あいつはときどき泊まりがけで俺の部屋にやってくるようになった。何度も同じルートを歩くうちに道順を体得したようで、晴れた日中であれば単独で来られるようになった。今日はひとりで行ってみます、と最初に連絡が来たときは気が気でなかったが、あいつはほぼ予定通りの時刻に来訪した。自力で到着できたことがたいそう嬉しかったようで、玄関に招き入れるなり俺の首に腕を伸ばして飛びついてきた。健常な人間にとってはちっぽけなことだが、いまのあいつにとっては難しい課題だったはずで、達成感もひとしおということだろう。大人なので図体はそれなりだが、幼児が親や幼稚園の先生に褒めて褒めてと訴えかけているような印象を受け、俺は思わずあいつの背に腕を回して抱き締め返した。よくやった、という心持ちだった。あいつが無事に来られたことの安堵と、記憶力がわずかだが残っていることを実感し、俺もまた嬉しかった。
ベッドの縁に並んで腰掛け話をする。あいつはよく俺にもたれかかってきた。自力で体幹を支えきれないほど身体が弱いわけではないが、ひとより疲れやすいらしく、気がつくと俺の腕や胸にあいつの上半身が寄り掛かっていることが多い。そのままだとずり落ちて転倒してしまう可能性があるので、俺のほうからも背と腰に腕を回して支えてやるようにしている。自然、ぴったり寄り添って話す時間が長くなる。
あいつとの会話は、同じことの繰り返しが多かった。記憶が続かないことと、互いが共有している過去の時間が二年程度しかないことを考えれば、仕方のないことだった。本当は三年あるのだが、最後の一年は緑間の忠告を受けたこともあり、意識的に触れないようにしていた。
同じ話題が何度も持ち上がることは、意外と苦痛ではなかった。あいつは毎回新鮮な反応をするし、何よりたいして口がうまいわけでもない俺の話を楽しそうに聞く姿を見るのが好きだった。
「そうですか。火神くん、やっぱり高校のときから無理をしていたんですね」
現在治療中の足の故障についても、幾度となく話題に上った。渡米後の俺の経緯についてはもともとあいつと接点がない時間のため、かえって気楽に話すことができるのだが、故障については高校時代に起因が遡るので、できれば避けたいところではあった。しかし俺がこうして日本に戻ってきた理由もまたこの足の怪我であるため、なし崩しに話さざるを得なくなる。
この話の何が嫌かというと、あいつが高校時代に俺に負担をかけていたのではないかと気に病んでしまうことだ。この日もやはりそういう流れになった。翳を落とすあいつの顔に手を触れさせながら、気にするなというように俺は首を左右に緩く振って見せた。
「単なる無茶だ。無理していたなんて思っていない。自分が馬鹿やってるのはわかってたから、いつかこうなるって気はしてたんだ。俺は俺に必要だと思うことをやって、それができて、満足している。おまえとのプレイは、楽しかったんだぜ、まじで」
若干辛気臭くなりかけていたので、景気づけにあいつの肩をやや強めに揺すった。が、これは失敗だった。予期せぬ振動に対して感覚過敏を起こしたのか、あいつはびくりと体を硬直させたあと、何かに耐えるようにきつく目をつむった。俺は慌てて腕を離した。
「わ、悪ぃ……大丈夫か?」
十秒ほど固まっていたが、やがてゆっくりと両目を開いた。
「は……はい、大丈夫です。体が少しびっくりしたようです。まったく、困ってしまいますね」
ほんの短い時間とはいえ過度の緊張に襲われた反動か、今度は体を弛緩させ、くったりと俺に体重を預けてきた。先ほど失敗したばかりなので触れるのにためらいが生じたが、すぐには自分で体勢を支え直せない様子だったため、俺は恐る恐るもう一度あいつの体に腕を回した。できるだけ揺らさないよう、そっと触れるようにして。
体を落ち着けるためか、あいつはしばらくの間俺の腕の中で静かにじっとしていた。が、ふいに顔を上げると、不安そうな瞳を俺に向けた。
「火神くん、僕、何度この話をきみに聞きましたか? 今日がはじめてではないですよね?」
この話、というのは高校卒業後の俺の動きのことだろう。何度、と聞かれても正直なところよくわからない。二回や三回でないのは確かだが……
「聞かれたらちゃんと答えるっての」
真面目に答えたところであいつを落ち込ませる要因にしかならないだろうと思い、はぐらかす。
「でも選手を辞めることになってしまったのですから、きみにとって楽しい話ではないでしょう? 何度も話させてしまってすみません」
やはりそこを気にしているのか。
「おまえと話せるのは楽しいぜ?」
答えになっていないのは自覚していたが、ほかの言葉も思いつかなかった。どう答えるのがベターなのか。正解はないだろう。自分の応答があいつを傷つけないこと祈った。
あいつは困ったように微笑した。
「……ありがとうございます」
「礼ってのはそんな顔で言うもんじゃないぜ。俺のほうこそ、なんか気ぃ遣わせちまったみたいで悪いな」
俺の胸元に頭をつけたまま、あいつは首を横に振った。
「火神くんは優しいです。きっと何度も同じ話ばかり聞かれているだろうに、こうやって僕につき合ってくれている」
この馬鹿は、俺がボランティア精神で会話の相手をしていると思っているのか。だが、見くびるなよとは言えなかった。逆の立場だったら俺だってそう考えてしまう可能性は否定できない。
「つき合ってやってるなんて思ってねえ。ただ単に、おまえと話すのが好きなだけだ。俺のほうこそ、なんかデリカシーないこと言ってたらごめんな」
気の利いた言葉はやはり見つからない。とにかく、俺が自分の好きであいつと会って話しているということが伝わればいいと願った。
「本当に、きみは……」
あいつは一瞬だけ泣きそうな表情を見せたが、すぐにほっと息をつくと、俺の胸に頬を押し付けた。あいつの細い腕が俺の背中に回される。
「火神くん。もしきみが僕を傷つけることがあっても、どうか気に病まないでください。どうせ僕はすぐに忘れてしまいますから。次の日にはけろっとしています。忘れっぽいっていうのも、ちょっとだけ便利かもしれませんね」
またそんな自虐を口にする。そういうのはやめろと言ってやろうとしたが、あいつが言葉を続けるほうが早かった。
「僕が恐れているのはむしろ、僕のほうがきみを傷つけてしまう可能性です」
す、と体を離すと、あいつはベッドから立ち上がって俺の正面に立った。左腕が伸ばされ、指先が俺の頬に触れた。
「火神くん……もし僕がきみの感情を害してきみがすごく腹を立てたとしても、僕はそのこと自体忘れてしまいます。僕はそれが怖いです。きみのことを傷つけたりしたくないのですが……僕はたいていのことができるように見えて、その実、いろいろなことができなくなってしまいました。愚かなことも、きっとしでかすでしょう。きみを傷つけてしまうこともあるでしょう。僕のどんな行為に怒ってもいい、許さなくてもいい。でもひとつだけ、どうかお願いです。忘れることだけは、許してください。十七歳までの思い出と、強烈な忘却力が、いまの僕のすべてだから」
左手が引っ込められる。緩く握りこめられる拳がかすかに宙に惑っているのは、心理的な揺れが現れてのことだろうか。
沈黙がふたりの間に落ちる。
言葉を探しているのか、言うべきか迷っているのか――あいつは一分ほど長考したのち、口を開いた。唇がほんの少し震えているように見えた。
「僕、きっといつかきみにひどいこと言うと思います。八つ当たり、みたいな。僕は思考さえすぐに消えてしまうけれど、なんで自分はこんなことになってしまったんだろうって思いは、絶えずあるはずなんです。運が悪かったなんて言葉じゃ納得できない」
そりゃそうだ。俺だって納得できないんだ。当事者であるおまえはなおさらだろう。記憶ができないということは、未来を奪われたに等しい。天のきまぐれなんて一言で済まされたらたまらない。
黒子の発言に胸中で頷くと同時に、いままでほとんどあいつの口から恨みごとめいた言葉が出て来なかったことを不思議に思う。自制していたのか、諦めていたのか、我慢していたのか。昔から感情を露わにすることが少なかったあいつが、心のうちに抱えているであろう怒りや悔しさの片鱗を見せてくれたことが、不謹慎ながら俺には嬉しかった。抑え込まないでほしい、抱え込まないでほしい――それなら、理不尽であっても感情をぶつけてくれたほうがいい。その相手になれるということは、それだけ心を開いてくれているということだろうから。
だが、俺のそんな思いとは裏腹に、あいつはすぐに感情を抑えてしまった。こんなときでさえ、あいつは俺を傷つけないか案じている。
「もしかしたら、すでに何度も失礼なことを言ったかもしれません。誰かの不幸を笑う気はありません。ましてそれを願ったりするのは、自分の幸福を放棄してもなお余りある罪悪でしょう。きみのプロ生命が断たれたことを喜んでいるつもりはありません。でも、もしかしたら心のどこかで、僕はひどいことを考えているかもしれない。おそらく僕はきみに再会して以来、何度も何度もこんなことを自問してきた。答えを見つけられたことがあるかは不明です。思考力自体はあるんですが、時間をかければかけるほど、少し前の自分の考えを忘れてしまって、結局空中分解してしまうんです」
「おまえはいまでも理性的だと思うぜ。俺なんかよりずっと」
あいつはうつむくと、ふるふると頭を横に振った。
「きみのその言葉も、僕は疑ってしまいます。自分が何を言ったのかまったく覚えていないから、信じる術がないんです。きみがお情けで僕につき合ってくれていると本気で思ったりはしませんが、やっぱり少し、疑っているところもあると思います。自分が言ったことも他人が言ったことも覚えていないから、人を信じる材料がない。与えてくれても、すぐに消えてしまう。記憶がないって、こういうことなんです」
あいつの顔に浮かぶ失望の意味が少しわかった気がした。あいつは他人を、俺を信じられない自分を厭っているのだ。
あいつは記憶という要の能力をごっそり奪われた一方で、正常な知能と感情、高い理性と自制心を保っている。そのせいでフラストレーションを発散できないのだろう。喪失した能力と維持された能力の不均衡が痛ましい。黒子と話していると、そのまともさに驚く。短時間の会話では、こいつが取り返しのつかない傷を抱えた身であることに気づかないだろう。だからこそ、深く関わったとき、そこに巣食う喪失という名の闇の深さに圧倒される。生半可な覚悟ではつき合えないだろうと言った緑間の忠告が耳の奥に蘇る。黒子の旧知であり医師の卵であるあの男は、この現実を目の当たりにしたことがあるに違いない。
俺は何度目になるのかわからない自問をした。知性の残存は、こいつにとって幸せなことなのだろうか。高いレベルで維持されている能力があることは、普通に考えたら喜ばしいことだろう。だが、この残された『まともさ』こそが、こいつを苦しめている最たるものではないのだろうか。なんて皮肉で残酷なのだろう。当たり散らしたい欲求や衝動はあるだろうに、それが他者を傷つけるであろう未来を想像する能力が残っているがゆえに、そして自分が己の行為を覚えていないであろうことまで考慮できる思考を保っているがゆえに、こいつは感情を抑え込んでしまう。
痛ましさに俺のほうがうつむきたくなった。しかし目を逸らすべきではないと心の奥から声が聞こえた気がして、俺はまっすぐにあいつをとらえた。あいつは自分の前髪をくしゃりと掴むと、わずかに顔を上げ、片目で俺を見てきた。淡い色の瞳が揺れている。
「記憶を保てない恐怖は、なってみなければわからないでしょう。自分の足もとが、いま立っているところしかないようなものです。先に進んだときはもう、さっきまで立っていたはずの地面が消えている。人をかたちづくる最大の要素は記憶だと思います。その意味では、黒子テツヤという人間は十七歳で死んでしまいました。そこから先には何もない。未来もない。僕にあるのは過去と、前後が切り離されたほんのわずかな現在だけです。時間の中に囚われているのではなく、取り残されてしまった。永久に」
肩が震えている。感情の高ぶりがいたずらな緊張を招いたのだろうか。感情的になることは悪いことではないが、身体へ影響が出るのは喜ばしいことではない。普段より饒舌で、それでいてネガティブな言葉を吐くあいつの姿を見て、これ以上興奮させるのは避けるのが賢明だと感じた。俺はそっとあいつの手を取ってゆっくり引き寄せた。
「おまえさ、疲れてるんじゃないか?」
「いいえ」
「いや、疲れてるだろ。なんか顔色悪い。少し休憩を入れようぜ」
言いながらベッドに座らせるが、あいつはきゅっと俺の服の袖を掴んで拒否した。
「僕、まだ火神くんと話したいです」
「追い返したりしねえよ。けど、ちょっと休め。しゃべりすぎだ。おまえ、お世辞にも頑丈じゃねえんだから。な?」
勢いがつかないようにゆっくり慎重にあいつの体を押し、仰向けに倒した。会話への未練を窺わせつつも、寝かされたことで先ほどより目に見えて楽そうになった。やはり疲労があるのだろう。肉体的にも精神的にも。
「やっぱ疲れてるみたいだな。寝てくか?」
「眠くはありません。……けど、ちょっと横になっていたいかもしれません」
「ああ、そうしろ」
薄い掛け布団を引き上げて肩のあたりまでかぶせてやる。あいつは俺の動きを逐一追っていた。注視というにはあまりに不安げで脆い見つめ方だった。見張っているというより、どこかへ行ってしまわないか心配しているといった印象で、捨てられた動物の子供のようだった。
勝手に出て行ったりしないと言い聞かせるように、俺はベッドのすぐ横で床に座り、あいつの髪を梳いた。しばらく何も言わずされるがままになっていたあいつだったが、やがて俺のほうへ少し首を傾けた。
「火神くん、実を言えば……」
そう前置きすると、あいつはちょっとばつが悪そうに話しはじめた。
「よく顔を合わせるようなのでそれほど違和感はないのですが、僕の中の火神くんは、やっぱり高校生の頃の姿をしているんです。だからいまの火神くんに会うたびに、なんでこんなに大人びた姿をしているんだろうと、不思議な気持ちになります。自分の記憶障害のせいだということに、すぐに気づきますが。実際には僕も年を取っているわけですが、僕にはその感覚がありませんから、十七歳のままです。このギャップは、年月を経るごとに大きくなるでしょう。この先、老いた父や母を自分の親だと認識できなくなるかもしれません。鏡に映った中年の自分を自分と認識できず、他人だと思って挨拶する日が来るかもしれません。きみのことも、わからなくなるかも……。そうして僕はどんどん時間に取り残されていきます」
あいつの手が俺の手の甲の上に重ねられる。
「いまの火神くん、すごく優しいなって思います。僕がこういう状態だから余計なのかもしれませんが……。もちろん、僕の記憶の中の火神くんも本質的には優しい人ですよ。それは間違いありません。ただ……もうちょっと不器用で乱暴な印象です。言ってしまえば、子供っぽいということなんでしょうね。もちろん当時は高校生ですから、年相応なのでしょうが。……だからいまの火神くんと会うと、こんなにもきみは大人になったんだなって実感します。いまって何年の何月でしたっけ?……そうですか、あれから、僕たちが高校生だった頃から、もう十年も経つんですね。……そうですね、それだけの年月が流れれば、その間にいろいろ経験して、大人にもなりますよね。僕は……なれませんでしたが」
確かに高校の頃の俺だったら、こんな殊勝な態度でこいつに接することはできないだろう。自分で言うのもなんだが、俺は明らかに落ち着いたし、丸くなったとも思う。あの頃――たとえ抑えているつもりでも傍からはむき出しに見えたであろう感情を振りまいていた少年時代からは、いつの間にか卒業していた。多かれ少なかれ、そして遅かれ早かれ、その道は誰もがたどるものだろう。ただ体に流れる時間がそうさせるのではなく、そこで経験したさまざまな出来事がひとを大人にする。
けれどもこいつにはそれがない。過ぎゆく時間は、こいつに何も残してはくれない。こいつは高校のときにいた場所から動けないでいる。事実、こいつはいまだに少年のように見えた。姿かたちの若さだけではない、内面の幼さがそう見せているのだろう。
俺の黒子に対する態度が昔よりずっと軟化したのは、俺自身が成長したこともあるだろうが、もうひとつ、無意識のうちにこいつのことを自分よりずっと年下の子供のように感じている面があるのかもしれない。そう考えると、いま触れ合っている俺たちは、実はとんでもなくかけ離れたところにいるのか。こいつとの間で常に付きまとう違和感――距離感といってもいいかもしれない――の一因はそれなのだろうか。また、いましがた『優しい』と評された俺の態度こそが、こいつに記憶の中の俺とのギャップを感じさせ、苦しめているのか。だとしたら、どうしたらいいのだろう。俺はこいつに何ができるのだろう……。
どう話に応じればいいのか迷っている俺に、あいつがちょっとだけ悲しげな視線で問う。
「火神くん……きみは本当に、僕の知っている火神大我くんなのでしょうか?」
まっすぐこちらを見据える目は、昔と変わっていない。
黒子の知っている俺……。
自分が根っこの部分で変わったとは思わない。俺は俺だ。だが、十年前と同じかと聞かれれば、それは絶対に違う。悪い意味ではなく、ひとは変わっていくものなのだ。黒子の中の『火神大我』が十七歳の俺であるとしたら、こいつの質問に対しイエスと答えるのは誠実ではないのかもしれない。
「……おまえが、そう思ってくれるのなら」
俺の苦しい返答に、あいつは申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません、変なことを言いました。きみはきみです。火神くんです。僕の、大切な……」
声が途切れる。
眠ってはいないようだが、あいつは目を閉じ、ほとんど聞こえない深呼吸とともに、部屋の静寂へと溶け込んでいった。これ以上疲れさせたくなかったし、何より俺自身うまく会話を続けられる気がしなかったので、こちらから何か言うこともなかった。
沈黙が俺の胸裏にある種の感慨をもたらした。
十年か。吹っ飛ぶように過ぎていったから、短かったように感じるが、改めて考えるとそれなりに長い年月だ。
だが、俺たちの間にいま横たわる、ある意味で途方もない距離は、お互いに会わずにいたという時間的な空白ばかりが理由ではないだろう。俺が歩いてきた十年という歳月を、こいつはまるっと失っているのだから。あるいは、最初から手に入れることさえ許されなかったのか。
つづく
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