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『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

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思い出にかわるまで 3


 黒子の病状については、本人からの説明のほか、家族にも会って聞くことができた。あいつが言っていることとほとんど同じ内容だった。黒子の母親は、事故後不可抗力的に交友関係が薄くなってしまった息子が昔の友人との再会に高揚しているのを喜ぶと同時に、俺のことを案じていた。
 あなたが息子によくしてくれるのは本当にありがたい。でもあの子は、テツヤは……自由には生きられない身になってしまいました。一見健康そうですが、あの子は自分ではどうにもならないたくさんの困難を抱えています。そのために火神くんにご迷惑をお掛けしてしまうかもしれません。少しでも手を貸してもらえればもちろんあの子も私も嬉しいですが……でも、あなたにはあなたの人生があることを、どうか忘れないでくださいね……。
 具体的に何が、どう、とは言われなかったが、突然の事故で障害を負った息子を誰よりも支えてきた母親の言葉に滲む悲壮な何かを、俺は感じずにはいられなかった。あいつ自身が覚えていないであろう苦労を、彼女は全部知っていて、ともに歩んできたのだ。彼女には、黒子のそれとはまた違った辛苦があったことだろう。
 あいつが普段どんなふうに過ごしているのか、定期受診はいつなのか、服用している薬はあるのか、現在の容態はどうなのか、どのようなケアが必要なのか、何に注意すべきなのか――さまざまな情報を提供してもらった。その中で俺は、あいつのかつての仲間のひとりが現在医学生で、不定期に黒子の様子を見に来たり、家族に状況を尋ねたりしていることを知った。
 その医学生というのは、緑間のことだ。あの男の年齢と学力を考えればすでに新米医師として社会に出ていそうなものだったが、驚いたことにあいつは最初の四年制大学を理学部として卒業したあと、院への進学を辞めなんと医学部へ入学し直したということだった。だからこの年齢でまだ学生ということだ。驚くべき頭脳と経済力、そして行動力だ。国立大学らしいが、それでも学費の個人負担が大きい日本でよく工面できたものだと感心する。株でもやっていたのだろうか。緑間ならできそうな気がする。やつの唐突な進路変更に黒子の事故が関わっているかはわからないが、可能性はあるように思えた。
 まだ資格は持っていなくても、一般人とは比べ物にならない知識とそれに基づく見解が聞けるのではないか。俺は緑間に連絡を取ることにした。とはいえもともとたいして親しくない上に、連絡なんてまともに取ったことなどない相手だ。どう切り出すべきかと悩んだが、結局俺の頭で考えられたのは、最近黒子に会って事故のことを知った、あいつの様子が気になるのでもっと情報がほしい、というシンプルすぎる内容だった。
 返信は思ったよりずっと早く、翌日の夜にメールボックスを確認したら緑間からのメールが一件来ていた。相手にされないか、あるいは逆に一通では収まらないくらいの文章量が詰まっているのではないかと漠然と予想していた俺は、メールを開いたときに拍子抜けするというより驚いた。
 ――話を聞きたいなら俺の自宅に来られる日付を教えろ――
 ほかにもやつが空いている日時や現住所なんかが書かれていたが、緑間からの返信はきわめて簡潔で事務的だった。
 多忙であろうに、緑間は直接俺と話す場を設けてくれるということだった。その後何回かの事務連絡的なメールでアポを取りつけると、俺はある週末、隣県にある緑間のアパートを訪ねることになった。

*****

 最寄りのバス停に着くと、昔と変わらないポーカーフェイスの緑間が待っていた。挨拶は互いにぞんざいなものだった。アパートまでの道中で、黒子の話題は出なかった。会話が弾むような顔合わせであるはずもなく、ぽつりぽつりと互いの近況を述べるだけだった。少ない会話の中で、緑間の医学部への再入学に関しては、赤司に借りをつくることになったということがそれとなくわかった。こいつに限って学力での裏口の必要性なんてないだろうから、おそらく資金面のことだろうと想像したが、追及はしなかった。俺が知るようなことでもあるまい。
 緑間の部屋は本人から受ける印象より雑然としていた。といっても、散らかっている原因は主に書籍や文書が大量に積まれているためで、生活臭はあまり感じられず清潔だった。
 ドリップのコーヒーを社交辞令的に勧められたものの、うっかりこぼしたら大変なことになるのではないかという緊張感で、すぐにマグカップの取っ手に指をかける気にはなれなかった。
「まさか直接会って話せるとは思わなかった。忙しいのに悪ぃな」
 わざわざ時間を割いてくれたことへの感謝の念は本心だ。俺の口調でそれが伝わるか自信はないが。
 緑間はすでに机の上に用意してあったらしいファイルを何冊か手に取ると、淡々とした調子で言った。
「詫びや礼がほしくてここへ呼んだわけではないのだよ。聞きたいことがあるのだろう、黒子のことで。前置きは必要ない。言ってみろ」
 合理的で効率的な話の運びだ。俺のほうもこの男と楽しく世間話なんて到底無理なので、この単刀直入さはありがたい。遠慮なく話題に入らせてもらった。
「おまえから見て、あいつの状態ってどんな感じだ? あ、俺の頭でもわかるように、なるべく簡単な言葉で頼む。俺医学用語わかんねーから。日本語だと特に。整形外科方面ならちょっとはわかるけど」
「無用な心配だ。一般人への説明力は、医師に求められる重要な資質のひとつだ」
「そうか。頼もしいぜ」
「いままで、どの程度の話を聞いている? 本人や家族からある程度聞いているだろう」
 まずは情報の確認からというわけか。ごまかしたり見栄を張る意味もメリットもないので、俺は知っている範囲のことを正直に話した。緑間は資料と思しきファイルを確認しながら適当に頷くだけだった。
 ひと通り俺のほうが話し終わると、緑間は背を正してテーブルの対面に座った。リングファイルを繰りながら、
「最初に、俺はただの大学生だということを断っておく。単に医学部に在籍しているというだけで、一介の学生に過ぎない。俺はこれから、医学的知識のある昔の知り合いとしてしゃべるだけだ」
 一種の釘差しをしてきた。自分が目下学ぶ身であることをわきまえていることのほか、個人情報保護とか守秘義務については黙殺しろと言外に伝えている。こうして緑間の自宅に招かれたのは、公共の場でそういった情報を堂々とさらすわけにはいかないからだろう。それについては俺も共犯というか俺が教唆しているような立場なので、口外するわけがない。
「よろしく頼む」
 俺が会釈程度に頭を下げると、緑間は一冊のファイルを開いて俺に示した。手書きのスケッチがいくつも並んでいる。CTの写真を転記したものらしい。色鉛筆で彩色されているものもある。患者名は空白だった。
「事故後の黒子の頭部CTやMRI画像をいくつか見させてもらったことがある。最新のものは知らないから、あくまで俺が見たことがある範囲での話になるが。普通の画像ではそれほど目立った所見がない……これは必ずしも損傷が少ないことを意味するわけではない。現在の画像技術では検出できない微細な傷を負っている可能性もある。小さな傷だからといって一概に症状が軽いとは限らない」
 緑間の長い指がページをめくる。先ほどよりカラフルな絵が並んでいた。
「脳の活動を見るタイプの画像診断があることは知っているか」
「聞いたことはある。PET……とかだっけ? 細かいことはさっぱりだが」
 このあと緑間が画像診断の種類と用途について若干の説明を加えてくれたが、残念ながら俺にはよく理解できなかった。向こうも期待はしていないだろうが。
「スケッチだから見づらいと思うが、これが二年前の黒子のSPECT画像の写しだ。絵が下手なのは我慢しろ」
 本物見てもわからないと思うのでこれで十分です、と心の中で言っておいた。
「記憶障害が主症状なだけあり、このあたり……脳の記憶を司る分野に活動の低下が認められた。記憶についてはいまだ科学的に未解明な部分も多いため、画像所見が患者の神経心理学的所見、つまり症状と常に合致するわけではないが、黒子が記憶領域に物理的損傷を受けたのは確かと見ていいだろう。さっきも言ったとおり、器質的損傷の程度はよくわからないのが正直なところなのだがな。通常の画像での異常が少ないところからすると、領域そのものはそこそこ生きていて、それぞれをつなぐネットワークが寸断されたのかもしれない。バイク事故で放り出される等、頭部に激しい震動を伴う衝撃が加わったときなどに発生しやすいタイプの損傷だ。代償的に別回路を形成する可能性がないとは言い切れないが、治療やリハビリの確立手法はいまのところない。失った能力を取り戻すことより、代替手段や補う方法を見つけるほうが現実的だ」
「あいつもそう言ってた」
「だろうな」
 緑間なりに噛み砕いて説明してくれたのだろうが、やはり難しい話だと感じた。とりあえず、はっきりわかる大きな傷はないけど障害は結構ある、という認識でいいのだろうか。
「記憶以外にも異常があるって言ってたけど、なんか知ってるか?」
「それほどひどいわけではないが、前頭葉徴候が一部見られる」
「どんなのだ、それ?」
「かなり多岐にわたるが、黒子のケースだと、同時作業が困難であったり、注意力が散漫になりやすかったり……わかりにくい部分で能力が低下している。あいつと会話していても、その場その場ではごく普通に感じるだろう?」
「ああ。どこが悪いのかわからないくらいだ」
「そこが厄介なのだよ。症状の重さが周囲に伝わらないのだから」
 と、緑間はそこで眼鏡を外した。この距離では俺の顔などほとんど見えていないだろうに、緑間の端整な双眸はきつく俺をとらえているように感じられた。
「火神。黒子の状態は、おそらくおまえが想像しているよりもずっと悪い。知れば知るほど、その重さを実感するだろう。もし今後もあいつに関わろうと考えているのなら、生半可な覚悟では無理だということを心に留めておくのだよ。でなければ、互いに傷つくだけだ」
 まだ湯気の昇るコーヒーで喉を潤すと、緑間は眼鏡を掛けた。
 俺は、緑間の忠告だか助言だかにどう答えるべきか考えあぐねていた。再会以来、黒子とは何度か会っているが、比較的『普通』に感じられていた。記憶が持続している間は、話が混乱することもない。慣れた場所、あるいは昔から知っている場所であればひとりで行動しても大丈夫なようで、はじめて俺の自宅に招いた日も、待ち合わせ場所に選んだ誠凛高校の裏門に、あいつはひとりでやって来た。そこから俺のアパートまでの道順は、成果が上がるかはわからないが、現在学習中である。
 話の続け方に迷い、俺は緑間が出してくれたファイルをなんとはなしにめくっていった。かなり古い日付の記録も散見された。もちろん記録にすぎないので、その内容は淡白なまでに専門的かつ事務的で、観察者としての立場が貫かれている。だがこの膨大な資料と詳細な記述は、作成した人間の強い感情に裏打ちされているように思われた。
 身体機能に関する記録を見たとき、俺はふと思いついて尋ねてみた。
「……なあ、バスケの話題って、避けたほうがいいか? あいつ、もうできなくなっちまったんだろ?」
「協調運動に障害が出ているから、例えばドリブルのような高度な運動は無理だ。バスケはやらせないほうがいい。記憶の中の自分の映像ではできるのに、いざボールを前にしたら何もできない、というのではショックが大きいだろう。好きなスポーツなのだから特に。あいつもやりたがらないと思うが」
「そっか……」
 あの日、もうバスケはできないと告白したとき、あいつは俯きながらどんな顔をしていたのだろうか。
 アメリカの病院で、一線で戦える選手としての生命が残り少ないと医師に告げられたとき、俺は薄々そう予想していたにもかかわらず、やはり失望は隠せなかった。それでも鬱屈とした日々を過ごさずに済んだのは、落ち込んでいられるほどの時間が残っていなかったこと、俺の脳みそがぐだぐだ悩むほどデリケートではないこと、そして何より、自分の意志で選択してきた結果だと理解できたからだ。それにバスケ自体が人生から奪われるわけではないのだから、自分の将来の展望が悲観的だとは感じなかった。そう思えるくらいには俺は満足し充実した道を歩めていたということだろう。
 だがあいつは。
「バスケ……できないのかぁ……」
 完全に独り言だった。
 あんなに好きだったのに。いや、自分を高校生だと認識するあいつはいまでも大好きなのだろう。それが突然、できなくなった。あいつは未来とともにバスケまでも理不尽に奪われてしまったのだ。遣る方ない思いが胸に湧く。
 天井を仰ぎ黙り込む俺に、緑間が話を続けてきた。
「触れにくい気持ちはわかるがな、火神、だからといって話題そのものを不自然なほど回避する必要はない。それはそれでよくないのだよ」
「っていうと?」
「黒子の障害は見かけよりずっと重いが、知能は概ね保たれているし、感情制御にも著しい困難はない。要するに冷静ということだ。驚いたことに、観察眼の鋭さも残っている」
 はあ、と緑間はため息をついた。俺に対してではない。こいつの胸中にもまた、やりきれない気持ちがよどんでいるのだろう。
「あいつは、こちらがつい気を遣ってしまうのを敏感に察知する。おまえに過剰に気を遣わせているのを感じ取れば、あいつはそれを気に病むかもしれない」
「なるほどな。ほかに、あいつと接する際に気をつけたほうがいいことは?」
「山ほどあるが……そうだな、まずは焦らせないことだ。動作がぎこちないのは気づいているだろう?」
「ああ。なんか、なんでもないところでふらついたりぐらついたりしてる。字も下手になった気がする」
 俺がそう言うと、緑間はまた別のファイルを開いた。小学校低学年が習いはじめの漢字を必死に書いたみたいな筆跡がたくさんあった。時系列にファイリングされているようで、年月日が若くなるごとに文字は文字としての体裁を整えていき、やがて俺が最近見た黒子のメモの文字と同じような筆跡が出てきた。
「回復はしていると思うが、そうそうよくはならない。動作の拙劣さ……あれも中枢神経の異常から来ているものなのだよ。甘やかすことはないが、動作が遅いからといっていちいち苛つかないよう心掛けることだ。急かすのが一番まずい。あいつ自身が誰よりももどかしさを感じているはずだ」
 あいつのリハビリと回復の軌跡の一端を見せられ、息が詰まる。初期の頃の字の乱れや誤り……こんなにひどかったのか。
「あれ? これ……」
 ファイルの中ほどの、不自然に空白の多いページに目が留まる。真っ白かと思ったが、上のほうに漢字が数個書かれている。大きさはばらばらで、誤りも見受けられたが、読むことはできた。
『火神大我』
 その四文字だけが、この紙に残るペンの跡だった。枠外に小さく日付はあったが、多分緑間か誰かがあとで付け加えたものだろう。
 何を意味するものかと訝っている俺に、すかさず緑間が説明する。
「ああ、いつだったか、自由に人名でも書いてみろと言ったら、最初にこれを書いたんだ。この時期はまだ、高校時代の記憶は混濁していたはずなのだが。書いてから、本人も不思議そうにしていた。書いたはいいものの、誰の名前なんだろうって顔をしていた。下手に刺激したくなかったから、このときはすぐに紙を取り上げて、別のことをやらせた。三十分もしないうちに、名前を書かせたことは忘れていた。あいつがおまえを含め高校のときのことを思い出したのは、もう少し経ってからのことだ」
「あいつ……」
 不謹慎だが、少し嬉しかった。当時の容態は俺にはよくわからないが、あいつが俺のことをわずかでも覚えいてくれたことが、俺の心を和ませた。
 感慨に耽りかけたが、それではただの自己満足なので、先に進めることにした。
「ほかに気をつけることは?」
「そうだな、なるべく怖がらせたり驚かせたりしないように」
「どういうことをするとまずいんだ?」
「状況による。具体的にどうとは言えない」
「まあ、そりゃそうか……」
 確かに正論なのだが、身も蓋もない回答だ。頼ってばかりいないで試行錯誤しろという意味なのかもしれないが、取り返しのつかないことをしてしまいたくないから、こうして尋ねているのだが……。
「あいつはほとんど何でも忘れるからこちらとしても油断しがちになるが、感情は記憶として残りやすい。たとえ出来事自体を忘れても、それに付随した感情は消えないことがあるのだよ。嬉しいとか楽しいとかならいいのだが、負の感情が強く残ってしまうのは、本人にとってつらいだろう。理由はわからないのに、不快な気持ちが燻ることになるのだから」
 緑間の表情に一瞬、翳りが生じた気がした。いま説明されたことの具体的な事例が、過去実際にあいつの身に起こったということだろうか。
 掘り下げて聞いていいことなのか?
 窺うような視線を投げかけると、緑間はちょっと目を逸らした。
「……いま言ったこととは別に、接触や接近を拒むことがあるかもしれない。トラウマ的なものではなく、感覚の亢進が原因だ」
「……?」
 後半の言葉の意味が俺には難しかった。多分あからさまな疑問符が顔に浮かんだのだろう、すぐに緑間が付け加えた。
「ちょっとした刺激が何倍にも増幅して感じられるらしい。たとえば、通常のヒトの体温が熱した金属くらい熱く感じるというような。目や耳、皮膚といった感覚器の異常ではなく、脳の高次レベルで刺激の情報をうまく処理できなくなるらしい。処理落ちの余波のようなものだ。乱暴な言い方をすれば錯覚なのだが、本人は苦痛を感じる。触られるのを嫌がったり、大きな音を怖がったり……。誰かが悪いわけではないから、拒絶されたからといってショックを受けることはない。長時間続くことはないから、そういう素振りを見せたときはあまり近づかず、静かにしていろ。他人にできるのは、刺激を小さく少なくしてやることくらいだ」
 そんな症状まであるのか。いままで会った中ではそういった反応はなかった――少なくとも俺は気づかなかった――ので、貴重な情報の提供に感謝する。
「あいつ、エライ世界に生きてるんだな……」
「そのようだ。この世界はいまのあいつにとってひどく生きづらいだろう。逆に鈍感になるときもあり、怪我をしても痛みを感じず悪化させてしまうといった事態も考えられる。あいつは、表面的にはわからない困難をたくさん抱えているのだよ」
 緑間が遠い目をする。どのくらいの頻度で黒子を診ているのかは知らないが、これだけの情報を持っているのだ、医学生というアドバンテージを考慮しても、相当注意深く観察してきたのだろう。翻せば、あいつと接する中でそれだけ多くの波乱を体験したということかもしれない。
「あとは……ああ、これが一番厄介かもしれないのだが」
 数拍置いて、緑間が続ける。
「脳疾患や脳外傷の患者には珍しくないのだが、たまに抑うつ状態になる」
「うつ病?」
「――とは違うが、まあそんなような症状だと思ってもらっていい。おそらく器質的な原因だろう。きっかけや理由は特にない。周期もない。予防法もない。薬物療法と時間経過で寛解するが、何度も繰り返している。発症すると基本的に入院治療になる」
「え……入院って、そんなにひどいのか」
「自殺の危険性があるから仕方ない」
「自殺!?」
 穏やかでない単語が出てきて、俺は思わず声を荒げた。が、緑間は冷静なものだった。
「落ち着け、火神。俺の言い方が悪かった。あくまで一般論として可能性があるというだけだ。症状として出現することがあり得るのだよ。仕方のないことなんだ。もっとも、あいつの主症状は基本的に精神活動の低下だから、自殺や自傷のようなある意味でアグレッシブな行動に出たことはないと思う。これは、そういう行為を起こせないくらい心身が弱ってしまうという意味でもあるのだが……。それに入院の最大の理由は、記憶障害のせいで在宅での服薬管理が難しいからだ。発症中は記憶障害をはじめほかの神経症状も一時的に重症化する傾向があるようだしな。俺にはどんな世界なのかおよそ想像がつかないが、ひどいと記憶が数十秒で消えるらしい。これでは本人も身動きがとれまい。だから誰かが常に見ていなければならないのだが、家族にそれを任せるのは負担が大きすぎるだろう。そのためそれほど症状が重くなくても、診断が下れば原則入院になるというわけだ」
 黒子の身体は予想以上に多彩で深刻な症状に蝕まれているらしい。以前と変わらず物静かに淡々としゃべるあいつの姿を思い浮かべると、一層痛々しさが浮き彫りになる。
「あいつ……社会復帰できるのか?」
「納税者にはなれないだろう。自立ばかりが幸福の条件でもあるまい」
 そう言って緑間は、すっかり冷めたであろうコーヒーに口を付けた。冷静で平坦な口調だが、そこには思いやりが見え隠れしている。
「緑間って、黒子のことめっちゃ気にかけてるのな」
「意識してかけているのではない。職業病のようなものなのだよ」
 だとしたらずいぶんなワーカホリックだ。
 机に積まれた何冊ものファイルを横目に、俺もまたすっかり温くなったコーヒーで口内を湿らせた。メーカーを見るにそれなりの品質だろうに、いまいち味を感じなかった。

*****

 一息つくか、と言って立ち上がった緑間がキッチンから戻ってきたとき、その手には缶ジュース型のしるこがふたつ用意されていた。ブラックのコーヒーの後に飲むとうまさが倍増するとかなんとか、変な豆知識を教えられた。この日一番どうでもいい情報だと思った。インターバルとしてはちょうどよかったかもしれない。いい感じに脱力できた。
 広範に流通させるためには仕方ないのだろうが、市販の飲料はどうしても甘味が強く、俺は二口ほどでギブアップした。緑間は平気な顔をして飲んでいる。
「ところで火神……黒子との間で、高三のインターハイの話はしたか?」
 尋ねられ、俺はぎくりとした。あいつは高三の一学期までしか覚えていないと最初に言った。いままで高校時代の話題も何度か上ったが、三年のときの話はしたことがなかった。聞かれなかったし、俺からもしなかった。決して悪い思い出ではない。むしろ、俺にとっては人生で一番鮮やかで輝いていた時間と言ってもいいくらいだ。けれどもなんだか怖かったのだ。喪失というかたちで縁取られたあいつの傷に触れてしまう気がして。
「いや……あいつ、そのあたりの記憶はないって言うから……」
「そうか、やはりあれ以上の回復は望めないか。黒子も積極的に触れようとはしないだろうが、火神、高三の話題になったら気をつけろ。特にインターハイ絡みは」
「なんか地雷があるのか?」
 緑間のトーンが低くなったことに俺は気色ばんだ。
「おまえと黒子に共通する思い出のうち、おまえが覚えていて黒子が覚えていないというのは……どちらにとっても楽しい気分にはならないだろう」
「そうだな。俺もそんな気がして、避けちまってる」
 ことん、と緑間が缶をテーブルに置く音が短く響く。
 緑間の視線が少し泳ぐのがわかった。何か話そうとしている。が、話すべきか否か迷っているように見受けられた。
 俺は促すことなく、ただ待った。
 一分ほどの逡巡ののち、緑間が口を開いた。
「以前、黒子のほうから俺たち――そのときは黄瀬も同席していた――に、最後のインターハイについて聞いてきたことがある。覚えていないから教えてほしい、と言って。最初は普通に聞いていたし、質問もしていたんだが……段々と顔色が悪くなって無言になり、そうかと思うと独り言を繰り返したり……明らかに様子がおかしくなっていった。俺たちは途中で話をやめたのだが、あいつはそれにも気づかず、恐慌状態に陥った。いくら体力も運動機能も落ちているとはいえ、暴れるあいつを抑えるのは苦労した。黄瀬はおろおろするばかりで役に立たなかったしな。せめて青峰だったら……いや、あの状況で使い物になるのは赤司くらいなものか」
 あのおっかない赤毛を『使い物』と言い切る緑間もなかなかのものだ。なんだかすごい状況だったようだが、緑間はさぞ頼もしかったことだろう。
 当時の苦労を偲んでか、緑間はやつにしてはわかりやすい調子で大きくため息をついた。
「錯乱しながら、あいつは同じ台詞を繰り返していた」
 す、と緑間がまっすぐ俺をとらえた。
「狂乱の中で泣きながら、あいつは何度も言っていた――『火神くんがいない。どこですか、どこに行ってしまったんですか』……と」
 黒子、おまえは……。
 呆然とする俺をよそに、緑間はさらに続けた。
「おまえとの思い出を忘れている自分に、あいつは打ちのめされたんだろう。あのときのあいつの意識は、高三の頃に戻ってしまっていた。そして、そばにいるはずのおまえを探そうとしていたんだ。現実世界ではなく、自分の記憶の中のおまえを探していたのだと思う。高三のインターハイでのおまえの姿は、本来あいつの記憶の中にあったはずのものだった。それが消えていることを実感して、ショックだったのだろう……」
 怜悧なはずの緑間の顔が、ほんの一瞬、つらそうに歪むのが見えた気がした。
「以来、俺たちの間ではあいつの前でおまえの話題を出すのを避けるのが暗黙の了解になった。まあ、何年も前の話だから、いまはどうなのかわからないが。あの頃はまだ病状が落ち着いていなかったこともあって、病識はあるもののあいつは自分の心身の状態に戸惑っていた。当時の黒子にとっては酷な話だったに違いない。……いまになって振り返れば、かわいそうなことをしてしまったものだと思う」
 緑間たちが悪いわけではないのだろうが、その声には後悔の苦渋が滲んでいた。そしてまた俺も、あいつにひどいことをしてしまったような気がしてならなかった。あいつの頭の中で起きている事柄である以上、誰にもどうすることもできなかったというのは明らかだが、それでも……。
 沈痛な面持ちで、俺は俯いた顔を上げられずにいた。がた、と小さな音が向かいからする。緑間が立ち上がったらしい。
「火神、おまえに非があることではないが、ゆめゆめ肝に銘じておくのだよ。おまえはあいつにとって地雷になり得るということを」
 慰めか、励ましか、忠告か――緑間は俺の肩を軽く叩いたあと、ファイルの片づけに取り掛かった。俺はまだ動けなかった。


つづく
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