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『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

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彼が言うことを聞かない犬を嫌うワケ 4

 山荘を去る日の前日は見事な悪天候に見舞われた。大降りではなかったけれど、その日しとしとと秋のような細かい雨粒が絶えず空から落ちてきた。翌日出立するための片付けや荷造りで午前中はせわしなく過ぎていき、午後からは家族連れ立ってまた親戚の家に遊びに行った。出かける前、夕飯もそちらで呼ばれるのだと母に教えられ、僕は動揺した。彼に会いにいけなくなるかもしれないと。悪天候の中彼が来てくれるかはわからなかったが、僕のほうから言い出した約束なのだから、こちらが勝手に反故にするのは不誠実だろう? たとえ彼が来なくても、僕は行かなければならない。そう感じた。雨天のため親戚宅への移動には車を使ったが、距離はさほど離れていなかったので、子供の足でも十分戻ることはできると思われた。だから時間になったらちょっとだけ席を外そうと考えた。こっそり抜け出す方法とか、ばれたときの言い訳とか、いろいろ考えていたけれど、具体的には覚えていない。このあといろいろ大変なことがあってね、どうでもいいことはあちこち頭から抜け落ちている感じだ。
 夕刻、僕は自分たちの使っている山荘とよく似たつくりの建物の中で、ちらちらと壁時計を何度も確認していた。いつもは日暮れの空の染まり具合であの子と会うタイミングをはかっていたのだが、この日はそれができなかった。午後五時が回った頃、僕は堂々と玄関から外に出た。その家にはそれぞれのメンバーの親族友人のつながりでかなりの人数が集まり、一時的に結構な大所帯になっていたから、ひとりくらい抜けてもすぐには気づかれないだろうと。雨は降り続いていて、僕は母が持ってきた女性用の傘を指し、自分の山荘へと来た道を逆走した。きちんと右側通行を守り、ガードレール沿いに山道を下った。ガードレールの先は急斜面になっていて、人の手によって切り開かれた道路とその周辺以外は全体が山林となっていて、僕たちが滞在している庭の向こうにある雑木林もその一部であることは知っていた。あの子とは庭の先の雑木林でしか会ったことがなく、そういえば彼はいつもどうやってあの場所まで来ているのだろうと、ふと疑問に思った。もしかしたら、ここから見えるまばらな山林地帯が彼の通り道になっているのだろうか。半分ほど移動したところで僕は足を止め、斜面を見下ろしたりその先を眺めたりした。と、偶然視界の下方を影のようなものが素早く掠めていった。はっとして視線を移動させると、数メートル下方の斜面の先に犬の姿があった。僕は傘を持ったまま、思わずガードレールに身を乗り出した。声を掛けようとしたが、それより前に彼のほうが足を止めこちらを見た。たいした音など立たなかったと思うのだが、動物の感覚は人間が思うよりずっと鋭いようだ。斜面はかなり急で、実際よりもずっと高低差があるように感じられた。遠方の彼は小さく見えたけれど、その場でわたわたと足をばたつかせ、尻尾をぶんぶん振っているのは確認できた。傘の下で僕は手を大きく降った。
「いつものとこで待ってて。すぐ行くから」
 片手を気持ちばかりのメガホンにし、普段彼に話しかけるよりも大きめの声でそう告げた。声はきちんと届いたようで、彼は跳ねたり後ろ脚だけで立ち上がって、落ち着きなく動いて見せた。僕と会うのを喜んでくれている。そう解釈し、僕もまた嬉しくなった。無邪気に喜びを表す彼の姿がかわいくて、僕はちょっとでも近くで見たいとガードレールに上半身を預けるような格好で腕を振った。これがいけなかった。いつもなら反対の手でガードレールを掴んで体重を支えたところだろうが、この日は雨で、僕は大人用の傘を差していた。何が起こったのか、正直よくわからない。きっとものの数秒のことだっただろうし、状況を細かく把握できるほどの冷静さは、このあとしばらく戻って来なかったから。だからこれはあとになってからの推測なのだが、このとき僕は不安定な姿勢を取ったがために前方にバランスを崩したようだ。そう、転落してしまったんだよ、急斜面を。最初に話したとおり。視界がめまぐるしく回転し、体中を衝撃が襲った。体に加わる力が止んでもしばらくは衝撃の余韻が続いており、結局どのタイミングで一番下まで落ちたのかはわからない。恐怖と驚愕でぎゅっと目をつむっていたのだろう、あれ、どうなったんだろうと思ったときに目の前が真っ暗で、じきにまぶたの動きとともにゆっくりと開けていった。このときは苦痛を感じなかった。物理的な衝撃の大きさに意識が飛びかけていたのだと思う。朝からずっと濃い灰色だった空は、直接は見えない日の傾きとともに暗さを増しつつあった。ぼんやりする頭と視界の中、僕は誰かの声を聞いた気がした。
――大丈夫!? しっかりして!
 子供の声だ。当時の僕と変わらないような小さな人間の輪郭がぼうっと浮かんでいたが、ひどく滲んでいてよくわからなかった。その子は必死に僕に呼びかけていた。
 誰?――とは思わなかった。あの子だ。あの子犬だ。僕は何の疑いもなくそう思った。別に頭を打っておかしくなったわけじゃないぞ? 意識が吹っ飛びかけていたから、半分以上夢を見ていたのだと思う。だから僕をのぞき込んでいたであろう彼の姿が人間の子のように感じられたのだろう。小さな僕はあの子犬を友達のように思っていたから、なおさら。実際、彼は僕を案じてずっとついていてくれたのだろうし。
――お願い、しっかりして! どこか痛い!?
 視界は霧の中のようにかすんでいたけれど、目の前で小さな男の子が泣きながら必死に僕を呼んでいるような気がした。大丈夫だよ、心配しないで。そう答えたかったが、声が出なかった。感覚があるのかないのかさえ定かではなかったが、僕は右手を持ち上げ、なだめるように彼の顔に手を触れさせた。直後、視界は今度こそ本当に真っ暗になった。
 次に意識が浮上したときには、苦痛という感覚が復活していた。といっても目を覚ました直後はまだ痛みらしい痛みを感じず、自分の体がどんな姿勢を取っているのかも認識できなかった。
「っ……」
 うめいたつもりだったが、結局何の声も出なかった。最初に感じたのは冷感。体が冷えていた。数秒後、それが水の粒に打たれているせいだと理解した。視界全体に水滴が落下してくる光景が広がっていたから。
 そうだ、表を歩いていたんだった。ひとりで。何のために?――あの子に会うためだ。でも、途中であの子にあって、それで……。
 それまでの記憶が蘇り、状況の推測が立つにつれ、痛覚も呼び起こされてきた。しかしどこが痛いのかはわからない。全身が痛かった。五体満足かどうかもわからなかった。突然、鋭い痛みが走り、反射的に目をきつく瞑り身じろいだ。実際に動けたかどうかはわからないけれど。とりあえず電撃みたいな痛みが過ぎ去ると、恐る恐るまぶたを持ち上げた。と、視界の下方に薄い黒をした何かが小さく動いているのがわかった。
「あ……」
 正体は彼の頭だった。彼の頭が僕の腰のあたりにあった。僕のかすかな声に反応し、彼が顔を上げた。彼は心配そうにじっと僕の顔を見つめてきた。何を言っていいかわからず、僕は沈黙に陥った。声を出すのも苦しかったというのもあるけれど。
 衝撃の余波がまだ体を覆っていたことから、気絶していたのは短い時間だっただろう。実際にどれくらいだったかはさっぱりだが。僕はあたりを見回した。と、自分の右側の地面が不自然にへこんでいるのに気づいた。へこみは緩く蛇行しながら細長く続いているようだった。その果てには水流があった。そのエリアに川は流れていないのだが、深夜から続く降雨のため、水の逃げ道が自然に形成されたのだろう、低い部分に小川のような水の流れができていた。そのそばには僕が差していた母の傘が落ちていて、細いながら急流の小川にいまにも流されようとしていた。きっと自分は最初あの位置に落下したんだ――そう推測したときぞっとした。そのままあの流れの近くにいたら水に呑まれていたかもしれない。程なくして、傘は茶色の細い激流に流されていった。傘と同じ運命を辿らずにすんだことにほっとしたが、僕はついさっきまで気絶していたはずだ。自力で移動した記憶はない。不思議に思いながら改めて自分の体を見下ろした。いつものパーカーとその下のTシャツ。この日は気温が低かったため、山荘を出かけたときから長ズボンだった。濡れた地面を転がり雨に打たれたせいですっかり泥だらけだった。Tシャツの左脇腹が不自然に破れていたがそこには出血は見られなかった。かわりにオフホワイトのボトムスの左太腿に赤茶けた跡が小さくあった。もしかして血が出ている……? 僕は恐る恐る手を伸ばそうとしたが、触った瞬間激痛が走ったらどうしようかと怯んでしまい、触れることができなかった。
 ……そうだ、これがいまも僕の腿に残る傷だ。当時はわからなかったが、彼が気絶した僕の太腿を口でくわえ、引きずって移動させてくれたんだ。シャツの脇腹が破れていたのは、その位置をくわえた形跡だろう。多分途中で服が破れてしまったんだ。服を噛んで引きずるのがうまくいかなかったということなのか、ズボンの上から腿をくわえていたらしい。着ていたシャツやズボンはほかにも何箇所か破れ、また破れないまでも変に生地が伸びてしまっていた部位もあったらしいから、彼も試行錯誤したんじゃないかな。きっとくわえる場所を変えながら運んでくれていたのだと思う。彼の犬歯は鋭かったから、布越しでもかなり食い込んでしまったらしい。ただ位置的に動脈は走っていないし、太い静脈も外してくれていたから、出血はそれほどでもなかった。傷はちょっと深かったみたいだけど、瘢痕が残るかどうかは別として、そのときはあちこちの打撲のほうが余程深刻なダメージだった。体を打ったことによる痛みのほうがひどかったので、軽い出血を伴う咬傷がどのくらい痛んだのかはわからなかった。
 子供の目測なんてあてにならないが、二十メートルくらいは移動させてくれたようだった。蛇行していたのはぬかるみを避けるためだろう。移動の進行方向から、道路に登って戻れるくらい低い位置まで運ぼうとしていたらしいと察した。頭のいい子だよ、本当に。
「きみが運んでくれたの?」
 何の効果もないとわかっていたが、濡れ切った彼の毛皮を手の平で拭った。彼は申し訳なさそうな顔で僕を見たあと、わずかに血の滲むズボンを遠慮がちに舐めた。労るように。そして、ごめんねというように。
「ありがとう。大丈夫だよ」
 僕が少しばかりしっかりした声音でそう言うと、彼はようやくのこと多少安堵できたのか、嬉しそうに僕の腕に顔を擦り寄せた。と、そこで僕は彼の姿勢が不自然なことに気がついた。左の後ろ脚を地面から浮かせていたんだ。血液らしきものは付着していなかったが、足の角度がおかしい気がした。彼もまた負傷したらしい。でも、なんで?――その答えに対する推測が浮かんだ瞬間、僕は青ざめた。
「もしかして、僕を助けようとしてくれて……?」
 目撃者もいなければ僕自身も覚えていない、知っているのは物言えぬ子犬だけ。だから真相はわからないままだ。けれども僕は、彼が斜面から転がり落ちる僕を庇うか助けるかしようとしてくれたのではないかと思った。そしてその結果、巻き込まれて怪我をしたのではないかと。当たり前だけど、彼は何も答えなかった。でもその優しい沈黙こそが雄弁な答えである気がして、僕は顔を歪ませた。
「ごっ……ごめんね、僕のせいで……」
 彼の後ろ脚をよく見ようと上体を起こそうとしたが、背中に走った痛みのため、すぐに地面に逆戻りとなった。彼は左脚を庇いつつも、心配そうに僕の顔を覗き込んできた。
「だ、大丈夫。ちょっと痛いけど、動けそうだから。向こうのほうに歩いていけば道路に出られそうだね。ありがとう。あとは自分で歩いて行くよ」
 関節を少し曲げるだけでも軋んで悲鳴を上げる体を叱咤して僕はなんとか立ち上がった。幼稚園児にしてはすごい根性だろう? ピンチに追い込まれれば人間思わぬ力を発揮するものなのかもしれないが。しかし、それが限界だった。一歩踏み出したところで右足に激痛が走り、その場に崩れてしまった。あとで病院に運ばれてわかったことなんだが、右下腿を骨折していたんだ。ひどい折れ方はしていなかったし、手当後の回復も早かったが、体重が掛かるとかなり痛んだ。苦痛に顔を歪めてうめく僕に、彼はクーンクーンと心配そうな高い声を出した。苦鳴とともに、大丈夫だから、とまったく説得力のない言葉を呟いたあと、僕は性懲りもなく立ち上がろうとした。彼は引き止めるように僕の斜め前に陣取って必死にキュンキュン鳴いたが、僕は聞かなかった。しかし半歩も進めず崩折れてしまう。何度かそんなことを繰り返していると、ふいに彼が僕の進行方向に回って体勢を低くした。そして驚いたことに、牙をむき出しにしマズルに皺を寄せて怖い声で唸るんだ。威嚇するみたいに。それは攻撃の前兆ではなく、無理をして歩くなという彼からの警告だったのだと思う。非常に迫力があり、また普段の温厚な姿とのギャップが大きく、僕は怯んでしまった。あのときの彼の顔と声はすごく怖かった。それだけ僕を案じてくれていたということなのだけど。彼が僕に噛み付いてきたりするはずがないと信じてはいたけれど、目の前に大きな犬の威嚇モードはやはり恐怖を喚起させるもので、僕は諦めてその場に座った。途端に、彼は左の後ろ脚を浮かせながらぴょこんぴょこんと僕のほうへ走りより、謝るようにクゥンと鳴いた。耳は倒れ、尻尾は脚の間に入っていた。僕が怒ると思ったのかな……。
 僕は腕を開いて彼を呼ぶと、近づいてきた彼を柔らかく抱いた。
「いいんだよ、気にしないで。大丈夫、そのうちお母さんたちが気づいて探しに来てくれるから。だからきみはもうおうちに帰りな。早くおうちのひとに手当してもらって。ね?」
 足以外に怪我の見当たらない彼だったが、もし僕が転落時に変なふうにぶつかっていたとしたら、見た目よりダメージを受けているかもしれない。雨に濡れてしまっているし、体は大きいとはいえまだ子供の犬だ、それほど体力はないだろう。だから、まだ十分歩いて移動できそうな彼だけでも家族のところに帰ってほしいと、そんな言葉を掛けた。けれども彼は僕のそばを離れようとしなかった。
「お願い、言うことを聞いて。きみも怪我をしてるんだから。無茶しないで……」
 帰ってと僕が言うたびに、抵抗するように唸るんだ。ちっとも言うことを聞いてくれなくて、僕は途方に暮れてしまった。荒れた天候のため、あたりはかなり暗くなっていた。たまに道路を行く車があり、大声を出してみたが、雨に掻き消されるのか、まったく届かなかった。彼は僕から少し距離をとった。そして喉を伸ばし鼻を上向かせると、オォン、と何度か遠吠えした。子供で下手くそなのか、あるいはそういう吠え方なのか、伸びが悪くあまり響かなかった。ただ、よく通る声ではあった。十秒ほどすると自動車が一台通過した。もしかして、僕の代わりにひとを呼ぼうとしてくれているのか? でも無理だろう。人の声ならともかく、動物の声を聞きつけてやって来てくれる人間などまずいない。車はやはり停まらなかった。のぞき込まなければ見えない位置だし、暗くて視界も悪いし、第一こんな山林の中に子供がいるなんて思いもしないだろう。それに車での通過はあっという間だ。気づけというほうが無茶な要求だろう。彼はその後も周囲に訴えかけるように遠吠えをしたが、成果は得られなかった。僕が実感できなかっただけで、山林に生息する野生動物に対する牽制にはなっていたかもしれないが。遠吠えは次第に弱々しくなっていった。ずぶ濡れの怪我をした体で僕を運んでいたんだ、憔悴もするだろう。犬の表情なんて読めないが、僕の目には彼が疲れているように見えた。
「も、もういいよ。無茶しちゃ駄目だって。疲れちゃうでしょ。やめよう?」
 彼は声が掠れてもなお吠えようとしていたが、ふいに僕のほうを向くと、ちょっと離れてぶるっと体を震わせ毛についた水を飛ばした。そして再び僕のところまでやってくると、体を押し付けてきた。何かを訴えるように僕をじっと見つめながら。甘えての行動ではないと感じた。お互い濡れ鼠だったが、彼が自力である程度水分を散らしたこともあり、触れた部分は温かかった。そこでようやく、僕は自分の体が寒さを感じていることを自覚した。痛みが強くて温度感覚にまで気が回っていなかったらしい。彼は僕より先にそれを察したらしい。
「温めてくれるの?……ありがとう」
 犬の平熱は人間より高いから、彼に触れていると温かかった。彼は僕にもたれかかってきた。なんだか元気がないように見えた。
「だ、大丈夫?」
 と、彼はクゥと甘えた感じの声で答え、ぺろりと僕の口元を舐めた。心配され返してしまった気分だった。僕は彼の頭を撫でながら諭すように言った。
「ほんと、僕は大丈夫だから。大分時間経っちゃったと思うし、そろそろお母さんかお父さんが来てくれると思う。きみにもお父さんとかお母さん、いるでしょ? 帰らないと、おうちのひと、心配するよ。僕はここで待ってればそのうち迎えに来てもらえるから」
 すると、何か通じるものがあったのか、彼はのっそりとした動きで立ち上がり、きょろきょりとあたりを見回した。二メートルほど離れたところで僕のほうを一瞥した。僕は、うちに帰れというように腕を使ってジェスチャーをした。彼は人間の手振りが理解できたのか、ゆっくりと駆け出しはじめた。ときどきちらちらとこちらを振り返ったが、僕はそのたびに元気だからと示すように腕を振った。腕は無傷だったけど、連動して動く背筋が痛んだ。しかし苦痛の素振りを見せれば彼が戻ってきてしまうと思い、押し殺して気丈に振舞った。彼の姿が見えなくなったところで僕は地面にそろりと沈んだ。ひとりになった途端心細さがどっとやって来て、このままでは本当にまずいなと、言い知れぬ不安と恐怖が押し寄せた。しかしそれ以上に肉体的な疲労感が強く、これからどうしようかと思ったところで、何も考えられなくなってきた。ひたすら眠くなってきた。いま思い返すと結構危険な状態だったかもしれない。まあ、いまの姿を見てもらえばわかるとおり、結局大事なかったのだけれど。
 それから何が起きたのかはわからない。遠くで甲高い不快な音と、喧騒が響いていた気がするが、夢の中のことだったかもしれない。と突然、再び気を失っていたらしい僕の体は、外部の力によって揺さぶられた。声が聞こえた。さっき夢うつつに聞いた男の子の声ではない。女の人の声だった。即座に母を思い浮かべなかったところを考えると、少なくとも自分の母親の声ではないことはわかったのだろう。ゆっくりと目を開けると、大きな影があった。少しの間ぼうっとその影を見つめていたが、やがてそれが大人の女性であることを理解した。声の主は彼女だったようだ。見知らぬ若い女性で、何やら焦燥に駆られた声で僕に呼び掛けていた。あとで知ったことだが、彼女はまったく無関係の他人で、たまたま通りかかった旅行客だった。恋人とのバカンス中だったらしい。悪いことをしてしまったよ。そのときの僕にはわからなかったが、恋人である男性も近くにいて、救急やら消防やらに連絡をしてくれていたとのことだ。女性はまだ若かったが、弱っている子供の前では母性本能が働くのか、きれいなハンカチで泥だらけの僕を拭い、自分の着ていた薄手の夏向けカーディガンを羽織らせてくれた。僕は彼女に、自分の名前や滞在場所、連絡先を伝えた。彼女は僕を支えたまま後ろを振り返り、何か叫んでいた。多分、僕が告げた内容を恋人に伝え、対応しようとしてくれていたのだと思う。少ししてから、僕の家族や親族がやって来たから。
 でも、声も出せずこんなところで気絶していた僕を自動車で走行中の他地方のカップルがどうやって発見できたのだろう? ひと通り教えられる情報を教えたところで僕は不思議に思ったが、その答えは、彼女の陰で揺れるものをとらえたときにわかった気がした。子犬がいたんだ。彼はお座りをしていたが、少し前に別れたときよりさらにぐったりしていて、いまにも倒れそうだった。
「あ……」
 僕が小さな声を漏らすと、彼は女性の陰から遠慮がちに出てきて僕のほうへ寄ってきた。と、僕は目を見開いた。彼の左後脚がくすんだ赤に染まっていた。別れたときには出血していなかったはずなのに。もう浮かせて庇うこともできないのか、だらりと引きずって歩いてきた。明らかに悪化している左足に、僕はまさかと思った。
「ひ、轢かれたの……?」
 彼と女性を交互に見ながら震える声で尋ねた。女性は気まずそうな、痛ましそうな声で答えた。
「あの……この子、きみの犬? ご、ごめんね。でも、急に飛びかかってフロントガラスの上に乗ってきて……。助けを呼びに来たってことなのかな……」
 彼の姿を見たとき、僕を助けるために彼がこの大人たちを連れてきてくれたに違いないと思った。ただ、その方法までは考えが及ばなかった。僕と別れてからの具体的な行動は及びもつかないが、彼は強引にでも僕のところに救助の手を運ぶために、強硬手段に打って出たらしい。普通に道の脇で見知らぬ犬が吠えていても車を停めてくれる人はなかなかいないだろうから。けっして小さくはない犬の無茶苦茶な体当たり(?)に彼らは最初驚きつつ腹を立てていたらしいが、彼の何か必死な態度に感じるものがあったようで、導かれるままこの近辺にやってきて、僕を発見するに至ったというような話だった。彼の怪我について、このカップルが悪いわけではなさそうだと、子供の頭でも察することができた。彼は僕の隣に立ち、僕の無事を喜ぶように尻尾を振って顔を舐めた。しかし大分弱っていたようで、僕が腕を回すとぐったりと僕の胸にもたれかかって目を閉じた。ずぶ濡れの彼の体をぎゅっと抱き締めながら、僕は声を震わせた。
「なんでそんな……。無茶しないでって言ったのに。なんでこんなことするんだよ。馬鹿……。ちゃんと言うこと聞いて、うちに帰らなきゃ駄目だったんだよ……」
 彼が僕を助けてくれたことはもちろん嬉しかったし感謝した。けれども一度に幾つもの感情を処理するには僕の頭は未熟すぎた。だから僕はそのとき、彼がひどい怪我をして弱ってしまったことが悲しくて、つらくて、でもその感情をどうしていいかわからず、彼にあたってしまった。なんで僕の言うことを聞かなかったんだって。雨はまだ止まず、僕たちを容赦なく打ち付けた。僕は女性が貸してくれたカーディガンを降ろし、自分の羽織っていたパーカーを脱ぐと、彼の体を二枚の布で覆った。女性は何も言わずカーディガンを使わせてくれた。どちらの服もすっかり濡れていたから役に立たないどころか逆効果だったかもしれない。でも、せめて彼の体を少しでも雨から守りたかった。布をかぶせるために体勢を変えても彼はちっとも動かなかった。まだ息はあったけれど、この先に待ち受ける結末が子供心に予感されて、気づけば僕はぼろぼろと涙をこぼしていた。雨だれに混じり、生温かい塩水がぽたぽたと彼の顔の上に落ちていった。すると、ふいに彼が目を開け、鼻先を持ち上げたかと思うと、涙の流れる僕の頬をぺろぺろと何度も舐めた。励ますように、慰めるように。僕は彼の頭と首に腕を巻きつけるようにしてきゅっと抱いた。彼はまだ僕の顔を舐めてくれていた。弱りきっている彼に余計な体力を使わせるのは賢明なことではない。……でも、涙は止まらなかった。

 

 

 

 

 

 

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