「僕の感覚では、僕は十七歳の高校三年生なんです。正確な日付とかは無理ですが、高三の一学期くらいまでのことはだいたい覚えています。だから火神くん、きみのこともばっちり覚えています。はじめて会ったときのことも、鮮明に。ただ、すみません、最後のインターハイについては思い出せません。三年生に進級して間もない頃で、記憶が止まってしまっていて。それより前のことなら大丈夫なんですが、そこから先のことはほぼ全滅です。自分が進学した大学も覚えていないくらいでしたから。当然、自分が高校を卒業したことも知りません。卒業式の写真、残っているのに。きみが高校を出たあとどうしたのかも、わかりませんでした。調べればわかったんでしょうが、この頭と体に慣れるので手いっぱいで。こんなに時間が経っていたなんて、気づきませんでした。ずいぶんかっこよくなっちゃったんですね、火神くん」
十年ぶりに近い年月を経て偶然再会した黒子からは、とんでもない言葉が次々に溢れてきた。滑らかに、よどみなく。こいつは何を言っている? 混乱と動揺、そして、そんなことあっていいのかという、あいつの現実に対する否認の感情が俺を襲った。
高校卒業後渡米してあちらの大学に進学したあと、俺自身の筆不精さも災いし、黒子との連絡もやがて途切れた。影は薄いがしたたかなあいつのことだから、どこへ行ってもなんとかしてしまうだろうと思い、気にしていなかった。それがまさか、こんな事態に陥っているとは、夢にも思わなかった。
話は半年前、俺が日本へ戻ってきたときに遡る――
*****
足の故障により二十代でリーグを引退した俺は、幸運にもトレーナーとしての就職口を母国で見つけ、帰国した。挫折感はゼロではなかったが、プロを辞することへの納得はしていた。ラフプレーや事故による突然の怪我であれば打ちのめされたであろうが、俺の故障は十代の頃からの無茶なプレイによるダメージの蓄積の末であり、ある程度予想できた結末だからだ。馬鹿だ愚かだと非難あるいは惜しむ声はさまざまだったが、成長期に無茶をしたことに悔いはない。あれがあったから、俺はここまでやって来れたという自負がある。
徐々にガタの来る足への対処はふたつあった。ひとつは手術。短期的には効果が上がるが、外科治療はプレイヤーとしての生命を縮める。もうひとつは休養を入れての温存治療。要するに、太く短くか、細く長くか。このふたつはトレードオフだった。俺は前者を選択し、プロプレイヤーとして醜態をさらさないぎりぎりのところをドクターと見極め、去った。幸い、足は半分壊れる程度で済んだ。今度こそ長期的なスパンで治療すれば、バスケそのものがこの両手からこぼれ落ちることはないだろう。
在米中に予約しておいた大学病院を受診し今後の治療方針とスケジュールを大雑把に相談したあと、最寄りのバス停に突っ立って東京のあまりきれいではない空気を楽しんでいると、不意に右の二の腕を何かが掠める感触がして振り返った。と、ちょうど真横に頭ひとつ分ほど小さな――といっても日本人の平均からすれば普通だが――人影が現れたことに驚いた。ほとんどぴったり、くっつくような位置だった。黒いキャップを目深にかぶり、紺色のパーカーを羽織っている。華奢な体つきだが、服装からすると多分男だ。この人物の頭が俺に軽くぶつかったらしい。少しふらついているように感じられた。病院帰りの患者だろうか。いや、俺もそうなのだが、整形外科なので基本的に健康体だ。
「なあ、あんた大丈夫か?」
年下っぽく見えたので、ため口で尋ねてみる。キャップの男は俺の声にびくりとやけに驚いた反応をしたあと、そろそろと見上げてきた。
「あ、はい、大丈夫で……す……?」
「あ……?」
男と目が合った。
お互いに、相手を見つめたまま固まる。
なんだこの、ものすごく見覚えのある目は。ついでにさっきの唐突な出現も懐かしい。
「え、え……? か、かがみ、くん……?」
「おま……黒子、か? 黒子、テツヤ?」」
男は震える声で、はい、と答えた。
「まじかよ! うっわ、懐かしい! 何年ぶりだ?」
「火神くん、あの火神くんなんですよね?」
「おう、火神大我だ」
「本当に火神くんなんですか。大人になりましたね……」
「当たり前だろ。けど、おまえは全然変わってねえな」
けなす意味はなく、思ったままのことを言ったのだが、黒子はそうは捉えなかったようで、一瞬顔に陰が差した。
「はい、僕は……変わりません」
いささか奇妙な回答だが、俺はこの時点では気にも留めなかった。
その言葉の真意を知るのは、もう少し経ってからだった。
話したいことは山ほどあったが、ほぼ定刻どおりにバスが到着したので、とりあえず移動を優先した。目的地の駅は同じだった。最後尾の座席が空いていたので、少し間隔をあけてゆったりと並んで座った。駅が近くなったら教えてください、と言うと、黒子は鞄から大学ノートを取り出し、せっせと何かをメモしはじめた。いったい何をしているのかと不思議だったが、あまりにも熱心なので声をかけるのがはばかられた。内容はほとんど読めなかったが、ちらっと見たとき、字が少し変わったなと思った。
バスを降りるとき、あいつは体の小さな小学生みたいなぎこちない足取りでステップを踏んだ。体を支えようと手を伸ばしたが、結局その前に無事に外に出た。バス停で再会したときふらついていたことが思い出された。
駅ビルの中のファーストフード店で向き合いながら、改めて会話をはじめた。
「おまえ、病院帰りなのか」
「はい、そうです。火神くんも?」
「ああ」
あいつは相変わらずバニラシェイクだけを注文し、深窓の令嬢みたいにちまちまとストローで口に運んでいた。
「怪我、ですか」
「まあな。足、故障したからよ」
「え……」
「あー……ま、その話はあとでな。おまえこそどうしたんだ?」
「僕も怪我です」
「ん? 整形にいたか?」
「いいえ……神経内科です」
「怪我……?」
黒子が告げた診療科に幾分驚いた。脊損などの神経外傷の患者がかかることもあるが、どちらかというとパーキンソン病とか脳梗塞みたいな疾病がメインのイメージだ。怪我だと言ったが、本当は神経系の難病なのだろうか。一見普通に歩いていたが、たまに見せるふらつきと、何とも言えない全体的な違和感に、俺は不安になった。
深刻になりかけた空気を察知したのか、黒子が話を切り替えた。
「火神くん、しばらく日本にいますか?」
「しばらくどころか、こっちに定住する予定だ」
「また会えますか?」
「もちろん」
「では、後日僕の家でお話をしませんか。いろいろと、積もる話がありまして」
再会の日の会話は、呆気ないものだった。互いに突然のことだったから、そのあとの予定のこともあった。
あいつの家を訪ねる日時を決め、その日はそれで別れた。
また会えたことの喜びが大きかったが、胸騒ぎもした。会わなかった空白の年月の重さが、いまになってずっしりと胸に圧し掛かってくるのを自覚した。
*****
ここで話は冒頭に戻る。
週が替わってあいつの家を訪ねた日、俺は衝撃的な話を聞かされた。
これがいまの僕の頭の代わりです――そういって案内されたあいつの自室には、不自然なくらい多くの棚があり、病的と思えるおびただしい数のノートとCDーROMが整然と並んでいた。
「音声、記録させてもらっていいですか」
そう断りを入れると、あいつはICレコーダーをローテーブルの上に置いた。
「僕は記憶を保持できません。せいぜい三十分がやっと。それより前のことはどんどん忘れていきます。だから、火神くんと再会したことも、僕は覚えていません。メモに残しておいたので、今日きみが来ることはわかっていましたが」
と、あいつは壁を指さした。窓の反対側の壁には、『○月×日 火神くんが来ます』という大きなメモが貼られていた。未来の自分への伝言ということだ。
「込み入った話になると思います。それから、自分が何を話したのか忘れて、同じ説明を何回か繰り返すかもしれません。苦痛だと思いますが、おつき合いいただければ幸いです」
長い話がはじまった。
黒子は大学二年生の冬、二十歳の誕生日を迎える直前に交通事故に遭ったという。身体の怪我は重くなかったが、頭部への衝撃が大きく、脳に損傷を負った。そうしてあいつは、過去の記憶の一部と、現在と未来の記憶をすべて失った。
つづく
PR