火神くんに台所とダイニングの片付けを任せている間、僕は寝室に降旗くんを連れて行き、ベッドの上に客用のシングルの布団一式を用意し、そこに彼を寝かせました。他人に自分たちのベッドを使われるのが嫌だったというわけではなく、僕たちが普段あんなことやこんなことをしている場所に友人を寝かせるのが忍びなかったからです。今日は朝から赤司くんの突撃を食らったため、寝具の洗濯ができていませんし。降旗くんは大分アルコールに浸かっている様子で、それに加えて赤司くんから突然切り出された別れ話(誤解)がかなり堪えたのでしょう、小金井先輩と一緒に居間に上がってもらったあと、程なくしてしなしなとくずおれ、床にぺたんと座り込んでしまいました。もはや流す涙もないということなのか、見開いた目は潤んではいたものの、水の筋が伝う気配はありませんでした。話があって僕たちのアパートまで来たのでしょうが、この状態ではとてもではないですが話せそうにありません。また脳も内蔵も酒浸りですから、このまま家にとんぼ返りさせるのも危険です。まずは心身を休めるのが先決だと考え、僕は火神くんが用意してくれたレモン水を降旗くんに飲ませたあと、寝室で寝かせることにしたのです。茫然自失の降旗くんでしたが、それでも見当識はしっかりしており、迷惑かけてごめんとなかばうわ言のように繰り返しつつ、アルコールと精神的疲労には勝てず、沼に引きずり込まれるようにして眠りにつきました。別に病気でもなんでもないただの酔っ払いなのですが、ぐったりとやつれた顔つきは実にいたわしいものでした。
「黒子、降旗は?」
僕が寝室から居間に戻ると、ダイニングの食卓に座る小金井先輩が出入り口へと顔を向けました。テーブルの上には一人前のチャーハン。今日の夕飯はひとに出せるほど残っていないので、火神くんが冷凍ご飯を解凍してこしらえたようです。小金井先輩はあまり空腹ではないと言っていましたが、夕飯がまだということでしたので、うちで食べていってもらうことになったと火神くんからの報告がありました。多分すぐにはお帰しできないでしょうから、せめて夕飯くらいは供さねばならないというものです。まあ全部火神くんにやってもらっちゃったんですけど。
僕は、食事のスプーンを持つ手を止めた小金井先輩に、どうぞお食事を続けてくださいと促したあと、対面の席に腰を下ろしました。隣では火神くんがコーヒーを飲んでいます。僕と入れ替わるかたちで火神くんが立ち上がり、ティファールの電気ケトルからお湯を注ぎTバッグの紅茶を用意してくれました。なんと気の利く彼氏でしょうか。
「寝室で休ませてきました。改めて近くで息を嗅ぐとずいぶんお酒臭かったんですが……大分飲んじゃってますかね、アレ」
僕が椅子の位置を直しながら降旗くんについて尋ねると、小金井先輩がチャーハンをきっちり飲み下し、麦茶を一口含んだあと答えます。
「そうだなー、会った時点ですでに酒が入ってて、そのあとも家飲みで結構いってたからなあ。嫌なことがあっての自棄酒っぽかったから、まあそういうのも必要なときはあるのかもって思ってしばらく好きにさせておいたんだけど、ちょっと酔いがひどくなってきて、放っておくとアル中でぶっ倒れるかも? って危機感を感じてさ、なんとかなだめすかして酒やめさせて、おまえらんとこに話を聞きに行くよう説得したってわけ」
降旗くん、急性アルコール中毒を懸念されるほど飲んじゃってたんですか……そりゃ酒臭いわけです。彼はお酒は飲めるほうですが、僕と同じく体質としてやや強いほうだというだけで、特別好きということはなかったはずです。しかしお酒に逃げたくなる気持ちは想像できなくもありません。だって彼氏に等しい存在のひとが友人相手に浮気したと、当の本人の口から聞かされたとあってはたまったものではないでしょう。いえ、そのような事実は存在しませんし、赤司くんとてそんなつもりで話したわけではないというのはわかっていますけど……これに関しては降旗くんの早とちりと切り捨てることはできません。どう考えても悪いのは赤司くんです。口達者なくせになんで肝心な言葉は一切合切省いちゃうんでしょうねあのひとは。つい半時間前に見せられたディスコミュニケーションの現場を思い返し、僕は本物の頭痛を感じました。
「小金井先輩、降旗くんとは今日どこで会われたんですか?」
「ファミレスだよ、イタリアンの。俺は全然知らなかったんだけど、降旗のアパートの近くだったみたい。あいつ真昼間からフルボトルのワイン頼んでたんだよ、ひとりで」
「ひとりでフルボトルですか……」
それも昼間から。お国柄にもよるでしょうが、少なくとも日本で一般的な飲酒習慣ではありません。確かに知人が、それも普段素行になんら問題のない人物がそんな行動を取っていたら心配にもなりますね。小金井先輩が案じたのももっともな話です。
「そうそ。だから店で見かけたとき、ちょっとびっくりしちゃってさ。連れがいるような感じでもなかったし、なんか妙な影背負ってるしで、不穏な空気が漂ってた」
「じゃあ、小金井先輩はそんな降旗くんを心配して……?」
「うん。そういうこと。お節介かなとは思ったけど、気になっちゃって」
小金井先輩、優しい……。後輩が昼間から暗い雰囲気で酒を飲んでいたら無視しづらいというのもあるでしょうが、そのあとなし崩しとはいえこの時間まで見捨てずつき合っていたのですから、仕方なさのほかにやっぱり優しさもあると思います。二日に渡り赤司くんの傍若無人に振り回されていた僕たちの心に、小金井先輩の心はひどく清らかに感じられました。火神くんは早くも目を潤ませています。
「ええと、酔った降旗くんから話を聞いたんですよね?……その、昨日の出来事とか」
おそらく小金井先輩は酔っ払いの話を真に受けてないと思われますが、さりとてまったくの作り話だと考えているわけでもないでしょう。赤司くんと僕たちの間で、少なくとも何らかの性的接触、あるいはそれをにおわせるような何かが存在したと解釈しているのでは……。それは大変心外なので弁明させてほしいところですが、小金井先輩には特に非難めいたまなざしも口調も見られないため、逆に説明のタイミングに困ってしまいます。先輩はどこまで事実を把握し、そしてどの程度の誤解が生じているのでしょうか。とりあえずお話を聞かせていただかないことにはこちらとしても説明に困ってしまいます。
「あー、うん、聞いたよ。なんかごちゃごちゃしてていまいち理解できなかったけど」
「なんて話していましたか、降旗くん?」
「えーとな、いかんせん俺の頭の中で情報が錯綜しているから、とりあえず順を追って話すよ――」
小金井先輩は問答を受ける一休さんの真似をするかのように、両手の人差し指をこめかみのあたりに押し付け、目をぎゅっと閉じて眉間に皺を寄せました。情報を整理しているようです。十秒ほどの間をおいてから、先輩が言葉を探すように視線をさまよわせつつ、ゆっくりと口を開きました。
「降旗に会ったのは今日の正午ちょっと前だったと思う。十一時半から十二時の間ってところかな。原付で市の図書館に本を返しに行って、時間的にそろそろ昼飯だなと思ってたら、通り道にあるファミレスで新商品のキャンペーンがやっててさ、小腹も空いたしちょっと寄って行こうかなと思って駐車場に入ったんだ。昼前だからかそんなに混んでなくて、店員さんも禁煙か喫煙か聞いてきたくらいで、空いているお席にどうぞ~、って好きに席選ばせてくれた。で、禁煙エリアを見回してたら、隅っこの四人掛けの席になんか知った顔があるっぽいじゃん? もしかしてと思って近づいたら降旗だったんだよ。
『降旗? 降旗だよな?』
『え……?』
『俺だよ、小金井。……っておまえ、もしかして酒飲んでんの? 真昼間から?』
降旗のテーブルには白ワインのボトルが一本置かれていて、すでに三分の一ほどまで中の液体が減っていた。グラスはワイン用のものがひとつあるだけで、ほかに飲み物用の容器はなかった。
『あ……コガ先輩? お久しぶりです、こんにちは……』
降旗は突然声を掛けられて一瞬はてなマークを浮かべていたけど、さすがに俺が誰なのかわからないほど酔ってはいなかった。先輩後輩としてはごく普通の挨拶をしてわけだが、降旗の声には覇気がなく、どこからどう見ても落ち込んでいる様子だった。そのとき俺の頭に真っ先に浮かんだのは、失恋の二文字だった。でもさすがに出会い頭に『おまえ彼女にフラれたの?』とか聞けないじゃん? 高校時代ならともかく、いまは普段からそこまで交流があるわけじゃないし、当然お互いの交友関係なんて把握してないわけだしさ。でも休日とはいえ昼前からファミレスでボトルワイン注文するとか変な感じするじゃん? 自分が原付で来ていたこともあって、もしかして降旗のやつ飲酒運転やらかさないだろうな、って真っ先に心配になって、その点だけでも確認しておきたいと思って同席の許可を尋ねたんだ。降旗は『あ、はい……どうぞ……』って一応肯定の返事を返したけど、気乗りしないんだか興味がないんだかって印象だった。交通手段についてはあいつは徒歩だということだった。全然知らなかったけど、降旗の借りてるアパートから歩いて一キロ弱程度の距離らしい」
「ああ、だいたいわかりました。あそこですね」
近所というほどではありませんが、降旗くんのアパートの最寄りファミレスといったらひとつしかないので、場所はすぐに特定できました。僕たちも過去に何度か利用したことがあります。火神くんの料理がおいしいので食事目的でファミレスに行くことは少ないのですが、何人かで集まるときは安い一品料理とドリンクバーで居座ることができて便利な空間です。
「飲酒運転の心配がないってことでひとまず安心はしたんだが、自分から話しかけた手前、いかにも影が差しちゃってる降旗を放置してじゃあ俺は別の席に、とは行きづらいし俺自身気になったから、そのまま同じテーブルで注文を取ることにした。店員さんに確認したら別会計OKってことだったし。トマトフェアやってて、トマト系のソースを使ったセットメニューがセール価格で売りだされてたんで、まあ適当に無難そうなシーフード入りのトマトスパゲッティを頼んでおいた。商品名は覚えてないけど。降旗のほうは、いかにも酒のつまみですって感じのチーズ乗せクラッカーと定番のフライドポテトをちまちま食べていたようだった。最近大学で面倒なレポートが出たとか、それで今日市の図書館に行ってきたんだー、とか、まあ当たり障りのない近況報告からはじめて、俺の注文したスパが給仕されたくらいに、おまえのほうはどうよ? って感じで降旗に話を振った。
『結構久しぶりだよな。やっぱ学年違って大学も違うと、会う機会なんてなくなるよなあ。でも久々に会えて嬉しいよ。どうしてた?』
『ええと……』
『おまえ酒好きだっけ? 当たり前だけど高校のときは飲酒なんてあり得なかったからなあ、昔の友達の酒の傾向って知らないままだったりするんだよな。確か黒子が強くて火神が弱いってのはどこかで聞いたような。ぱっと見だとイメージ逆っぽいけど、あいつらの中身知ってるとなんかそれっぽいよなーって思っちゃった』
降旗が酒を飲んでいるところを見るのははじめてだし、そういう話を聞いたこともなかったから、これは詮索というよりも単純な疑問だった。しかし降旗は好き嫌いには答えず、ワインのボトルを掴んで軽くテーブルから浮かせた。
『先輩は? あの、よかったらワイン飲みます? 安物ですけど』
グラス持ってきましょうか、と立ち上がりかけた降旗を留め、俺は隣の椅子に置いた原付のヘルメットを見せた。
『ごめん、原付乗ってきたから酒はアウトなんだ。犯罪者になっちゃう』
『あ……そうか、そうですよね……』
俺が原付で図書館行って、その帰りにファミレスに寄ったってのはすでに話してあったんだが、あいつは失念していた様子だった。失念っていうか、最初からこっちの話が頭に入ってないような? そこを突っつくつもりはなかったから、適当に流したけど。
『いやこっちこそ、せっかく気ぃ遣ってくれたのにつき合えなくてごめんな』
そのあと、白ワインが好きなのかとか、つまみはどういうのが好きなんだとか、酒の話題を適当にした。降旗がクラッカーをくれたから、俺はセットについてたサラダを半分くらいやった。野菜も食べろよ、って言って。
『降旗さ、特別酒が好きってわけでもないんだよな?』
『ええ、まあ。普段はほとんど飲みません。飲むとしてもチューハイくらいですね。家には日本酒とかワインの赤白とか置いてありますけど、料理用の安物なんで、普通の飲用には向きません。一本三百円が切れるような格安モノですから』
安物とはいえ一人暮らしの男子が料理酒として複数の種類を取り揃えていることにちょっとびっくりした。火神ならわかるけど、降旗が? って意外に感じたよ。あとで、料理に凝っている理由も聞かされることになったんだけど、そのときは料理酒のことには特に注意を払わなかった。
『ワインにチャレンジしたくなった? 俺もブランデーとか焼酎飲めるようになりたいってたまに思うんだよなー。なんか渋くてかっこいいじゃん?』
『いえ……別に……』
世間話っぽく聞いてみたんだけど、降旗は曖昧に口をもごもごさせるだけだった。
『どした?……なんかあった?』
『……そう見えちゃいました?』
うつむきつつ眼球だけを上目遣いにしてこちらを見つめてくる降旗に、ああ、こりゃ溜まってるものがあって、できれば吐き出したいんだろうなって空気をひしひしと感じた。
『うん、まあ。なんか落ち込んでるように見えるかな』
なんかっつーか、どこからどう見ても落ち込んでるじゃねえかと内心思ったけど、それは飲み込んでおいた。
『悩んでる? 俺、最近のおまえのことなんて何もわかんないけど、そっちに差支えがないようなら、話を聞くくらいはできると思うよ? 何溜め込んでるのかは知らないけど、そういうのって、案外無関係の人間相手のほうが話しやすかったりするかもよ? 相談に乗るのは難しいかもしれないけど、もし何か悶々としているんなら、言葉にして吐き出すだけでもちょっとは楽になったり。まあ、俺が役に立つかは微妙だけど、聞き役程度でよかったら』
あんまり深入りしないほうがいいかなーと思わないではなかったけど、だからって放置するのもなんか気持ち悪いじゃん? それで、適当に『役に立たないかも』アピールで予防線を張りつつ、話してみろよって促したんだ。そうしたら降旗のやつ、
『コガ先輩……』
っていまにも泣きそうな声で俺を呼びながら顔を上げたんだ。やけに目がうるうるしていた。やっぱ失恋とか色恋沙汰方面なのか? 漠然と予想しつつ降旗がぽつぽつと話しだすのを待ってた」
小金井先輩の話はまだ触りの部分だけなのでしょうが、僕と火神くんはこの時点ですでに感激に胸がいっぱいになっていました。
「こ、小金井先輩……」
「ん? どうした黒子?」
「コガ先輩……」
「火神まで……どうしたんだふたりとも、そんな目をうるませて。なんかあのときの降旗思い出すんだけど……」
両手を胸の前で組み、きらきらした瞳を向ける後輩ふたりに、小金井先輩はいささかたじろいだ様子です。しかし僕も火神くんも目の前の天使に尊敬の視線を注がずにはいられません。
「僕、小金井先輩が僕の先輩でいてくれて本当によかったと思います」
「なんかよくわからねえけど俺いますげえ感動しています。コガ先輩優しいっすね。そしてまともだ……どこまでもまともだ……」
「ああ……小金井先輩からマイナスイオンを感じます……なんですかこの癒しのオーラ」
「ちょっと拝ませてほしいです。……仏教式ってこうだっけ?」
火神くんが組んだ手を解き合掌をかたちをつくります。僕も宗教上正しい形式は知りませんのではっきりとは答えられないのですが、イメージとしては火神くんの手の合わせ方に別段違和感はなかったので、適当にうなずいておきました。
「そうそう、そんな感じで手を合わせればいいですよ。まああまり格式張らず」
僕もまた手を顔の少し下あたりの高さで手を合わせると、火神くんとシンクロしながら小金井先輩に向かってお辞儀をしました。
「ちょ、おまえら何だよいきなり? 俺、拝まれるような偉いこと何もしてねえよ?」
唐突に礼拝を受けた小金井先輩は居心地が悪いのか椅子の上で小さくあとずさりしました。すみません不気味なことして。しかしいまの僕たちにとって小金井先輩は拝むだけの価値のある存在なのです。むしろ僕たちの心の安寧のため、拝まれてください。
「いえ、小金井先輩は偉大です。僕はいま、カサカサ乾燥肌が一気に潤いを取り戻していくかのような心地です」
「うぅっ……コガ先輩……ナムアミダブツ。……ギャーテーギャーテー?」
南無阿弥陀仏と般若心経が混ざってますよ火神くん。何がどう違うのかと聞かれても説明が難しいので突っ込みませんけど。どちらかというとキリスト教に馴染みのある火神くんですが、南無阿弥陀仏と羯諦羯諦が仏教のものであることは知っているようです。
「なんか、感謝してくれてるんだとは思うけど、どちらかっつーと供養されてる気分だよ……」
小金井先輩は眉をハの字にして困り顔です。なんだか水戸部先輩を思い出して懐かしいです。いまは思い出に浸っている場合ではありませんが。
「あの、小金井先輩、話の続きなんですけど……」
「えーと、どこまで話したっけ?」
「降旗くん、ファミレスで何かしゃべったんですよね? 多分、赤司くん絡みのことだと思いますが」
「ああ、そうそう。最初に赤司の名前が出てきたときは、正直誰だっけ? な心境だった。いや、あんなインパクト強いやつ忘れることはあり得ないんだけど、降旗がその名前を出すとか、脈絡がまるでないように感じられるじゃん? 高校のときならともかくさ。だから、降旗のやつが赤司がどうのって話しはじめたときは、なんのこっちゃと思ったよ。つい、赤司ってあの洛山の赤司征十郎のことかって、超基本的なところから確認しちゃった」
小金井先輩はどこまでも正常なようです。
「その気持はよくわかります」
「俺もまったく同じことしたっす」
中学が同じだった僕ならともかく、降旗くんと赤司くんなんて高校時代の部活において対戦校の選手同士だったという以外まるで接点がないのですから、いきなり赤司くんがどうこうとかいう話が出てきたって困惑するだけだと思います。僕は過去のつき合いから赤司くんが突拍子もない話をいきなりはじめるケースがあることを知っていたのでまだついていけましたが、降旗くんから話を聞かされた火神くんは本日の小金井先輩とまったく同じ反応をしていましたよね……。火神くん当人の報告の中で知ったことですが。
「あ~、まあそうなるよな。降旗と赤司につながりがあるとか夢にも思わないもんな。でも、おまえらはすでにあいつらの関係知ってるんだろ?」
「はい。といっても僕たちも知ったのは半月ほど前のことなんですが」
そういえば、赤司くん降旗くんの口から驚きの事実を聞かされてからまだ二週間程度しか経過していないんですよね。なんだかえらく長い時間が過ぎたような気がしていましたけど。主に初日のインパクトとこの二日間の濃ゆさのせいで。
「実はいまだに信じられない気持ちなんだけど……降旗と赤司がセフレってマジな話なの?」
「やっぱり小金井先輩もそう聞いてるんですか、彼らがセフレだと」
赤司くんが京都滞在中に洛山の先輩方に語った話の中でもセフレだと言っていましたから、このバカップルはやはり仲良く互いをセフレだと認識しているようです。お互いの認識が一致しているなら平和に過ごせそうなものですが、そうはならないあたり、宇宙からもたらされた災厄の恐ろしさは計り知れないものがあるということでしょうか。
「断言してたわけじゃないけど、セフレが一番近いかな、みたいな言い方はしてた」
「馴れ初めというか、そもそものはじまりは聞きました?」
「ええと……赤司が図書館で降旗に変なこと言いながら迫ったって話?」
「あ、やっぱり聞いてましたか」
あの驚愕の誘い文句を。
「あの……あれほんとの話なの? どっきりとかじゃなくて?」
小金井先輩がおずおずとためらいがちに聞いてきました。そりゃにわかには信じられませんよね、赤司くんのあの決め台詞。それが普通だと思います。僕たちはゆうべから例のフレーズが飽和状態でちょっと麻痺しかけている気がしないでもありませんが。
「現場を見たわけじゃないので確定的なことは言えませんが、赤司くん、降旗くん双方の証言は一致しています」
「まじで? ほんとに赤司のやつ、『きみは僕の性欲を刺激するからセックスしてくれ』なんて言ったのか?」
ああぁぁぁぁ……やっぱり聞いていましたか。はいそうですそのとおりです。あの宇宙人、性欲を刺激するとかされるとか、鳴き声みたいに連呼してました。
「嘘みたいな話ですが……おそらく事実でよいかと。赤司くん、何度も何度も何度も何度も、降旗くんに性欲を刺激されるって語っていましたから」
「ほえー……事実は小説よりも奇なりってほんとなんだなあ」
「びっくりですよね」
「うん、びっくり。頭よすぎるとどこかでネジが飛んじゃうものなのかねえ……」
小金井先輩は腕組みをすると、どこか納得したようにうんうんとうなずきました。やっぱり小金井先輩の目にも、赤司くんはちょっとアレな天才として映っていたようです。
「しかし、そこから関係を発展させた降旗もある意味相当すごいような……」
小金井先輩は完全に食事の手を止めて話を続けてくれました。すでにチャーハンは冷めてしまっていると思われます。あとでレンジで温めて差し上げたほうがよいでしょう。
「降旗はグラスにワインを注ぐと、水で喉を潤すかのような気軽さでくいっと飲んだ。
『ほんと、信じられないですよね、俺に性欲を刺激されるとか何事だっつーの。仮にゲイだとしても、俺にムラムラするとか意味わかんないっすよ。あいつどういう趣味してんだか……』
『それで、おまえOKしちゃったの?』
『ええ、まあ……なんか押し切られちゃった感が強いんですが、半分は面倒臭くなったってとこです。いま思うと投げやりとしか思えないんですけど、あのときはもうとにかく、どうやったら赤司が帰ってくれるんだろうって、その手段ばっかり探してて。あいつとふたりっていう異様な空間から解放されるなら一発やるくらい安いんじゃね? みたいなやけっぱちな思考でしたね』
おいおいおい……と心の中で突っ込みつつ、先を促した。いろいろと言いたいことはあったが、話半分であれこれ口を挟むのもどうかと思って。最初こそやけに暗い降旗だったが、この話をはじめてからはそんな雰囲気も薄れ、むしろちょっと機嫌が上向いた印象を受けたので、さほど深刻な事態ではなかったのかもしれないとの期待もあった。
『……で、やっちゃったんだ?』
妙に気さくに尋ねられたのは、俺がまだ降旗の話を信じられず、知らない誰かの体験談でも聞いている気分だったからかもな。
『いや、それが……その日は結局やんなかったんです』
『おお、断れたのか』
『や、断ったわけじゃなくて……。赤司を俺の部屋に招いて、やるだけやって帰ってもらおうと考えてたんです。でも実際に部屋に入れたらなんだか怖くなってきちゃって、キッチンでコーヒーを入れる手が小さく震えだしました。男とセックスとか考えたこともなかったから、未知の事柄に対する恐怖が先立っていたし、加えて同じ空間にあの赤司がいるかと思うともう……俺の小心はかわいそうなくらい震えてましたね。でもそしたら、なんか赤司のやつがキッチンまで来たんですよ。戸が開いた段階で気配はわかったんですけど、俺、びびっちゃってシンクの前から動けなくて……うわー、遅くてイライラさせちゃったかなって内心かなりびくついてると、赤司が俺の背後にぴったり立って、腕を俺の胸と腹に回してきたんです。こんな感じで(と、降旗は自分の腕で再現してみせた)。赤司は俺の胸に置いた右手をこう、さわさわ動かしてきて……ナイ乳揉んでんのかってそのときは青ざめたけど、いまにして思えばあれ、乳首の位置探ってたんでしょうね。いや、気づいたとしてもそれはそれで血の気が引いてただろうけど。赤司は俺の肩っていうか首筋……に顔を押し付けて、ちゅっ、って一回だけ小さく音を立てた。なんかすげーぞわっとして、声にならない悲鳴が喉から迸りましたね、あのときは。俺は完全に硬直しちゃってたんだけど、この人物に逆らうとヤバいっていうのは頭の中で絶えず警告みたいに発せられてて、赤司が力を加えてきたら抵抗せずに体を動かしました。そうしたら、なんかよくわからないうちに体を反転させられてて、気づいたら目の前に赤司の顔があるんですよ。そりゃもうきれいなの。別に怖い表情はしてなかったと思うんですけど、もうそこにあるだけですごい迫力でしたね。赤司は左手で俺の頬を撫でつつ、右頬に唇を寄せて……またしてもちゅって小さな音を立てて。そのあと、シンクに腰をもたれかけさせたまま、顔中に軽いキスをされました。額、こめかみ、まぶた、鼻の頭……なんかキスっていうより動物のグルーミングっぽかったかも? いや、その時点では舐めてはこなかったけど。でも、そんな軽いキスでさえ、あいつが俺にしているかと思うと俺もう脚がガクブルで、段々力が抜けてへなへなとその場に座り込んじゃってましたね、いつの間にか。赤司もそれに合わせて腰を屈めて、床に膝をついて……俺は知らないうちにシンク下の収納扉に背を預けるかっこうになっていて、上向けられた俺に顔に膝立ちの赤司が上から覆いかぶさるみたいにして頭を抱いて、キスを繰り返していました。俺はたまにうっすら目を開けようと試みたものの、やっぱり怖くてぎゅっと目を瞑っちゃいました。何度かそんなことを繰り返すと、赤司のやつが、『緊張することはない、楽にしていろ』って言ってきて……。おまえのせいだろ! って心の中で叫ぼうとしたけど、その声がやけに穏やかで優しかったせいか、あれ、いまの赤司の声? 赤司が言ったのか? ってなんか不思議な気持ちになっちゃいました。俺の中の赤司のイメージって『ひたすら怖いやつ』だったんで、そのギャップにびっくりしちゃったんですね。や、いまもあいつのことは怖いんですけど。で、虚を突かれて思わずきょとんと目を開けると、目の前にえらくきれいな微笑みがででんとあったんですよ。一瞬どころじゃなくしばらくの間、それが赤司の表情だって脳が理解しませんでした。だって意外過ぎたんですもん。俺が目をぱちくりさせていると、赤司がおもむろに口を開き俺に顔を近づけて来ました。あ、キスされる。すでに顔中散々されてましたけど、今度こそ本当のキスだって即座に理解しました。おかしな話ですけど、俺そのとき、軽く目を閉じちゃったんですよ。ぎゅっと瞑るんじゃなくて。思い返すとすごい恥ずかしいんですけど、まあなんていうか、キス待ちってやつでしょうか。ほんの少しの間ですけど、それまでの混乱が嘘みたいにすーっと心の波が引いて静かになったんです。そんでまあ……唇に柔らかい体温があたりました。最初はほんとに触れるだけで、そのうち少しずつついばまれて……。ひぇぇ、男とキスしてる!? って脳内の自分が頭を抱えて叫びを上げる一方で、体を操っているほうの意識は、あれ、なんか柔らかくて気持ちいいかも、とかちょっと思っちゃってました。まあ人間の人体の一部なんだから柔らかくて温かいのは当然なんですけど。多分、そうでも思わないとあの場ではやってられなかったんでしょうね。精神の防衛反応ってやつですよ、きっと』
『へ、へえ……』
かなり長々と、そして変に細かいところまで語ったあと、まったくもったびっくりしちゃいましたよ~、と困り顔をしてみせる降旗だったが、その直前までの表情は明らかに緩みきっていて、もっと言えばへらへらしていた。まるで惚気話をしているみたいな印象を受けたよ。俺のほうは、話の内容はもちろんのこと、降旗がやけに幸せそうな空気をバンバン出しはじめたことにびっくりしっぱなしだった」
ちょっ……降旗くんまでハーレクイン!? なんですか、あれってうつるんですか!? むしろ宇宙からもたらされた病原菌が引き起こす伝染病的なものだったりするんですか!? まさか性病の一種とか!?
小金井先輩の話に僕と火神くんは戦慄せずにはいられませんでした。だって小金井先輩の語りの中に出てくる降旗くん、赤司くんのハーレクインモードとほとんど一緒じゃないですか? 赤司くんがやや堅い表現だったのに対し、降旗くんのは夜のトーク番組みたいなノリという違いはありますが……やってることはほぼ同じじゃないですか。パートナーとのエッチを他人に詳細に語りまくるとか。どういうことですか、降旗くんが赤司くんに侵されたということですか。僕も相当ショックでしたが、火神くんは輪を掛けてショックだったらしく、口を半開きにして青ざめています。
「どうもほろ酔い気分だったみたいで、えっらい饒舌に赤司との初体験? を語ってくれちゃったよ。そのときの降旗の顔が、全然不満そうじゃなかったっていうか、むしろいい思い出を自慢しているような雰囲気さえ醸してたから、あ、これは降旗、無理矢理赤司の相手をさせられてるわけじゃないんだな……って確信しちゃった。ただ、ご機嫌そうな本人には悪いんだけど、聞いてるこっちとしては正直ウワァな心境だったかな。なんつーか、女性向け雑誌の素人投稿欄にセックスの体験談載ってたりするじゃん? あんな感じで、語ってるほうは楽しいんだろうけど聞かされるほうは微妙な気持ちにならざるを得ないというか……」
小金井先輩も当事者から聞かされるセックスルポには辟易したようです。降旗くんの表現力が赤司くんほど気持ち悪くないのは幸いかもしれませんが……いやしかし、あの降旗くんが宇宙からの電波を受信したとしか思えない行動を取ったとしたら、むしろ元から宇宙人な赤司くんのハーレクインより衝撃度は高いかもしれません。
「それはそれは……小金井先輩もとんだ災難でしたね」
これは同情せずにはいられません。相手は違えど、ほぼ同じ災害の被災者ですからね、僕たち。
「このあと降旗、本格的に赤司とのセックスを語りだしてくれちゃってさ、乳首くらいならまだしも、タマやサオ触られて気持ちいいだのなんだと言い出しちゃったんだよ……ファミレスで」
「ふっ……降旗くん!?」
なんということでしょう!? 降旗くんが本格的に侵されてる!?
「十二時台の一番にぎわう時間帯で、お子様連れの家族や中高生の団体が近くの席に座ってきて、ちょっとこのままはよろしくないかなーと思ってさ、混んできたから店かえようって降旗を誘って店を出た。ああいうとこの客が隣のテーブルの話に聞き耳を立ててるとも思えなかったけど、教育上不適切な発言がうっかり漏れてたら居たたまれないし……」
小金井先輩はげんなりした顔で、虚ろにテーブルの上を見つめています。
「とりあえず店を出たはいいものの、昼時だからどこも混み合ってるだろうから、次にどこ行こうか駐車場で迷っちゃった。そうしたら降旗が、よかったらうちに来ませんかって提案してきて……」
「じゃ、ファミレスから降旗くんのアパートに移動したんですか?」
そういえば最初に、家飲みしたと言っていたような。
「うん。降旗酔ってたから、普通の喫茶店やファーストフード店には入りづらいってのもあって、降旗んちに行くことになった。足取りは若干覚束なかったけど、原付を引きながら歩く俺の横で、まあ普通にてくてく進んでた。途中でコンビニ寄りたいっつったから寄って、そこでちょっと食べ物――まあ菓子類なんだけど――とジュースを購入して、それからあいつんちに行った。そのときは酒買ってなかったから、あのボトル一本でやめる気かなと思ってたんだけど……」
「家のお酒を?」
飲用のお酒は常備していないとのことですが、料理用のものなら複数あるということでしたから、それを飲んだのでしょうか。
「うん。料理酒を百パーのオレンジジュースやコーヒー牛乳で薄めてな……まさか降旗があんな飲めるやつだとは思わなかったわ。まあ自棄酒なんだろうけど」
「やっぱ自棄酒だったんですか」
「みたい。なんで昼間から酒なんて飲んだんだって聞いたら、『ドラマとか映画でよく、なんか嫌なこととかつらいことがあったとき、酒飲んで忘れようとする場面あるじゃないですか。ああいうの、ただの様式美的な表現だと思ってたんですけど……よくモチーフにされるってことはある程度経験則的に共感されやすいことなのかなって思って……。なんか、酒飲んだら気分晴れるのかなって思って……』って、すげー暗い顔でぼそぼそ説明してくれた。ファミレスで赤司のことしゃべってたときの上機嫌はどこにいったんだってくらい、また最初会ったときみたいな影全開になっちゃってた。そのくせ酒のペースが早まって、それに比例して酔っ払い度も上がっていって……」
と、ここで小金井先輩が急にうつむき、口ごもってしまいました。
「ど、どうされました、小金井先輩?」
「や……降旗のやつ、赤司とのセックスのこと、とりとめもなくべらべら語ってくれたんだけど、それがなんていうか、本人には悪いんだけど気持ち悪くて……思い出したらちょっとげっそり来ちゃって。あの部屋で降旗と赤司がやることやってたのかと思うと、なんかいまさらこう……ぞわっと」
それを言ったらこの家は僕と火神くんがセックスしていない空間など存在しない勢いなのですが……まあこの場で白状するようなことでもないのでそれは置いておきます。高校時代から公然の秘密の仲だった僕たちと、今日突然明かされた降旗くんと赤司くんの関係では、衝撃が全然違うでしょうし。
「そ、そんなにアレでしたか」
「そりゃおまえ、知り合いのセックスの実体験を当人から聞かされるのはつらいだろ。フェラの話聞いてるときとか、降旗の口や股間、見たくないのについ見ちゃったよ……」
小金井先輩は頭を抱えながら小刻みに首を左右に振りました。多分、降旗くんを変な目で見てしまったことへの若干の罪悪感もあるのだと思います。恋人以外の身近な人物の具体的なエロの想像って、とっても申し訳ない気持ちになるものです。
「あの、小金井先輩、おつらいならそんな無理に語っていただかなくてもいいですからね? むしろ僕たちも苦しいものがありますし……」
ハーレクイン地獄から解放されたと思ったら、セックス体験投稿の地雷が待ち受けていたとか……今日は厄日ですか?
小金井先輩から話を聞く必要性は認めつつ、できれば降旗くんが赤司くんに狂わされているシーンは聞きたくないと願わずにはいられません。小金井先輩とて、俺も苦しんだんだからおまえらも苦しめ、なんてことは考えていないでしょうが……
「掻い摘んで話したいのはやまやまなんだが、とにかく状況がごちゃごちゃしてたから、どこまでスッキリ話せるかな……」
力なくそう言いながら、遠い目で虚空をぼんやり眺めました。話を整理する気力が残っていないということでしょうか。地球人である僕たちは、宇宙からの侵略者に対してかくも無力というものか――僕は嘆きに打ちひしがれました。