あいつは正座を崩すと、再びベッドを背もたれの代わりにして床に座った。折り曲げて立てた両膝を緩く抱え込んでいる。俺も横に並び、痛めた膝に負担がかからない程度の緩い胡坐をかいた。しばらくの沈黙と逡巡ののち、あいつが口を開いた。
「覚えていないんですが、僕、事故で体を悪くしてから、誰かとセックスしたことがあると思います。多分、男性と。一度だけ……ではないかもしれません、もしかしたら。具体的なことは本当に何も覚えていないのでなんとも言えませんが。仮に何か知っている人がいたとしても教えてくれるとは思えませんし……第一僕の場合は聞いても意味がないですからね。人の話なんて全部忘れてしまいますから。せっせとノートに書き残したいとも思いませんし。緑間くんあたりなら何か知っているかもしれません。彼がときどき僕の様子を見に来てくれているというのは僕も知っています。もっとも、彼には申し訳ないながら、記憶にはありません。まあ、気まずいだけで本当に何の実りもない話になるでしょうから、確認しようとは思いませんが」
軽くはないが、重々しくもない調子であいつは語った。と、思い出したように宙を仰ぐと、俺のほうを振り返った。
「あ、性病の検査はクリアーしていたと思います。よっぽど大丈夫だと思いますが……今度改めて先生に結果を確認しておきますね。ゆうべ火神くん、ちゃんとゴムしてくれてましたよね?」
唐突に生々しい話を振られ、俺は現実に引き戻された。思い返せば、あいつはゆうべ妙なタイミングでコンドームの有無について聞いてきた。ちゃんと用意してあったので困ることはなく、あのときはあいつの言葉の意図を深く考えていなかったが、こういうことだったのか。
あいつからの質問に、挿入の前につけた、と端的に答えると、あいつはほっと息をついた。そしてナイトテーブルの上に置いたスケジュール帳を手に取り、事務的にペンで書き入れた。どういうふうに切り出すのかはわからないが、医師に確認するというのは本気だろう。俺の身体の安全のために。
書き終えると、あいつはふうと呆れたような溜息をつき、先刻と同じ淡々とした調子で続けた。
「ああは言ったものの、実は合意なのか暴行なのかもわかりません。困ったものです、僕の頭も。ただ、なんとなく怖い感じが残っているので、よい体験ではなかったのだろうなとは思っています。うーん……僕のほうからどうこうというのはさすがにないかと。何せこんな体ですから、非力も非力、健康な女性ほどの力も出すことができません。仮に何かの間違いで女の人に迫ったって、簡単に返り打ちにされるでしょう。まあ、頭のぼんやりした僕が、うっかり誰かについていってしまったというのが一番ありそうな可能性ではありますが。だとしたら、相手もある意味被害者ですね。僕、相当面倒くさかったと思いますよ。……ああ、すみません、こんなこと、きみにぺらぺらしゃべるべきじゃなかったかもしれません。すみません……」
思ったほど怒りが湧いてこない自分に驚いた。なぜだろう。つらい経験をしたはずあいつを痛ましく感じるのに、なんだか遠い話に感じるのは。記憶のないあいつが語るあいつ自身のエピソードは不確かさに満ちていて、あいつではない誰かについての話を聞いているような印象さえあった。もし犯罪性を帯びた事態であったのなら加害者がいるのだろうが、あいつの話からは、具体的な登場人物の姿が影ほども窺えない。あいつ自身さえはっきりとは見えてこない。覚えていないのだから当然なのだが、それゆえ現実感がない。怒りを覚えたとしてもそれを向ける矛先がまったく見えないのがわかるから、感情も鈍くなってしまうのだろうか。憤りと同様に、あいつへの憐れみもまたいまいち出てこない。本当に、知らない誰かの話を伝聞で耳にしているような感じなのだ。
ただ、ひとつ気になる点があった。
「怖いって、そういうの……覚えてるもんなのか?」
「ほかの事柄と同様、エピソードはまったく記憶にありません。ただ……全部忘れるとは限らないみたいで。何が起きたのか覚えていなくても、そこで生じた感覚や感情は、わずかながら残ることもあるようです。本当に、少しだけですけど。あと、前も説明したかもしれませんが、動作的な記憶は保たれているので、なんと言いますか……体が覚えている、みたいな感じでわかることがあるんです」
緑間の説明を思い出す。
――感情は記憶として残りやすい。たとえ出来事自体を忘れても、それに付随した感情は消えないことがある……
符号が合った気がした。あのときの緑間の言葉がいま黒子が語っている件をダイレクトに指しているのかはわからないが、あれはこういうことなのだ。世間話みたいに話すあいつだが、無意識下には恐怖が残っているのだろう。昨晩、はじめてはっきりと性的な意図をもってあいつに触れたとき、わずかに体を硬直させた。あれは怯えからくる反射的な拒絶だったのだろう。これまであいつは、俺とひっついた状態で話したり眠ったりするのには何の抵抗も示さなかった。むしろあいつのほうから近づいてくることも多々あった。しかし昨晩の接触には、いままで見られなかった回避的な反応が窺えた。ただの接触は平気でも、性的な意味合いを帯びるとその気配を敏感に察知するということだろう。昨日の夜、結局あいつは受け入れてくれたが、怖がらせてしまったことには変わりない。俺は苦い気持ちになった。
「悪ぃ……ゆうべ、おまえちょっと怖がってるみたいなとこあった」
「……そうでしたか」
「気づいてたのに……すまん。怖かったんだな。ごめんな」
ここで謝ったところで無意味だが、罪悪感が苦しくて、俺は謝罪とともにうなだれた。あいつはふるふると頭を振る。
「いいえ。きみがそこでやめないでくれてよかったです。きみは正しい判断をしました」
そう言うと、あいつは足を伸ばし、天井を仰いだ。
「忘却は時に便利です。覚えていたら、もう二度とこうして火神くんに触れられなかったかもしれないんですから」
そんなふうに言うということは、やっぱり相当ひどい体験だったのではないか。たとえ覚えていないにしても。たとえそれに対する自分の感情を意識できないにしても。
あいつはちょっとためらったあと、床に放られていた俺の手の上に、遠慮がちに自分の手を重ねた。触れていいものか、と自問するように。
「レイプされたかも、という件に関しては、どうか気にしないでください。僕は真相をわかっていないんですから。……といっても無理ですよね。こんなこと聞かされたら、誰だって穏やかな気持ちにはなれないと思います。……こう言うくらいなら最初からしゃべるなという感じですね。ふ……すみません、黙っているの、やっぱりちょっと苦しかったんです」
そうだろう。言ってくれてよかったと思う。過去の出来事をなかったことにはできないが、告白することでおまえの心の重荷が幾許かでも軽減されるなら、話してくれてよかったんだ。告げるのは心の重さに耐えきれないつらさの現れであると同時に、勇気の証左でもあるだろう。こんな話をしてくれるくらいには信頼されていると考えていいのだろうか。もしそうなら、不謹慎だと自覚はするが、あいつが俺にそれだけ心を開いてくれたことが嬉しい。
「でも、本当に大丈夫ですよ。事実がどうであったのかはわからないんですし、僕自身覚えていないので、トラウマになったりということもないです。体が怖がってしまうのは、まあ負の学習みたいなものです。でも、それももう多分大丈夫です。きみが優しく抱いてくれたみたいなので。セックスが優しいものだって、僕の体は再学習できたと思います。だから火神くん、そんな顔しないでください。きみに触れてもらえて、僕はきっとすごく幸せだったんですから」
あいつにそんなことを言わせてしまうなんて、俺はどれくらい沈痛な面持ちだったのだろうか。逆に気を遣われ励まされたことが恥ずかしい反面、あいつの優しさが胸に染みた。
実際のところ、あいつが話すほど軽い出来事ではなかったのだろうと思ったが、この件についてはそれ以上追及は避けたほうがいいと感じた。もちろん気になるのだが、本人も周囲も詮索されるのを望まないだろうし、俺が真相を知ったところで過去が変わるわけではない。覚えていないだけで――そしてそれゆえ意識できないだけで――きっとあいつの心の内側には傷が残っている。その治りかけかもしれない瘡蓋を剥がすような真似が俺にできるはずもない。強く引っ掻いたら血が流れ出すと、容易に想像できるのだから。本人の無意識下にある傷ゆえ、治療の手が伸ばしにくいのが厄介だと感じる。時が癒すという言葉があるが、普通の時間の流れに取り残されたあいつにとって、時間の経過による自然治癒は期待できることなのだろうか。心配だったが、いまどうこうできることでもないので、この場でこれ以上の深入りを俺のほうからするのはやめようと思った。
あいつも話を切り替えたがっている様子だった――やはり嫌な気持ちは残っているのだろう。それに、まだ話したいことがあるように見えた。そして、多分こいつにとってそれはいまさっき語ったことよりも大切なことなのだろうと漠然と感じた。
重ねた手を解くと、あいつはいざりながら少し前に進み出て、女の子みたいな座り方で俺と向かい合った。昨晩の疲労から、きちんとした姿勢を維持するのがつらいのかもしれない。ただでさえバランス感覚が悪いのだから。
「今朝目を覚ましたとき、体の感じから、自分がゆうべセックスしたんだろうと気づきました。起き上がってベッドから降りたときには確信しました。もちろん記憶はありませんが、火神くんが抱いてくれたんだろうと推測できました」
「まあ、俺の部屋だしな」
「それもあります。でも僕がそう思った一番の理由は、すごく気分がよかったからです」
あいつは柔らかな笑みを小さく浮かべた。
「起きたとき、すごく幸せな気持ちがしたんです。だからきっと、自分はよい体験をしたのだろうと思いました。好きな人と触れ合えたら、きっとこんな気持ちではないかと。それで、僕をこんな気持ちにできる一番の候補はきみでしたので、おそらく相手はきみなんだろうな、と」
クリスチャンが神様と語ろうとするときみたいな仕種で、あいつは自分の胸に手の平を当てた。
「ありがとう、火神くん。僕は事故でこんなふうになってしまったから、もう誰かと抱き合って幸福を得られることがあるとは思えなかった。でもきみはそれを叶えてくれました。覚えていないけど、確かに嬉しい。僕がいまどれだけ幸せなのか、伝える言葉が見つかりません。もしかしたら、ゆうべ僕が無理にお願いをしたのかもしれません。きみの同情を誘ったのかもしれない。そうだとしたら申し訳ないです。うつるような病気にはかかっていないはずですが、ひょっとしたらきみを危険にさらしたかもしれない。こんな体を抱かせてしまい、本当に申し訳ありませんでした。でも、身勝手な話で恐縮ですけれど、それでも僕は、きみが……僕を抱いてくれたことが嬉しいです。ありがとう。ありがとう、火神くん。大好きです」
「黒子……」
真摯にそう告げるあいつの純真が眩しい。いざなわれるように、俺はあいつの顔へと右腕を伸ばした。指の先があいつの白い頬を掠める。
「火神くん、まだ僕に……触れてもいいって思ってくれますか?」
あいつは恐る恐るといった動きで、伸ばされた俺の指に自分の手を近づけた。俺はあいつの手を掴むと、膝立ちになってぐいと自分のほうへ引いた。
「当たり前だろ。いまさら……手放せるかよ」
バランスを崩したあいつが前方へ倒れ込み、俺の腕にすっぽりと収まった。背を抱き締め、髪に頬を寄せる。
「……っ、火神くん!」
あいつは感極まった声で俺を呼んだ。
「きみがいてくれて、僕はどんなに救われたか知れない」
俺の胸に顔を押し付け、あいつはくぐもった声で言った。
「何を大げさな」
俺にできることなんてほとんどない。俺のそんな心の声をかき消すようにあいつが続ける。ふるふると頭を横に小さく振り、否定の動作をしながら。
「いいえ、きみは間違いなく僕を助けてくれていたんです。いままでずっと。きみが僕の事故を知らなかったときでさえ、きみは僕を助けてくれていたんです」
「黒子?」
呼ぶと、あいつは顔を上げた。泣きそうな、けれどもどこか恍惚とした表情だ。何か話したそうにしているが、この態勢を続けるのはあいつにとって負担だろうと思い、俺はあいつの背側に回り、足の間に座らせ後ろから抱いた。あいつの体重を胸で支えたまま、俺自身後方へ体を傾け、ベッドを背もたれの代わりにする。脇から腹のほうへ通した俺の腕に上から手を添えながら、あいつが静かな声で語る。
「多分僕、生きるのをとてもつらく感じています。僕はひとりでは生きられません。自分の日常生活ひとつ満足に過ごせない僕を、いろんな人が支えてくれている。それはわかります。けれども、彼らと共有できる記憶がない僕は、やっぱり孤独なんです。僕だけ別の生き物になってしまったみたいな感じがして寂しいんだと思います。僕はもう、誰かと一緒に進むことができないから。過去に縛り付けられた僕は、現在や未来に光があっても、近づくことさえできません。切り離された影、なんてちょっと詩的ですよね。喜ばしいことではありませんが。……だから僕は、自分の中にある唯一確かなものに縋っています。それは、十七歳までの記憶です。それだけが僕の自由になるものであり、僕自身でもある。その中でも一番鮮明で充実していたと感じるのは、きみと過ごした高校時代です。二年と少しだけの記憶だけど、とても大切な宝物です。耐えがたい孤独感に襲われたとき、おそらく僕はこの記憶の小部屋に逃げ込んでいたと思います。何度も何度も。きみの姿が、僕の不安や孤独を癒してくれていたのでしょう。きみは間違いなく、僕の光であり続けている。……ああ、駄目ですね、こんなことを言ってしまうなんて。僕が好きなのは結局、あの頃のきみなんだって、そういうことになっちゃいますよね……ごめんなさい、ごめんなさい。でも、僕はきみが好きなんです。ずっとずっと、好きなんです。いままで好きだったのだから、これからもずっと好きです。だって僕は、先に進めない生き物だから……」
ああ、そういうことだったのか。
いままでの疑問が氷解した気がした。
こいつが俺に見せていたこだわりや執着は、ここに起因していたのだ。ずっと好きでいてくれたのか。俺のこと、そんなに好きだったのか。そんなに昔から、ずっと。その好意が結果として自分を苦しめているとわかっていても、なお。
つづく