セカンドコンタクト、すなわちはじめて間近で見て触れた日の別れもまた呆気ないものだった。ただ、人の気配を恐れて立ち去ろうとする彼の名残惜し気な背中は、僕の胸に期待を喚起するものだった。あの子はきっとまた僕に会いに来るだろうなと。僕は待ち切れない思いで三日目の起床を迎え、同じ日程で近くに避暑にやってきていた親戚たちとのホームパーティも上の空、早く夕方にならないかと心待ちにしていた。日が暮れる少し前に親族の別荘から自分たちの山荘に戻ることができて僕はほっとした。太陽が傾きかけ、空が美しい茜色に染まる頃、前の日に母が焼いたクッキーを数枚ビニール袋に入れパーカーのポケットに仕舞いこみ庭に出た。スポーツ用具のラックにソフトテニスのボールがいくつかあったので、そのひとつを取り出し反対側のポケットに突っ込むと、足早に雑木林のほうへ向かった。柔らかな音を立てながら黒い土を踏んでいると、木の陰から彼がひょっこり現れた。先に来て僕を待っていたらしい。彼は尻尾を振りながら僕のほうへやってきた。
「こんにちは。来てくれたんだ」
彼は僕の前でお座りをすると、鼻をひくつかせた。そして引き寄せられるかのように僕の着ているパーカーのポケットに鼻を近づけた。
「あ、わかっちゃった? お菓子持ってきたんだ。食べる?」
僕はポケットからクッキーの袋を取り出した。野生生物ではないとはいえ、人間の食べ物を動物に与えるのはよくないことだ。そのことはすでに大人に教えられて知っていたのだけど……自分の身勝手な欲求に勝てなかったんだ。あの子にお菓子をあげたいってね。犬に餌をやるというより、友達にお菓子を分けるみたいな感覚でいたのだと思う。……ああ、そうだな、僕は彼を友達のように感じていたのだろう。お気楽な人間の勝手な解釈に過ぎないだろうけど、でも確かにそんな気持ちだった。
食べる物に貪欲だったり躾のよくない犬は、食べ物を前にすると勢いよく飛びついてきてしまうことが往々にしてあるものだが、彼は子供だというのにすでにきっちり躾けられているのか、お行儀よく座ったまま、僕がクッキーを一枚取り出し半分に割るのをおとなしく見ていた。
「はい、どうぞ」
クッキーの欠片を摘んで彼に差し出した。彼はやはり警戒心が強いのか、疑り深く真剣ににおいを嗅いでいた。そして、本当に食べてもいいのかというように僕のほうをしきりにちらちら見やった。でもその間もずっと尻尾を振りたくっていたから、本当は食べたい気持ちでいっぱいだったんだろう。犬はわかりやすい。左右に揺れる尻尾を微笑ましく眺めながら、僕はずいっとクッキーを彼の口につけた。
「どうぞ。……いらない?」
彼はなおも迷っていたようだが、やがてゆっくりと口を開くと恐る恐るといった動作でクッキーの欠片を前歯で挟み、あっという間に飲み込んだ。犬の前歯が指先を掠める硬い感触に、僕はびくっと体を緊張させた。犬歯は当たらなかったけれど、動物の歯に軽く指を挟まれたことがちょっと怖かった。そして同時に、だから彼は僕に気を遣ってなかなか食べようとしなかったのかなと思った。犬に悪気がなく、また噛むわけでなく軽く顎を閉じただけでも、うっかり牙が当たれば、サイズによっては人間の皮膚を簡単に突き破りかねないから。あの子はまだ子供だっただろうけど、すでにあの時点でかなり大きかったしね。身を固くさせた僕に、彼は申し訳なさそうに頭を下げた。犬の習性としてのジェスチャーではなさそうだから、飼い主相手に学習したのかもしれない。
「あ……ごめんね。大丈夫だよ。もう半分食べる?」
と言ったものの、指ごとくわえられるのはまだ少し恐怖感を伴う。どうしようと数秒考えたが、動物もののテレビ番組で人間が手ずから餌やりをしているときのシーンが想起され、それを真似しようと思いついた。手の平の食べ物を舌で舐め取らせるかたちだ。僕は手の平の上にクッキーの残りを置き、彼の口の前に差し出した。彼はもう一度、ちょっとだけにおいを嗅いだあと、僕の思惑通り舌を出してクッキーを回収した。やっぱり飲み込むのはあっという間だった。舌の生暖かくぬめった感触もまたはじめてで僕はここでも少しびっくりしてしまったが、怖くはなかった。
「おいしかった?」
尋ねると、返事をするように大きめに尻尾を振ってくれた。言葉がわかるわけではないのだろうが、雰囲気で察してリアクションを取っているようだった。頭のいい子だった。彼の反応が嬉しくて、僕は彼の頭や首周りを撫でた。嫌がらず、気持ちよさそうに目を閉じるのがかわいかった。僕は続いてゴムボールを取り出し、彼の前に掲げてみせた。
「ボール遊び、する?」
彼はやはりボールのにおいを嗅いだあと、ぱっと立ち上がり、尻尾を揺らした。その場で小さく足を跳ねさせて、期待しているようだった。飼い主にもこうやって遊んでもらっているのだろう。僕は試しにボールを軽く投げてみた。彼はまず数メートル先に転がったボールを視線で追うと、ちらりと僕を見た。僕は即座に、とってきて、と言った。すると彼は走りだし、ボールをくわえてすぐに戻ってきた。そして僕の前にボールをくわえたままの口を突きだした。僕が手の平を出すと、彼はその上にぽとりとボールを落とした。
「上手だね。いい子」
僕は彼の首の側面を撫でて褒めると、また同じようにボールを投げ、取ってくるよう指示した。彼は迅速に動き、ボールを回収した。何度か繰り返すうち、僕は力いっぱいボールを投げるようになっていた。といっても所詮は幼稚園児の力だし、軽いゴムボールだから、大した飛距離は出なかった。ただ平地ではなく林の中だから、投げた本人が確認できないような木の根本にボールが隠れてしまうこともあった。しかし彼は問題なくボールを探して僕のところに戻ってきた。一見単調な運動の繰り返しだけれど、木という自然の障害物を避け、ぴょんぴょんと軽やかに駆ける彼の姿を見るのは楽しかった。僕はドッグスポーツのことはよく知らないが、彼はそういった訓練をすでに受けていたのかもしれない。すごく運動神経がよく、動きが巧みだった。特に大きめの木の根を飛び越えるときの動作がきれいで、変なたとえだけど、カモシカがぴょんと跳ねるみたいな軽快な動きをするんだ。筋肉のしなやかさが伝わってきた。足捌きも洗練されていて、なんだか犬ではない別の生き物のように見えることがあった。何の動物かと聞かれても困るのだが。
ボールを持ってくる彼に、何回かに一回、割ったクッキーを食べさせた。でも彼は食べ物より遊びのほうが好きみたいで、クッキーを差し出されたときより、僕がボールを投げようと構えるときのほうが尻尾を振った。同じ作業の繰り返しでも彼は楽しいようだったが、僕はただボールを投げるだけの動作にちょっと飽きてきてしまった。
「ね、こういうのもできる?」
ふと思い立った僕は、彼の注意を引きながらボールを真上に投げた。きつい放物線を描くように。そして地面に落ちてくる前に自分の手でキャッチした。三回ほど見本を見せたあと彼の様子をうかがう。彼はお座りしている尻を浮かせ、早く遊びたいと訴えるように尻尾をぶんぶん振っていた。僕が彼の上方にボールを投げると、彼は少しだけ移動して器用に口でキャッチした。何度かやっていると、彼は次第にジャンプをして空中でボールを捕らえるようになった。ショーのイルカみたいに華麗に。ジャンプ力もまたたいしたもので、後ろ脚が僕の肩に乗りそうなくらい高く上がっていた。しばらく遊んでいると、彼の呼吸が速くなってきた。運動で疲れたからというより、暑さのための体温調整なのだろうけど。毛並みからして寒冷地適応のようだったから、夕暮れの長野の山地でも彼には暑いのだろう。ちょっと休もうか、と僕はボールを地面に置き、がんばったねと彼の背を撫でた。彼は甘えるように僕に体を擦りつけてきた。懐いてくる大きな毛玉がかわいくて、僕もまた彼に顔を擦り寄らせながら胸元のふかふかした毛を触った。と、彼がおもむろに体を倒しはじめ、地面に胴の側面をつけて寝転がった。そして半身を広げるようにしてころんと仰向けになった。へっ、へっ、と舌を出して呼吸しながら、彼がじぃっと見つめてきた。腹丸出しのそのポーズの意味を当時は理解していなかったが、何をしてほしいのかはわかった。僕はそろりと彼の腹部に手を伸ばした。
「おなか触っていいの?」
一言入れてから、僕は彼の腹に手を当て、ゆっくりとした手つきで撫でた。背中の毛よりも細くて密な白い毛並みは柔らかく、とても手触りがよかった。擬音語で表すならそう……もふもふ? おい、玲央、笑うなよ。僕がもふもふと言ったらそんなにおかしいか? ちょっと……笑いすぎだぞ。何がそんなに受けるんだ? おまえのツボは僕には理解不能だ……。
彼は僕に撫でられる間、曲げた前脚をだらんと掲げ、気持ちよさそうに目を瞑っていた。地面にごろりと寝転がった体長を見て、改めて大きな犬だと感じた。たまにぴくんと動く前脚もやはり太い。肉球は、子供の僕の手を広げたよりも大きかったかもしれない。でも気性が穏やかでとてもおとなしい子だったので、体の大きさや顔立ちの鋭さとは相反して、威圧感はなかった。犬が腹を見せるのは服従の表現だが、まだ幼犬のようだったから、どちらかというと、腹を撫でられる気持ちよさが好きだからそうしただけのような気がする。素直に懐いてくる彼は、かわいかったよ。
空が青紫を帯びははじめる頃、そろそろ戻らなきゃと僕は立ち上がった。また明日も会える? そう尋ねると、彼は僕の顔を見上げながら尻尾を振った。じゃあまたね。そう挨拶して、僕は林から庭へと戻っていった。庭の中ほどで振り返ると、彼はまだお座りの姿勢でこちらを向いているようだった。ばいばい、と手を大きく振ると、彼は立ち上がり、反対方向に体を向けた。名残惜しそうに互いにちらちら振り返りながら、僕たちは帰っていった。
それから、僕は毎日彼に会って一緒に遊んだ。夕方のほんのひとときだけ、オレンジ色に包まれた林の中で会うんだ。お互い名前も知らずにね。どこか神秘的な雰囲気さえあって、その秘密の時間は子供にとってまさにとっておきの宝物だった。僕は彼に会うのが嬉しくて仕方なかった。彼の首輪にはネームプレートのようなものが見当たらなかったから、名前はわからなかった。もっとも、名前を知りたいとか名乗ろうとかいう発想自体、ほとんど出て来なかった。たったふたりしかいないなら、名前がなくてもたいして不都合はないだろう? いま思うと、名前を知っておきたかったと感じないではない。でも、名前というある種のレッテルが貼られてしまうと、名前のわからないあの子との思い出が別のものになってしまいそうだから、やっぱり知らないままで正解かもしれないとも感じる。
あの子は夕暮れ時にだけ現れる不思議な存在だったけど、一回だけ、日が完全に落ちてから一緒に過ごしたことがある。麓の町で祭りがあって、朝からパンパンと空砲のような音が響いており、はしゃぐことを許された子供たちが爆竹やらネズミ花火やらで遊んでいた。その日の夕方、いつものように彼にあったのだけど、尻尾が垂れていて元気がなかった。ボールを見せても遊ぼうとしなかった。どこか悪いのかとすごく心配した。「大丈夫? どこか痛い?」しきりに頭や背を撫でながら心配する僕の顔を、彼は控えめにぺろりと舐めた。日が落ちかけると、彼はそそくさと立ち上がり、尻尾を足の間に入れたまま足早に去ってしまった。どうしたんだろうと胸騒ぎを覚え、思わず追いかけようとした。すると彼はしょんぼりと元気がないのに僕のほうへ戻ってきて、いままで足を向けようとしなかった庭先まで先導した。夜の林に入っては駄目、ちゃんとおうちに入って。そう訴えているかのようだった。わかった、帰るよ、またね。そう挨拶すると、彼は踵を返した林の中へと消えていった。
その夜はどこかの町で花火大会が行われていて、ベランダに上がると遠くの空に人工の華々しい光が咲いては散っていた。花火が目に見えてから遅れてドーンと大きな音が響く理由を父に説明されたが、いつもなら興味深く聞くその手の話も、夕刻のあの子の不自然さが気になって集中できなかった。なんだかそわそわしてしまって、僕はベランダの西側へ行き、柵の棒を掴みながら庭をのぞいた。その位置からはちょうど庭とその先の林が見渡せた。と、庭と雑木林の境界のあたりに何かが動いたのが見えた気がした。すでにとっぷりと夜の時間になっていたが、祭りということで花火以外にも民家や道路の灯りがいつもより煌々としていて、真っ暗ではなかった。ざわ、と胸にさざなみが立った。あの子だ。あの子に違いない。根拠などないけれど直感でそう思った。僕は、下から花火が見えるのはどんな位置と角度なのか知りたいとか、知的好奇心と見せかけたわけのわからない理由をつけて階下へ降り庭に出た。雑木林に視線をやるが、かなり暗く、人間の目ではよく見えなかった。ベランダから何かが動くのが見えたのは庭に近いエリアだったことを思い出し、境界付近を観察した。林との境目には一応の目印として反対向きにされたU字溝が脇に置かれている。その横に、黒っぽい何かが小さく揺れているのを発見した。僕はそろそろとそこへ近づいた。
「僕だよ……?」
声を掛けると、陰がふっと持ち上がった。思った通り、あの子だった。彼はブロックの横で伏せており、顔だけを上げて僕を見た。耳はすっかりしおれており、尻尾は少しも持ち上がらなかった。やはり体調が悪いのかと懸念した次の瞬間、夜空がぱっと明るくなり、彼の琥珀色の目がきらめいた。それはすぐに閉じられ、彼は顔を伏せた。やや遅れて低い音が空気を揺らす。それに合わせるように、彼の体がカタカタと震えた。そこでようやく彼の様子がおかしい理由を察した。彼は花火の音が怖いのだ。そうだ、動物は大きな音を怖がるものじゃないか。今日元気がなかったのは、常にではないが祭りの空砲や爆竹の音が鳴り響いていたからに違いない。人間でも、小さな子供は打ち上げ花火の大きな音や爆竹の爆ぜる音を怖がることがある。それが花火によるものだとわかっていたとしても。動物は不自然な大音響が突然響き渡る理由なんてわからないのだから、なおさら恐怖を感じるだろう。
「大丈夫?」
すっかり怯えて縮こまっている彼に触れて大丈夫か不安だったが、何もせずに突っ立っているのも落ち着かず、僕はブロックに腰を下ろすと彼の背を撫でた。彼はこちらを振り向くと、低い声で唸った。彼はとてもおとなしく、ほとんど鳴いたり吠えたりしない犬だったので、呼吸音以外の声らしい声を聞いたのはこの日がはじめてだった。体が大きいからかもしれないが、子犬にしてはいかつい声で、ちょっぴり怖かった。けれどもそれは威嚇の声ではなく、怯えて漏らした声だと推察できたので、僕は怯まず彼の頭や背を撫でた。彼は応えるように僕の顔を舐めようとしたが、上空に光が上がると音を予感したのか頭を低くしてしまった。かなり怖がっている様子だった。
「今日、怖いのに来てくれたの?」
音の余韻が収まると、彼はそろりと顔を上げて僕をじっと見た。呼ばれたような気がして僕は顔を近づけた。彼は僕の口の横に舌を一度這わせた。倒れた耳の間を撫でてやると、彼はきゅうと小さな声を聞を漏らし、顔を擦り付け甘えてきた。もしかすると彼は夕暮れにここで僕と別れて以来ずっと、この近辺に留まっていたのかもしれない。その頃には花火大会を告げる空砲が空気を震わせはじめていたし遠く爆竹の音も聞こえていたから、足がすくんでしまった可能性がある。お腹が空いているかもしれないと考え、僕はちょっとだけ待っててと彼に告げ庭から一旦離れた。こっそりキッチンに行き、菓子入れの箱を開け中から袋入りのビスケットを二、三取り出し、ついでにコップに水を入れて彼のもとに戻った。彼は僕の気配に首を伸ばし、心細げに見つめてきた。食べ物を前にしても元気はないままで尻尾は足の間に入り込み体の下敷きになっていたが、ビスケットを割って差し出すと、舌で舐め取った。水は僕の手の平に少量を取り数回に分けて与えた。花火が続く間中、彼はローテンションでびくびくしていたが、水分と食料を補給したことで多少回復したのか、ブロックに座る僕の腰に頭を預け寄り添ってきた。僕はなだめるようにずっと彼の体をさすっていた。
花火の音が聞こえなくなってしばらくすると、見物から帰ってきた人々の喧騒に混じり、母の声が届いた。まだ怯えの治まらない彼を置いていくのは気がかりだったが、彼の存在を母に知られるのも騒ぎの元となり余計に彼を神経質にさせるかもしれない。彼も人の気配を恐れてか、ブロックの反対側に身を潜めるように縮こまった。またね、とだけ告げ、僕は家に戻った。何をしていたのと尋ねる母に、まったくのつくり話をでっち上げても見破られそうだったので、林のほうに動物がいたように見えて気になったと伝えた。まさかよその飼い犬だとは想像しなかったであろう母は、イタチかタヌキかしら、花火のときは怖がって出てきそうにないけれど、人里に住んでいるとそういうのにも慣れちゃうのかもね、と呑気に呟いた。そして、野生の動物に不用意に近づいたり餌をやっては駄目だと注意された。僕の手に残るコップとビスケットの空袋をちょっと睨みながら。僕は素直にごめんなさいとだけ答えておいた。目撃したということにした動物についてそれ以上何か言ったり聞いたりしなかったので親は、僕がお菓子をあげようとしたけど向こうは近づいて来なかった、多分そんなふうに勝手に解釈してくれたのだと思う。
花火大会の日をのぞいては彼は元気で、林で僕に会うたびに尻尾を振って寄ってきた。挨拶に口元をぺろぺろ舐めるのも当たり前になった。最初は動物の舌の感触にびくついていたけれど、じきに慣れ、彼が好意を見せてくれることを嬉しく思うようになった。……いや、だからなんでそれがファーストキス扱いになるんだ。玲央、おまえ頭おかしいぞ? はずみで唇を舐められたこともあったと思うが……相手は犬だぞ? 子供と子犬の微笑ましい触れ合いだというのに、おまえの脳内ではどんな変換が行われているのやら……。
彼との時間はとても楽しいものだったけれど、ずっと続くわけはなかった。というのも、僕は言ってみれば旅行者で、そこに住んでいるわけではなかったから。滞在期間は限られている。彼がどこの家の犬なのかはわからないままだったが、地元の飼い犬にせよ、別の土地から避暑にやってきた家族に連れられてきたペットにせよ、僕が東京に戻ってしまえばそれっきりになる。まだ幼児だったけれど、ここから東京の家に帰ればもう彼には会えない、それくらいは理解できた。帰宅の日が目前に迫ると僕の心は沈み、ハイキングもバーベキューもよそごとのように過ぎていった。もちろん、家族の前では楽しんだ顔をしていたけど。嫌な子供とか言うなよ? それに案外子供というのはそういう演技ができるものなんだよ。大人が想像するよりずっと。
帰宅予定日の二日前、つまり彼に会う最後の日のひとつ手前の日、僕は彼に言った。明日でお別れだ、明後日には僕は遠くに行っちゃうんだよ、と。彼は不思議そうに僕を見つめた。それはそうだろう、人間の言葉などわかるはずがないのだから。通じないのを前提に、僕はつらつらと自分の事情を話した。東京という遠くの大きな街から来たこと、ここへは少しの間だけ泊まりに来ていたこと、夏になったらまた来るかもしれないこと。話しているうちに僕は段々悲しくなってきた。現実の状況をはっきり言葉にしたことで、彼とのお別れが近いことをまざまざと感じて。僕の感情が伝わったのか、彼もまたそわそわしだした。
「寂しいよ、きみと会えなくなっちゃうの」
僕の言葉に呼応するかのように、彼はちょっと距離を離すと、顎を持ち上げ首元を伸ばして目を閉じ、オォン、と遠吠えに似た声を発した。狼の名残はその子犬の遺伝子にもしっかりと受け継がれていたらしい。遠吠えの真似のような仕草をする姿は一丁前の狼のようで美しく、どこか厳かだった。
「明日が最後だよ。だから絶対来てね。待ってるから」
別れ際にそう言った僕に、彼は一生懸命尻尾を振った。一方的な言葉だけれど、確かに約束を交わしたという気がした。
その日はいつもより日が落ちるのが早く、あたりが一気に暗くなった。星明りが見えなかった。雲が立ち込めていたんだ。僕はあまり気にしていなかったけれど、すでに天候が崩れかけていた。僕が眠りについたあと、深夜に雨が降りだしたらしい、朝起きると窓の外は暗かった。彼とのお別れの日がこんな天気なんてついてないな。そんなことを思いながら僕は少々憂鬱な気持ちでその日をスタートさせることになった。
本当に、なんでこんな天気になってしまったんだろうか。この夏の雨の日が、僕と彼の最後の日になった。文字通り、ね。この日を最後に僕たちは会うことがなくなった。会えなくなってしまったんだよ、二度と、絶対に。