サイドストーリー赤司編。過去話です。
赤黒で、性的な要素が多めです。過去の話なので基本的に暗いですが、コメディ調のシーンもあると思います。
黒子自身の人生をまったくの別物に変え、周囲にも少なからぬ衝撃と影響を与えた真冬の交通事故から二年半ほどが経過した。自宅療養に切り替わって長い黒子の病状は安定し、中核となる記憶障害やそれに伴う日常生活の困難への対処の仕方もある程度身についた。もっとも、安定を裏返せば、それは劇的に回復し得る時期を過ぎ、これ以上の回復は、するにしても微々、また遅々たるものだということでもあるのだが。それでも、慣れがもたらした平穏は本人にとっても家族にとってもありがたいものであった。
レコーダーと開いたノートの置かれた机の前に座り、黒子は芯の先の丸い鉛筆を片手に、ベッドのほうへ振り返った。正確には、ベッドの側面を背もたれ代わりにして床に腰をおろしている人物に向かって。
「じゃあ、緑間くんはドクターになるんですね」
ここにはいない共通の友人の名前が挙がる。というのも、いまのいままで彼に関する情報を教えてもらっていたからだ。黒子が会話をしている相手は赤司だった。黒子は、思い出すことはできないものの、事故で後遺症を負った自分に赤司がかなり以前からつき合ってくれていることは知っていた。家族から教えられ、また自分でもなんとなくそんな気がしていた。覚えていないのになぜ、と問われても、答えようがないのだが。
見舞いという言葉がそぐわなくなった現状では、遊びにきた、とでも表現するべきか。初夏のある土曜日、赤司は黒子の家を訪ね、彼の自室でほかの友人たちに関する情報を提供していた。そして、本日のメイントピックが緑間だったというわけだ。
黒子からの確認の問いに、赤司は肩をすくめて見せた。
「まだ先の話だがな。志が高くて何よりだ。あいつは努力を怠らない。いずれ大志を成すだろう」
「緑間くん、すでに大学を一回出て、その上で別の学部に再入学なんですよね。ということは、いまはみんな……社会人一年目でしょうか?」
自分のメモを見返しながら、黒子が尋ねる。まだ字は汚く粒も揃わないが、書く速度は上がり、筆記しやすい環境が整えば、ある程度会話しながらメモを残すことができるようになっていた。とはいえ、黒子との接し方に慣れない人物が相手ではこうはいかないが。赤司はそのあたりを心得ており、端的に話す一方で、一気に情報を放出せず、間にメモを取る時間をつくるよう配慮する。いまの黒子にとって非常にやりやすい相手と言えた。
「一般的な進路をストレートに進んだ場合はそうだ」
「あれ? 赤司くん、どこかに就職したんですか?」
赤司だっていずれは社会に出るだろうことは理解しつつも、彼が就きそうな職種や業種がまったく思い浮かばない。家を継ぐとかそういう方向だろうか。黒子は首を傾げた。
「いや、まだ学生だ」
「院ですか? 赤司くんが留年はあり得ないですよね。留学してたとかならともかく」
「ああ。いわゆるロースクールというやつだ」
「では、将来は弁護士に?」
「資格は取る。職業とするかどうかはまた別だ」
「きっぱり取るって言い切っちゃうあたりが、いかにも赤司くんですね」
「そう言える程度には勉学に励んだつもりだ」
黒子は、なるほど、と軽くうなずいた後、いましがた聞いた赤司自身の話を書き綴っていく。すぐ上の緑間に関するメモ書きと見比べながら、鉛筆の尻で顎を軽くつつき、わずかに虚空を仰いだ。
「みんな段々と、社会に出て行くんですね……」
おもむろに立ち上がり、本棚へと足を向けた。本の類は少なく、大学ノートやファイルが圧倒的に多い。会話の音声を焼いたCD-ROMの数もそれなりだ。事故後しばらくしてから今日までの約二年間の出来事は、黒子の記憶としてではなく、この棚の中に記録として詰まっている。本棚の前に立ち、ノートを何冊か手に取り、背表紙に表記された年月日と、壁に掛けられたカレンダーとを見比べる。いまは何年かと聞かれると、黒子は自分が高校三年生だった年を答える。無論それが間違っていることは、ある種の知識としてわかる。しかし黒子にとっては、やはりその年が「現在」だと思えるのだ。だから、カレンダーを見るにせよ、ノートの日付を見るにせよ、それらは未来であるように感じられる。錯覚ではない。彼自身の認識においてはそれは正しく未来なのだ。実際には過去になった時間であったとしても。
「僕が知らない――覚えていない間に、ずいぶんと月日が流れてしまったようです」
ノートをぺらぺらとめくりながら、黒子が呟く。比較的最近の記録だが、何ひとつ覚えている事柄はなかった。筆跡から自分が書いたということはわかるが、実感はない。ノートの中ほどに、赤司という名前が見えて手を止める。二ヶ月ほど前にも会ったらしいが、思い出せることはなかった。ただぼんやりと、赤司とはたびたび顔を合わせているような気がするだけだ。きっと気に掛けてくれているのだと思う。しかし自分の中に残っているのは、事故より前の姿しかない。
自嘲の滲むため息を漏らしながら、黒子はノートを棚に戻した。と、その手の上に、別の手が重ねられる。
「おまえが残した記憶はここにある。覚えていなくとも」
いつの間にかそばに立っていた赤司が、きゅっと黒子の手の甲を握った。黒子がノートから指を離すと、代わりに赤司の手がそれを棚の、ノートとノートの隙間に押し込んだ。
「そうですね……」
離した手を胸元に当て握り締める。しばし瞠目したあと、
「ちょっと感傷的になりかけてしまいました。せっかく来ていただいたのにすみません」
気を取り直すようにそう言いながら、振り返ろうとする。と。
「あっ……」
背後の赤司に軽く接触した。たいした衝撃はなかったが、方向を変えるためのひねりの動きが体に加わっていたことと合わさり、バランスを失う要因となった。
「テツヤ」
「……っ!」
名前を呼ぶ赤司の声は冷静で、すぐに黒子の右の二の腕を掴み、転倒しないよう体を支えてくれた。コンマ以下の時間に生じたわずかな落下感に黒子がひゅっと喉を鳴らす。重心が崩れかけたため、ひとりでは即座に体勢を立て直せず、体重の一部を赤司に預けるかたちになった。
「テツヤ」
「あ……すみません」
硬直しかけたが、赤司に呼びかけられ、はっと我に返る。バランスを取り直そうと身じろぐが、うまく足が動かない。すぐに察したらしい赤司が、黒子の背を壁につけた。接地面が増えることで体重を預けやすくなり、姿勢が安定した。
「あまり怖がらなくなったな」
「はい。症状自体が緩和されたのもあると思いますが、慣れもあるんでしょうね。よくふらついてると思うので」
慣れた、というのにはふたつ意味が含まれる。ひとつには体勢の崩れに対ししばしば平衡感覚の異常な乱れが生じるという事態が起こることへの慣れ。そしてもうひとつは、そうなってしまう自分の体に慣れてきたということ。事故で後遺症を負う前はこのような奇妙な感覚とそれに伴う強い恐怖感などなかったのに、どういうわけか、いまの体はちょっとした刺激を拾い過ぎることがあるらしい。別人、いや別の生物の体に魂が放り込まれてしまったような感じがする。しかし、これは紛れもなく自分の体で、ここから抜け出すことはできない。たまに牢獄のように感じるときもある。この体で生きていこうとすれば、慣れるよりほかなかったし、嫌でも慣れは生じた。だから、最近は――と言ってもどのくらいの期間を指すのか黒子にはわからなかったが――恐慌状態に陥ることも減ってきたし、そういった感覚自体、出現しにくくなっていた。体がびくりと硬直しやすいのは相変わらずだが、その時間も短くなってきた。
とはいえ、このときもやはり体には恐怖が残っていた。黒子自身は気づいていない様子だったが、赤司は黒子のわずかな震えを見逃さず、それとなく促し腰を下ろさせた。中腰になったところで、黒子は膝でいざるようにして、同じような姿勢になった赤司に接近した。ああ、やっぱり、と赤司は思った。黒子は、本人にとって強い刺激を受けたとき、こうして近づいてくるときがある。幼児が恐怖などのストレスを感じたときに母親という安全地帯に逃げ込むような、無意識の行動だ。無論、触覚過敏などを起こしているときは逆に回避的な動きをするわけだが。
無言のまま、なだめるように背を撫でると、黒子は赤司の頭を抱え込むように腕を首に回してきた。上半身が密着したことで、両者の脚の位置も必然的に近づく。黒子は、赤司の左の大腿部をまたぐようにして膝立ちになると、その上にずるずると座り込んでしまった。
どうしたんだ、とは問わない。不快な感覚を凌ぐために、紛らわすように身近な人間の体温を求めるだけで、それ以上の意図は黒子にはない。というより、この行動自体に自覚がない。だから、その理由も当然わかっていない。
赤司は一分ほど何も言わず、ただ黒子の背を緩く撫でてやった。震えてはいない。しがみつく力が次第に弱くなるのを見計らい、赤司は黒子の肩を軽く叩いて注意を引いた。黒子はぴくりと小さな反応を見せた後、のろのろと腕を解き、膝を借りたまま赤司の顔を見下ろした。
「赤司くん」
「大丈夫か。すまなかった。立ち位置に気をつけるべきだった」
「いえ、僕が勝手に転びかけただけです」
黒子は緩慢に首を左右に振った。赤司は膝を床からわずかに浮かし、黒子を促した。
「立ち上がれるか?」
「はい……あっ!」
と、黒子から小さな悲鳴が上がる。赤司の眉尻がぴくりと動く。
「テツヤ?」
「あ、あの……」
怪訝そうな赤司を見下ろす黒子の目は泳いでおり、声にはあからさまな狼狽が窺える。続ける言葉を見つけ兼ね、黒子がもぞりと身じろぎする。ひどく気まずそうに目線が逸らされる。何があった、と赤司が思うのと同時に、
「ああ……」
と気づく。黒子の表情に注目していた目を下方へ向けると、自分の膝が黒子の脚の間を押し上げるようなかたちで位置しているのが見えた。軽く圧迫するくらいの力が加わっている。そして視覚で確認したいま、そこから伝わる別の感覚にも意識がいく。
どうやら変に刺激してしまったようだ。悪いことをした。
これといった感情もなく赤司が考えていると、顔をかすかに紅潮させた黒子が、そっぽを向いたまま、蚊の泣くような声で謝ってきた。
「す、す……すみません……」
「いや……」
黒子はあたふたと後方へいざると、崩れるようにその場にへたり込んだ。そして、うつむいたまま黙り込んでしまう。それはそうだろう。ごまかせる状況ではない。しかし、正直に申告するようなことでもない。だからと言ってまったく違う話題に切り換えるのも不自然極まりない。沈黙以外に選択肢がないのだ。
耳まで赤くなる勢いの黒子を前に、赤司は平然とした面持ちで片膝をついて座ると、
「最近、していないのか」
目的語を省いて尋ねた。わざわざ言う必要もあるまい。
黒子は消えることができるのなら消えてしまいたい思いでいっぱいに違いない、うろたえきった調子で途切れがちに答える。
「わ、わかりません。そういうのも、きっ、記憶には、なくて……。手帳とかにも記録、残してなかった……と思います、わ、わかりませんけど。けど……多分、そういうことでは、ないかと」
少し圧が加わっただけで反応してしまった自分に困惑しきった様子で、黒子は視線をさまよわせていた。赤司はそんな黒子の顔を覗き込み、じっと凝視する。
「テツヤ」
存外優しい声で名を呼ばれるだけで、何を命令されるでもなかったが、黒子は逆らいがたい何かに惹かれるように、そろそろと目を赤司のほうへ向けた。
「あ、かし……くん」
「しようか?」
またしても、動詞だけで尋ねる。黒子は、今度はきょとんとした。
「はい?」
「溜まるときついだろう。出したほうがいい」
冷静な声でそう言うと、赤司は黒子のハーフパンツにすっと手を伸ばし、まだ熱の治まらないそこに軽く触れた。
「え? ちょ、ちょ、赤司くん!?」
先刻よりさらにうろたえ、また驚いた声を上げる黒子。しかし赤司は相変わらず平坦な調子で話す。
「テツヤは座っていればいい。何なら寝ていてもいいが。僕がするから」
言うが早いか、ウエストに手を差し込み、下着越しに軽く触られた。
「え? え? ええぇぇぇぇぇっ?」
「痛かったり不快だったらすぐに言うんだ。苦痛を与えるのは不本意だから」
事態を呑みこみ切れない黒子から頓狂な声が立つが、赤司はお構いなしに注意事項だけ告げた。
「ちょ、あ、赤司くん! よ、よしてください、そんなこと……」
黒子は大慌てで、衣服の中に侵入してきた赤司の手首を掴んで制止した。赤司はなおも黒子の双眸をまっすぐとらえたまま、首を傾げて見せた。そして、大真面目な顔のまま問う。
「なぜ?」
「な、なぜって……だって、そんなこと、してくれなくても……。いっ、いくら僕だって、ひ、ひひ、ひとりでできますよ、このくらい!」
だから手をどけてください。黒子は赤司の手首を引っ張り抜こうとするが、握力にも腕力にも劣るため、収穫のない結果に終わった。
赤司は赤司でとりあえずそれ以上は何もせず――ということは、下着越しに手の平を接触させたままという意味なのだが――傾げたままの首を今度は逆方向にゆっくりと倒した。いかにもな疑問符を浮かべながら。小さい子供がやったらかわいい動作かもしれない。
「ひとりでできていないから、この状態なんだろう?」
「わ、忘れてただけです! お、思い出したから、ちゃんとひとりでしますってば!」
「いまからするのか? ここで? なら僕は退出しているが」
もっともな指摘をしながら、赤司はドアのほうを振り向いた。
とはいえ、部屋の外に事情を知る人間がいる状況で黒子がそういった行為を敢行できるかどうか――言うまでもなく明白ではあるのだが。
つづく