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『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

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思い出にかわるまで SS1-6(青峰)

 テツの家から帰った後、さつきは俺の部屋に来て、もし次に会うつもりがあるのなら、と前置きしてから話をはじめた。俺はもちろんまたテツのところを訪れようと思っていたので、おとなしく耳を傾けた。
 帰りの車内でも言われたし、俺も予想はできていたが、テツはまず間違いなくこの日俺に会ったことそのものを忘れているだろうと、改めて念押しされた。今後テツに会うとき、はじめてのふりをする必要はなく、いままですでに会ったことがあるとか、テツの病状をどの程度知っているかとかについては、正直に本人に話していい、むしろそのような情報はこちらから提供するべきだということだった。覚えていないことをテツ自身に考えさせるのはあいつにとって負担になるし、思い出そうとしても思い出せないことに焦り、混乱を招きかねないからだ。さつきが気にしていたのは、次のことそのものよりも、今後も三回、四回とテツに会っていくとしたら、という点だった。会うたびに同じ説明をしなければならないこと、毎回ではないにしても、すでにしたことのある話が何度も出てくるであろうこと、それらがテツにとっては新しい情報になること……そして、会う人間は根気よくそれらを繰り返さなければならないこと。回数を重ねるごとに次第に苛々するかもしれないが、テツの前でそれを出してはいけないし、理想を言うなら、同じことを話し続けることを苦痛に思わず、苛つかない姿勢が大切だとさつきは説いた。テツは駄目になってしまった能力もたくさんあるが、障害されていない機能ももちろんあり、聡いところは残っているらしい。もし自分の現在の病状のため他人に不快感を与えていると察すれば、テツの性格では罪悪感を抱いてしまう。それはテツが自分の心身に否定的な感情をもつ原因になり得る。テツの負った傷は非可逆なもので、もう元の体を取り戻すことはできない。たとえどれほど嫌だと思っても、あいつは障害を受けた頭と体でこの先生きていかなければならない。容態が落ち着き、もっと病識が出て来れば、いまより自分の状態に悩む日が訪れるかもしれない。しかし、最終的に受け入れるしかない以上、ネガティブな感情を増大させ、受容へ至る道中を闇雲に長く険しいものにするのは避けたいということだろう。
 また、さつきにはもう少し長いスパンでの話もされた。俺が今後どういう進路を選ぶかは確定されていないが、この先また日本に帰って来てテツと会う機会があったとしても、そのときにはあいつは大人になった俺のことをまったく覚えていないだろう、と。積み重ねた時間が海辺につくった砂の城のように消えている、すべてがゼロに戻る。そのどうしようもない遣る瀬無さを呑み込む覚悟が必要だ、と。
 さつきの口調は説教臭くもなければ、御高説といった響きもなかった。それは、さつき自身の経験から出てきた言葉だったのだろう。さつきはこれまでいまの自分を何度も何度もテツに忘れられ、そのたびに向き合ってきたに違いない。
 さつきの言う覚悟が、俺にできるのか。正直なところ、迷いなくうなずける自信はなかった。まだ一度しかテツに会っていなくてあいつの状況を十分に把握できていなかったし、自分が医療や障害の知識に詳しくないこともあり、もしかしたらこの先テツは治ることもあるんじゃないかという期待も、心のどこかにあったと思う。
 さつきも一度は通った道だということか、あいつは俺の困惑などお見通しのようで、答えをせっつくようなことはしなかった。また、俺が自分の感情をとらえきれずうだうだしながらも、テツに会いに行こうと思うと言っても、止めなかった。幾度も聞いた注意事項と段取りをつけるから少し待ってという言葉を返すだけだった。
 テツははっきりと記憶に残せないながらも、顔を出す頻度が比較的高いためか、さつきが自分によくしてくれているとわかるらしく、信頼している様子だった。俺はこちらでは講義に出る必要がなかったし(アメリカでの活動についての報告や体験談みたいなのはかなり書かされたが)、さつきはすでに単位を大方取っていて授業が少なかったので、平日にテツの家に行くことも可能だった。その後もさつき同伴でテツに会うことが何度かあり、テツは返答や説明に困るとさつきのほうを見て助けを求めた。子供が母親に助けてとシグナルを送るように。逆にさつきが席を外して俺とふたりで残されると、テツはわずかにそわそわしていた。慣れの違いもあるだろうが、女のさつきと男の俺だったら明らかに俺のほうが威圧感があるから、怖いとまでいかなくても落ち着かない気持ちになるのはわからないでもなかった。あるいは、テツの中には俺へのわだかまりがあったのかもしれない。中学時代の話は何度もしたが、学年が上がるとあいつは少し顔を曇らせ、話しにくそうにしたものだった。言葉に詰まってしばらくうつむいたあと、俺の顔を見上げ、俺がすでに大人になっていると再認識すると、あいつは決まってこう尋ねてきた。いまもバスケやってるんですよね、楽しいですか、と。
 虚弱と言ってもいいような体のテツだったが、長時間の会話による精神的な疲労よりは、リハビリがてら外を歩くといったような単純な身体の運動のほうが、感じる負担が少ないようだった。さつきの提案で三人で連れ立って、昼下がりに目的もなくテツの家の周辺を散歩することもあった。テツは昔のことは覚えているので、自宅のあたりの地理はわかっていた。ただそれでも、記憶以外の問題により道に迷ったり、そもそも自分がなぜ外を歩いているのか忘れて混乱する可能性があるので、まだひとりで外出するのは難しかった。もちろん公共交通機関を利用することはできず(降り損ねたら大変なことになるしな)、行動範囲は狭かった。テツが再びバスや電車に自力で乗れるようになるまでには、もう少しの回復と、それなりのトレーニングが必要だったようだ。
 俺は最初、さすがに散歩なんて退屈じゃないかと思ったのだが、テツは表に出られるだけでも嬉しいようだった。不安定な足取りでのろのろ歩くあいつに合わせ、俺たちはゆっくりと歩を進めた。転んだり何かにぶつかったりしないか注意を払ってやる必要があるため、ただの散歩とはいえ、意外と気を遣った。ここ数年の記憶がないといっても、その程度の年月で街並みががらっと変わることはないので、昔から知り慣れた場所を見ていくのはあいつにとって安心の材料ようだった。自分の足元を確認するようなものだろうか。それでもいくつかの民家や店舗は変わっているものもあり、見かけるたびに、ちょっと驚いたような反応をして、俺やさつきに報告してきた。毎回同じところで同じ反応を繰り返す。ああ、記憶が消えるってこういうことなのか。俺は段々と実感してきた。前を歩くあいつの薄い肩を見てはなんとも苦い気持ちになったが、同時に、甥か年の離れた弟でもできたような気分で、奇妙な話だが微笑ましくも感じた。悲劇には違いないのだろうが、少々子供返りしてしまったかのようなテツは、大人になった俺たちの目にはひどく純粋に映り、確かにかわいかった。
 アメリカに戻る日が近づき、カレンダーを眺めながら、あと何回テツに会えるかと考えた。今回の母国滞在中、テツがいまの俺の存在をぼんやり認識できるくらいには、ちょくちょく顔を出していた。しかし、時間をおけば――次にまた日本に帰るときには、間違いなく最初からやり直しになるのは、耳が痛くなるくらいさつきに聞かされ、わかっていた。俺が日本を発つ日が迫っているということは、いまの俺に関するテツの記憶がリセットされる日が近いということだ。何もかも崩れ去る、いや、消えてなくなると思うと、テツに会うのに気が重くなることもあった。このまま二度と会わないほうが気楽なんじゃないかと考えたことも、正直あった。しかし、それを決意するに足る勇気もなかった。結局俺はなかば習慣か決まり事のようにテツのところへ足を運んでいた。
 俺はさつきが最初危惧したほど怒りを覚えなかった。病識が薄いせいでテツ本人があまり深刻そうではないように見えたというのもあるかもしれないが、俺自身、自分がどういう感情を抱いているのかよくわかっていなかった。ただ、テツのやつこれからどうなっちまうんだろう、と漠然と思った。ひょっとしたら、深層ではかなりあれこれ考えていたのかもしれない。しかし自分でわかる範囲では、俺はある種の思考麻痺に陥っていた。いまになって振り返れば、多分びびっていたんだろう。自分の行動がテツを傷つけやしないかと。だから、行動の動機となり得るややこしい思考を放棄したのだろう。……臆病者と笑ってくれて構わねえよ。
 さつきが授業のある日は、俺ひとりでテツの見舞いに行った。具体的な話の内容などは覚えていなくても、存在には慣れるようで、さつきがいなくてもテツはそんなに緊張しなくなっていた。幾度となくした俺のアメリカ暮らしの話をこの日もしたのだが、その後でふいにテツがバスケが見たいと言ってきた。したい、ではなく。見たいというのは、中高よりも上達した俺のプレイを見せてほしいという意味だった。テツがバスケで失望感を味わったことはさつきの話の中であったので不安はあったが、興味を失ってはいないことに少し安堵もした。俺はその場で了承すると、テツの母親に相談してから、倉庫に仕舞ってあるというバスケットボールを出してもらった。そこまで近所ではないが、テツの足でも十分往復できる距離に、屋外コートの設置された公園があるのでそこへ行った。黄瀬たちに付き添われてテツがバスケをしたのも、多分そこだろう。
 平日の昼過ぎという中途半端な時間だったので、人は少なかった。テツの家から最短距離で行ける公園の入り口は南口で、そこから北東方向へ突っ切ればコートに出る。俺は片脇にボールを持ち、テツと一緒に公園の中に入った。テツは入口の地面に刺さっている車両の進入を防止する金属のポールでこけそうになっていたが、軽く手を引いて誘導してやると避けることができた。
 元々の地形がなだらかな丘陵で、公園の北と南は少し高さに差があった。中ほどまで歩いて行くと、ちょっとした階段に差し掛かった。テツとはほぼ並行して歩いていたのだが、そこでふと視界の端からテツの姿が消えた
「あ? テツ……?」
 懐かしのアレかと一瞬焦ったが、振り返ればすぐに見つかった。テツは足を止め、うつむいていた。
「テツ、どうしたぁ?」
 うつむいたテツの足元を見ると、右足の前半分が階段の最上段から飛び出していた。左足はそれより後ろにある。
「あ……そういや下り階段、苦手だっつってたな。悪い、戻るか。ここ通らなくても迂回すりゃ済む話だし」
 テツが下方向への段差に苦労しているとさつきが言っていたのを思い出し、引き返そうと促す。が――
「や……!」
 俺が軽く肩を掴んで方向転換させようとすると、テツは細かく首を左右に振って拒絶した。
「おい、テツ?」
「あ……あ……」
 階段はせいぜい五段ほどで、一段あたりの高さもたいしてなかったのだが、いろいろと感覚が狂ってしまっていた当時のテツにとっては、もしかしたら絶壁から真下を見下ろすくらいの恐怖があったのかもしれない。テツは俺の指示を拒否しつつも、肩を持つ俺の腕を両手で思い切り掴んできた。
「テツ、大丈夫だ。回らなくていいから、そのまま後ろに退け。……退がれるか?」
「っ……! いや!」
 俺には何がそんなに怖いのかさっぱりわからないのだが、この時点でもうパニックのスイッチが入ってしまったらしく、テツは右足を一歩後ろに引くことさえできなかった。恐怖で体が硬直しているため、少しでも外圧を加えられるとそのまま倒れ込みかねないこともまた、身をすくませる原因だったのかもしれない。どうするべきかと頭を悩ませている間にも、俺の腕を掴むテツの手の震えはひどくなっていった。この場から強引にでも撤退させたほうがいいかと、テツの体を抱えて戻ろうとしたが、足が地面から浮かせられるのが怖いようで、
「やっ……むり……やめっ……やめてください……!」
 半泣きになって拒んだ。膝ががくがくと震えていて、もう自力で体重を支えられず、俺の腕にしがみつくことでなんとか転倒をこらえているような状態だった。
「お、おい、テツ……。あー。くそ、どうすりゃ……」
 完全に膠着状態だった。身体能力から言えば俺が無理矢理テツを担いで運ぶことは可能だったが、それでさらに怯えさせたらこのあとテツがどうなるかわからないという恐怖があったので、その選択肢は取れなかった。腕を力ませる一方で、足にはまともに力が入っていないテツを見て、俺はその場で座らせることを思いついた。
「テツ、腰下ろせるか?」
 何を指示しても、恐慌状態のテツは頭を左右に振るばかりだったが、俺がゆっくり重心を下げさせ必然的に膝が曲がるようにすると、階段の手前でぺたんと座りこんだ。段差が見えないよう、テツの頭を胸に抱えた。テツの呼吸は荒く乱れていたが、過呼吸というほどでもなかった。俺はテツの後ろ頭を撫でながら、もう一方の手でポケットの携帯を取り出し、さつきに掛けた。講義の時間だったが、五コールほどでつながった。俺から電話をすることは少ないし、この日テツに会っていることは事前に伝えてあったので、時間帯的にテツ関連のコールだと踏んだのだろう。
『大ちゃん? テツくんに何かあったの?』
「さつき。悪い、いまテツと外に出てたんだけど、階段のとこでパニくっちまって……なんとか座らせたけど、ちょっと動かせそうにない。抱きかかえようにも、他人に力加えられるのが怖いみてえでよ」
 さつきは、何やっているのよ、というような叱責は言わず、状況と場所を俺に説明させた後、テツが落ち着くまで動かすなとかいくつかの指示を出し、すぐにこちらへ向かうと言って電話を切った。
 しばらくしてテツの震えが治まった頃、声を掛けた。
「テツ、大丈夫か」
「あ、おみね……くん?」
「立てるか?」
 テツは不思議そうに俺を見た。記憶が消えるほどの時間は経過していなかったが、パニックの発生と消失で、状況が呑み込めていないようだった。階段のこともいまなら忘れているかもしれない。そう考え、俺はテツの前方の視界を自分の体で塞ぎ、適当になだめすかして方向転換させ、テツの体を支えながら公園の中央を貫く通りの片端に移動した。
 ベンチに並んで座ると、テツは自分のズボンの膝上を握りながらうつむいた。
「青峰くん、僕……。すみません、迷惑かけちゃって。階段降りるの、怖いときがあって……。なんででしょうね、体はそんなに動かないわけじゃないのに……」
 先刻の状況を思い返せる程度には落ち着いたようだった。しかし、それゆえ少し落ち込んでしまっていた。自分で思うよりも自由の利かない体を情けなく感じるのだろう。身体機能からすれば段の昇降は可能だが、それ以外の問題のためにできない。テツはまだ、そのことがよく理解できていなかった。理由がわからないため、余計にもどかしいのだ。
「いまは大丈夫か?」
「はい……」
 テツはなおもうつむいたまま大きなため息をついた。しょんぼりという擬音が聞こえてきそうな姿にいたたまれなさを覚えたが、ふとそこで思い出した。
「あ、ボール……。テツ、このままちょっとだけひとりでいられるか? おまえのボール、さっきのとこに置きっぱになってる」
 テツをここに連れてくるには体を支えてやる必要があったので、階段のところにボールを放置していた。俺が腰を上げ掛けると、
「はい。あ……いえ、あの……」
 テツは一度うなずきかけたものの、俺の腕を掴んで引き留めてきた。
「テツ?」
 掴まれた腕を見下ろす。テツの手はまだ少し震えているようだった。
「あの、すみません……もう少し一緒にいてもらえませんか。もうちょっとしたら、治まると思うので」
 まだ恐怖感が引き切っていない状態でひとりにされるのは心細いらしい。俺が再びベンチに腰を下ろすと、テツはとろい動作で俺のほうに体を寄せ、体重を預けてきた。どこかに行かれるのを防ぐように、テツは両手で俺の左腕を掴んでいた。
 そのままさつきの到着を待っていたのだが、いつの間にかテツは眠ってしまっていた。短時間だがパニックを起こしたため、精神的に疲れただろうし、体も緊張していたのだろう。糸が切れたみたいに弛緩して俺にもたれかかってきた。眠ってしまったなら背負って帰ることもできたが、途中で覚醒されると厄介かと思い、待機を続けた。
 その後さつきから位置を確認する電話があり、程なくして合流した。さつきは車で迎えに来たので、俺がテツを抱いて車を停めてあるという場所まで運んだ。何かと目立つ格好なので仕方がないが、公園にぽつぽつといる高齢者や子連れの母親たちの視線が少々痛かった。俺は何も言わなかったが、ボールはさつきが回収した。俺の腕の中で、テツは手足を重力に引かれるがままだらりと下ろし、完全に脱力していた。寝顔には憔悴の翳が落ちていたが、苦しそうではないことに少しだけほっとした。
 テツを抱いたままさつきと並んで近くのパーキングまで歩く道すがら、俺はばつの悪い思いで言った。
「悪ぃ……テツを怖がらせた」
 叱られるかと思ったが、さつきはふるりと首を左右に振った。
「仕方ないよ。どういうときにどんな反応するかって、ちょっとやそっとじゃわからないから。心配しなくても、起きたときにはテツくん、何があったのかよく覚えてないと思う」
「そうか……」
 事故後のテツは体が変わってしまったようなものなので、どんな感覚で生きているのかは本人にしかわからない。俺たちには想像ができない。さつきも似たような失敗をしたことがあるらしい。テツをもっとも苦しめている忘却の力が、皮肉にもこういう場合にはプラスに働く。起きたらテツくんけろっとしてるよ、というさつきに言葉に俺は安堵しつつも、そう思うのは本当はよくないことなのだろうと思った。もちろんさつきだってそれはわかっているだろう。けれどもいまのテツの本質を理解しようがない俺たちにとって、ときにそう感じてしまうのは仕方がないことかもしれない。
 次にテツに会ったのは、俺が再び日本を発つ前日のことだった。それは、テツがいまの俺を認識できる最後の日ということだ。何か月先、何年先になるのかはわからないが、この次はまた最初からになる。いろいろと思うところはあったし気も重かったが、結局さつきとの約束通りテツの家に行った。明日アメリカに行く、と伝えると、テツはびっくりしながら、留学ですか、すごいですね、と返してきた。留学というのはそのとおりなのだが、テツの言い方は、俺がはじめて渡米すると思っている様子だった。どうせ今日を最後に忘れるのでそのまま勘違いさせておいてもよかったが、なんとなく騙しているような気分になりそうだったので、それとなく正してやった。テツは不思議そうにきょとんとしていたが、すでに繰り返した説明を俺がまたしてやると、特に混乱もなく、ああ、そういうことなんですか、とうなずいた。なんとなく聞いた覚えがあるということなのか、単に俺の説明にその場で納得したという意味なのかはわからなかった。
 前回の約束が果たされなかったことを覚えていたわけではないだろうが、テツはまた、バスケが見たいと言ってきた。今度はさつきと三人で、ボールを持ってこの間の公園まで歩いた。同じ失敗をしないよう、なだらかな坂を上がってコートまで迂回した。時間帯が微妙なこともあり、運よく先客はいなかった。
 コートに入ると、さつきはフェンス際でテツを地面に座らせた。テツはフェンスを背もたれの代わりにして、緩い体操座りをした。バスケをしているところを見たい、と言われたものの、具体的に何を見せればいいのか、思案に暮れた。単にひとつひとつの技を見せればいいのか、組み合わせや応用がいいのか、イメージトレーニングのようなことをやったほうがいいのか。テツの性格からすると、聞いたら「全部お願いします」と言ってくるんだろうな、と思いつつ本人に確認した。予想通りの答えがそのまま返ってきた。ただし少しだけ注文が増えた――中学のときの、僕の知っている青峰くんと、いまの、僕の知らない青峰くん、両方見せてください。
 俺はリクエストに応えたが、テツの追加注文については前者のほうが難しかった。昔の技術水準の再現は、たとえそれがいまより低いレベルのものであっても、簡単ではない。自転車に乗れる大人が、幼少時に補助輪を外したばかりの自転車に乗ったときの運転の仕方をもう一度やってみろと言われても、できないだろう。難しい注文つけやがって、と思いながら、俺は記憶を頼りにできるだけ昔のプレイを再現しようと試みた。どの程度成功したかはわからない。ただ思ったのは、いまの俺が再現した昔の俺と、テツが知っている俺は、仮に似ていたとしてもまったくの別物だろうということだ。技術力や経験だけでなくフィジカルも違うのだからそれは当然だ。
 やろうと思えばいくらでも続けられたが、テツの集中力と記憶の持続時間を考え、十五分程度で切り上げた。俺がボール片手にフェンスに寄ると、お疲れ様ですと言ってテツがペットボトルを渡してきた。汗らしい汗は掻いていなかったし喉の渇きも覚えなかったが、何も言わずに受け取り、一口だけ飲んだ。
「さすがですね。すごいプレイでした」
「プレイも何も、ひとりで踊ってただけだぜ?」
「それでもすごいのは十分わかりますよ。中学の時でさえ極まってた感じなのに……やっぱり青峰くんはすごい人です」
 皮肉なのかただの感想なのか、淡々とした声からは読み取れなかった。目を細め、テツは遠くを見た。
「僕もいつかまたバスケできるようになったらいいなって思っています」
「……そうだな」
「気持ちだけは元気なので、いますぐにでもきみにパスを出したいくらいです。もっとも――」
 と、テツが腰を上げる。立位から座位、あるいはその逆のように体勢を大きく変えるとき、椅子にせよテーブルにせよ壁にせよ、テツはたいてい腕で支えをつくるようにしていた。だがこのときは、どこにも掴まらず、そのまま立ち上がろうとした。一応このくらいの動きはできるのかと思った矢先、体がぐらりと揺れ、フェンスのほうへ傾斜した。勢いは付いていなかったので、フェンスがかしゃんと小さな音を立てるだけで済んだ。テツは右半身をフェンスに預けた状態で俺を見上げた。
「――こんな感じで、体勢の急な変化にさえ対応できないんですけど」
「テツ……」
「ボール、ください」
 テツは両手を俺のほうに突き出しそう求めた。ほらよ、と言って俺はボールをテツの手の平に乗せた。テツはボールを両手で持ったまま、何歩か歩いてコートの中央付近まで移動した。立ち止まったところで右手だけでボールを支え、地面に軽く叩きつけ、バウンドさせた。あまりに拙い動作のため、ドリブルを試みていると一瞬わからなかったくらいだ。単に取り落としたように見えたから。園児の毬つきのような動きは、二回目にして止まってしまった。バウンドしたボールを捕え損なったためだ。球を見ていないのではないかと疑いたくなるくらい、タイミングがまったく合っていなかった。テツは転がっていくボールを目で追うと、安定感を欠く足取りでコートの外に小走りで――実際はかなり遅かったが――出ていった。ボールを回収すると、今度はゴール下に立った。
「少し、おつき合いいただけますか」
 そう言って、テツは俺に視線を投げ、続いて先ほど自分が立っていた場所を見た。そこへ行け、という意味か。テツが何をしたいのかはだいたい察したが、いまのテツでは距離が遠すぎないかと思った。しかし、指示どおりに中央へ立った。テツは昔と変わらない、まばたきの少ない大きな目で俺をじっと見た。声掛けもなく、ボールを投げる。いったい何の競技なのかと思ってしまうような、おかしなフォームで。そのとき、左半身の動きに制限があることがなんとなくだがわかった。ボールは当然のように途中で落下し、小さく跳ねて明後日のほうへ転がっていった。
「すみません、もう一度」
 テツは自分でボールを回収すると、その位置から俺のほうへボールを投げた。パスのつもりだろうが、荷物をぞんざいに投げているような、力の入らない崩れた動作だった。もちろんこれも届かない。今度は俺の足もとにボールが来たので、拾って渡してやった。俺から投げなかったのは、どんなに取りやすく加減して球を出しても、場合によってはバランスを崩させ転倒させてしまう可能性を恐れたからだ。テツは何も言わずにボールを受け取ると、また少し距離を取ってから、投げてきた。そんな一方的なパス出しが何度も続いた。途中からさつきが無言でボールを回収し、テツに渡すようになった。多分、二十回ほど繰り返したと思う。テツのパスが俺のもとに届くことはなかった。テツはある程度の距離を飛ばすことを意識していたようなので、勝手に動いていいものか迷ったが、比較的飛距離が出た球があったので、俺は即座に前方へ移動してボールを掴んだ。それだけが、テツから俺の手に渡ったパスだった。テツはなんとも形容しがたい表情で、静かに俺を見つめていた。薄く微笑んではいるのだが、いまにも泣きだしそうに見えて仕方なかった。
 テツが近づいてきて、再び手を伸ばした。俺がボールを差し出すと、テツは両手で受け取り、胸の前に持った。
「せっかく青峰くんがまたバスケ楽しいって思ってくれるようになったんだから、僕も一緒にできたらいいなって思ったんですけど……駄目ですね、僕は。パスひとつ……出せる気がしません」
 ボールを額のあたりまで持ち上げると、テツはその影に隠れるように顔をうつむけた。
「テツ……」
「……すごく下手でしょう? 青峰くんのところまで、全然届かない。手を抜いているわけじゃないんです。ふざけているわけじゃないんです。やる気がないわけでもないんです。ただ本当に……本当にできないんです。できなくなって、しまったんです……」
 感情の揺れがそのまま音声に現れていた。小さな声なのに、いやに耳の奥まで大きく反響して聞こえた。
「すみません、青峰くん、僕……バスケ、できなくなっちゃいました」
 そう言ってテツは、俺にボールを返した。顔は地面を向いたままで、表情ははっきりとわからなかった。腕を伸ばせば簡単に届く距離なのに、俺は身動きできず、ただテツから渡されたボールを持って立ち尽くしていた。テツの胸に横たわる取り返しのつかない喪失がどれほど大きく深いものなのか、俺ははじめてその片鱗を見せられた気がした。呆然とする俺の視界には、いつしかさつきが映っていた。さつきはテツの肩を抱き、疲れたでしょ、そろそろ帰ろう、と促した。
 帰途ではほとんど無言だったテツだが、ボールを仕舞い込み、夕飯を食って風呂を終える頃には(俺たちもテツの家で飯を食わせてもらった)けろっとしていた。寝間着に着替え、ぺたんと床に座るテツの頭をタオルで拭いてやりながら、俺は改めて、翌日日本を発つ旨を伝えた。テツは首を傾げながら、アメリカでもバスケをするんですかと聞いてきた。細かい説明はせず、そうだとだけ答えると、テツはあいつにしてはわかりやすい笑顔で、それは楽しみですねと返した。その純粋な、あるいは単純な表情を前に、俺は顔を見るのも見られるのもいたたまれなくなり、テツの肩を抱き寄せ、水分を含んだ頭髪に鼻先を埋めた。
 ――ああ、楽しみだよ、すげー楽しみだ。
 ささやくように言うと、テツは俺の背に手を当てて、はい、青峰くん、とだけ言った。
 テツがバスケを完全に回避するようになったという話をさつきから聞いたのは、俺がアメリカに戻ってしばらくしてからのことだった。
 俺はその後アメリカで生活する期間が長くなり、日本へはたまに帰省する程度になった。滞在期間の長さにもよるが、たいてい、少なくとも一回はテツの顔を見に行った。さつきの予言どおり、テツはいつも大人の俺を忘れていたが、年月が経って病状が安定してくると、事故後に俺に会うのがはじめてでないことを、推測するようになった。それでも情報は常に抜け落ちてしまうので、どういう経緯で現在までやってきたのか、毎回説明した。高校の記憶が回復し病識が定着してくると、テツの態度や反応に多少の変化が見られるようになった。しかしテツがバスケを見せてほしいと言うことは、二度となかった。

つづく

 

 

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