一度積み上げたあいつと俺との時間という積木は、あいつの精神的不調を境に呆気なく崩れ去った。家族や緑間の話の通り、あいつの病状は進行せず、以前の水準に戻っていた。つまり高三の一学期までの具体的記憶が自由に引き出せる一方で、その先は何もない状態、というわけだ。
後退したわけではなく振り出しに戻ったというだけなので、再び積み木を重ねることは可能だ。そう前向きに考える一方で、またあの不調の時期が訪れればすべてがゼロに帰すかもしれないと思うと、絶望感を覚えないではなかった。あいつの周囲の人間は、幾度もこんな経験をしながらいままでやってきたのだろう。あの日、赤司が投げかけた問いの重さがじわじわと胸を圧迫する。すべてを見透かすような目をしたあの男もまた、黒子と接する中で絶望に似た気持ちを味わったのだろうか。いや、あの男は間違いなく、もっと深い闇を知っているに違いない。黒子が重症どころか重体だった時期を実際に見ているのかもしれない。
意識障害、記憶障害、運動機能の異常、その他諸々のわかりづらい高次機能の不全――多くの困難とその回復過程、そして逆戻りが繰り返されたことだろう。あいつの不調の前後で、俺はそれらを疑似的に追体験したのかもしれない。もちろん、現実はこれとは比べものにならないくらい厳しいものであっただろうが。
今後も同じことが輪のように続くのか。永久に脱却できないまま。
きついな、と正直思った。
それでも、俺はあいつを放っておくのは嫌だった。あいつに対して俺ができることなんてほとんどない。それはわかる。この短期間で嫌というほど思い知ったのだから。しかし例えばあいつがバランスを崩しかけて転びかけたとき、ちょっと支える程度ならできるかもしれない。だがそれは、あいつのそばにいなければできないことだ。離れて見えないところにいたら、それこそ何もできない。
だから共にいたいと思うのは、ただの自己満足だろうか。
迷宮のような思考の渦が絶えず頭の中でうごめいているのを感じながら、俺はとりあえずの平穏を取り戻したあいつとの時間を過ごした。もう一度最初から、というつもりで。焦らなくていい。少しずつ進めば。また同じ位置に戻ったとしても、隣にいればちょっとくらいは支えられる。前向きなのか後ろ向きなのかわからないそんな考えとともに。
ところが、最初とまったく同じ道筋かと言えば、そうではなかった。
退院後半月ほどは、はじめに再会した当時のようなぎくしゃくがあったが、その後は急速にそれが薄まっていった。具体的な記憶は残っていないながら、あいつは入院前から俺と交流があったことを無意識下で察しているようだった。俺の自宅へ一緒に歩くとき、日中にも関わらず手をつなぎたがったり(このとき俺からは提案していない)、部屋で話しているといつの間にか距離が近づいていて、そのうち体重を預けてきたり――それも、躊躇なく自然にそんな行動を取っていた。それが習慣だとでもいうように。不思議に思ったが、どうしたんだなどと下手に指摘して自分の行動を意識させるとあいつが戸惑うかと思い、何も言わずに好きにさせておいた。俺としても、あいつのほうから距離を縮めてくれるのは嬉しかった。また、過去に経験のあることは回復しやすいのか、たとえばあいつの自宅から俺のアパートへの道順や俺の部屋の間取りなど、退院後に二、三回連れてきただけでほぼ定着した。これは最初の頃では考えられない学習の速さだった。
完全に忘れ去るわけではないのだ。
覚えられるようになったわけではなく、反復行動の結果なのだろうが、繰り返すという行為は頭には残らなくとも、確かにあいつの体に経験として蓄積されていた。それは意識されない記憶と言えるだろう。
あいつがまったく前へ進めないわけではないのだと実感して、俺は少しだけ心が楽になった気がした。もちろん、それであいつが抱える困難さが緩和されたりはしないのだが、すべてが完全に閉ざされているわけではないと知り、現金な話だがちょっと楽観的になれた。
それがよかったのかもしれない。
変に思い詰めることがなくなり(ない頭で考えすぎた結果思い詰める気力がなくなっただけかもしれないが)、あいつへの態度が以前より自然になったように思う。あいつもそれを感じ取っているのか、前ほど距離を置いている印象がなくなった。壁がひとつ、壊れた感じがした。
ゆっくりと歩んでいくつもりで進んだ結果、前のような関係に落ち着くことができてから、次の変化が訪れる転機となったのは、退院から一月半ほど経った頃のことだった。
退院後はじめてあいつが俺のアパートに泊まりにきたときのこと――俺はいつもだったらあいつの目に留まらないようクローゼットに仕舞っておくバスケットボールを、机の下に置きっぱなしにしていた。あいつを部屋に招き入れた段階では目につかなかったので気づかなかった。いつものように俺が遅い夕飯をつくり、あいつは寝室で洗濯物を畳んでいた。することがないのは落ち着かないというので、手先が多少不器用でも負担なくできそうな作業を与えておいたのだ。アパレルショップの店員ならば高度な技術を要求されるだろうが、俺の衣類なんてぐしゃぐしゃになったところで困らないので、気楽にあいつに任せておいた。
食事の支度ができて寝室にあいつを呼びに行ったとき、中途半端に畳まれた洗濯物の真ん中に座り込むあいつの背を見た。具合が悪いのかと一瞬肝が冷えたが、部屋に数歩踏み入れたとき、あいつの横顔と、その下にある茶色の球体が目に入った。バスケットボール。そう言えば、今日はクローゼットに仕舞わなかった気がする。
失敗したか?
あいつの心を乱す要因になり得るだろうかと考えどきりとしたが、あいつの居ずまいに俺ははっと息を呑んだ。
あいつは少し痛んだバスケットボールを大事そうに両手で支え、額をその球面に押し付け、切なげな、けれどもどこか懐かしげな表情で目を閉じていた。長い間会わなかった大切な人にようやく再会したかのように。
俺はしばらくその光景に見とれていた。どこにでも売っている蛍光灯の光に照らされたその姿は、しかしスポットライトに当てられた舞台のワンシーンのような厳粛な美しさがあった。
ああ、そうだったな。おまえはバスケが大好きなんだよな。
そう感じたとき、いままで腫物のように避けていたことが馬鹿らしくなってきた。
俺はあいつの横にしゃがんで片膝をつくと、そっと肩に手を置いた。あいつは驚くことなく、まるで夢から覚めるようにゆっくりと俺のほうへ顔を向けた。
「……火神くん?」
俺の姿を見とめると、そこではじめてあいつははっとした。
「あ、すみません、僕、勝手に……」
ボールを両手に持ったままわたわたする。俺は笑い交じりのため息をつくと、
「お友達との逢瀬中に悪いが、そろそろ飯だぞ」
昔読んだ日本のサッカー漫画のことをなんとなく思い出しながら言った。あいつにはそれが通じたらしく、
「それは翼くんの特権ですよ」
「畑違いだからいいだろ」
「そういえば翼くんていま何歳なんでしょう?」
「真面目に読んだことないからわからん。成人はしてるんじゃないか? 俺らより上か下かは知らねえけど。っつーか翼くん結婚したとか聞いたんだけどまじかよ」
「ああ、それ結構前の話ですよ。僕が知っているくらいですから。情報古いですねえ、火神くん」
「おまえに情報古いとか言われるとはな」
「バスケばっかやってるからです」
「おまえだってバスケ馬鹿だろ」
「火神くんに馬鹿って言われました。ショックです」
「なんだとてめえ――」
なんてしょうもないやりとりをした。本気で何の意味もない会話だが、そんなことを言い合えるのが楽しくて嬉しかった。
「すみません。なんだか懐かしくなってしまって。ご飯終わったら洗濯物の続き、ちゃんとやりますから。今日のご飯はなんですか?」
「簡単にスパゲッティにしといた。ミートとカルボナーラ。嫌いじゃないよな?」
「ソースふたつとも火神くんの手作りですか?」
「おー」
「簡単……なんですか?」
「難しくはない。要は慣れだからな」
話しながらダイニングへ向かう。よっぽど名残惜しいのか、あいつはボールを連れてきた。食事中は床に置くように言い、ボールに触れていた手をしっかり洗わせてからふたりで食卓を囲んだ。
食後は前になんとなく決めたとおり、あいつが皿を洗い、俺はあいつを見守りつつテレビを眺めた。俺が指先でボールを回しているのを、あいつがたまにちらっと見てくることに気づいていた。
退院後にあいつが風呂まで入っていくのははじめてだったので、念のために入浴に立ち会い、入れ替わりで俺が入った。待っている間に俺が洗濯物を畳んでもよかったが、あいつが自分の仕事だから最後までやると言い張ったので、放置することになった。とはいえ風呂に入っている間に忘れてしまうだろう予想ができたので、風呂上がりのあいつを、髪をしっかり拭くという強引な口実でもって寝室に引き入れてベッドの前に座らせ、洗濯物が散らばっていることを思い起こさせた。ボールは寝室に残しておいた。
入浴を終えてタオルを頭に掛けたままミネラルウォーター片手に寝室に入ると、多少不格好ながらちゃんと畳まれた洗濯物がベッドの脇に寄せられていた。あいつはベッドに腰掛け、指先にボールを当てては取り落とすということを繰り返していた。俺の入室にも気づかず、懸命に。ボールを回転させようとして失敗しているのだとすぐに理解したが、真剣に練習に取り組んでいるようだったので、しばらくそのまま見守った。子猫が毛糸玉にじゃれている姿を連想させ、失礼だがちょっと微笑ましいと思った。
俺は、立てた自分の指を見つめながら眉をしかめているあいつに近づくと、
「ああ、ここはもうちょっとこんな感じで――」
背後に回ってあいつの体を抱き込み、手を取って指のかたちを整えてやった。
「火神くん」
あいつは驚いた顔をしたが、感覚異常は起こさなかったようで、体が硬直したりはしなかった。
「久しぶりか?」
「多分。僕の部屋にはボール置いてなかったはずなので。とんでもなく下手になってしまったのがわかるので、避けてた節があるんでしょうね」
「で、どうよ。久々のボールの感触は」
ぴったりとくっつき、後ろから首を伸ばして尋ねる。俺の髪が当たったのか、あいつはくすぐったそうに笑ったあと、
「そうですね……感覚は変わってしまいましたが、それでも指が喜んでいる気がします」
右手を開閉させながらそう答えた。
それならば、と俺は腰を上げ、ベッドから降りてあいつと一メートルほど距離を置いて対面した。俺の意図を察したあいつが、ぱっと顔を輝かせる。
「火神くん、はいっ」
ボールが俺に向かって投げられる。運動音痴な女の子でももうちょっとましだろうというくらい、へなちょこな軌道だ。だが、途中で落ちることなく俺のところまで届いた。
「おっ、ナイスパス」
俺はキャッチするとすぐにボールを床に転がしてあいつの足もとに戻した。
「もう一回出してくれ」
俺がそう言うと、あいつはボールを拾い上げて再び投げた。
「はい」
そうやって十回ほど往復させる。手がつけられないくらい稚拙だが、一連の動作と球速が心持ち滑らかに速くなった気がする。
手元のボールを掲げて見せると、俺は提案してみた。
「受けてみるか?」
あいつは立ち上がって構えた。
「お願いします」
「そらっ」
最大限に力を抑え(ある意味で非常に高度な技術だと感じた)、取り損ねてぶつかっても被害が出ないくらいの弱いパスを送る。案の定あいつは取れなかった。明らかにタイミングがずれている。それに以前本人や緑間が言っていたとおり、手足の動きがばらばらだ。だが視線は反応はできている。自分が動こうとしてすぐは体が動いてくれないのだろう。あいつはやれやれと肩をすくめたが、自分でも予想済みだったのだろう、がっかりした様子はない。
「これだけへっぽこなら、近所迷惑になることもないでしょうね」
そう言ってボールを拾い上げると、足を広げ体の前に構えてまた俺に投げた。先ほどよりフォームが若干様になっていた。
「もう一度お願いします」
真剣だが楽しそうだ。俺も楽しいと感じた。もちろん夜のアパートでドリブルなんてするわけにはいかないので、とんでもなく遅いパスだけを延々と交わした。俺は人生史上最大限じゃないかというくらい控え目な動きをしたわけで、強力な対戦相手を前にしたときの興奮や高揚とは似ても似つかない感覚だったが、相手に、相棒に、あいつに合わせて動くというのは、たとえそれが以前の水準にまったく届かないものであるにせよ、足りなかった何かが満たされるような気持ちがした。
互いに投げ合っていると、あいつがキャッチできる場面もあった。澄ました顔の中に喜色が窺える。
何度か往復させたあと、取り損ねて転がったボールを追おうとしたあいつの足がもつれた。体を急に反転させた時点でバランスが崩れかけたのが見ていてわかったので、危なげなく受け止めることができた。腕に抱き留めたあいつを見下ろす。ぬるい運動なので汗は掻いていなかった。
「今日はこのへんにしとくか。風呂入った後だし、エスカレートして近所迷惑になっても困るし」
あいつは頷くと、体勢を立て直してボールを回収し、ベッドに腰掛けた。ボールを抱えて目を閉じたまま、あいつの口から小さな微笑が漏れる。
「ふふ……」
「どうした」
「やっぱり僕、バスケ好きだなあと思いまして」
そうだろうよ。知っている。
「俺も好きだ」
俺もまた、わかりきったことを言った。
と、あいつがふいに俺の足もとに視線をやった。長ズボンの先からのぞく踵には簡易のサポーターがついている。
「火神くん、足の調子はどうですか。まだ治療してるんでしたっけ?」
「ん? まあまあだな。長い時間かけてちっとずつ傷めていった感じだからな、治るのにも時間がかかるんだとよ」
「痛みますか?」
「いや、普段は全然。激しい動きしなけりゃ、バスケも普通にできる」
俺はより傷めているほうの足のつま先で軽くとんとんと床を叩いた。平気だ、と示すように。
「なら、今度外で一緒にやりませんか。といっても、僕、すごく下手くそになっちゃってますけど、それでもよければ」
「いいなそれ。やりたい。おまえとやるなんて何年ぶりだぁ?」
「元プロプレイヤーにつき合っていただけるなんて光栄です」
相変わらずテンションの低そうな顔つきで、しかし目だけは輝かせながらあいつは答えた。そしてテーブルに置いてあるノートを開くと、いそいそといましがた交わした約束を書き込んだ。
「いつならできそうですか?」
スケジュール帳も開きペンの色を変えた。さっそく予定を決めたがっている。
「そうだな――」
俺も仕事のスケジュール帳を開くと、あいつとふたり、いつバスケをしようかと話し合った。別に入念な計画が必要なものでもないのだが、話しているだけで気分が高ぶった。
すっかり日付が変わる時間になってしまい、そろそろ寝ようと促した。あいつは薬を飲んだものの、なんだか興奮して眠れません、どこかの誰かさんがうつってしまいました、などと言って、寝転びながら深夜までボールをいじっていた。
あまりに自然なので俺も意識しなかったのだが、あいつは当たり前のように、床に敷いた布団に転がっている俺の横に潜っていた。久しぶりに間近に感じる熱が懐かしくて、俺は寝返りを打って横を向くと、うつ伏せになったあいつの背に腕を回した。
「なんか、こういうふうに火神くんと寝るの、はじめてという気がしませんねえ……」
深夜の静けさの中にぽつりと響いたあいつの呟きを、俺は目を閉じたまま聞いていた。寝たふりをしようと思ったわけではないが、返事はしなかった。あいつが、以前にもこうして俺と隣り合って間近で眠っていたことを、無意識のうちに感じ取っていることに胸がじんと来て、言葉が出なかった。忘れても、思い出せなくても、本来記憶になるはずだったものをあいつの心がわずかでも感じられるなら、それ以上多くを望むことはあるまい。あいつは消えない傷の残る頭で精一杯、できる限りのことをやっているのだから。
無反応の俺にあいつは気にしたふうもなく、もぞりと体を横向けた。そして俺と向かい合うと、そろそろとこちらの背に腕を回してきた。そうしてふたり抱き合って一晩を過ごし、退院後はじめてともに朝を迎えた。懐かしさとともに、新しさを感じる朝だった。
つづく