時間の感覚がなく、途中で二度意識を失ったこともあり、結局家を出てからどの程度経過したのかはわからなかった。あの子の導きで助けに来てくれた男女が僕の親に連絡をしてくれた時点で、親戚宅に僕の姿がいないことにはすでに気づき騒動になりかけていたらしいから、一時間くらいは経っていただろう。助けに来てくれたカップルの連絡から程なくして、家族が到着した。その間僕はずっと動かなくなってしまった彼を抱いて泣いていた。やって来た父母は当然のこと、雨でずぶ濡れになった上泥まみれの僕を見て驚いていた。僕がそれなりに大きな犬を抱えていたのも驚愕を増強させる一因だっただろうけれど。両親の顔を見て少しだけ緊張の糸が緩んだけれど、甘えて泣きつくことはできなかった。というのも、僕の心は保護者の手が差し伸べられてほっとするよりも、自分の腕の中にいるすっかり弱ってしまった彼のことで占められていたから。大丈夫、どこが痛いの、と案じる母に対し、僕は泣きながら懇願した。この子を助けて、お願い。僕を助けようとして、怪我をしちゃったんだ。お願い、助けて。まだ幼児だった上、尋常ならざる出来事に興奮状態だったから、ここに至る事情や経過を理路整然と話せるはずもなく、両親にとってはまったく見も知らぬ子犬について、ただひたすら、助けてあげてとすがるように願った。親も僕が半分以上錯乱していることは理解したのだろう、この犬はいったい何なんだというような疑問は当然あっただろうが僕に尋ねることはせず、わかった、動物のお医者さんに連れて行くから、と僕をなだめた。僕はぼろぼろ涙をこぼしながら、絶対だよ、絶対助けて、とほとんどうわ言みたいに繰り返していた。救急隊員たちが迂回をしながら斜面の底部までたどり着いたときも、僕は彼を抱いたまま離そうとせず、運ぼうとしてくれる隊員に抵抗し、嫌だ、この子も一緒に治してあげて、と無茶な要求をした。人間の病院と動物の病院が違うことくらいの知識は持っていたが、パニック状態だったからその程度の分別もなかったのだろう。体の痛みも忘れ、僕は力いっぱい抵抗し、救急隊員たちをずいぶん困らせたらしい。結局、彼を早く獣医のところへ連れて行ってあげないとかわいそうだという大人たちの説得にうなずき、僕はようやく彼の体を離した。彼はまだ温かかったけれど、息があるかどうかはわからなかった。彼を動物病院に連れて行くと父に約束してもらい、僕は母に付き添われ病院に搬送された。その後のことは時系列もバラバラで曖昧な記憶しか残っていない。検査や治療で痛い思いをしたこともあっただろうが、覚えていない。ただ、僕の衣服の破れや太腿の咬傷を見た医師に、犬に襲われて噛まれたのではという疑惑を持たれ、激高したことは覚えている。あの子はそんなことしない、あの子は僕を助けてくれたんだ、そんなこと言ったら許さない、という感じでね、かなりの剣幕だったらしい。事件のように詳しく調べられなかったから、大人たちは僕の話と状況から、咬み傷は別の動物につけられたもので、あの子犬は関係ないのではないか、というような推測を立てたようだった。僕はしばらくの間、冷静に話をできるような状態ではなかったので、真相は語れないままだった。ただ、少なくとも彼が僕を攻撃したのではないことを大人に信じさせることができたのは幸いだった。濡れ衣で彼が攻撃的な犬だと判断されたら、保健所に連行され処分されてしまうかもしれなかったから。まあ、その心配は杞憂に終わったのだけれど。……悪い意味で。
僕はそのまま長野の病院で少しの間だけ入院することになった。怪我は軽度の骨折や打撲、擦り傷切り傷くらいで済み、内臓や神経の損傷はなかった。精神が興奮状態にあった受傷当日より、一晩寝て起きたあとのほうが痛みをまざまざと感じ、疲労もあって二、三日はベッドに沈んでいた。入院当日の夜、遅れてやって来た父が、地元の動物病院に子犬を受診させたことを報告してくれた。僕と同様あの子もまたそのまま入院になったらしい。左後脚は骨折しており僕の右足より重症だったとのことだが、切断するような傷ではなかったらしい。ただ、ひと目でわかるその怪我よりも、体をあちこち打ち付けたことによるダメージと、疲労による全身の衰弱のほうが問題だった。たとえ回復可能な傷でも、体力が先に尽きてしまえばそこまでだ。獣医師によれば、やはりあの子はまだ幼犬で、おそらくは生後半年に満たないくらいだろうとのことだった。幼い分、回復力はあるが、体力が少ない。危険というほどではないが、衰弱が激しく今後の容態の見通しは明るいとは言えないようだった。僕は無茶なわがままを言う子供ではなかったけれど、あのときばかりは思い切り駄々をこねたよ、彼のお見舞いに行くんだって。さすがに許可してもらえず、結局彼の入院先の動物病院に連れて行ってもらうことはできなかった。父は仕事のために一足先に東京へ戻り、母は僕の付き添いと職場への連絡や調整で忙しかったので、まだ山荘に残っている親族に事情を説明し彼の容態をときどき見に行ってもらうよう頼むことになった。入院中、僕は彼の容態が早くよくなるように祈っていた。起きている間中、この一週間ほどの出来事を、彼と過ごした多くはない時間を振り返っていた。きっと眠っている間も夢に見たんじゃないかと思う。
僕がそうやって病院で過ごしている間、親戚が動物病院に足を運んだのは一回だけだった。……それ以上は必要なかったんだ。
二日後、母が真剣な顔をして、残念な知らせがあると僕に告げた。言葉での報告を聞くより先に僕は事態を理解した。
あの子は死んでしまったとのことだった。衰弱して、眠ったまま息を引き取ったらしいと。飼い主は見つけられず、彼を診療した獣医師が埋葬を引き受けてくれた。家族の元へ戻れないまま、自分を知っている者が誰もいない中で、彼は死んでしまった。僕は見取ることもお別れを言うこともできなかった。悲しくて悲しくて、外聞もなくおいおい泣いた。想像できないかもしれないけど、僕にだってその程度の感受性はあるんだよ。誰かの死を嘆いて泣いたのはそれがはじめてだった。当時は祖父母もいまより若々しくそこそこ健康で、家でペットを飼うといったこともなかったから、死は身近な存在ではなかった。五歳かそこらの子供だったから、死の概念も理解していなかった。ただ、一週間と少し前に出会ったばかりのあの子犬にもう二度と会うことができなくなったということはわかった。彼の死はいま思い出しても悲しい。きっと当時の僕と同じくらいの、幼い子だっただろうに。
一年後の夏、小学校に上がった僕は再び家族とともに避暑地を訪れ、地元の火葬場へ行き献花した。彼にお墓はなかったから、火葬場のペット用の共同墓地の献花台に数輪から成る細い花束を置いた。子供だった彼に普通の菊じゃ辛気臭いからと、母の勧めでマーガレットにした。季節はちょっと外れてしまっていたが、近くの生花店で入手することができた。動物なんだから、花なんかより食べ物のほうがよかったかもしれないけれど。宗教色のない動物たちの墓地の前で、僕は母の真似をして仏式の礼をしたけれど、心の中でさえさよならは言わなかった。言えなかった。
山荘に戻ると、夕刻、昨夏に彼と会った庭先の林に足を踏み入れた。彼が死んでしまったのはわかっていたが、待っていればそのうち現れるような気がして、日が沈むまで雑木林と庭を意味もなく行ったり来たりしていた。もちろん犬なんていなかったし、幻を見ることもなかった。ただ、かすかに遠吠えのようなよく通る獣の声が響いていたような気がする。子犬ながら一丁前の狼みたいに遠吠えしていた彼の姿が思い起こされた。そして、生きていたら僕を置いてけぼりにして今ごろ立派な大人の犬になっていただろうなと思った。きれいな子だったから、きっとさぞかっこいい成犬になっていただろう。そう考えたら、知らず少しだけ涙ぐんでいた。
――ありがとう。ごめんね。
日が沈んでいき空が茜から紫へと移り変わる中、胸中で呟いたのはそれだけだった。結局さよならは言えないままだった。
*****
十年前の夏の短い期間に起きた一連のエピソードを語り終えた赤司は、自分の左大腿部にうっすらと残る傷跡に再度指を触れさせた。
「これはあの子が僕を助けようとして、必死に移動させようとしたときについた痕なんだ。四足の動物は何かを持ち運ぼうと思ったら、口でくわえるしかない。夏服の薄手の生地では服だけを噛んだら簡単に破れてしまうから、場所を変えながらでも布の強度には限界があった。だから服の上から肉を噛んだんだろう。首や脇腹を噛むのは危険だし、背中は面が広すぎる。手足の先をくわえて引きずるのは効率が悪いし、運ばれるほうも危険だ。だから太腿の外側を噛んだのだろう。この位置なら動脈は避けられる。動物の本能だったのかもしれないが……きっと頭のいい子だったんだと思う。……って玲央、おまえなに静かにボロ泣きしてるんだ。途中から静かに話を聴いていると思ったら……」
苦い記憶ではあるが結構な年月を経たいまとなってはすっかり過去の思い出と化しており、けろっとした顔の赤司とは対照的に、実渕ははらはらと涙をこぼし、また頬には幾筋もの水の軌跡が描かれていた。長机に備品として置かれたティッシュボックスをいつの間にか胸元に引き寄せ、私有物のように遠慮なく引き抜いては目元や鼻水を拭っている。彼は涙声を隠そうともせず、潤んだ目のまま呟いた。
「だって……征ちゃんの初恋がそんな切ないものだったなんて思わなくて。うぅっ……」
「おい、何が初恋だ。僕は恋バナなどというものをした覚えはないんだが」
ジト目で冷静に突っ込む赤司だが、実渕の頭の中ではすでにひとつの世界ができあがっているようで、ずずっと鼻をすすりながらちょっぴり興奮気味の声で言う。
「一目惚れからはじまった夏のロマンスが、そんな結末を迎えたなんて……ううっ、ごめんなさい、相手が亡くなったのにこんなこと感じるのは不謹慎だと思うけど、もふもふちゃんの征ちゃんに対する愛情に感激して……」
「おまえの脳内で僕の話はどう処理されたんだ。ずいぶんな恋愛脳だな、玲央。あともふもふちゃんってなんだ、もふもふちゃんって」
「もふもふしてたんでしょ?」
「確かにもふもふしていたが……ネーミングセンスがひどすぎる。ポメラニアンじゃあるまいし」
幼少期に出会ったあの子犬を勝手にもふもふちゃん呼ばわりされた赤司は、ちょっぴり不満げに眉をしかめた。確かに胸腹部の毛の手触りはもふもふしていたが、あの子犬の外見的なイメージにその擬音語はいまいちそぐわない気がするのだ。幼犬ゆえのまるっこさはあったが、成長すれば精悍なシルエットになっていただろうと思われる。目つきも鋭く、端正な顔立ちだった。もし彼の写真が残っていて実渕がそれを目にしたなら、いくらなんでももふもふちゃんなどとまぬけなネーミングはしなかっただろうと思われる。とはいえ実渕の発言に悪気がないことは理解できるので、赤司は額を押さえはあとため息をつくだけだった。
と、涙のストップしたらしい実渕が、ずびっと音を立てて鼻を噛んでから口を開く。
「あ……ってことは征ちゃん、その事故以来、犬が嫌いになっちゃったの?」
「言うことを聞かない犬、だ。イヌという動物自体を嫌悪しているわけでない」
彼は少しだけ間を置くと、うつむき加減にぼそっと付け加えた。
「……なんで犬って、ときどき自分を犠牲にしてまで人間を助けようとするんだろうな」
それは聞き手への疑問ではなく独り言であるようだった。彼の顔を見つめながら、実渕は微苦笑した。
「人間とは長い付き合いだもの、歴史を紐解けばそういうケースはきっと枚挙にいとまがないでしょうね。……うちのコも私がピンチになったら助けてくれるかしら」
実渕の言葉に赤司がふと顔を上げた。
「玲央は犬を飼っているのか?」
「ええ、柴の女の子が一匹。携帯の待ち受けもその子よ。飼い主フィルター全開ってわかってるけど、もうかわいくって。だからさっきのもふもふちゃんの話にも、すっごく感情移入しちゃったってわけ」
「いや、だからもふもふちゃんって……」
「だって名前がわかんないんだもの、便宜上ってやつよ。……そういえば征ちゃん、もふもふちゃんに名前をつけなかったの?」
実渕が尋ねると、赤司は訝しげに首を傾げた。変なことを聞くやつだとばかりに。
「他人の飼い犬に勝手に名前をつけてどうする」
「そうだけど……結局もふもふちゃん、おうちのひとのとこ帰れなかったんでしょう? 実質征ちゃんだけがもふもふちゃんの死を知ってるってことだから、仮の名前でも、呼んであげられたらいいんじゃないかなって思ったんだけど」
「十年も前に死んだ犬にいまさら名前をつけてどうしろというんだ。センチメンタルにもほどがある」
「えー……征ちゃんクールぅ」
妙に表情豊かにぶーっと口を尖らせる実渕。赤司は困ったような息をつくと、彼に言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「お互い名前を知らないのが当たり前の関係だったんだ、いまさら名付けてしまったら、そっちのほうが台無しじゃないか。思い出は美しく、だよ、玲央」
「征ちゃん……」
「これもまた感傷的かな?」
赤司はふふっと小さく笑うと肩をすくめて見せた。彼の胸中を察しないではない実渕は、この件についてはそれ以上言及しようとしなかった。もっとも、私が勝手にもふもふちゃんって呼ぶのは大丈夫よね、と心の中でひとりで決めてはいたが。
なんとなく自分の飼い犬が恋しくなり、携帯に手を伸ばしたところで時刻表示が目に入る。そろそろ引き上げなければ、顧問か見回りの教員に注意されるだろう。実渕は顔を上げて赤司を見た。
「いい話の雰囲気に水を差すようでなんだけど……征ちゃん、そろそろズボン穿かない? 冷えるような季節じゃないからいいんだけど」
正面に座る赤司はいまだ着替えの途中で、インナー姿のままだった。なんでこの子はこう、リラックスモードに入ると途端に締まらなくなっちゃうのかしら。実渕は呆れを通り越して微笑ましい気持ちで苦笑した。一方指摘された赤司は、なんら恥じることなく、のんびりと自分の服装を見下ろした。
「ああ、そういえば。すっかり自室気分だった」
「自分の部屋だとパンツで過ごしてるの?」
「暑い季節はそうだ。節電は毎年のように叫ばれているだろう」
「若いのに、うちのお父さんみたいなこと言わないでよ……」
自分のだらけた服装は地球環境に間接的に貢献しているのだとばかりに胸を張る赤司に、実渕は大きなため息をつきながら脱力した。
「まあいいけど……そろそろ帰らないと先生にどやされちゃうから、早く着替えてね」
「ああ」
鷹揚に答えつつ、赤司はやはりのっそりとした動作で制服を身につけた。すでに身なりも荷物も整えた実渕は、彼を待つ間、手慰みに携帯の画面を操作した。ウェブの検索サイトにアクセスし、ボックスにふたつの単語を入力して検索ボタンを押した。検索結果としてずらりと並んだホームページの一番上を開いてみる。その内容に、実渕は、ああ、とひとり小さくうなずいた。
検索ボックスに入力したのは『マーガレット 花言葉』。