渡米後、俺が日本に帰国したのはこのときがはじめてだった。世間の男の例にもれず必要以上にメールや電話はしないほうだし、あちらでの生活は何かと慌ただしかったので、日本にいる連中との近況報告は、互いにあまりしていなかった。それでも家族やさつきとは、ちょくちょく連絡を取っていた。たいていは向こうがメールを送ってきて、俺が短い返事を出すというかたちだった。頻度は多くはなかったが、それでも週に二、三回は往復させていた。テツの話題は上らなかったし、俺もわざわざ尋ねたりしなかった。さつきがテツのことを全然語らないことを不審に思うべきだったのかもしれないが、まさかあいつが事故で重体になったとか、普通は考えないだろ?……そうか、おまえも夢にも思わなかったか、火神。だよな、想像もしないよな。
帰国後自宅に戻ったとき、昼下がりの中途半端な時間だったこともあり、家族は留守にしていた。渡米の際に日本の自宅の鍵なんて持って行かなかったから、帰る前に親に頼んであらかじめさつきに鍵を預けてもらうようにしておいた。さつきはその日、午後の講義がなかったので、大学から帰宅後家で待機してもらっていた。俺は自宅に帰る前にさつきの家に寄り、鍵を渡してもらった。さつきは余計な気を回して、遅い昼飯を用意しておいてくれたのだが、有難迷惑というか普通に迷惑というか、嫌がらせかと思った。それでも多少は改善されたことを期待し、あいつの家に上がって食卓についた。感想はまあ……あいつはイギリスに嫁に行くしかないと思った。いまでも俺はあいつの婿候補のイギリス男を探している。もしいいやつを知っていたら紹介してくれ。言っとくが、俺に紹介してくれるなよ? あくまでさつきの相手としてだからな。あん? そんなのわかるに決まってるだろうって? 俺もそう思うが、念のため言っといたんだよ。いや、実はな、昔アメリカのダチに同じようなことを依頼したことがあるんだが、俺の英語がまずかったのかなんなのかはよくわからんが、何か誤解が生じたらしく、イギリス人のゲイの男を俺に紹介してきやがったんだよ。俺、最初そういう話になってるなんて思わなくて、知らんうちにうっかり仲を深めそうな段階になってたんだよ。恐ろしいぜまったく。異文化コミュニケーションの難しさを思い知った事件だ。ああ? 間違いなんて起きてねえよ。あってたまるかそんなこと。しかし、嫌な記憶の扉を開いちまったぜ……。ああ、話が逸れたな。なんだっけ。ええと……ああ、さつきの飯のことだな。俺もアメリカ滞在中、大英帝国の怨念みたいな料理を食った経験も多々あったが、少なくとも料理と呼べるレベルであったことに敬意を払うべきであったと実感した。……悪い、本筋とは関係ない話だったな。いまのはただの愚痴だ。気にするな。
結局、余っている食材のうち使えそうなのを選んで、俺が適当にチャーハンをつくって食った。そのままダイニングでさつきと話をはじめた。最初はお互いの近況についてで、そのうち周囲の交友関係に話題が及んだ。まあ自然な流れだよな。テツの話もその途中で出てきた。さつきはテツと大学が違うが(本当は同じ大学に進学することを希望していたのだが、大学くらいは自分の学力と釣り合うところにに行けと、高三のときテツと俺で説得した。結果的に同じ都内で、別の大学に行くというかたちで収まった)、連絡はたびたび入れていたし、一方的に顔を出すこともあった。もちろん、さつきがテツのほうにな。相変わらず脈なしなのだろうと思い、揶揄するわけでもなく、最近テツとはどうだと尋ねた。いつもなら、それを聞いてくれるのを待っていましたとばかりに顔を輝かせるさつきが、このときは表情をあからさまに曇らせた。なんだか嫌な予感がしたが、さつきから聞かされた話はそれを上回るものだった。俺はここではじめて、テツが交通事故に遭い、いまも後遺症に苦しんでいるということを知った。さつきは最初、とりあえず掻い摘んで話をした。当然俺は衝撃を受けた。火神、おまえもだろ? ああ、おまえはテツから直接聞いたんだったな。それはそれでびっくりだろ。あんな普通に話せるのに、結構な障害があるなんて思えないよな……。
俺はまだテツの姿を一度も見ていなかったから、悪い想像ばかりが浮かんだ。しかも時期を聞けば、半年以上前だって話じゃないか。俺はアメリカにいたが、その間もさつきとは連絡を取り合っていたのだから、どうしてもっと早く教えなかったんだと、理不尽かもしれないが怒りを覚えた。
「さつき、何でいままで黙ってたんだ?」
「大ちゃんは向こうで忙しかったでしょ」
さつきは少し険しい顔で、淡々と答えた。俺はもっと険しい目をしていたことだろう。さつきの言い草にカチンと来て、挑発的な口調で言った。
「テツが死にかけてたってのに? どっちが忙しいんだよ」
「テツくんは……死ぬような怪我はしなかった。早い段階から、命には別条がないとは言われてたらしいね。意識が戻るかどうかはまた別問題だったみたいだけど。さすがに私もそのときの状況は直接知らないから、知りたければ赤司くんに聞くのが確実ね。翌日には駆けつけてたらしいから。ご家族以外では一番詳しく知ってると思う、テツくんがどんな……ひどい……状態だったか」
さつきは最後何かを堪えるように、途切れがちに話した。そのことももちろん引っかかったが、俺は別の登場人物のほうに気を取られた。
「赤司? あいつ関西だろ」
「だからまさに、駆けつけた、ってことでしょ」
「で、俺は遅れに遅れてやって来たってわけか。しかも、別にあいつのこと知って帰って来たわけでもねえ」
皮肉っぽい俺の台詞に、しかしさつきは無反応だった。多分、次に言うべき内容を考えていたのだろう。
だいたいこんな感じの会話が交わされたのだが、実際はもっと剣呑だったと思う。俺はもっとさつきをなじったし、喧嘩腰になっていた。恥ずかしいからこのへんのやりとりの詳細は勘弁してくれ。気が立っていたからあんまり覚えてねえし。知りたかったらさつきに問い合わせてみろ。俺の逆武勇伝が聞けるぞ。
すっかり険悪な雰囲気が漂う中、さつきはしばらく沈黙した後、顔をあげてキッと俺に視線を投げてきた。睨んでいるのとは違うが、眉尻は上がっていて、真剣さ……いや、深刻さが窺えた。
「大ちゃん……私、テツくんの事故のこと大ちゃんにいままで黙ってたこと、謝らないよ」
「あん?」
「大ちゃんがいたところで、きっと……いえ、これ以上は感情的になると思うからやめておく。テツくんに直接会ったほうが、わかると思うから」
いまにして思えば、さつきはこのとき、仮に俺が知るのがもっと早かったとしても、何の役にも立たないというようなことを言いたかったんだろう。この時点でそんなことを言われていたら、火に油状態だっただろうから、さつきの理性に感謝せざるを得ない。
「会えるのか? あいつ、いまどこでどうしてるんだ?」
「デリケートな状態だからある程度事前にというか直前にテツくんに説明しておく必要はあるけど、身体的にはそれほど問題ないから、健康上の理由で会えないということはないかな。もちろん無理は駄目だけど。いまは退院して自宅療養に切り替わってる。リハビリには外来で通院してるの」
と、さつきはここで姿勢を正し、改めて俺をまっすぐ見つめてきた。
「大ちゃん、私がいまから話すことよく聞いて。いまのテツくんの状態について、私がしゃべれる範囲でしゃべるから。きっとショックを受けると思う。大ちゃんの性格だと、怒るかも。それはいいわ。怒りたい気持ち、私もわかるから。ただ、怒りをぶつけるなら私にして。八つ当たりだっていいから。全部私が受け止める。黙ってたことへの罪滅ぼしじゃないよ。いまのテツくんには、ちょっとでも守ってあげられる人が必要だから、事情を知ってる私がその役目を負えるなら、そうするのが妥当だと思うだけ。その代わり、テツくんの前でそういうのを態度に出すのは絶対やめて。これを守れる自信がないのなら、テツくんのところへは案内できない。絶対会えないように私が根回しするから。でも、聞いただけじゃ信じられないだろうし、ピンと来ないかもしれないから、大ちゃんがショックを受けるとしたら、実際にテツくんに会ったときだと思う。大ちゃんももう大人だから、分別はあるって信じているけど……」
さつきの語り口は重々しく、俺は少し気圧された。
「そんなに重いのか、テツの後遺症」
「姿を見て即、大ショックってことはないと思う。五体満足だし、日常生活の動作はだいたいできるし、話も普通にできるから。ただその分、ギャップが、ね……。約束して、大ちゃん。何があってもテツくんの前では冷静さを失わないで。目の前に穏やかじゃない人がいると、テツくん怖がっちゃうだろうし、それでパニックを起こしたら大変だから……」
幾分抽象的で漠然とした言い方だったので、さつきが何を言いたいのかはわかりにくかった。ただ、テツの容態が予想以上によくはなさそうなことと、さつきがそのことでかなり気を遣っていることは、さすがの俺も感じ取った。いったいテツに何があった。俺が視線で問うと、さつきが具体的な話をはじめた。
「テツくんの事故時の状況は、私は又聞きした情報しか知らないんだ。夜間のバイク事故だって聞いてる。正確にはバイクじゃなくて原付なんだけどね。大学に通うのに使ってたから。それでね、テツくん、学校からの帰りに、信号のない角で出会いがしらに自動車とぶつかったの。当事者以外目撃者がいないし、テツくんは事故のことまったく覚えてなくて証言能力がないからよくわからないけど、どちらにも過失はあったみたい。乗り物の重量が全然違うから、テツくんの被害のほうが大きくなっちゃったけど。原付だからスピードはそこまで出てなかったみたい。普通の道だったらまだよかったんだろうけど、そこ、近くに人工の用水路があってね……車体から体が投げ出されたあと、そこに落ちちゃったの。冬場で降水量が少ないから、ほとんど水がなくて、結構な高さから用水路の剥き出しの底に叩きつけられたって。相手の人は良識がある人だったみたいで、すぐに警察や救急を呼んで対応してくれたって話。川に流されたわけでもないのに捜索にちょっと手間取ったって聞いてる。夜だからってこともあるんだろうけど……多分、影が薄くて人生で一番困った瞬間じゃないかな。発見された時には意識がまったくなくて、でも出血は少なかった。幸い致命傷はなくて、目立った身体の怪我は肩の脱臼と、頚椎を少し痛めたくらい。まあ、下手したら首が折れてたかもしれないんだから、結果論としてそう言えるというだけかな。問題は頭で、かなり強い衝撃が加わったみたいで、脳挫傷だった。原付だったから、ヘルメットがそんなにしっかりしたものじゃなかったというのも、運の悪い要素のひとつだったんだろうね。もちろん頭蓋骨にもダメージはあったけど、脳そのものの損傷のほうが問題ね。私は専門的なことはわからないからこれはドクターの弁なんだけど、CTとかMRIの写真を見る限りでは重篤というほどではなかったみたい。出血や挫滅はもちろんあったということだけど。脳幹なんかも無事だったから、脳死とは程遠くて、ちゃんと自発呼吸もあった。もちろん最初は酸素の管をつけられてたけど、気管切開はしなくて済んだ。少なくとも身体のほうは、きちんとケアしてあげれば生きていられる感じだったって。でも……テツくんの意識はなかなか戻らなかった。昏睡状態が続いて……最初の頃は痛みを感じるくらいの刺激を加えても、全然目を開けなかったって。もしかしたらこの先、植物状態になっちゃうかもって、お母さんたち思ったくらいだって……。十日くらい経って、多少の反応を返すようになったけど、自力で目を開けていることはほとんどなかった。その後、たまに自分から目を覚ますようになったんだけど、家族や病院の人が話しかけてもほとんど反応がなくて……それでも、少しずつ回復はしていったの。事故から三週間ちょっと経った頃、ある程度の時間覚醒を保てるようになって、話しかけにも反応するようになった。言葉が出たのはもう少しあとだったかな。何にせよ、意志の疎通と多少の会話はできるようになったんだけど、そこでまた、驚くことがわかったの。テツくん……記憶喪失になってた。それもかなりひどくて、自分の名前と生年月日以外、何もわからなかったの。嘘みたいでしょ? 私もドラマの世界でしかないと思ってたんだけど、テツくん、そうなっちゃってたの……。お母さんのことは、見れば自分のお母さんだって認識できたみたいだけど、名前は忘れてた。子供が自分のお母さんの名前を呼ぶ機会って滅多にないから、それは仕方ないのかもね。それ以外の人のことは、お父さんを含め、顔も名前もわからなかった。もちろん、私たちのことも……。でも、さすがにこれだけひどい状態がずっと続くとは考えにくい、というドクターの言葉は正しかった。意識が清明になって起きていられる時間が長くなるにつれ、少しずつ記憶は回復していった。体も、最初はほとんど自力で動かせない……というか動かそうとしていなかったんだけど、若いだけあって回復は早かった。意識が戻ったはじめの頃は、左半身があまり動いていなくて、麻痺が出たのかと心配された。実際、その時点では少し麻痺があったみたい。全然動かないほどじゃなかったんだけど、テツくんは左手や左足をあまり動かさなかった。どうも、左側が動かせるってことに気づいていなかったみたい。奇妙に感じられるけど、脳損傷の患者さんにはたまにあるらしいね。自分の左手があることそのものに気づかない、みたいな。これは急性期の一時的な症状だったみたいで、次第に消えていった。麻痺も、元々軽度だったこともあって、じきに軽快した。怪我もだいたいよくなって、全身が動かせるようになったら、歩けるようになるまでは結構早かった。脚の怪我はほとんどなかったしね。ただ、体の回復に比べると頭というか精神機能のほうはなかなかで、テツくん、意識障害がなくなってからもひと月くらいはほとんど自発的にしゃべらなかったの。質問には――正誤はともかくとして――答えるんだけど、それも単語でぽつぽつ、みたいな。失語症も疑われたけど、この段階ではほかの症状との鑑別診断ができなかった。のちに、言語障害や知能障害はほとんどないことがわかったんだけどね。意識障害が軽くなって一ヶ月がちょっと過ぎた頃から、しゃべる量が増えてきて、あ、回復してきたなって喜んだ矢先……また別の問題が発覚したの。テツくん、記憶力を失ってた」
さつきの詳細で長い説明を聞く間、俺は時折相槌を打つことはあったかもしれないが、ほとんど呆然として座っているだけだった。盛り沢山すぎて、俺の頭のキャパはかなりぎりぎりまで追い詰められていたから、耳を傾けるという意識すら途中で消えていたように思う。とにかく情報が多すぎて混乱した。とりあえずすぐにわかったのは、テツはかなり頭の打ちどころが悪かったらしいということくらいだ。しかし、記憶喪失なんて単語が出てくるとは思わなかった。さつきの言うとおり、物語の世界でしか聞いたことがなかったから、まさか身近にそんな例が出てくるとは想像だにしていなかった。俺はこのあとさつきにいくつも質問をし、情報を整理した。さつきは根気よく答えてくれた。幾分頭の中に話のまとまりがついたところで、俺はさつきが最後のほうで使った表現が気になった。記憶力を失う、とは……?
「記憶喪失とは違うのか? さっき言ってたよな」
「俗に言う記憶喪失というのは、逆行性健忘といって、ある時点を境にそれより過去のことを忘れてしまうことを言うの。テツくんは最初これがあったんだけど、いまは大分よくなった。さっき、ひどい記憶喪失って言ったけど、実際のところ、本当にそこまでひどかったのかはよくわからない。あの頃はテツくんあまりしゃべれなかったし、集中力とか認知力とかほかの障害との絡みもあって、純粋な記憶障害との鑑別ができなかったの。記憶喪失については時間経過である程度回復してくれたから、現在問題なのは、前向性健忘が重度だということ」
「ぜんこ……? どういうやつなんだ?」
「名前の通り記憶喪失とは忘れる方向が逆向きで、ある時点から先のことを記憶できなくなる状態ね。つまり、新しいことを覚えられなくなるの。認知症なんかでいわゆる『ぼけちゃった』おじいちゃんとかおばあちゃんが、ちょっと前にご飯食べたことをすぐ忘れて、飯はまだかってお嫁さんに聞きまくるっていう、典型的な例は知ってるでしょ? 種類としてはそれと同じと思ってもらえばわかりやすいかな。乱暴な言い方をすれば、ひどい物忘れ。一時間前の自分の行動とか、誰に会ったのかとか、そもそも誰かに会ったかどうかとか、思い出せないような状態。テツくんはそんな感じで、この症状はいまもそのままなの。回復の兆しもない。そのくせ、戻ってきた昔の記憶はかなり鮮明に思い出せるし、語れるの。いまのテツくんは記憶の回復の関係で自分を高校生と認識してるから、それまでに経験した出来事と、得た知識や勉強の内容なんかは覚えてる。センター試験レベルの世界史の知識なんかは、普通にあったりする。一方で、事故後の出来事はほとんど全部忘れてしまうの。知識化されれば定着しないこともないみたいだけど……。このへんのことは赤司くんと緑間くんが公民館の一室借り切って適当にメンバー集めて、三時間くらいパワーポイントと分厚い資料片手に講釈してくれたなあ……。私でもその場では半分も理解できなかったくらいだから、ここで大ちゃんに説明する価値は正直ないと思う。だから省略」
「おい」
この日テツの話題が出て以来、はじめてさつきが笑顔を見せたのがこのときだった。俺たちの間で似つかわしくないシリアスな空気に息苦しさを感じていたところだったので、さつきの茶化したような台詞はありがたかった。
「ん? 大ちゃんが聞きたいなら詳しく話すけど?」
「いや、聞きたくない。ぜってぇわかんねーもん。緑間がいる時点で駄目だ」
「でしょ? 集まってくれた人はみんな真摯な姿勢で臨んでたけど、さすがに一時間経った時点で大半は集中力が切れてたな。赤司くんが目を見開いてたから全員起きてたには起きてたけど。一番真面目だったのは……きーちゃんかな」
黄瀬も割と早い段階でテツの事故のことを聞き及んでいたらしい。まあ、黄瀬だからな。こいつこそ、もし知ったのが半年後とかだったら、大変なことになっていたんじゃないかと思った。
「黄瀬? あいつそんなに賢くねえだろ。って、俺に言われたかねえか」
「きーちゃんはテツくん大好きだからねえ……いつだって真剣だよ。まあ三時間中二時間はおいおい泣いてたんだけど」
「……なんで?」
これは本気で意味がわからなかった。たとえば、受傷後まもない時期の、意識不明のテツを見たときとかなら、泣き喚いたとしても不思議ではないが、赤司主宰の勉強会(?)で涙を流すきっかけがわからない。内容は聞いていないから俺にはわからないが、赤司と緑間が組んでいたということは、小難しい学術的な内容が中心だったのではないかと推測する。障害福祉の観点で組まれた特集でつい泣いてしまうというのならまだわかるのだが……。
俺が不可解な心持ちでいると、さつきが苦笑しながら解説をした。
「きーちゃんねえ、テツくんの症状がいかに重いのかということを噛み締めるたびに、我が事のようにつらくなるみたいで、感情移入して泣いちゃうの。正直説明係より声大きかったよ。どうあがいても泣きやまないから、さすがの赤司くんも放置して、淡々と語ってた。テツくんのところへお見舞いに行く前後も、よく泣いてたな、きーちゃん。なだめるの大変なんだから」
「相変わらずめんどくせぇ男だな……」
テツの名前を連呼しながらおいおい泣く黄瀬の姿がリアルに頭の中でシミュレートできた。……だよな、すっげえ想像しやすいよな。
「きーちゃんらしいと思うけどね。テツくんに入れ込むあまり一種の精神感応してるんじゃないかって思えるくらい。実際、テツくんの精神状態が悪いときに面会したら、そのあときーちゃんまで軽くうつ状態になっちゃって、いつもより二割増くらいでじめじめ泣いちゃってね……外来で安定剤とか睡眠薬とか処方してもらう羽目になってた。お見舞いに行って自分が患者になってたら意味ないよね」
「黄瀬のやつ、とうとう他人の精神状態までコピーする域に達したのか……。ってか、それは見舞いに行かないほうがいいレベルじゃねえのか。普通に迷惑だろ。まあ、黄瀬のことだから行くって言い張るんだろうが」
「そうだね、結局しばらくお見舞い控えるよう、周りからもお医者さんからも止められちゃったんだよ、きーちゃん。お見舞い止められたら止められたで、きーちゃんまた泣くんだけど。負のスパイラルだったなあ、あれは」
あはは、とさつきは苦笑していた。当時の現場はおそらく相当面倒なことになっていたと想像するが、こうして半分笑い話のように語れるということは、いまはもう治まったということか。と、そういえば黄瀬の状況を知らないことに思い当たった。
「黄瀬はいまどうしてるんだ?」
「普通にお仕事しつつ大学通ってるよ。テツくんのお見舞い行くときは家族だけでなく私か赤司くんあたりに事前に知らせるように言ってある。勝手に行かれるとどちらにとってもマイナスになりかねないから。きーちゃんが泣くとテツくんが罪悪感持っちゃって、ふたりでしくしく泣いてるとか、あったなあ……。それだけきーちゃんがテツくんを想ってるってことなんだけど……行き過ぎると空回りになるって、まさにこのことだよね」
さつきはまた笑ったが、今度は優しげな微笑だった。ただ、どこか悲しげでもあったことを覚えている。さつきもまたテツのことで感情を抑えきれず涙することもあったのだろうかと考えたが、その場で本人に確かめる気にはなれなかった。
つづく