赤司の過去話。本編より十年くらい前の話が本人の回想として語られます。赤司がオオカミ降旗を邪険にしない理由(?)。本編4話裏まで読んだあとに読まれたほうがわかりやすいかと。
部活終了後、簡単な通達ののち解散を告げてから、赤司は指導陣とのミーティングを行い、その後さらに監督と個別の短い話し合いをしたあと、ようやく部室へと戻った。部員たちで賑わう時間はとうにすぎ、扉の外側からも、室内が静まり返っていることがうかがえた。しかし彼は二度ノックしてからドアノブに手を掛けた。回すと同時に内部から「はぁい」と近所の年配の奥さんが玄関口で対応するときのような愛想のよい返事が届く。もちろん男子バスケ部の部室である以上、その声は男性の低さであるのだが。扉を開くと、テーブル様に二台並べられた長机の前でパイプ椅子に腰掛けている実渕と目が合った。彼はちょっぴり行儀悪く頬杖をつきながら、もう片方の手に油性のボールペンを構えていた。胸の前、机の上には少し側面の傷んだ日誌タイプのノートが置かれている。彼はペンをくるりと指の背で回しながら口を開いた。
「おかえり征ちゃん。遅くまでお疲れー。部誌、客観事項は書いておいたから」
「ああ、ありがとう。待っていたのか?」
答えつつ、赤司はロッカーに向けて足を進めた。解散からかれこれ小一時間経過しているため、部員たちはすでに帰宅したようで、室内には彼らふたりのほか誰もいない。だらだらと居残るのは叱責の種になるので、たいていのメンバーは遅くとも三十分以内には退室を完了する。庶務担当者はこの限りではないが、日報類に余程の苦手意識あるいはプロめいた意識のある者でなければ、一時間近く費やすことはあるまい。そして実渕はそういった諸々の面倒な作業をスマートにこなせるほうである。きっと部誌の必要事項はとっくに書けていたに違いない。
「一応、キャプテンに目を通しておいてもらったほうがいいかと」
実渕が長机の左端に開いたままの部誌をスライドさせる。
「そうか。すぐ見よう」
ロッカーの扉を開きペットボトルを口に含んでいた赤司が踵を返そうとするが、実渕は緩慢に腕を振った。
「いいわよ、先に着替えて」
「そうだな」
すると、赤司はペットボトルを鞄に収め、次に着替えを取り出し、手に掴んだまま実渕のほうへと移動した。制服を机に置くと、練習着のTシャツの裾に指を引っ掛け、やけに鈍臭い動作でのっそりと脱ぎはじめた。視線は斜め前下方、部誌へと固定されている。着替えと書面チェックを同時に行おうとする横着な主将の姿に、実渕が呆れた呟きを落とす。
「征ちゃん……なんでたまにそうものぐさになっちゃうの……」
「時間の節約だ」
「節約どころかおおいなる無駄遣いよね……」
どう考えても、のろのろと着替えながらその合間に部誌の文字を追うより、速やかに着衣を交換し、その後ノートに目を通したほうが効率的だ。もちろん本人もそれを理解しているし、多くの場合、急がば回れで手順や優先事項をきちんと踏まえる人間なのだが、ときどきこうしてわざわざ能率の下がるだらけた行動を取る。理由はよくわからないが、彼なりの息抜き、もとい日常の楽しみ方なのではないかと実渕は勝手に推測している。
「ほかの部員には見せられないわ、キャプテンのそんな姿」
「心配しなくても玲央の前だけだ」
「どうせその台詞、ほかの部員にも言ってるんでしょー」
「否定はしないが、相手は選んでいる。あと、回数は玲央がぶっちぎりだ」
さらっと軽口を叩きつつ、着替えの手は相変わらずもたついており、ハーフパンツを抜こうと片足ずつ地面から浮かせることで体が少々ぐらついている。そう簡単に笑いはじめるような膝や体力ではないはずなのだが。シューズを履いたまま足を抜こうとして布に引っかかり、おっとっと、とわざとらしい声を上げながらケンケンで横に移動していく赤司に、実渕が呆れながら、征ちゃん靴脱ぎましょうよ、と生温かい目で注意をする。ああ、そうか、シューズが引っかかっていたのか。呑気に独り言を漏らしつつ赤司がようやくハーフパンツを脱ぎ、実渕の対面に置かれたパイプ椅子の背もたれに皺を伸ばすことなくぞんざいに掛ける。やはりのたのたした動きでたるそうに制服のズボンに手を伸ばす赤司を見ていた実渕が、ふと尋ねる。
「征ちゃん、前からちょっと気になってたんだけど、左の太腿のとこ、傷跡ついてる……?」
そこ、と実渕が指さしたのは、赤司の左大腿部の外側。腹側に近い部分に小さな穴のような痕跡がふたつ、三センチほどの間隔を置いて残っている。周囲の皮膚の色と比し色素が薄く、肉芽の名残かわずかに盛り上がっているようだった。指摘された赤司はその部位の近くに左手の指先を触れさせた。
「ああ、これか。古傷だ。大分目立たなくなったとは思うが、うっすらとは残りそうだ。もう二箇所、こっちのほう(と彼は傷跡から数センチ背側を指さした)にも痕があったんだが、それはいつの間にか消えていた」
「結構古そうだけど、子供の頃の怪我?……にしてはちょっと大仰なような」
軽く握った拳を顎に当てながら実渕が首を傾げる。
「珍しい種類の怪我だったからな」
「もしかして……犬か何かに噛まれたの? 咬傷っぽい感じがする」
「そうだ。犬の歯型だ。前歯なんかの痕はとっくに消えたが、犬歯のあとは残った。それだけ深く食い込んだということだろう。そういえばあの犬、ずいぶん牙が鋭かったな」
なんでもないことのように語る赤司に、実渕がぎょっとしたように目を見開く。後年までずっと傷跡が残るほどの咬傷ということは、受傷時にはかなり深かったのではないのか。
「だ、大分ひどかったんじゃない、それ?」
「心配しなくても完治しているし、痛みも残っていない。内部組織の損傷は少なかったし、瘢痕も小さく皮膚の引き攣れはない。運動への影響はまったくない。痕だけ残った感じだ」
「そうなの……なんだかもったいないわ、痕残っちゃって」
「そうか? 別に気にならないが」
顔ならさすがに気にするだろうが、太腿なんて隠れて見えないし、普段はきずがあること自体忘れているよ。深刻そうな顔をする実渕の心理が理解できないというように、赤司が首を傾げる。
「そう? まあ征ちゃんはそのへんあんまり執着しなさそうだとは思うけど」
せっかくきれいなのに~、と言われるほうにとっては見当違いな感想を呟く実渕に、赤司がくすっと笑いながら手を伸ばす。長めの横髪にさらりと触れる。
「おまえの顔に傷がついたら気にするぞ?」
そう微笑まれた実渕は、数秒まばたきを忘れたあと、今度は素早く何度も目をしばたたかせ、さっと顔を薄く紅潮させた。
「まっ、征ちゃんたら。上手ねえ」
頬を片手で押さた実渕は、きゃー、と変な小声を立てたあと、長机に置いた自分のバッグを漁り、中からカロリーメイトの箱を取り出すと、これあげちゃう、と言いながら赤司に渡した。赤司はありがとうと一言だけ言って受け取ると、箱を開封して一袋抜き、残りを実渕に返した。水分を求めて一旦ロッカーまで引き返して鞄を回収すると、実渕の向かいの椅子に座り、カサカサと音を立てながら光沢のある包装を破った。なるべく食べかすが落ちないよう、食べる部分だけを飛び出させ、小口で齧り取る。猫をかぶった女の子のような小さな一口を完全に飲み下してから、再び口を開く。
「おまえにはおかしな話に聞こえるかもしれないが、僕はこの傷はむしろ残ったほうがいいかもしれないと思っているんだ」
唐突に切りだされたのは、先ほどの傷跡の話の続きのようだ。実渕はまたしても目をぱちくりさせた。
「え? なんで? 自分への戒めとか?」
「いや違う。まあ反省がないわけじゃないが……小さな頃のことだから、そんな思い詰めたりはしていない。そもそも、この歯型をつけた犬は僕を攻撃したわけじゃない。見てもらえばわかると思うが、穴の痕が小さく残っているだけで、周囲に裂けたような傷は残っていないだろう? つまりその犬は、噛んだ状態で振り回したりはしていないんだ。この傷はやむを得ないものだった。だからこれはなんというか……思い出の品がわり?」
「思い出?」
「大分昔……十年くらい前か。小学校に上がる前くらいだったと思う。長野の避暑地に行ったとき、事故に遭ってね」
「事故? はねられたの?」
不穏な単語に、実渕が声を潜める。もしかして重い話なのだろうかと身構えるは、当の語り手の口調はあっさりしたものだった。
「いや、交通事故ではない。そんなたいしたものじゃない。崖から落ちただけだ」
「崖から転落したの!? ことによっては交通事故より大変じゃない!?」
驚く実渕に、しかし赤司はまあ落ち着けとジェスチャーで示す。
「崖といっても断崖絶壁から真っ逆さまに転落したわけじゃない。いまにして思えば、崖というよりは山の斜面だったんだろうな。山道の脇は急斜面になっているだろう? 多分そんなような立地のところだ。不注意でそこを転がり落ちたんだ」
赤司の説明を聞いた実渕は、唇の下に人差し指を当てながら、上方に視線をさまよわせうーんとうなった。
「避暑地の山道……想像はつくけど、そんなとこ転がり落ちるって、やっぱりどう考えても大変だと思うんだけど。車はともかく、あんまり人通りないでしょ」
「そうだな、ひとりだったら大変なことになっていたかもしれない」
「誰か大人の人が一緒だったの?」
「いや、友人がひとり。彼が助けを呼びに行ってくれたから、事なきを得た。あの子には本当に助けられたよ――」
ふふ、と小さな笑いを吐息だけで立てた赤司の表情は懐かしげであったが、どこか苦さを感じさせるものでもあった。
*****
その山荘に行ったのは、物心というものがついて以来三度目か四度目だったと思う。少なくともはじめてではなかった。子供心に、以前にもここへ来たことがあるとわかっていたし、両親に旅行先を告げられて出発前に喜んでいた記憶もあるから。当時は別荘とか避暑地なんて単語を知らなかったしそこがどういった目的で存在する場所なのかも理解していなかったが、暑い季節に旅行で何日か泊まるところだという認識は持っていた。当たり前だが電気もガスも水道も通っていて、家電製品も揃っていたから、軽い登山とか山歩きとか川遊びとか屋外での調理と食事とか、ちょっとしたアウトドアを行う以外は都会での生活と大差はなかった。いわゆる『田舎』は実質的にこの国にはないようなものだからね。外界の多くのことを認識し理解できるようなかわいげのない年齢になってからはたいした新鮮さを感じなくなってしまったが、当時は純粋に旅先での非日常を楽しんでいた。そうでなくとも、小さな子供には、大人にとって日常の些末事と言えることが初体験という場合も多く、日々は目新しいことの連続と言えるだろう。だから夏の山荘で過ごす約一週間の思い出はとても色鮮やかで、自宅での数ヶ月に値するくらいいろいろなことがぎゅっと詰まっている。記憶というのは、物心つく前の幼すぎる時期は除いて、子供の頃のもののほうが鮮明に詳細に残っているというしね。そうはいっても、その期間の出来事を細部まで余さず覚えているわけではなく、シーンごとの時系列がバラバラだったり、前後が途切れていたりと、あやふやな部分も多い。まだ発達段階の子供の知能がとらえて保存した思い出ということもあるだろう。けれども覚えている部分については本当に詳しく、それこそ当時の気温や湿度、木々の枝のざわめき、森の土のにおいみたいなものまで頭の中で蘇らせることができる。光景については、意図的に記憶を引き出さずただ流れるままにした場合、動画というよりデジタルフォトフレームみたいな感じで、それぞれの出来事のもっとも鮮やかな一枚が浮かんでくるようなイメージだ。それらの思い出の中でも一番心に残っているのが、あの子と会って、そして別れた一連の出来事だ。トータルの時間は一日にも満たない短いものだが、夏休みがすぎて盛夏の面影を感じる時期になると、ふいに脳裏にあのときの光景が蘇る。今日こんなふうに饒舌になっているのも、きっと夏の名残が僕にそうさせているんだろう。
幼児の目を通した記憶は中心部だけが鮮やかで周辺部の暗い視野のようなものだから、後年の成長した僕の認知力や記憶で補いながら話すことになる。
山荘はロッジ風の木造家屋で、低い山の麓から中腹にかけて散在するいくつかの似たような建築物の中のひとつだった。集落の位置する標高が高く、東京や京都に比べるとずっと涼しく、夜や朝夕に至っては寒いくらいだった。高い山の山頂は残り続ける雪で白く彩られていた。天気のよい日は遠くに八ヶ岳連峰が見渡せた。そこで過ごす三回目か四回目くらいの夏、時期はいわゆるお盆の少し前だっただろう、到着した最初の日の夕暮れに僕はあの子と出会った。
西日の眩しい時間帯、僕は日中の服装である半袖ハーフパンツの上に、日が暮れると冷えるからと母に渡された長袖のパーカーを羽織った格好で、庭の外れを歩いていた。庭といっても日本の民家に設えられた小さな庭ではなく、さりとて邸宅の敷地内の庭園といった風情でもない、私有地と公有地の境目の曖昧な山林の入り口のような場所だ。原生林ではないものの、ヨーロッパの森とは違い鬱蒼として暗く、どこか人の侵入を拒むような雰囲気を子供ながらに感じていた。そこに生息する植物の見分け方を父に教わったものだが、具体的な名称はいまぱっとは出てこないな。多分、現物を目の当たりにすれば薀蓄とともにすらすら出てくるんだろうけど。
自宅の庭や幼稚園や公園といった普段の行動範囲にはない草花が珍しくて、子供の低い視線を腰を屈めたり膝を折ったりしてさらに低くしながら、木々の根本を観察していた。といっても理科の観察にも満たない、物珍しさに任せてじろじろ眺めるだけといった感じだっただろうが。早朝よりも控えめにセミたちが歌っていた。僕は昆虫採集にはさほど熱心な子供ではなかったようで、そのときは虫取り網も捕虫籠も構えていなかった。どちらかというと植物に興味があり、親の趣味なのか髪をあまり短く刈っていなかったこともあり、どこかの大人に女の子みたいだとしばしば言われた。悪気はないのだろうけど、失礼な話だ。まあ、ここではどうでもいいことなんだけど。
夏の虫たちのさまざまな歌声の中、ふと足音めいたかさりという小さな音が聞こえた。木の枝が風で擦れるのとは違う、もっと下のほうから響いてきた。堆積する落ち葉が成す柔らかい腐葉土を踏みしめるときの湿った音。顔を上げてあたりを見回すが、人はいない。気のせいかと思って首を傾げたそのとき、わずかに回った視界の端に足音の主と思しき影を見つけた。野生動物かとちょっと身構えたが、違った。犬、だった。西日で色はわかりにくかったが、毛は茶色っぽく見えた。日本犬風の立ち耳で、マズルは長すぎず短すぎず。少なくとも短吻種ではなかった。犬は僕と視線がかち合うと、びっくりしたのかその場で小さく飛び跳ねてあとずさった。くるりと踵を返そうとしたが、こちらが気になるのか、振り返ってちらちら様子をうかがってきた。そしてその場にお座りをすると、首を三十度ほど傾ける仕草をした。キツネのイラストや写真にしばしば出てくるような角度で、かわいらしい動きだった。彼からしたら、耳の位置を微妙に変えて音を探っていただけだろうが。僕はその犬に興味を惹かれたが、本来の野生動物ではないとはいえ、野良犬かもしれない。不用意に近づけるほど怖いもの知らずではなかったので、好奇心の次には警戒心が芽生えた。でも追い払うという発想も出てこなかったし、距離が離れていたこともあり恐怖感らしい恐怖感も湧かなかったので、林の手前に留まって、彼をじぃっと見つめていた。彼のほうも僕に興味があるのか、こちらに来そうにときどき一歩踏み出すものの、やはり警戒心が強いようで、すぐに後戻りしてしまった。吠えたり唸ったり牙を剥いたりといった威嚇行動はとらず、困ったような怯えたような様子でしきりにあたりを警戒している様子だった。睨み合っているわけでもなかったが、妙な膠着状態が続いた。僕が思い切って一歩踏み出すと、怖がらせてしまったのか、彼は二歩三歩と後退した。耳が後方に倒れていたから、多分怯えていたんだろう。しかし、ふいに彼の耳がピンとまっすぐ立った。そうかと思うと、左右にぴくぴくと動き出した。多分、人間には聞こえない音をとらえていたのだと思う。僕には草木がそよ風に撫でられる音くらいしか認識できなかったけれど、彼はじきに明確に方向を定め、そちらへ向かって歩き出した。そのときはじめて尻尾がはっきり見えた。日本犬のようなくるんとした巻き尾ではなく、ふさふさとした太い尻尾が垂れていた。彼は時折足を止めては僕のほうを振り返ってきた。追いかけたりすれば足音ですぐわかるはずだから、追われる心配をしたわけではなく、単にまだ気になっていたということだろう。彼は数歩進んで振り向くという行動を何度か繰り返すと、やがて林の奥へと姿を消していった。それがファーストコンタクトだった。交わしたのは目線だけ。お互い声すら聞いていなかった。
気づくと西日も大分落ちていて、あたりはオレンジ色から薄紫へと変わりつつあった。なんだか夢でも見ていたかのような不思議な心地のまま建物のほうへ戻ると、そろそろ家に入るよう呼びに来た母とはち合った。その後のことはあまり記憶にない。多分両親とごく普通に過ごしたのだろう。ただ、夜布団に入って目を閉じると、夕刻に会ったあの犬の姿がまぶたの裏に浮かんできた。あれは本当にこの目で見た光景だったのだろうか。夕間暮れの薄暗さと涼やかさ、都会育ちの子供にとっては新鮮なロケーションというのも手伝い、どこか幻想的でさえあった。でも、なぜかまた会えるような気がして、明日もあの場所をのぞいてみようと思った。その年頃の子供は、夢と現実のラインが不明瞭なものだから、いまよりずっと脳天気だった。覚えていないけれど、もしかしたらその夜、僕はあの犬と遊ぶ夢を見たかもしれない。ささやかな願望の表れとして。もしそうだとしたら、それは正夢だったよ。程なくして、僕はまたあの子に会えたんだ。