! 主を殺す気ですか!?
友人と先輩がまとめて赤司くんの毒牙に掛かるなどという不穏な想像を払拭すべく僕はぶるぶると頭を左右に振りました。なんですかあのとんでもない脳内妄想は。自分の無駄に豊かな想像力を呪いげっそりとする僕に降旗くんが言葉を続けます。
「ええと、あの……赤司のこと、なんだけど」
「は、はい」
ああぁぁぁぁ……やっぱりそうですよね、赤司くんのことですよね。そりゃ降旗くんの立場からしたら聞きたいこといっぱいですよね。
いえ、僕のほうとしてもこの件は曖昧にしておきたくないので、いずれ降旗くんにきちんとお話しなければと思っていました。別に赤司くんとの間でなんらやましいことはないのですから、隠す必要もありません。ただいまは現実の状況でも僕の脳内でも情報が錯綜していますので、もうちょっと整理する時間がほしいのが正直なところです。それに赤司くんのぶっ飛び思考回路から導き出された数々の珍回答は、降旗くんにそのままお聞かせするにはいささか刺激が強いものなので、それらを嘘で塗り固めない範囲でオブラートに包む方法も考えなければなりません。小金井先輩の件とかギャルゲー実践編とか。
できれば場所、そして時も変えてもらえないものでしょうか。赤司くんの動向が気になりすぎてまったく集中できる気がしません。赤司くんが来訪者の正体に感づいていないかどうか不安で、ちらちらと背後の戸に視線をやってしまいます。いまのところ、隙間からこっそり火神くんや赤司くんがこちらをのぞいているということはなさそうですが……。
「あ、あのさ、黒子、今日の朝、その、俺、赤司と一緒だったんだけど……」
まったく話をする態勢が整わない中、降旗くんが口を開きます。しかし、最初の勢いは何だったのかというくらい、弱々しく歯切れの悪い口調です。まあ降旗くんの主観からすればたいそう気まずい状況でしょうからそれも理解できないではありません。というのも降旗くんは赤司くんの欠陥だらけの説明のせいで、『赤司くんが僕と火神くんとセックスをした』と思っている可能性が高いのですから。これはひどい誤解です。僕と火神くんの名誉に関わる話です。なんとしてでも改めなくては……!
「そのとき赤司のやつが……妙なこと言ってて」
「みょ、妙なこと……ですか」
「あいつ、ゆうべ黒子……と、火神と、一緒にラブホ行って……それで、セ、セックス、したとか、なんとか……」
聞きにくそうにしていた割にはストレートに豪速球で核心部分の質問を飛ばしてきたものです。まあおそらく今日の朝からずっと悶々悩んでいたことでしょうから、遠回しに聞く気力も堪え性も残っていないということでしょう。しかし、どこから説明すればいいんでしょうか、昨日の出来事。順を追って説明したところで意味不明感が漂うこと間違いなしです。赤司くんが火神くんと僕を呼びつけた理由は『京都滞在中に生じた疑問について僕たちに相談するため(結局昨日の段階では何の話も出ませんでしたが)』であり、場所としてラブホを選んだ理由は『赤司くんが火神くんの性欲を満足させるため僕を呼び出しセックスさせてやろうと思った』……うん、前者はまあそれなりの説得力をもたせることができなくもありませんが、後者は無茶すぎます。いかにも無理のある言い訳という印象ですが、でも、これが事実なんですよね……。正直に全部話しても嘘っぽさ満載になりそうな予感がひしひしと。どうすれば昨日の出来事を説得力をもって解説できるのでしょうか。
思考力と国語力の限界を試されているような心地ですが、沈黙が長引けばいたずらに相手の不信感を買ってしまいそうですし、この場で長時間話せるような状況でもないので、僕は苦しいながらも仕方なく言葉を紡ぎます。
「え~……あ~……。ええと、その、なんて言ったらいいんでしょうか。いろいろとややこしくてですね……話せば長くなってしまうのですが、まずはこれだけ言わせてください」
僕は一旦言葉を切るとすぅっと息を吸って溜めをつくり、
「僕と火神くんは赤司くんとセックスしていませんそんなこと絶対にあり得ません天に誓って断言できます絶対です!」
まくし立てるように一気に述べました。
「あ……」
僕の言葉を聞いた降旗くんは、緊張に強ばっていた顔をわかりやすく緩ませました。内心相当どきどきしていたのでしょうね、赤司くんの浮気疑惑の真相を聞くの。
「ほらな、降旗、誤解だったじゃん。……あ~、よかった~。ちゃんと確認してよかっただろ?」
「は、はい。コガ先輩のおかげです」
ほっと安堵の息を吐く降旗くんの背を、小金井先輩が労るように撫でます。こうやって並んでいると確かに顔の雰囲気が似ていて、兄弟のように見えます。落ち込んでいる弟を慰めるお兄ちゃんの図といった印象で微笑ましいものがあります。……この光景を赤司くんが見たらやばいのではないでしょうか。
「あの……小金井先輩、もしかして降旗くんにゆうべのことを聞いたんですか?」
小金井先輩の台詞からして、彼は降旗くんと赤司くんの関係をある程度知っていると推測されます。前々から知っていたのか今日偶然知ることになったのかは不明ですが、少なくとも赤司くんに浮気疑惑が浮上していることは把握しているようです。お昼に飲食店で出くわしたという話でしたから、ゆうべの件も含め、降旗くんの口から赤司くんとの関係が語られたのでしょう。
「うん、まあ。会ったのはたまたまなんだけど、なんかエライ落ち込んでて真昼間から自棄酒モードだったから放置できなくてさ。成り行きで降旗があの洛山の赤司とデキてるみたいな話も知っちゃったんだよ。なんかこう、知らないうちにすごい人間関係が生まれてたんだなーって、めっちゃびびった」
「まあ……そうですよね、びっくりしますよね」
小金井先輩は疑問符を周囲にぽんぽん放ちつつも落ち着いた声音で簡単に事情を説明してくれました。この様子と先程降旗くんに掛けた言葉から考えると、赤司くんの浮気疑惑について小金井先輩は懐疑的な立場だったようです。多分降旗くんの話を聞いた上で、『真相を確かめたほうがいい』という感じで僕たちに話を聞くよう促してくれたのでしょう。しかし、彼らが遭遇したのが今日の昼ごろということは、小金井先輩は数時間にわたり降旗くんの失恋(?)話につき合っていたのでしょうか。
「小金井先輩、今日はずっと降旗くんと一緒だったんですか?」
「うん、まあ。つっても昼からだけどな」
それにしたって結構な時間ですよね。
「なんか様子がおかしかったから放置もできなくてなー」
小金井先輩……なんていい先輩なんでしょうか。こんな善良な一般人を身勝手かつ無茶苦茶な理由で食べようとするなんて、赤司くんてばほんとひどいです。なんとしてでも宇宙人のキャトルミューティレーションから小金井先輩を守らなければ。僕は心の中で決意に拳を固めました。
「降旗くん、赤司くんが変なこと言ったせいで悩んじゃったんですね。すみません、あのひと頭はいいんですけど、たまに日本語が不自由になっちゃって」
主に恋愛関係において。多分日本語と見せかけた宇宙語をしゃべっているのだと思います。
「小金井先輩もすみませんでした。なんか変なことに巻き込んじゃって」
僕が小金井先輩に頭を下げようとしたそのとき、
「あ、あのさ、黒子……」
降旗くんがおずおずと口を開きました。何やら言いたげにしていますが、ためらいがあるのか、すぐには声が出てきません。また何か聞かれるのでしょうか。いやそれは当然なんですけど。とりあえず赤司くんが僕たちとセックスをしていないということしか伝わっていないのですから、不可解な点はまだ山ほど残っています。さてどこから山を崩しに掛かるべきか。僕が考えていると、
「昨日黒子が言ってたこと……その、なんで俺、赤司ならいい……ううん、赤司がいいと思うのかっていう……」
降旗くんが別件を話題に出しました。僕は一瞬何のことかと首を傾げてしまいましたが、すぐにああとうなずきました。僕が降旗くんを泣かせちゃったときのことですね。僕に致されそうになって(もちろんそんな気は最初からありませんでしたが)降旗くんが泣きながら赤司くんを呼んだときのことだと思います。あのあと落ち着いてから降旗くんが出した答えは、赤司くんに父親みたいに感じているというとんでもないものでしたが……ああ、駄目です、いま思い出してもあのときの脱力感と徒労感はつらいものがあります。
僕は比喩でなく足元のふらつきを感じました。今日は今日で疲れることの連続でしたし。胸中の盛大なため息が漏れそうになるのをこらえていると、
「昨日はなんかよくわかんないこと言っちゃったけど、小金井先輩にいろいろ話を聞いてもらって、先輩のほうからも言葉くれたりして……それで、あの……俺、わかったんだ。俺……俺……赤司のことが好き……みたいなんだ。多分……」
「ふっ……降旗くん……!?」
来た――――――!? 恋の自覚来た――――――!?
降旗くんの口から突然の正解が! 多分とか付けちゃってますけど!
いやでも、これは大丈夫なんじゃないですか? 降旗くんは赤司くんみたいな特殊な価値観や感性で生きていませんし、過去に恋愛経験もありますから、恋愛感情自体がわからず迷走に陥るとは考えにくいです。
「小金井先輩に話してたら、なんか俺、赤司に恋愛的な意味で好意を抱いてるんじゃないかって指摘されて……最初はそんなことあり得ないって思ってたけど、でも、でも……よくよく考えてみると、ま、前に女の子好きになったときと似たような気持ち、自分の中にあるんじゃないかって、思うようになって……。赤司に変なとこ見せたくないとか怒らせたくないとか思うのって、赤司が怖いからっていうのもあるかもだけど、同じくらい、自分のかっこ悪いとこ赤司に見られたくないからかもって……」
ふおぉぉぉぉぉ……! ちょっ……大正解じゃないですか! なんですかこれ、昨日の僕が馬鹿みたいじゃないですか。こんなことならさっさと小金井先輩に協力を要請すればよかったという話じゃないですか。まあこの件が小金井先輩に波及するかもしれないという発想が出てくるはずないですし、昨日の珍騒動があったからこそ小金井先輩の助力を経て正解にたどり着いたということになるかもしれません。何にせよ、小金井先輩グッジョブ!
にわかに心が湧き立ち、僕は小金井先輩に感謝と尊敬の念をこめたまなざしを送りました。これはお礼のひとつもせねばなりません。とりあえず感謝の言葉を述べようと口を開きかけたそのとき、
「ふえぇぇぇぇぇぇ……征くん、征くん……ごめんねぇ……好きになったりしてごめんね……」
なんか涙声! え? 降旗くん? 泣いてます? なんで?
「え? え? え? ちょ? ふ、降旗くん?」
「うえぇぇぇぇぇぇぇ……ごめん、ごめん……せいくーん……。俺、気持ち悪いよね……ごめん、ごめん……」
どういう流れでこうなったのかさっぱりなのですが、降旗くんが泣きはじめてしまいました。浮気の件は否定されたので、ショックで泣きだしたということはないでしょう。緊張の糸がぷっつり切れてしまったとか……? いやしかし、降旗くんが口走っている内容が理解できません。
「ちょ、え? 降旗くん? なぜきみが赤司くんに謝るんですか?」
好きになってごめんとか、気持ち悪いとか、なんで降旗くんがそんなことを?
これがごく一般的なストレートの男性に恋をしてしまったという事態であるのなら、降旗くんがこんなことを言い出す気持ちも想像できなくはありません。ですが、彼らはすでにずっぷり深い仲ですし、体の関係がはじまったのは元はと言えば赤司くんが降旗くんに強引に迫ったことが原因です。どう考えても非難されるべきは赤司くんですし、気持ちが悪いのも赤司くんのほうだと思います。性欲を刺激されたからその謎を解明するためにセックスしろなんて迫ってくるような人物は、控えめに判断しても気持ち悪いと思います。怖くて不気味という意味で。それを、なぜ降旗くんのほうが罪悪感に泣かなければならないのでしょうか。いろいろ納得がいきません。
「あの、降旗くん?」
「ふえっ……えっ、えっ……ううぅぅぅぅ……」
どこをどう通った思考回路の結果なのか甚だ疑問ですが、降旗くんはすっかり泣きのスイッチが入ってしまったようで、事情を尋ねようにもまともにしゃべれそうにありません。
目元を手の甲でこすりながら小さな子供みたいにえんえん泣く降旗くんにどう接していいものか困っていると、小金井先輩が僕の二の腕を指先でつついて注意を引き、こそっと耳打ちしました。
「(あのな、降旗のやつ、いまちょっと酒入っててな、泣き上戸っぽくなっちゃってんだよ)」
「(お酒? あ、そういえばお酒臭いかも……?)」
女々しいというか子供っぽい態度だと思ったら、アルコールの仕業のようです。顔には出ていませんが、結構な深酒なのかもしれません。感情が揺れているときにお酒が入るとタガが外れちゃったりしますもんね。降旗くんは特別お酒に弱いということもなければ泣き上戸ということもないはずですが、今回の件に関しては普段なら出ないような反応が出てしまうのも仕方ないでしょう。
「(あの、小金井先輩、彼はなぜ泣いているのでしょうか?)」
「(俺に聞かれても困るかなあ……。今日降旗、会ったときから酒入っててさ、どうにもこうにも話がまとまってなくて、俺、状況が把握できてないんだよー。無理矢理解釈すると、赤司を巡って降旗と黒子と火神で痴情のもつれが発生してんの? って感じなんだけど……)」
「そ・れ・は・ひ・ど・い!」
ひそひそ話モードだったのに一気に声を高くしてしまいました。だってあまりにひどい誤解なんですもん。
心外すぎて思わずボルテージを上げかけた僕を落ち着けるように小金井先輩がぽんぽんと肩を叩いてきました。
「まあでも、おまえらの間でそんなトライアングルだかスクエアだかが起きるとは考えにくいし、降旗のしゃべってる内容もなんかあやふやだし、このままじゃ埒が明かないと思って、とりあえず事情わかってそうなおまえらのとこに来たんだよ。降旗は気まずいとかなんとかで拒んだけど、情報をはっきりさせといたほうがいいって言って説得して、ここまで連れてきたってわけ」
「そ、それはそれは……大変なご迷惑をお掛けしてしまったようで……。あの……僕にも責任の一端はありますので、謹んでお詫び申し上げます」
「いや、何もそんな深刻になることねーっての。降旗に声掛けて話聞くよって流れにしたのは俺だし。それで持て余しちゃって自分の手に負えないってことでおまえらのとこに連れてきたって感じだから」
「降旗くん、そんなに泣いちゃったんですか?」
「泣いたのもあるけど……なんかとにかく話がエライことになったし、ほっとくとセックス迫られかねないしで、正直かなり困っちゃってさあ」
「はあ!? セックス!?」
降旗くんが!? 小金井先輩相手に!?
な、なんですかその超展開!? 僕たちが宇宙人に振り回されている間に降旗くんサイドもまたとんでもない事態が発生していたというのですか!?
ていうか、まさか降旗くん、赤司くんの影響を受けて価値観や思考がゆがんできちゃってるんじゃないでしょうね。赤司くんも赤司くんで小金井先輩に狙いを定めようとしていましたし……もしや変なところでシンクロしちゃっているとか? うわわわわわ……考えたくないです! 降旗くんが宇宙人に改造されちゃったとか!
「落ち着け黒子。酔っ払いの言ったことだし、俺も真に受けてねえって。いま降旗のやつすげーナーバスになってるみたいだから、あんま刺激しないでやってよ」
貞操の危機に見舞われたにも関わらず、小金井先輩は相変わらず後輩思いの態度を貫きます。なんていい先輩なんでしょう……ほろり。
「うえぇぇぇぇぇ……せいくん、せいくん……ごめんね……」
酔っ払っているらしい降旗くんはすっかり泣きが入ってしまったようで、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら小さな嗚咽を漏らしています。これはしばらく止まりそうにありません。どうしましょう……いつまでもここにおいて置くわけにもいきませんし、さりとて部屋の中に招くと赤司くんと鉢合わせになりますし。おそらく降旗くんは恋心を自覚したばかりでまったく心の整理がついていないでしょうから、この状態で赤司くんと対面させるのは酷だと思うのです。あの恋愛価値観のぶっ飛んだ赤司くんが降旗くんにどんな珍発言をかますかも心配ですし。
「あの……ここじゃなんですので場所を移しませんか? 申し訳ないことにいまちょっとうちには上げられなくてですね……どこか個室のあるレストランにでも。お詫びも兼ねて食事代は僕が持ちますので」
泣いているところ悪いですが、早く赤司くんと物理的な距離を離したいのです。赤司くんの世話を任せることになって火神くんごめんなさい。小金井先輩はうなずいてくれましたので、あとは降旗くんをなだめて連れ出すだけです。幸い判断力が落ちているようなので、やんわりと指示して誘導すれば従ってくれるでしょう。
「えと……ちょっと待っててください。財布だけ取ってきます」
それから火神くんに簡単に説明を。僕は踵を返すとダイニングの戸をそっと開けました。と。
「光樹? いるのか?」
なんかいた!
「(あ、赤司くん!?)」
思わず飛び出そうになる叫びを必死にこらえる僕。危うくむせるところでした。
赤司くんは玄関の様子を伺っていたのか、戸を空けてすぐ横のところに立っていました。なんらかのセンサーでも反応したのか、降旗くんが訪問中であることもすでに察しているようです。
「光樹?」
赤司くんは戸を完全に開くと、僕の体を押しのけ前に進み出ました。それを、慌てて僕の部屋から飛び出てきた火神くんが止めに入ります。
「おい赤司待て! ンな格好で玄関行くとか何考えて――って降旗!?」
「せ、征くん!? な、なんで征くんがここに……?」
時すでに遅し。降旗くんと赤司くんが顔を合わせてしまいました。
あちゃー。いままでの人生でもっともこの言葉がふさわしいシチュエーションかもしれません。
どこまで間が悪いんでしょうねこのふたりは。
あまりのタイミングの悪さに顔を伏せて肩をがっくり伏せていた僕ですが、
「火神……。え、なんでふたりとも……は、半裸?」
降旗くんの震える声にはっと顔を起こして振り返りました。
そこにはパンイチの赤司くんの姿が!
ちょっ……えっ……ええ!? なんですかこれ!? なんでまたしても赤司くん脱いでるんですか!?
来客対応中の赤司くんと火神くんの動向を僕は把握していません。いったい何があったのかと火神くんを振り返ると、なぜか上半身裸の火神くんが先程の僕と同じようにあちゃーと目元を手で覆っていました。
なんですかこの状況。まさかまた写経をやらかしていたのですか? 呆気にとられながら僕は火神くんと赤司くんを交互に見やりました。
驚く僕の前で、降旗くんと赤司くんが間近で向き合います。降旗くんはいまにも泣きそうに目を潤ませて……ってもう泣いていたんでした、そういえば。さらに涙がひどくなりそうな光景ではありますけど。火神くんが上半身裸、赤司くんがパンツ一枚。ここから導き出されるもっとも妥当な回答は……少なくとも写経は絶対にあり得ませんね。ああ、ゆうべラブホの部屋に入ったときも襲ってきた衝撃の悪夢が蘇るようです……。
降旗くんの斜め後ろに控える小金井先輩は、パンイチの赤司くんにドン引きしたのか、玄関の扉に背中を貼り付けるようにして可能な限り距離を置いています。意味不明という言葉を体現したかのような光景に、僕の頭から小金井先輩が赤司くんに目をつけられてしまうのではないかという懸念は吹っ飛びました。なんかもうそれどころじゃないです。
「せ、征くん……」
「泣いている……? どうしたんだ光樹、何があった」
「え、あ、いや、その……これは……。ひゃっ……!」
ひどく心配そうな声音で尋ねていた赤司くんですが、ふいに降旗くんに顔を近づけると、涙に濡れた彼の目元にそっと舌を這わせました。それもひと舐めに終わらず何度も往復させて。当然ながら驚いた声を上げる降旗くんでしたが、
「んっ……征くん……」
ほどなくしてうっとりと気持ちよさそうに息を吐くと、小さな水音に交え、あっ、とか、ううんっ、とか声を上げはじめました。音声だけ聞いたら完全に濡れ場じゃないですかこれ。かわいそうに、すぐそばでそんな光景を見せられた小金井先輩は青ざめながら震えています。
「あ、赤司くん! 降旗くん! ここ、玄関です! それもひとン家ですよ!?」
それ以上はさせねえよとばかりに僕は果敢にもふたりに制止を掛けました。幸いはじまったばかりでまだふたりの世界に入り込んではいなかったようで、降旗くんはすぐにはっと顔を上げました。
「え? あ、ああ……ごめん……」
しかし、赤司くんに泣き顔を見られるのが気まずいのか、すぐにうつむいてしまいます。
「光樹、テツヤに用事か。それとも火神に……?」
優しげに降旗くんに接していた赤司くんですが、火神くんの名前のところだけは妙に押し殺した感がありました。降旗くんが火神くんに会いに来た可能性を考えジェラシーを刺激されたようです。火神くんは息を呑みながら戸の影に体を引っ込めました。しかし降旗くんは赤司くんの燃え上がるジェラシーに気づいていないのか、戸惑い気味ではありますが怯んだふうはなく、聞かれたことに答えています。
「ええと……ふ……ふたりに?……なのかな。あ、あの、なんで征くんがここに?」
「テツヤたちに話があったからだ。今後のきみとの関係について」
「え……」
降旗くんがびくりと肩を揺らします。今後の関係……なんか嫌な予感しかしないんですけど!
「僕は今日の朝彼らに会いにこの家を訪ねた。目的はさっき述べた通り、きみとの今後の関係について話をするためだ。というのも(京都で玲央たちに相談をした結果)現在のきみとの関係に疑問を感じたからだ。これは(もし自由意志のもとで合意が成立していなかったとしたら)由々しき事態とさえ言えるだろう。昨日きみと家に突然邪魔させてもらったのは、この件できみの話を聞きたかったからだ。もっとも、きみの顔を見たら僕はもう(性欲を刺激されるあまり)冷静ではいられず、目的を果たすことなくあの場を辞すことになってしまったが。なんというか(性欲が高まりすぎて)頭も体もカッとしてしまった。あのままでは、感情(というか性欲)に任せて普段けっしてやらないような(性的な)ことをきみにしてしまいそうな気がした。だから、そうなる前にきみの部屋を出たというわけだ」
ぎゃあぁぁぁぁぁぁ! ちょっ……こ、この宇宙人! なにめちゃくちゃな説明をかましちゃってくれてんですか!? 足りません、圧倒的に言葉が足りていません! なんかもう、意図的に省いてるんじゃないかと疑いたくなるレベルで不足しまくっています、それも大事なとこばかり! なんでどうでもいいハーレクインはあれだけ詳細に語りまくるのに、肝心の説明は虫食いまみれなんですか!
なんてことしてくれたんですか。この説明じゃ降旗くんの立場からしたら、あたかも赤司くんが昨日の夕方の時点で降旗くんが僕とセックス(未遂)したことを知っていて、それを問いただすためにお宅訪問したかのように響くじゃないですか。それでもって、降旗くんの顔を見たら怒りが湧いてきたみたいにとらえかねませんよ。あれだけ性欲性欲言いまくってたくせに、なんでいまこのときは性欲を省いちゃうんですか!?
「あ、あの……ゆうべ征くん、黒子たちと、ラ、ラブホ、行ったって言ってたのって……」
「テツヤたちに聞きたいことがあったからだ。きみとのことで。もっともゆうべの僕は恥ずかしながら相当平静を失っていたようで、彼らを招いたところで満足なセックス(をふたりにさせてやること)はできなかったが。しかし、最終的に(自宅に帰ってからテツヤと火神は)セックスをするに至り、性的満足を得た(とテツヤが話していた)」
もうやめて! すでに赤司くん以外の関係者の精神力はボロボロです!
ひえぇぇぇぇ……せっかく降旗くんの誤解を解いたところだと言うのに、また上塗りしちゃってくれましたよこの駄目男! ど、どど、どうするんですかこれ、もう収拾つかないんじゃないですか?
「今朝きみが泣きながら語った内容について(もしかしたらきみがついにセックスで反応するようになったのではないかという期待と)疑問を覚えた僕は今日ここを訪ね、昨日の出来事の詳細をテツヤから聞いた。きみは昨日テツヤとセックスをし(未遂に終わっ)たそうだが、その結果(すなわちテツヤの手管をもってしてもきみがたたなかったこと)を僕は大変残念に思っている。僕はきみの本心と行動について(きみは本当は僕とセックスしたくないのに何らかの理由で応じているのかもしれないという)疑念を感じ、テツヤと火神に相談した次第だ。テツヤ(と玲央)の指摘によれば、僕はもしかしたらこれまで感じたことのないような(恋愛感情という名の)感情をきみに対して抱いているかもしれない。この件について僕は冷静に自分を見つめ、また考えなければならないと思った。そのため今日半日、テツヤたちの知恵を借りここに邪魔をさせてもらっていた。テツヤは僕より(恋愛)経験豊富ゆえ、さまざまなアドバイスによって僕に(恋愛シミュレーションゲームの)手ほどきをしてくれた。午前中は付きっきりで見ていてくれた。まったく僕はよい友人を持ったものだ。礼を言うぞ、テツヤ」
いや――――――っ! ご、ごごごごごっ……誤解っ……誤解されちゃうっ! 僕が赤司くんとアハ~ンとかウフ~ンなことやらかしたって思われちゃう! やめて! 僕は火神くん一筋ですから! 間違っても宇宙人と合体なんてしませんから!
赤司くんが次々と投下する爆弾に僕と火神くんは頭を抱えて悶え苦しみました。一方降旗くんはショックが大きすぎるのか、完全に凍りついています。そりゃそうですよ、つい数時間前に赤司くんへの恋心を自覚したばかりだというのに、その赤司くん本人から容赦なく銃撃を浴びせられているんですから。
「光樹、ここで顔を合わせることになるとは思わなかったが、ちょうどよかった。きみに告げておきたいことがある」
何を言う気なんですか。もう悪い予感しかしません。むしろ確信に近い勢いです。
「な、なに……?」
「光樹、僕は一度きみから距離を置こうと思う」
「えっ」
「頭を冷やし、冷静に物事を処理し理解するための時間が必要なんだ」
「せ、征くん……?」
冷却期間を設けようとか、もうこれ完全に別れ話の文脈ですよね!?
いえ、赤司くんの立場で解釈すると、『きみに対して恋愛感情があるのか否か見極めたいので考える時間がほしい。ついでに恋愛についての学習を進め、見聞を深めたいと思う』ということになるでしょうから、別にネガティブな提案ではないと思われます。ただ、この流れで降旗くんに真意が伝わる可能性はゼロでしょう。常識的な読解力で読み解ける代物ではありません。テレパシーが必要なレベルですよ。
「きみはテツヤと火神に用事があるということだったな。ならば僕はこのあたりでお暇しよう。邪魔をした、テツヤ。今度は彼の力になってやってくれることを願う」
赤司くんはちらりとこちらを振り向くと、軽く手を上げて挨拶をし、我が家を辞そうとしました。
「ま、待って! 征くん!」
降旗くんが縋るように赤司くんの腕を引きます。
「……すまない、光樹。あまりきみと顔を合わせていたくない。昨日の二の舞になりそうだ」
赤司くんの表情は見えませんが、声には耐え忍ぶような響きがあります。まあ、何を耐えているかって降旗くんへの性欲だと思いますけど。もっとも降旗くんにとっては昨日の二の舞=征くんを怒らせちゃった! という認識になってしまっていることと思われます。どんだけ意思の疎通が取れないんでしょうねこのふたりは。間に入って通訳をしたいところですが、なんかもう割り込める雰囲気でもありません。いま僕が下手に口を挟んだら、降旗くんの目には僕が赤司くんをかばっているか自己弁明をしているようにしか映らないと思うのですよ……。
「せ、征くん……」
「それでは」
スマートな挨拶で去ろうとする赤司くんですが、いかんせんパンイチなのでまったく締まりません。……パンイチ?
「おい待て赤司!」
「火神?」
「てめえ、パンツ一枚で外出るつもりか!?」
僕より先に火神くんが事の重大性に気づき動きました。そうです、このひと、服もなければ荷物も持っていません。
「問題ない。一刻も早くここを立ち去ることのほうが優先順位が高い」
「服のほうが優先順位高いわっ! ご近所で変な噂が立ったらどーすんだよ!」
そうですよ、僕たちの部屋から変質者が出てくるところを目撃したとかいうひとが現れたらどうするんですか。あとあの大量の恋シミュもなんとかしてください。パソコンまで忘れていく気ですか?
このあと赤司くんと火神くんはしばし噛み合わない問答を続けることになりました。赤司くんは冷静そうに見えてどこか焦っている印象でした。おそらく降旗くんに性欲を刺激されくらくら来ていたのでしょう。僕はその間に赤司くんの荷物をまとめるべく自室へ向かいました。通過したリビングには新聞紙が敷き詰められ、大きさのまちまちな漢字が並ぶ半紙や筆ペンがローテーブルに散らかり、ソファの影に脱ぎ捨てられた衣類が落ちていたので、彼がここで写経をしていたのは間違いないと思われます。何を悶々としていたのでしょうか……。まさか、姿は見えずとも降旗くんの気配に性欲を刺激されて……? やっぱり降旗くんは赤司くん限定のフェロモンを撒き散らしているのでしょうか。まあ考えても仕方ないことなので、僕はさっさと衣類を拾い荷物を回収し、玄関へ戻りました。火神くんに赤司くんの着替えの説得を任せると、僕は小金井先輩と協力し、降旗くんをダイニングへと連れて行きました。赤司くんの視界から降旗くんを消したほうがいいと判断したためです。降旗くんは魂が抜けてしまったかのように呆然とし、もはや涙を流す気力さえ残っていない様子です。かわいそうに……。
宇宙人め、なんてことをしてくれたのでしょうか。一難去ってまた一難どころか、問題が解決する前に別の問題が舞い込んできます。むしろ前の問題がさらにこんがらがって解決困難に陥っています。どうしてくれるんですかこの複雑怪奇な現状。火神くんのがんばりによって一応嵐は通りすぎてくれたのですが、引き続き天気は雨模様のようで、気の早い秋雨前線が我が家に訪れる予感がします。