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『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

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思い出にかわるまで 10~幕間~

10話の黒子入院中の話です。赤司メインで赤黒要素あり。例外的に三人称進行です。

 病室の窓際のベッドに座り、少年は補助テーブルに置いた新聞をぼんやり眺めていた。いや、少年という年齢はとっくに過ぎていた。しかし何も知らない人間が彼を見れば、病弱な高校生だと考えるだろう。もっとも、空きのベッドがあると思われる可能性のほうが高いが。
 今朝は幾分気分がすぐれていたので、売店へ行って新聞を購入してきた。入院してからどのくらい経ったのか、彼にはまったくわからなかったが、足取りはしっかりしていると感じた。まったくもって嬉しい話ではないが、過去にも入退院を繰り返しているため、この病棟内であればトイレや売店、自販機等の場所はだいたい覚えていた。それでも調子が悪いときは迷子になってしまうのだが。そしてこれまた喜ばしい話ではないのだが、以前から勤めている看護師にはすっかり顔を覚えられた上に、彼女たち(男性も少しいるが)は職務上の必要性から注意力に優れているようで、病室に帰れずうろうろしている彼を割とあっさり見つけ、誘導してくれる。四捨五入すれば三十になる彼だが、勤務歴の長いベテランの看護師はいまだに彼をテツヤくんと呼んだりする。
 この日は問題なく病室と売店を往復できた。もっとも、ベッドで新聞をめくりはじめてしばらくしたときにはもう、彼はそのこと自体忘れ去っていた。新聞を読もうという気が起き、実際にそれを入手するための行動を取って達成したことは、回復の現れと言えた。ベッドに横たわったまま、廃人みたいに動かないときもあるのだから。
 しかし、新聞を読んでみたものの、内容は全然頭に入って来なかった。ひとつひとつの文字や単語は認識できるのだが、まとまった文章として読むことができない。指で追いながらいま読んでいる場所を確認するも、そのときには数行前の内容があやふやになり、つながりがわからなくなる。
 いまはまだ無理かと判断した彼は、諦めて新聞の写真やイラストを見ることにした。記憶があったとしても知らないであろう国会議員の顔、遠い国の政治暴動やデモの写真、最近都内に完成したという大きな建物……すべてが遠く、別世界の出来事のように感じる。地域版のページを開くと、大きくはないがモノクロで交通事故現場の写真が載っていた。彼自身は自分が遭った事故についてまったく記憶がないので、ひしゃげた車体や曲がったガードレールの写真に心が掻き乱されることはなかったが、怪我がひどくなければいいんですが、と漠然と思った。この事故を起こしたのはどんな人だったんろう。若いのかな。速度違反をしてしまったのかな。道路交通法って面倒くさいけどやっぱり大切ですよね。薄く立ちこめた霧の晴れない頭でとりとめもなく考えつつ、気になって情報を見ようと記事を読むことを試みる。が、やはり文字は頭に入って来なかった。
 その小さな記事にどれくらい気を取られていたのかはわからない。少し疲労を感じはじめた頃、誰かが自分を呼ぶのを感じた。
「……ヤ、テツヤ」
 お母さん?――いや、違う。男の人だ。でもお父さんの声でもない。それはわかる。
 緩慢な動きで顔を上げると、そこには自分と同じくらいの年頃の青年の顔があった。いつの間に来ていたのか、すでに丸椅子に座ってベッドのすぐ横に陣取っていた。
 鮮やかな赤い髪には見覚えがある。いや、知っている。大丈夫、思い出せそうだ。
「あかし……くん?」
 記憶の中の顔と照合する。少し大人びてはいるものの、それほど違いはない。
「そうだ」
 青年――赤司は短くもはっきりと肯定した。
 ああ、よかった。彼のことは覚えている。
 赤司を認識できた自分の頭にほっとしつつ、
「すみません、だらしなくて……」
 自分が着ている緩めの開襟シャツが皺くちゃであることに気づく。赤司の前でだらけた服装でいることになんとなく気まずさを覚え、黒子は慌てて棚のフックに掛かったジャージの上を取ろうと腰をあげて腕を伸ばした。上着を着ればシャツの皺は隠せるだろうと思って。
 が、その動きは赤司によって制止された。
「いい。そのままで」
「でも。……あっ」
「おっと」
 バランスを崩してベッドの上で倒れかけた黒子を赤司が抱き留める。
「言ったそばからこれだ。いいからおとなしくしていろ」
「はい……」
 いましがた失態を演じたところなので、素直に従う。
「気分は悪くないか」
「いまは割と大丈夫です」
「そうか。少し話していっていいかな」
「はい。来ていただけて嬉しいです」
 短い言葉でやりとりが交わされる。思考力が普段より低下している黒子にとって、わかりやすい質問や返事をしてくれるのはありがたいことだった。
「差し入れを持ってきた」
 そう言って、赤司は棚に置かれた紙袋を手に取った。マジバのロゴが入っている。中からはバニラシェイクのMサイズがふたつ出てきた。
「飲むか。別に厳しい食事制限はないだろう」
「ありがとうございます」
 ベッドの上の簡易テーブルから新聞を片付け、シェイクをひとつ置いてやる。黒子は、表情は薄いながらも喜んでカップを手に取り、ストローをくわえた。赤司もひとつ手に持っているが、口をつける様子はない。赤司が好む飲料ではないが、黒子の分だけでは彼が遠慮で恐縮する可能性があったので、ふたつ買ってきたということだろう。
 ゆっくりとバニラシェイクを味わう合間に黒子が話す。
「お見舞いに来てくれたんですか。ご心配をお掛けしました」
「まったくだ。心配した」
「ふふ……」
「笑う余裕が出てきたか」
「はい。赤司くんが素直なのが、ちょっとかわいくて」
「褒め言葉と受け取っておこう」
 簡単な会話であれば問題はなさそうだ。今日は落ち着いているようだと判断した赤司は、一口も飲んでいないシェイクを棚に置くと、ふいに黒子に頭を寄せた。
「思ったより元気そうでよかった」
 そう言って、黒子の右のこめかみに軽く、一瞬だけ唇を押し付けた。
「あ……あの」
 黒子は驚いて思わずシェイクのカップを手から落とした。が、赤司がなんなくキャッチしてテーブルに戻す。
「気に障ったか?」
「いえ、そうではなくて…」
 黒子は赤司の唇が触れたこめかみを手で押さえながら、気まずそうに言った。
「僕、多分しばらくお風呂に入れていないと思うので、あんまりきれいじゃないです……」
 少し恥ずかしそうにもじもじしている黒子をよそに、赤司は芝居がかった動きでぽんと手を叩いた。
「ああ、そうそう。忘れるところだった」
「どうしました?」
「さっきナースステーションに寄ろうとしたら、テツヤのお母さんに会った。そろそろ清拭の時間だと、担当の看護婦さんと話していたよ」
「そうですか。助かりました。人と会うときはなるべく清潔でいたいものです」
 赤司くんを少しお待たせすることになってしまいますがよろしいですか、と黒子は聞こうとした。が、それより前に赤司が口を開く。
「じゃあ脱ごうか」
「は、はい……?」
 突然何を言い出すのかと黒子が驚いていると、赤司は窓際の荷台に視線をやった。
「湯とタオルはもう受け取ってきた。たまの機会だから、僕が引き受けたんだ」
 台の上にはすでに給湯器や洗面器、タオル等、清拭に必要なセットが用意されていた。椅子から立ち上がった赤司がカーテンをきっちり締める。腕まくりをして手袋をはめ、湯につけたタオルを絞る赤司の姿を、黒子は呆気にとられながら見ていた。
「え、い、いいですよ、そんな……。自分でできますから。体動くんですから」
 家族でもなんでもない人間にそんなこと頼むなんてあるんだろうか? お母さんがOKしたんでしょうか? そこはお母さん来てくださいよ……。
 黒子は混乱しつつも、そのあたりの事情を赤司に聞いたところではぐらかされるだろうことがなんとなくわかったので、とりあえず自分でできることを主張した。
「いまの状態だと洗面器をひっくり返すと可能性が高いと思う。それに湯が結構熱いから、迂闊に触れないほうがいい。僕でもかなり熱いと感じるんだ、おまえでは触覚過敏を起こすかもしれないだろう」
「で、でも……」
「いまさら恥ずかしがることもあるまい。おまえは覚えていないだろうが、これまでも療養中のおまえの世話を焼くことはあったんだ。こう見えて、介護は結構慣れているんだ。テツヤ限定だから汎用性はないだろうが」
 絞ったタオルを広げ、赤司がベッドの横に戻って来た。
「こ、こんなことまでしてくれていたんですか?」
「もっとすごいことも経験させてもらったが?」
「えっ」
 まさか下の世話とか……ですか? 赤司くんが?
 固まっている黒子に構うことなく、赤司は彼のシャツのボタンに手を掛ける。
「気にするな。それよりほら、さっさと脱げ。湯が冷めてしまう」
「でも……」
 黒子はなおもためらって見せたが、
「テツヤ」
 静かだが有無を言わせぬ調子の赤司を前に逆らえるはずもなく、
「……はい」
 居たたまれない思いに包まれながら、シャツのボタンを外しはじめる。ここ数週間で落ちた体重が戻りきらない体はかなりやせていた。赤司は特に表情を変えることなく、タオルを黒子の左頬に近づけた。布を押し付ける前に一言断る。
「少し熱いから、びっくりするかもしれないが」
「はい。……っ」
 心構えはしていたものの、黒子はびくりと体が硬直するのを止めることができなかった。けっして高温ではないはずだが、体調によっては刺激が強く感じられるときがある。
 皮膚から内部へじわじわと染み渡る熱が鈍く痛いような気がして、緊張に体を強張らせる。はあはあと浅くなりかける呼吸を、大丈夫だと自分に言い聞かせながら、深呼吸にすり替える。
「大丈夫か?」
「は、はい……すぐに慣れると思います」
 黒子の体がタオルの温度に慣れるのを待ってから、赤司は清拭をはじめた。本人の申告通り、慣れた手つきだった。
 なされるがままに上半身を拭かれながら、黒子は委縮気味にぼそりと言った。
「なんだか……とんでもなく畏れ多い気がします……。ひとにこんなことしてもらうなんて。それも赤司くんに……」
「病人が余計な気を回し過ぎるものじゃない。ほら、あまり緊張をするんじゃない。力を抜け。疲れるだけだ」
「は、はい……。赤司くんがこんなことするなんて、ほかの人が知ったら仰天しますよ」
「かもしれないな」
「絶対びっくりすると思います」
 軽く会話を交わしながら赤司は手を進めた。黒子としても話すことに意識が向くことで、多少は恥ずかしさが紛れた。
 湯とタオルを替えてから下半身に差し掛かると、さすがに露骨に気まずそうな視線が飛んできた。しかし赤司は表情を変えず、事務的に淡々と続ける。
「ここへはお母さんと一緒に?」
「そうだと思います。おかあさ……母にはいつも迷惑を掛けてしまいます」
「運ばれたとき、結構ぐったりしていたと聞いて心配したが……お母さんがうまくやってくれたようだな。尊敬する」
「はい、本当に。……あれ?」
「テツヤ?」
 黒子の反応に、赤司は少し手を止めた。
「いえ……なんでも……」
「引っかかることがあるなら言ってしまったほうがいい」
「あの……僕がここへ来たのは、いつでしょうか?」
「十日ほど前だ」
「そんなに経っていたんですか。入院中はいつも以上に時間の感覚がなくていけませんね」
「最初の日は大分ぐったりしていて心配したが、意外と回復が早いようで安心した」
「あれ? 一度来てくれてたんですか?」
「ああ。寝顔がかわいかった」
「あ、赤司くん……」
 さらりとそんなことを言われ、黒子は照れたようにそっぽを向いた。こうして裸をさらすよりも気恥ずかしいのはなぜだろう。
「これでいいだろう。すっきりしたか?」
 清拭を終え、赤司は黒子の母親から預かったという着替えを一式渡した。
「はい、きれいになって気持ちいいです。ありがとうございました」
 清潔な衣類を身に付けてから、黒子は礼を述べた。と、そこで何かを思い出したようにぱちくりとまばたきをした。赤司がすぐに気づく。
「テツヤ? どうした?」
「あれ?……じゃあ、あれって赤司くんだったんでしょうか?」
 先ほどの、いつ入院したのかという質問の続きかと赤司はあたりをつけたが、そのまま促す。
「何が?」
「いえ、ここに来たとき、母じゃない誰かがいたような気がして……」
「お父さんじゃないのか?」
「わかりません。でも、違うような……。背、大きかった気がします」
「なら僕ではないな。テツヤとあまり変わらないから」
 赤司はややオーバーに肩をすくめた。
「真太郎かな? あいつも心配していた」
「かもしれません。……いえ、それも、何か……」
 すでに記憶からは失せていることを理解していても、なんだか胸がざわつくような感じがして、黒子は額に手を添えた。あまり思考に負荷を掛けないほうがいいと踏んだ赤司は、
「僕が来たときはもう、テツヤはひと通りの処置が終わって、病室で眠りこけていた。よだれを垂らしながらな。そこで付き添っていたのはお母さんだけだった。すまないが、僕にはそれ以上のことはわからない。気になるなら、ナースステーションで確認してこようか?」
 当時の状況をそう伝えた。嘘はついていない。意図的に省いた情報があるだけで。
 黒子も、自分の記憶があてにならないことはわかっているため、深く追及はしなかった。
「いいえ、大丈夫です。僕の思い違いでしょう。なんだかまだ、ぼうっとしていますし。どうせ思い出せっこないので、考えても無駄でしょうし」
「そうだな。無駄なことは考えず、いまは休養することだ」
 赤司はぽんと黒子の頭に手を置いた。清拭と会話で疲れたのか、少し目がとろんとしている。
「テツヤ、無理は絶対に駄目だぞ。わかったな」
「はい、火神くん」
 黒子の返事に、赤司は柄にもなく数瞬の間自分が固まるのを感じた。今日黒子に会ってから、火神に関することはおろか、昔の思い出話自体しなかったというのに。
「赤司くん? どうしました?」
 黒子が不思議そうに見つめてくる。赤司ははっとするが、それでも態度には表さなかった。
「……いや。そろそろ時間だ、名残惜しいが引き揚げよう。ああそうだ、シェイクを飲む時間がなかった。冷蔵庫に入れておく。口をつけていないから、よかったら飲むといい。メモは残しておく」
 棚の引き出しから文房具類を勝手に取ると、水滴の付いたシェイクのカップの表面をティッシュで拭い、油性ペンで今日の日付を書いた。続いて付箋タイプのメモを剥がし、冷蔵庫にバニラシェイクがある旨を記し、自分の名前を添えておく。三十分もすれば黒子の記憶が消えることはわかっているので、彼があとから戸惑わないようあらかじめメッセージを残しておいてやるのが親切というものだ。付箋の粘着力では心もとないので、念のためにセロハンテープで棚の見えやすい位置に貼っておく。
「これでいいか。じゃあテツヤ、僕はそろそろおいとまするよ」
「お忙しいところ、ありがとうございました」
「こちらこそ、疲れさせたみたいだな。眠いんだろう」
「少し」
「なら寝るといい。いまは休息が大切だ」
「はい」
 もう一度赤司が強調すると、黒子は素直に頷いてベッドに身を倒した。やはりいまの体調では、少しのやりとりでも負担なのだろう、黒子はすぐに目を閉じてうとうとしはじめた。赤司はテーブルを片付け薄い掛け布団を引き上げてやると、ベッドの下方にあるスイッチを押してマットの角度を浅くした。最後に黒子の頬に手の甲を触れさせながら告げる。
「じゃあな」
「はい……それでは」
 別れの挨拶は短いものだった。清拭のセットを持って、赤司は病室を去った。

*****

 ナースステーションに道具を返し、階段口に向かう途中、職員や患者をはじめとする周囲の人間から明らかに浮いた長身の男が前方に見えた。確認するまでもなく緑間だとわかる。白衣を着て歩いていても相当浮くに違いない。
 忙しく行き交うスタッフの邪魔にならないよう、どちらからともなく端によって合流する。先に声をかけたのは緑間のほうだ。
「来ていたのか」
「おまえが連絡を寄越したんだろう。おまえこそ忙しいところ、ご苦労」
「本当は知らせたくなかったのが……あとでおまえに締め上げられるのはもっと嫌だったのだよ。しかし、行動が速いな。初日に来たそうじゃないか」
 会って早々疲れたようなため息をつく緑間。
「連絡が来たのが偶然にも僕の東京滞在中という巡り合わせ、これでかつての仲間を見舞わないのも薄情な話だとは思わないか?」
「偶然……か」
 十日以上連続で東京に何の用事があるのか、という疑問を呈するのは無意味だろう。緑間は、ここでは通行の迷惑になる、とだけ言って赤司がやって来た方向に目配せをする。ここを引き返して左へ折れると家族等の外部の人間のための休憩室がある。仕種ですら返事を返さず、赤司はさっさと踵を返すことで了解の意を表した。
「火神に会ったか」
「ああ」
 休憩室の片隅の壁を背に横並びになって、ふたりは話を続けた。
「煽ってないだろうな」
「そんな無意味なことをすると思うか? 縁の薄い知人関係らしく、希薄な会話を少々しただけだ。思い出話に花が咲くような間柄ではないしな」
 微妙に回りくどい返事をする赤司に、緑間は額を押さえた。頭痛に耐えるように。
「あまり挑発してやるな。いけすく男ではないだろうが、あれはあれで黒子のことを案じているのだよ。おそらく心底。黒子もあいつを必要としている」
「さすが『光』といったところか」
 顎に手を当てた赤司の目がすっと細められる。剣呑な雰囲気だが、あえて触れる気にはなれず、緑間は沈黙を守った。数秒もすれば、赤司はまた元の感情の窺えない表情に戻り、緑間を見上げてきた。
「これからテツヤに会うか? 先ほど少々長居したからな、疲れさせてしまったようだ。多分眠っている。起こすのはかわいそうかもしれない」
「無理に起こす気はない。いまは心身を休めて回復させる必要があるのだから」
 と、緑間はずれているように見えない眼鏡の位置を正した。
「医学部のおまえに意見を述べるのは恐縮というものだが、見た感じでは大事ではないだろうな。少なくともおまえと僕のことは認識がある様子だった。具体的なエピソードが思い出せるかは試していないが、少なくとも知識としては交友関係を理解しているようだったし、混乱することもなかった。いまの時点でこのレベルなら、いいほうだろう。まあ、あとは自分の目で確かめてみてくれ。未来の先生」
 赤司の報告を聞いた緑間は、ふうと息をついた。
「そうか、火神が焦っていたほどではないか」
「あの男、いままで事故のことを知らなかったのは幸運だったな。あの頃のテツヤを見たら発狂ものだぞ。涼太はあれでトラウマ持ちになったくらいだ」
「黄瀬のメンタルでは仕方あるまい。俺も正直かなりきつかった。おまえが一番冷静だったな。少なくとも表面上は」
 緑間の言葉に、赤司は目を閉じ、感慨深げに声のトーンを落とした。
「ふ……テツヤほど、僕に無力感を与えた人間はいない。打破できない状況というのがどういうものなのか、あれほどわかりやすく学んだことはない。僕の中の自信は、テツヤによって粉砕されたと言ってもいいくらいだ。後にも先にもそんな人間は出てこないだろう。……そう祈りたいものだ」
 祈るなどという単語がこの男の口から出てくるとは、世の中何があるかわかったものではない、と緑間は思った。神妙な調子で語った赤司だったが、直後にはもう、おきまりの演技がかった態度に戻っていた。
「いや本当に、テツヤはすごい。無神論者を気取っていた僕を、あろうことかおは朝教に入信させたくらいだ。共産主義者は宗教を麻薬扱いしたらしいが、人間が宗教を発明した意味がいまの僕にはなんとなくわかる。先人の知恵とは実に偉大なものだ。敬意を払うに値する」
 と、赤司はジャケットの内ポケットから細長い物体を取り出して緑間の前に掲げて見せた。未開封の子供用歯ブラシだ。ピンクが基調でいかにも女児が好みそうなカラーリングなのに、柄の先には妙に怖いカバの顔が彫られている。かわいくないどころか、草食獣としては最凶クラスの動物であることを幼児に見せつけるかのような禍々しいデフォルメが施されている。どの層を対象に売り込もうと考えたのか販売企画立案者の精神構造を疑いたくなるような悪趣味かつ意味不明なデザインだ。それでいて性能は歯科工学に基づいており、学会のお墨付きをもらっているらしい。あまりにも突拍子がなさすぎて、逆にこの男こそ持ち歩くにふさわしい気がしてくる――が、その謎のアイテムの意味を、緑間は即座に理解した。
「ラッキーアイテム……抜かりがないな」
 この数年、赤司はおは朝の熱狂的なファンをやっている……らしい。あくまで本人の自己申告なので、真偽のほどは定かではないが。彼の発言の信憑性について考察することは、時間をドブに投げ捨てるよりも無駄だ。しかし、三年ほど前におは朝が打ち切りの危機を迎え、なんだかうやむやのうちに延命した件の裏側にはこの男が絡んでいるのではないかと、緑間はひそかに疑っている。自分にとってもありがたい話なので、問いただす気など毛頭ないが。
 新品の歯ブラシをくるりと回しながら赤司がおどけたように言う。
「手に入れやすい品でよかった。朝一番でコンビニに走った。このとおり、もうすっかり年季の入った信者だ。おまえには負けるがな、先輩」
「相変わらず、隙がなくて恐ろしい」
「無駄なことに費やすエネルギーがあるくらいなら、少しでも有意義なことに向けるべきだと知っているだけだ。その点でも、火神は幸運だったと言えるだろう」
 赤司はポケットから腕時計を取り出してはめると、文字板を確認しながら続けた。
「まあ、その分これから少しばかり痛い思いするをかもしれないが……それこそ、僕がどうこうする話ではないな。できる話でもあるまい。この年になって万能感に酔いしれるほどほど、おめでたくはないのでね。せめてもの手向けに、気が向いたらやつの分のラッキーアイテムを用意するくらいはしてやるか。いや、それだったらテツヤの分を優先すべきだな、うん」
 ぐ、と伸びをしてから、赤司は緑間に先刻の歯ブラシを押しつけると、出入り口に向けて足を進めた。手を一度だけひらめかせたのが別れ際の挨拶がわりらしい。
「……そうだな」
 ただそれだけを呟いて、緑間もまた挨拶の言葉を言わない。
 彼の手に残った趣味の悪い歯ブラシは、本日の蟹座のラッキーアイテムだった。


 

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