しゃべりすぎて喉が渇いたと言って、さつきが席を立った。俺もあまりの情報量に頭がくらくらしてきたところだったので、ブレイクを入れることにした。粉末の緑茶を水で溶かしただけの液体で口内を湿らせながら、半時間ほど沈黙していた。さつきは喉を、俺は頭を休ませるためという明確な理由のある沈黙だったので、別に気まずくはなかった。
俺の出来の悪い脳みそには休息を取らせる必要があったのだが、俺はさつきが語った言葉の数々を断片的に反芻するのを止められなかった。圧倒的な衝撃の前に、最初の頃の怒りはすでに鳴りを潜めていた。とはいえ、知らない間にテツの身に降りかかった数々の困難を思うと、別の種類の怒りが胸のうちに宿るのを自覚した。なんていうんだろうな、すげえ理不尽だと思った。事故にはテツの過失もあったのかもしれないが、だからってこんな……。怒りの矛先がなかった。さつきは俺よりずっとそんな気持ちを味わい続けてきたからこそ最初にああ言ったのだと、ここにきて理解できた気がした。……おまえは悔しさを感じたのか。ああ、そうだな、多分俺もそう感じた。ただあのときは、動揺しすぎてかえって鈍くなっていたのか、自分の感情に貼れる適切なラベルを見つけられずにいた。おそらく誰もが思うだろう、どうしてあいつがあんな目に遭わなきゃならないんだって。
俺が何も知らずに好きなことをやって充実した時間を過ごしている間に、あいつはどれだけの苦しみを経験したのか。比較したところで誰かが得をするようなことではないが、どうしてもその思いを払えなかった。テツはいまどうしているのか、後遺症を抱えた身で何を思っているのか、ぼんやりと考え出した。何の気はなしに時計を見やると、そこそこの時間が過ぎていたので、俺はまた口を開いた。
「さつきが言ってたテツの記憶障害だけどよ、それって、たとえば今日俺らが見舞いに行ったとしても、明日には忘れちまってるってことか?」
テツが現在まで苦しめられている症状の最たるもの――記憶障害について、俺は掘り下げて聞くことにした。まあ、こんな質問をしたということは、この時点での俺の認識は現実より甘かったということだな。
さつきはグラスをテーブルに置くと、ふう、と小さくため息をついてから答えた。
「明日どころか、だいたい三十分後には、全部忘れてる」
「三十分!?」
さつきに示された数字は、想像以上に小さかった。三十分……ドラマ一本より短い時間じゃないか。
驚く俺の顔を、さつきがつらそうな目で見てきた。
「うん……せいぜいそのくらいしか記憶を保持できないの。私がお見舞いに行ったとして、お久しぶりってお互いに挨拶するでしょ。で、ちょっと入用があって買い物に出かけて帰ってくると、もう一回、テツくんからお久しぶりですって挨拶が飛んでくるの。ふざけてるわけじゃないよ。テツくんにとっては、一回目の私も二回目の私も本当に『お久しぶりです』な存在なの。ただ、きれいさっぱり忘れるわけじゃなくて、さっき会ったよってこっちから言うと、そういえばそうでした、みたいな顔をするの。でも、その『さっき』がどのくらい前なのかは、多分本人はわかっていないと思う。指摘されたからそんな気がしちゃうだけなのかもしれないし」
「それだけひどい症状に、なんでなかなか気づかなかったんだ?」
「意外とわからないみたい、そういうのって。覚醒してからしばらくはぼうっとしてたから、そもそも反応自体少なくて、判断材料がないでしょ。動けるようになってからも、テツくん、お母さんや病院のスタッフの指示にはちゃんと従ってたし、言われることはだいたいわかってたみたい。体のリハビリもそんなに長時間には及ばないし、その場その場のやりとりは成立してたみたいだから、症状が見えにくかったんだと思う。本人の意識がはっきりして、発話が増えて、脳機能の検査がいろいろできるようになってから発覚する症状って結構あるらしいよ。テツくんの場合は、お母さんとの会話の中で、変なところがちょくちょくあるってことにお母さんが気づいて……それで別のタイプの記憶障害があるってわかってきたんだけど」
さつきの言い方から、テツも目的の違う複数の検査を受けたのだと読み取れた。その中で見つかった異常がひとつやふたつではないだろうことも。
「ってことは、ほかにも症状があるのか」
「うん……私もよく理解できていないところがあるからうまく説明できないと思うけど……かなりいっぱい問題があるってわかったみたい。身体のほうも、大丈夫そうに見えて、中枢神経由来の障害がいろいろあったし」
「麻痺は軽かったっつってたけど、やっぱ動きに制限とかあんのか?」
「そうだね。歩行そのものはできるんだけど、段差は駄目かな。一段二段程度ならいいんだけど、階段みたいに明らかに下のほうに下っていくような構造だと、すごく怖く感じるみたい。バランス感覚も悪くなってて、普通に立っててもなんか不安定で、見てるの怖いときがある。私にはよくわからないんだけど、見る人が見れば、左半身が右に比べてまだ少し動きが少ないってわかるみたい。リハビリの療法士さんとか、専門じゃないけど赤司くんはわかるって言ってた。麻痺はほとんどなくなったんだけど、認知上の問題があって、左側を動かすことに意識がいきにくいんだろうって」
赤司はあの性格でなければ医療職が天職なのかもしれない。あの性格ですべてが相殺されているというか、むしろ適性がマイナスに落ち込んでいる感じだが。……って火神、そこまでびびらなくてもいいだろ。何を想像したんだ。まあ、気持ちはわからんでもないが。
俺はまだ事故後のテツの姿を見ていなかったのでさつきからの情報で想像するしかなかったのだが、足を引きずって歩いているのだろうかとか、何らかの歩行補助器具が必要なのだろうかと、勝手に思い描いていた。
「んじゃ、バスケは無理か」
きっと無理なんだろうとの予想のもとで尋ねたのだが、声に出してみると、なぜか胸が苦しくなった。
「あー……無理だね、それは。そもそも走れないし、急な方向転換も厳しいし、その場でジャンプさせようとするだけで泣いて怖がるくらいだし」
テツは前後左右といった水平方向の移動にはそれほど苦労しないが、昇降のような上下の動きを苦手としているとのことだった。ちょっとした段差を降りるときでも落下感に襲われるとか。これ、改善はしたと思うけど、いまも残ってるだろ? あ、やっぱおまえも失敗したことあるか。テツのやつ、俺たちとは感覚が質的に変わっちまってるのかもな。
まだ自分の体に異常があることをしっかり認識していない頃、テツは記憶障害の影響もあって、自分は部活でバスケをやっている学生だと思っていたらしい。説明されればその場では自分が交通事故で怪我を負って入院していることや体に障害が出ていることを理解するんだが、すぐ忘れちまってな……健康体のつもりで、バスケやりたがってたんだと。退院後に黄瀬と緑間がつき合ったというか付き添って、試しにやらせたはいいんだが、結果はまあ……。落ちたボールを拾い上げるときでさえ、バランスを崩して転びかけるような状況だったらしい(あいつらが同伴していなかったら転びまくっていたんだろうな)。それでもテツは、疲れきって動けなくなるまでボールを追いかけ続けたんだと。体力の低さからいってそんなに長時間ではないだろうが、ふらふらになって……自分の落ち切った運動能力を痛感するまで、むきになってやろうとしたって。それでも、どう足掻いてもまともに動けなくて、落胆したことだろう。あまり感情を表わさないあいつが、帰りはすっかりへこんだ様子だったってことだ。その後黄瀬がやっぱり大変なことになったらしいが、まあオチは見えているから黄瀬の話は省略な。緑間ご苦労さんとだけ言っておこう。けど、テツのやつな……それ以降もバスケをしたがったそうだ。というのも、本人は事故後の自分がバスケをしようとしてもできなかったことを覚えていないから。そうして、やるたびに自分に深い失望を感じ、その積み重ねで、ようやく自分がバスケのできない体になってしまったということを認めた……というか理解した。記憶力の極端に弱いテツが覚えちまうなんて、いったい何回同じ挫折感を味わい、強い失望に見舞われたんだろうな……。
「まあ、そりゃ無理だよな、交通事故で吹っ飛ばされたんじゃな……」
「うん……一見、ちゃんと自分の身の回りのことできてるように見えるけど、本当は、昔できてたこと、たくさんできなくなっちゃってる。私、それに気づくたびに、事故前の健康だった頃のテツくんの姿と比べちゃって……こういうこと思うのはよくないのかもしれないけど、でも、悲しくなる。一番つらいのはテツくんなのにね。昔の自分覚えてるから、自分でも比べちゃうんじゃないかな。しかもテツくんは一回一回の出来事を記憶できないから、何度も同じことを、同じつらさを体験してるのかもしれない。そうやって何度も繰り返し自分ができないことを体験して……自分が何ができなくなったのか学習して、理解するようになっていくんだと思う。悲しいよ……」
俺たちの間に常に共有されていたバスケットボール。それがあいつからは失われた。この日さつきから聞いた話はどれもこれも沈痛なものばかりだったが、とりわけこれはきつかった。……あ? なんだよ火神、あとでテツの部屋行ってみろって? おまえに言われなくても行くっての。……ああ、わかった、続けるぜ。
どんより立ち込めた雨雲のような雰囲気を払うためか、さつきがほんの少し明るい表情をつくって見せた。
「あ、でもね、昔の記憶は結構回復してきていて、いまは中学時代のことはかなりしっかりしてるかな。私たちのことも、わかってくれるよ」
「……俺も?」
さつきの言う「私たち」には俺も含まれているだろうとは思ったが、不安でつい聞いてしまった。
「もちろん」
「そうか……」
俺は多分、露骨にほっとした顔をしたことだろう。さつきは少し間をおいてから、俺の顔を覗き込んだ。
「あのね、大ちゃん、テツくんが中学の交友関係の中で一番最初に思い出したの、大ちゃんなんだよ」
「え……」
「古い記憶のほうがはっきりしてるから、火神くんとか誠凛の人たちよりも、帝光の頃の記憶のほうが早く回復してきたの。当時仲の良かったメンバーで、事情を知っている人たち何人かでお見舞いに行ったりした。一度にたくさん行くとテツくんを疲れさせちゃうから、実際に会うときはひとりかふたりだったけど。テツくんの記憶は十代で止まっているから、大人になった私たちを見ると、最初きょとんとするの。でもまあ、そこまで顔が変わっているわけでもないから、すぐにわかってくれた。私も、恥ずかしいけど、テツくんに会うときはあんまりお化粧しないようにしてる。その点では赤司くんはお得ね、顔も背格好もあんまり変わってないから。本人の前では言えないけど」
ここで、テツの事故以前の記憶が完全には戻らないであろうことと、テツの自意識が十七歳であることを知らされた。いまも変わってねえよな、これは。本人も、実際には違うというのは理解しているんだろうが、意識の上ではやっぱり高校生だと思っているし、そう言ってくるだろ?
「最初の頃は私たちのことね、顔とか誰なのかっていうのはわかるんだけど、名前が全然出てこなくて、テツくんすごくショックを受けてた。不安定になってるときだと、ごめんなさいごめんなさいって、ちっちゃい子供みたいに泣きながら謝ってきちゃって……かわいそうだった。私たちのほうが、すごく悪いことをした気分だった。でもね、私たちが下手にお見舞いに来ないほうがいいかなって思ってると、テツくんそれがわかっちゃうのかな、また来てくださいって言うの。いつか思い出せるかもしれないから、友達に会えるのは嬉しいからって……思い出せなくて苦しくて仕方ないだろうに、必死に言うの……。テツくんは新しいことを覚えられないから、毎回そんな感じになっちゃったな。でもね、中学時代の記憶がおぼろげに回復しはじめた最初の頃から、大ちゃんの名前は出てきてたみたい。私たちの顔を見ると、ほかに誰かいないのか探すみたいにきょろきょろして、それからちょっとがっかりした感じで、『青峰くんはいないんですね?』って……。ほかの人の名前は顔見ても出てこないのに、大ちゃんのことはいなくても思い出せたんだよ。それで、探してたの……。いないってわかったとき、すごく寂しそうで、不安そうで……でも、矛盾してるけど、どこか安心してたようにも感じられた。多分――これは私の推測にすぎないんだけど――テツくん、中学の途中で大ちゃんとぎくしゃくしちゃったこと、ぼんやりとでも覚えてたんだと思う。一応本人は自分を高校三年生だと認識してるんだけど、高校ときの具体的な記憶はまだあまり回復してないから、高校に上がってから大ちゃんと和解できたっていう確信がないんだろうな……」
さつきの説明を聞きながら、俺は呆然としていた。大人になってから振り返ると、思春期の行動なんてたいていろくなものではないのだが、これは最たるものだ。この話を聞いたときの俺は、いまよりずっと若かったが、それでも少年と呼べる時期はとっくに過ぎていた。だからこの時点で自分の十代を振り返っても、頭を抱えたくなったわけだ。それがただの思い出話で済めば、恥ずかしさに沈むだけでいいのだが……。
「テツ、俺は……」
自分がテツを傷つけたことはわかっていたが、いまもなおそれが続いていることになるとは、思わなかった。うなだれる俺の手を、さつきが上からかぶせるように握ってきた。
「大ちゃん……。大ちゃんが悪いわけじゃないよ。責めるつもりなんてない。仕方ないんだよ。もう解決したはずの問題が、こんなかたちで再燃するなんて、誰にも予想ができなかったし、誰かが悪いわけでもないんだから。ただ……いまのテツくんにとって大ちゃんはちょっとわだかまりがある存在なのかなって思うの」
「俺はあいつに会わねえほうがいいのか?」
らしくもなく弱気なトーンで聞いた。恐る恐る、と言ってもいいかもしれない。さつきはゆるゆると首を左右に振った。
「会ってあげて。テツくん、口に出しては言わないけど、会いたがってると思うから。後遺症のせいでいろいろ不自由になっちゃって、病院に長いこといて、大学でできた友達のことも忘れちゃって、高校のときのこともあんまり思い出せなくて……誰かに会っても全然覚えられなくて……寂しいと思うんだ。そんな中で、いま一番はっきり覚えて、会いたそうにしているのが大ちゃんなの。複雑だとは思うけど……会いたくないとは思ってないんじゃないかな。ううん、きっと会いたいんだと思う。大ちゃんを探すときのテツくんの目は、見つかったらどうしようって感じのものじゃなかったから。あれは……会いたい人を探してる目だと思う」
さつきの言葉は慰めに過ぎないのだろうが、嘘ではないと思った。俺がテツと会うことがテツにとってマイナスになると判断していたら、さつきはそう俺に説明しただろうから。
「高校の記憶は全部駄目になってんのか」
「ううん。回復はしてきているかな。まだあやふやなところも多いけど。誠凛の人たちの名前も出てきたりするけど、誰なのかわかってないこともある。部活の仲間なんかは結構覚えてるみたいなんだけど、その人たちとどういう出来事を経験したかってなると、いまのところ厳しいかな……」
「……火神は?」
ここでおまえの名前を出したのは……まあ、なんだ、やっぱり気になったんだよ。テツが自分を高校生だと思っているなら、高校の関係者で一番近しいのは火神、おまえだからな。
実のところ、おまえは当時のテツにとって面倒くさい存在だったらしい。……あ? 緑間にもそんなこと言われたって? まあしょうがないだろ。面倒だということは、重要だということでもあるんだしよ。今日ここに来てからテツの姿はちょっとしか見ていないが、ずいぶんおまえに懐いてる様子だったな。この一年で何があったのかは知らねえが……いまのテツがあれだけ信頼を寄せてるってことは、そういうことなんだろ。事故後のテツは、なんつーか、ひとり遠いところにぽつんといる感じだった。
「火神くんは……実を言えば、かなり早い時期に名前だけは出てきてた。でも誰なのかはさっぱりって感じだった。火神くんについては正直なところ、ちょっと厄介かもしれない」
「火神は確かアメリカだろ。あいつは知ってんのか」
「知らないと思う。少なくとも、私たちの間で火神くんに連絡を取ろうとしている人はいない。別に火神くんが何かまずいことしたわけじゃないよ。ただ、テツくんにとってはやっぱり思い入れのある人だろうから……。あのさ、テツくんに会っても、火神くんのことには触れないでくれない? テツくんが聞いてきちゃったらしょうがないけど、大ちゃんからは何も言わないようにして」
「火神のことで何かあったのか?」
「記憶がぼやけてるせいだとは思うけど、いろいろ混乱しちゃうところがあるみたい。火神くん関連は特に。そんなに最近じゃないんだけど、結構激しい錯乱状態になったこともあった。あ、いまのテツくんの様子からすると、大ちゃんは大丈夫だと思うよ。中学時代の具体的なエピソードを話せるくらいだから、そのあたりの記憶はしっかりしてると思う。ただ、大ちゃんの高校時代の話をすると、テツくんにはわからないこともあるだろうし、場合によっては誠凛の話になるかもしれないから、そこは気をつけてほしいな」
「高校のことと火神だな。わかった、話題に出さねえように気をつけるわ」
「お願いね」
「ほかになんかあるか?」
「気をつけてほしいことを言い出すと明日になっちゃいそうなんだけど……大ちゃんの頭には入らないよね」
「誰の頭にも入らねえだろ」
二日後にテツの家を訪問するという話になり、改めてさつきから注意点を聞いておくことにした。簡潔に言うね、と前置きしたにもかかわらず、さつきの口からはあれもこれもとたくさん注意事項が出てきた。情報をまとめる能力には長けているはずなのだが……それだけテツに関して心配な点が多いということだろう。
「最初にも言ったけど、とにかく冷静さを保つように努めて。こういう表現はよくないんだろうけど……いまのテツくんは、私たちより子供だから。まあそうだよね、大人になってからの記憶、全然ないんだもん……。昔はしっかりして見えたテツくんだけど、いまの私たちから見ると子供っぽい感じがすると思う。だから、大ちゃんは大人の余裕で接すること。テツくん、調子がいいときなんかはね、無邪気な感じで会話してくれることもあって、年下の子見てるみたいでかわいいよ。あ、もちろん、露骨にそういう態度はとっちゃ駄目だからね。テツくんにだってプライドあるんだから。わかった?」
「わかったわかった」
「あと、身体的にも精神的にも疲れやすいから、一気にたくさんしゃべったり、大声出したりしないように。頭部外傷の患者さんは、たとえ体が健康でも精神的に疲れやすいの。私たちには何でもない刺激が、強いストレスになったりする。精神力云々の話じゃないよ。生理的に仕方がないんだよ。使える脳細胞の数が少ないから、全体にかかる負荷がどうしても大きくなっちゃうの。それで、頭が疲れちゃうと体もぐったりしてきちゃうんだって」
いろいろ話をしたい気持ちはわかるけどテツくんの体調を最優先して、とさつきに釘を刺された。それから、テツが自分の現在の病状をどう認識しているのかについても聞かされた。
「テツくんね、自分の記憶があちこち障害されてるのは一応わかってるみたいなんだけど、具体的にどうおかしいのかっていう自覚があんまりないから、過去と現在がぐちゃぐちゃになることがあるの。混乱しているわけじゃなくて、本人の主観ではそれが自然なことなのかもしれない。私たちからするとトンチンカンな発言をするかもしれないけど、下手に指摘はしないで、適当に流してあげて。自分の認識の矛盾に気づくと、ショックを受けてパニックになっちゃうことがあるから。泣くくらいならいいんだけど、錯乱して暴れたりすると、しばらく腕とか抑制されちゃって、かわいそうだから……。リハビリのスケジュールにも差し支えるし」
あのテツが泣いて暴れる姿なんて想像もつかなかったので、俺はひどく驚いた。まあ、この後実際に目の当たりにする機会があったわけだが……。
脳の損傷のために感情がうまくコントロールできなくなる例というのは珍しくないらしい。もっとも、テツはそのあたりの制御能力は比較的保たれていて、依然として物静かな印象は変わらないという。どちらかというと、普段のおとなしさは増したような感じだとさつきは言った。これは発動性が低下してしまっているからということだ。別に障害を負ったことがショックで気力を失っているわけではなく(要素のひとつとしてあるかもしれないが)、これも頭部外傷からくる症状のひとつらしい。火神、おまえ、テツと再会して一年ってことは、その間に多分一回くらい、あいつ入院しただろ?……ああ、やっぱり。テツのやつ、そのときあんまり自発的に動こうとしなかっただろ。あの状態のことだ。大分改善されたらしいけどな。
「抑制って確か……縛られるってことだよな?」
「うん。一般的な病棟ではほんとはグレーな行為なんだけど、ほかの患者さんに危険が及ぶとまずいし、自分で自分の体を傷つけちゃう可能性もあってテツくん自身にとっても危険だから、仕方のない措置なんだけど……見ててすごく痛々しい。テツくんもともとおとなしいから、一度落ち着いちゃえばよっぽど大丈夫なんだけど、措置の上では、どうしても……ね。そんなに長時間に及ぶことはないんだけど。それからテツくん、自分から拘束を外してとは絶対に言わないの。本人は何も覚えていないから、自分がなんで抑制されているのかなんてわからないだろうに……『みんなに迷惑かけちゃったんですね。申し訳ないです』って言って静かにしてるの。覚えていなくても、こういう措置が取られる原因を推測できちゃうから、テツくんの性格からして文句は言わないんだと思う。その姿がまた、見ていてつらいの……」
そのときのテツの姿はさつきの頭の中に焼き付いているのだろう、何かを振り払うように緩く頭を振りながら、悲しげなため息をついた。
その後も、テツの最近の病状や対応の仕方についての話が続けられた。気づけば日が暮れかけていて、さつきの家族も帰って来た。そろそろ切り上げようかというところで、ふいに疑問が湧いた。
「ところで、赤司は何をしているんだ? 俺らの間じゃ、最初期から動いてたんだろ?」
さつきの話のなかでちょくちょく名前は出てきたものの、赤司が現在までどういう行動を取っているのかについてはよくわからなかった。真っ先にテツのところに駆けつけたり、専門的っぽい勉強会を主宰したりと、気に掛けている印象を受けるのだが。
「赤司くんは住居がこっちじゃないから、あまり頻繁にお見舞いとかは無理かな。機会があれば顔を出したり、テツくんの看護を手伝ったりしているみたいだけど、基本的には裏方だね。法律とかお金の関係で、あれこれ手を回しているみたい。交通事故って健康保険が使えないから、医療費が大変なことになるし、自賠責とか損保とかあっても、保険会社は基本的に渋るスタンスでしょ? 今回は相手方がまともだったからよかったけど、場合によっては民事訴訟になる可能性もあったし……とにかく、テツくん本人の容態以外にも問題は山積だったってわけ。保険会社との交渉とか、法律上、行政上の手続きとか、手帳の等級認定とか、学生の赤司くん本人が直接やったわけじゃないだろうけど、いろいろ根回ししたんじゃないかな。私の邪推かもしれないけど」
「あいつ有能すぎねえか」
「本人は無能だって嘆いてたよ。まあそうだよね、赤司くんがどんなにすごくても、テツくんの頭と体を元に戻すことはできないんだから……」
あの赤司が自分の能力に悲観するなんて驚きだ。しかし、さつきの言うとおりだと思った。フィクションの世界みたいに魔法で怪我を治したり時間を巻き戻したりなんて真似ができるわけないのだから。誰にも。
つづく