忍者ブログ

倉庫

『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

ランナーズ 7

 運動公園は老若男女さまざまいたが、やはり目立つのは小中学生の姿だった。しかしよくよく見渡せば、同じくらい中高年も多い。外周でジョギングやウォーキングに励むのは年配の人の割合が高かった。俺や赤司くらいの年齢の人は少なく、もう少し上の年代で、子連れの男女がちらほら目についた。
 公園に着くと、俺たちはすぐに走りはじめた。もちろん体を慣らすためのジョグなどはきちんと行った。ここで言うすぐとは、公園内をまったく案内せずに、という意味だ。公園内は敷地の輪郭を描くようにアスファルトが張られているほか、コートやグラウンド、アスレチック広場といった各区画へアクセスするための通路が互いに伸びており、道の選び方によってはそれなりに複雑なルートを取ることができる。合計何通りの道順があるのかは高校数学の知識で割り出せるのかもしれないが、わざわざ確認しようとは思わなかった。いまとなっては数学なんて忘却の彼方で、PだかCだかの記号を使うんだっけ、という程度しか思い出せなかった。
 伴走練習はやはり多少の注目を集めた。それはそうだろう、ペースメーカーというにはあまりに近すぎる距離でふたりの人間が並んで走っているのだから。しかも手をつないでいるように見えるという。実際には輪にしたロープを握っているのだが、腕の振りは当然連動するので、ぱっと見はまるで手をつないで走っているように見えてしまうのだ。これは、赤司の大学で俺がはじめて伴走というものを目の当たりにしたとき俺自身も思ったことだ。そして実際、手をつないでいるイメージを持って走っている。回数は少ないとはいえ伴走の概念を持って練習しているいま、俺にとっては当たり前のことなのだが、ブラインドランナーの走り方(すべての視覚障害者が伴走を必要とするわけではなく、視力によっては自走可能な人もいる)を知らない人間が見たらぎょっとしてしまうのはわかる。大の男がふたり、手をつないで二人三脚みたいな走り方をしていたら思わず注視してしまうだろう。しかも宴会芸的なものではなく、きっちりランニング用の練習着を着た上で真剣に、それなりの速度で走行しているのだから。しかし、注目されるおかげで前方の道を空けてもらいやすくなったというのは、安全確保の上では利点だった。
 俺の好きなように走っていいということだったが、これといってよいルートを思いつくでもなく、左右への方向転換の数がだいたい均等になることを意識した程度だった。道順を変えつつ公園内を何週もするうち、内部の通路を歩いたり走ったりしているほかの人々も俺たちの姿に慣れたのか、そばを通過するときちょっとよけてくれる程度の注目に治まった。中には好奇の目もあっただろうが、こちらは伴走に必死なので他人の目なんて気にしていられなかった。ただ、大学のキャンパスや外周を走るときよりも赤司のペースが遅かったので、体力的な余裕はあった。その分、何か走りにくい要素があるのだろうか、うまく伴走ができていないのでは、とあれこれ考えることになったのだが。
 走行距離は控えめだが、六十分ほど走ったところで休憩に入った。水飲み場に案内し、上に向かって噴射される水を赤司の手に触れさせる。彼はすぐに距離を掴むと、問題なく水流の先に口を当てた。ふたりとも水分を補給したところで、立ち入りを許可された芝生の一角に移動して腰を下ろす。ここでもガイドのため彼に肘を掴ませて歩いたのだが、走っているときよりも周囲の視線を痛く感じた。白杖を持っていないと視覚障害者だとわからないし、腕を組んでいるように見えてしまうだろうから、注目を集めるのも仕方ないのだが、居たたまれなさについ早足になりそうになった。ペースが上がりかけると彼がぎゅっと肘を掴むので、自制することができた。
 木陰にはなっているが、その先に広がる日向の世界は日差しがきつく、走り回る小学生の若々しい黒髪のキューティクルが白く輝いて見えた。俺はサングラスを取って左手に持ったが、赤司は一度外しかけて遠くを見やったあと、再び元の位置に戻した。眩しかったようだ。やや幼い面立ちが薄い黒の下に隠れると、真昼の太陽に似つかわしくない世界の住人のような貫禄が出る。身体上の必要があって掛けているだけだが、その横顔は映画にでも出てきそうで、サマになっている、なんて思ってしまった。
「思ったより遅かっただろう? 慣れないところだといつもこうでね……。大学周辺は何度も走って慣れているからそこそこスピードも出るが、ここははじめてだからどうしても思い切った足運びができない」
 一人分程度の空間を置いて正面に座った俺に、赤司が微苦笑とともに告げた。確かに今日の走りは、先週までのものと明らかに違った。伴走はランナーのペースを引っ張るものではないので、俺が彼に合わせて走ることになる。彼は本来俺よりスピードに優れている。今日は距離走だったのでスピードは抑え気味になるのが普通だが、そうだとしても少しブレーキが掛かりすぎているように感じられた。遅いというより、足を前に出すのにわずかなためらいがあるという印象を受けた。はじめての場所で緊張しているのだろうとは薄々感じていたが、最初に彼から、普段やっているように走ってほしいと頼まれていたので、確認せずに通しで練習をした。彼にとっては精神的な負担が大きかっただろうか。
 サングラスの下の双眸にどんな感情が浮かんでいるのかはわからないが、その声に自嘲が含まれているような気がして胸がずきりとした。彼もこんなことを言ったりするんだ……。
「ご、ごめん、先に徒歩で公園を案内しておいたほうがよかった?」
 俺がおどおどと尋ねると、彼はふるりと頭を横に振った。
「いや、さっそく走りたいと言ったのは僕だ。これには意図がある。レースに出る際は、あらかじめすべてのルートを走っておくことはできない。知らない地形を走ることになる。だから新規の場所で走ることにも慣れておく必要があるのだが、部活での練習ではどうしても走る場所が限定される。伴走者にルートを即席で変えてもらうようにはしているのだが……なまじ記憶力やマッピング能力が高いせいか、周辺の地図を覚えてしまってね」
 彼の説明に、俺は合点がいったとばかりにうなずいた。
「それでこっちで練習したいって言ったのか」
「そうだ。課題はわかっているんだが、なかなか克服できずにいる」
 赤司が俺の練習場所に来たいと言い出した理由は、俺に気を遣ってというのもあるのかもしれないが、異なる練習環境を求めてということでもあったようだ。トラックレースは会場が違っても基本的に同じ規格だが、ロードレースはそのときどきでルートが違う。彼はそのことも考慮に入れた練習を求めているのだ。
「きみのロードのタイムが実際の走力より控えめなのはそのせいもあるのかな?」
 赤司が過去出場した大会でのタイムはすでに聞いていた。ハーフマラソンや十キロロードの記録だが、参考にはなる。伴走が必要なブラインドランナーとしてどのくらいの水準なのかは俺にはピンとこなかったが、晴眼者で考えると一般的な市民ランナーといったところだった。彼の潜在的な走力から期待されるタイムから下方に大きくずれている。聞かされたときはちょっと信じられなかったというか、伴走者のレベルが合わなかったのだろうかと疑ってしまったのだが、いまの話を聞いて、彼の側にも原因があるのだろうと思い直した。
「そうだろうな。いまの視力になって大分経つが、いまだに思い切った走りができないでいる。決められた走路のあるトラックならいい。しかし、外ではこの体たらくだ。僕も臆病になったものだ。……いや、単に表に現れなかっただけかな?」
 おどけたように肩をすくめると、赤司はふっと小さく息を漏らした。その苦笑はおそらく自分に向けたものだろう。芝居がかってはいるが、自身への呆れは虚構ではあるまい。本来の走力を発揮できないことはもどかしいだろう。彼はその原因の一端が自分の心理にあることを知っており、改善のための努力もしている。それでもなお克服できない。その歯がゆさを俺が理解できるとは言わない。が、練習がなかなか実を結ばないときの焦りや悔しさは経験がある。長距離をはじめてからよりも、高校時代に部活でバスケをやっていたときのほうが顕著だった。俺は結局最後まで凡庸な選手だったけれど、すばらしいチームメイトに恵まれ、練習でも試合でもおおいに助けられながら、三年生の夏まで戦い、気持ちよく幕を下ろした。バスケは団体競技だから助け合うのは当たり前なのだが、誠凛の仲間は本当に頼りになった。彼らと一緒だったから、才能も経験も少ない俺もやっていけたのだろう。そう思ったとき――
「あのさ、もし俺が伴走上手になって、きみがこの伴走者なら安心できるって思えれば、もっと走りやすくなるかな……」
 こんな言葉が口を突いて出た。いささか脈絡がないのは自覚している。赤司は慣れないロードでスピードが出せない原因を自身に求めており、伴走者の適性を問うような発言はしていない。ことによれば、彼の言葉を穿った被害妄想的な解釈だととらえられてもおかしくない。言ってしまってからそのことに思い当たり、またしてもうっかりをやらかしたかと緊張した。でも、別にそういうわけではないのだ。赤司が暗に俺の伴走が悪いとほのめかしているなんて曲解したわけではない。俺はただ、自分にできそうなことを提案しただけだ。そうしたいと、そうできたらと思ったから。……なぜそう思ったのだろうか。彼のことを、一緒に走る仲間だと感じているということだろうか?
「そうかもしれない。伴走者との信頼関係は重要だ。でもまあ、スピードが出せない原因はどちらかというと僕のほうにあるから、きみにばかり負担を掛けるつもりはない」
「でも、伴走うまくなったほうがいいに決まってるよな。きみにとってどれくらいいい伴走者になれるかはわからないけど、俺、がんばるよ。も、もちろん、限界はあるけど」
 ちょっといい話の方向だったのに、すかさず挫折時の保険を掛けてしまう俺は、とことんびびりだと思う。なんてかっこ悪い。でも二十数年間にわたって染み付いた生き方なので、いまさら変えられそうにない。赤司はサングラスの下で何度か目をぱちくりさせたあと、くすりと口元をほころばせた。ちょっと嬉しそうに見えた。
「すっかりやる気か? 最初はあまり乗り気ではなさそうだったが」
「あ……気づいてた?」
 彼に指摘されて、俺は自分が当初伴走を断る心積もりでいたことを思い出した。この心境の変化は自分でも理解しかねる。
「露骨に声のテンションが低かったからな、初日は。気づかないはずがない」
「ごめん。俺こういう性格だから、経験のないことってどうしても腰が引けちゃって」
「でも引き受けてくれた」
「やってみたら、なんかこれはこれで別競技として独立してもいいんじゃないかって思えるくらい奥が深いなって思ったのと……」
「思ったのと……?」
 言い掛けて、ちょっと止まる。赤司に促されたものの、すぐには先を続けられなかった。俺は何を言おうとしたのか、なぜ伴走を引き受ける気になったのか。深く考えずにぺらぺらしゃべっていたが、俺は多分こう続けようとしていた――赤司と一緒に走りたいと思ったから。ではなぜそう思ったのか。これがよくわからない。彼の障害への同情? なくはないが、ウェイトは低い。スマートな人間を気取るつもりはない。同情心ごときで俺の骨の髄まで染み付いた小心を克服できるわけないだろう、というまったくもって褒められたものではない自信がある。これは翻せば、俺が伴走をやろうと思った動機は、俺の心に巣食う臆病を上回ったということだ。いまの赤司が、記憶の中にある姿より怖くないからというのもあるだろう。しかし、そうであってもいまだに当時の思い出がよぎっては体がびくつく有様だ。完全に払拭できてはいない。それなのに、俺は彼と走ろうと思った。俺のような平凡な人間と同じ位置に彼が立っていることを内心喜んでいる? 幾度となく頭を掠めた自問がまたしても湧いてくる。そんなつもりはない。でも、ランナーとしての彼に一種の仲間意識みたいなのが芽生えているということは、背景にはそういう心理が潜んでいるのだろうか。わからない。怖い。ただ、このような考えを素直に彼に告げるのははばかられた。仮に伴走の楽しさに目覚めたから一緒に走りたいだけだとしても、素直には言えない。だって、どちらにせよ彼が目を患ったことを喜んでいるみたいに響くんじゃないか……?
 逡巡というには不自然なくらいの時間悩んでから、俺はようやく取り繕った。
「えと……ずっとひとりで走ってたから、誰かと一緒っていうのも新鮮でいいなって思って」
「……そうか」
 薄い色のサングラスの下で、彼が目を細めたのがわかった。優しげな微笑は、しかし俺の心をざわめかせた。
「あ……ごめん、デリカシーなかったかな」
 何言ってるんだ俺。これ、赤司にとっては癇に障る言い草じゃないのか。だって彼はひとりでは走れないんだぞ。誰かが付き添わないと外を走れないんだ。ずっと自由にひとりで走ってきた俺がこんなこと言うのは、彼からしたらとんでもなく贅沢な発言じゃないか。気をつけたつもりが、結局墓穴を掘っている。なんでこう頭が回り切らないんだ俺は。
 俺がわたわたと挙動不審に陥っているのが伝わったのか、赤司が困ったように笑った。
「いや。確かに僕はきみに、ひとりでは走れないと言った。だが視点を変えれば、走るときは常に誰かと一緒という意味でもある」
 と、彼は膝を芝につくと、這うようにこちらへ前進した。肉食獣に忍び寄られるような気分で、俺は思わず尻を浮かせた。反射的に逃げの姿勢に入りかけている。もちろん本当に逃走したりはしないけれど。彼は物体が間近にあるのを視覚以外で察知しているのか、俺の体にぶつかる前に動きを止めた。す、と右手が持ち上げられる。俺はここ一ヶ月で学習した行動そのままに、彼の手を取り、自分の頬に触れさせた。彼の手の平が俺の左頬を少しだけ擦ったあと、やんわりと包む。
「きみは僕に遠慮して、発言にかなり気を遣っているようだ」
「それ、は……」
 気の遣いすぎはかえって相手の負担になったり、気持ちを傷つけたりする。何かとネガティブな思考を展開しがちな俺の脳みそは、さっそく彼を怒らせてしまったかと想像し、その考えは俺の体をすくませた。反射的に肩を持ち上げぎゅっと目を瞑っていると、右頬にも湿った温かさが染み、そして額にこつんと硬い何かがぶつかる感触がした。あくまで軽い触覚。叩かれたとかぶたれたというわけではない。恐る恐るまぶたを持ち上げると、真昼にしては奇妙なくらい目の前が薄暗かった。なんだこれ? 驚きよりもただただ疑問符を浮かべている俺に、眼前から声が届く。
「僕はきみと一緒に走れることを嬉しく思う。しかし、僕の目がこうならなかったら、そんな機会はきっとなかっただろう。よかったよ、きみと走れて」
 ぱちぱちと何か軽いものが動く気配がする。まばたきだ――と気づいてはじめて、状況を察する。赤司が俺の顔に両手を添えた上で、額を押し付けてきている。近すぎて焦点が合わないので目では確認できないが、まつげが上下するような気配から、サングラスを外していることがわかった。最初に連想したのは、洋画なんかでお母さんが小さな子供に大事なことを言い聞かせるシーンだった。だからこの至近距離に俺が感じたのは、ある種の親愛の情みたいなものだった。赤司相手に感じるなんておかしな気がするけれど。傍から見たら結構衝撃的な光景だったのでは、と思い当たったのは、帰宅後にひとりになってからのことだった。だからこのときは人目なんて気にならなかった。というよりここが公園であることなんてすっかり失念して、彼から与えられる体温の心地よさに甘えた。
 よかったよ、きみと走れて――俺の気を重くさせないための配慮だとわかっていても、この言葉は嬉しかった。湧き上がる小さな喜びを表したくて、はっきりと言葉が浮かんだわけでもないのに口が疼いた。また失言してしまうかも、なんて懸念は吹き飛び、ただ単純に、彼に何かを伝えたいと思った。
「あの……俺も、きみと走れてよかったと思う。ずっと憧れてたから。いや、いまでも憧れてる。きみはバスケですごい選手だったし、これから先、競技は違えどやっぱりすごい選手として頭角を表していくんだと思う。そんなきみが一緒に走りたいって言ってくれるのは……すごく嬉しいんだ」
 ちょっと顔を離し、俺は笑ってみせた。多分すごくへにゃっとしただらしない表情だっただろう。彼には見えなくとも、表情筋の動きで伝わってしまったかもしれない。彼は珍しく困惑気味にのろのろと頭を振りながら上体を後ろに引くと、再びサングラスを掛けてうつむいた。もしかして……照れている? あの赤司が? いや、さすがにそれはないだろう。彼のそんな姿が見てみたいという俺の願望がそう解釈させているにすぎない。……ん? 俺、赤司が照れてるとこ、見たいとか思ってるのか?
 赤司も戸惑っている様子だったが、俺も俺で自分の心境に困惑していた。と、彼がちょっとだけ顔を上げた。
「なんというか……面映いな。あまり期待しないでくれ。僕はいまや平凡な一介のランナーだよ」
「えー? きみがそれ言っちゃうかな」
 ものがほとんど認識できない視界で走れるというだけでも、俺からすると考えられない話だ。しかも大学のトラックなら単独で走行する。晴眼者と遜色のない速さで。無機的なタイムという結果はともかくとして、そのパフォーマンスはむしろ以前よりパワーアップしているのではないかとさえ感じる。
「まあ、長距離走は練習がものを言うから、今後のトレーニングに期待かな。よい伴走者に出会えたのは幸運だ。頼りにしている、光樹」
 そう言った彼の声はすでに落ち着いたいつものトーンだった。顔もすましたものだ。やっぱりさっきのは俺の些細な妄想だったんだ。なぜか頬が熱くなった。
「えっ……あ、え、ええと、その……はい。がんばります。善処します。精進します」
「そんなに気負わなくても。でも、その気持ちは嬉しい。僕も精進しよう」
 その後、整理運動がてら内周を軽くジョグしてから、帰途についた。俺の肘を掴む彼の手の力は、往路よりも緩んでいたような気がした。

*****

 俺のアパートに戻ると、移動を介助しつつ赤司に部屋の間取りや家具の位置を教え、トイレや水道に関しては実際に用具を触らせて使い方を確認させた。ここまでする必要があるとは思っていなかったので、便器や水回りを事前に掃除しておいてよかったと、心底ほっとした。地頭のよさが反映されるのか、一度案内を終えると彼はさして迷ったふうもなくひとりで室内を歩き、キッチンの水道で手を洗った。洗剤のボトルは掴み損ねていたけれど。
 単身用の小さなちゃぶ台を挟み、座布団の上に腰を下ろす。麦茶の入れたコップを彼の前に出し、口頭で位置を告げる。彼はテーブルの表面をゆっくりと撫でるように手を伝わせ、コップに触れた。俺は水分を補給しつつ、ベッドサイドに置いた目覚まし時計を確認した。昼食の時刻はすでに回っている。これから遅い昼を取ることになるのだが……
「昼ごはんどうする? 食べに行くか買いに行ってもいいけど、このへん住宅街であんまり店が充実してないから、つくったほうが早いかも。何かしら材料はあるし。俺、そんなに料理うまいわけでもないし、きみの口に合うかわかんないけど……」
 地理的な条件や現在の空腹状態を考えると、俺がここで二人分つくってしまうのが一番手っ取り早い。しかし、彼に俺の料理を食べさせることに抵抗感というか、食べさせてしまったいいのだろうかという不安が拭えず、本人に意向を尋ねた。彼は興味深げにふふっと息を漏らした。
「きみの手料理か。食べてみたい。僕が提供するより先にきみにご馳走になってしまうのは、ちょっと悔しいが」
「き、期待しないでね?」
「それはどうかな。期待してしまうよ。しかし、普通の調理器具だと僕は手伝えないがそれでもいいか? 皮剥きとか大根おろしくらいならできると思うが。台所に立っていると多分邪魔だと思う」
 赤司が自炊しているという話はすでに聞いているが、電磁調理器以外にも一般には流通していない専用の道具が必要なのだろう。どのみち彼に刃物を持たせるのは気が引ける。……二重の意味で。
「いいよ、今日のところは俺がやるから。何かリクエストある? レパートリー少ないから、これが食べたい、というものより、これだけは無理、みたいなの教えてもらったほうがいいかもだけど」
「好き嫌いよりカロリーや栄養バランスと相談することが多いが、気を立たせるほどでもない。きみも無頓着なわけではないだろうし」
「うーん……平日はコンビニ弁当になったりするけどね」
「社会人は忙しいだろうからな。手間のかからない料理から覚えていくのでは?」
「うん、そんな感じ」
 下ごしらえの面倒臭そうな料理はレシピを見た段階で弾いていくので、レパートリーの大半はいわゆる男の料理だ。味付けは、砂糖、みりん、醤油、塩、味噌、麺つゆ、コンソメあたりの常備の調味料の組み合わせなので、バリエーションが乏しい。変わった味が食べたいときは、各食品メーカーがありがたくも出してくれている、湯煎かレンジで温めれば即使えるタイプのソースやタレのお世話になっている。出汁はもちろん粉末だ。味塩胡椒超便利。まさに庶民のキッチンだ。……こんなもの赤司に供していいのか? 自分で提案しておいて、いざ自宅の台所の中身を振り返ると段々心配になってきた。
 赤司は口元に折り曲げた指を当ててちょっと考えたあと、
「そのあたりからリクエストしてもいいか?」
「ど、どうぞ」
「では、卵丼を」
「え?」
「レパートリーにないか?」
 意外や意外、丼物を注文してきた。短時間でつくれて手順がシンプルで失敗のリスクが少ないことを考えると賢い選択だし、俺の負担が少ないように考えてくれたのだろうと思うが、彼のイメージではなかったので、少し驚いてしまった。どんなリクエストを予想していたのかと聞かれても、返答に困るが。なんとなく、必要な栄養素を取るためならば合理主義的になんでも食べるタイプかなとは思っている。
「いや……つくれるけど……。簡単だし、材料もそんないらないし」
「では頼んだ」
「卵丼でいい? 鶏肉冷凍してあるから、親子にしようか? そろそろ使っちゃいたいし」
「そうだな、頼むよ」
 ちょっとした意見のすり合わせを行い、結局親子丼に決まった。親子鍋なんて気の利いたものはないので、普通の鍋で煮ることになる。レンジで鶏のもも肉を解凍して、その間に玉ねぎを切って……と簡単に手順を頭の中で組み立てつつ、腰を上げる。
「わかった。少し待ってて。ご飯は冷凍にあるし、時間そんなに掛からないと思うけど。テレビつけとこうか?」
「ああ」
 台所に移動するついでにテレビ台に手を伸ばし、リモコンを回収してテレビをオンにする。
「これリモコン。適当に操作してもらっていいから」
 赤司の手にリモコンを握らせる。数字ボタンの5に突起がついているし、メーカーごとにボタンの配置が大きく違うということはないだろうから、特に操作の説明はしなかった。
「うちのテレビと同じか……? 問題ない、使える」
 赤司は選局ボタンを一定の間隔で押して番組を送っている。品定めしているようだ。
「危険なものとか壊れやすいものとかは置いていないつもりだから、きみが嫌でなければ、そのへん歩いたり適当に家具とか触ってもらってもいいよ」
 彼がうなずくのを見届けてから、俺は台所に向かった。暑いので窓も室内のドアも開け放ってある。料理の合間に部屋をちらちら見やると、赤司はテーブルの前に座ったまま、おとなしくテレビを見ていた。正確には聞いているということなのだろうけど。どんな番組を視聴するのだろうか。興味を惹かれて、鍋でしばらく煮立てている間に部屋へ足を運び、テレビをのぞいた。バラエティのクイズ番組だった。知識を問うタイプではなく、論理パズル系だ。公務員試験の数的処理を思い出し、俺はげんなりしてしまったが、赤司はほぼ無表情ながら、ちょっと楽しそうにしていた。音声で問題文を一度聞くだけで解けるのか? 俺は式なりマトリックスなり書かないと無理だが、赤司なら音声提示でもぬるいくらいかもしれない。おもしろい? と俺が尋ねると、彼は回答者の誤答を聞くのがおもしろいと答えた。誤答から、その回答者がどんな思考展開の結果そこにたどり着いたのか推理するのが楽しいということだ。誤答は正答より多くの価値ある情報を含んでさえいる、となんだか哲学的なことを言っていた。頭のいい人間の感性はよくわからない。
 食卓には親子丼のほか、余った玉ねぎをスライスして削り節をまぶすという簡易なサラダ、それからきゅうりの浅漬を用意した。俺の平日の夕飯のようだ。
 俺が渡した箸とレンゲを右手に持ったまま、赤司が尋ねる。
「食器の位置を教えてもらってもいいか」
「あ、うん。時計の針の方向で示すんだっけ?」
「そういう方法もあるけど、今日は一品につき一皿のようだから、食器の場所がわかれば大丈夫だ」
「わかった。……直接手で食器触らせちゃっていい? そこまで熱くないと思う」
「ああ、そうしてくれ」
 彼の左手を取ってどんぶりや小鉢に触れさせ、何が入っているのか説明する。わかった、大丈夫だ、と言ったあと、彼はいただきますときちんと述べてから、食事をはじめた。どんぶり飯に似合わない丁寧な動作でレンゲに掬った半熟の卵が彼の口に運ばれるのを、俺は緊張の面持ちで見つめていた。あ、おいしい。ぼそっと独り言のようにこぼれてきた感想に、ほっと息を吐いた。食事を終えてから、改めておいしかったと言われた。もしこれだけだったら社交辞令として受け取るだけだっただろうが、食事中に小さく呟かれた一言があったので、素直に受け取ってもいいかな、と思えた。それさえ彼の計算の内という可能性も考えないではなかったけれど。
 その後も、彼がこちらに来て練習を行う日は、俺のアパートで昼食を取るような流れになった。二回目以降は事前にリクエストを聞いておくようにした。彼は天津飯のような丼物やカレーのような主食と副菜(といっていいのかわからないが)をまとめて食べるような品を注文してきた。あるとき、何の気はなしに、赤司って意外と男らしい料理好きなんだ? と聞いた。どんぶりを前に上品にレンゲを扱うミスマッチな姿を不思議に感じながら。彼は口の中の食べ物をきちんと飲み下してから、苦笑しつつ答えた。
「実を言うと、丼物のリクエストが多いのは、食べやすいからなんだ。食器の数が多いと、それだけ位置を確認する手間が掛かるし、その手間はきみに負担させることになってしまうからね。丼物はひとつにまとまっている分、なんていうか、省エネだ。洗い物も少なくて済むし?」
 ああ、そういう理由だったのか。納得しつつ、そんな気を遣わなくても、と俺が思っていると、彼が言葉を続けた。
「まあ、いまのは多少耳に聞こえのいい理由だと自分でも思う。もうちょっと言うと、うまく箸を運べず取り落としたりこぼしたりと、食卓を汚す可能性があるから、なるべくそういうミスが出ないようなメニューを選んでいるということだ。ひとりだと場合によっては手掴みで食べたりするんだが……きみの前では自重したいなと思って。きみは気にしないと言うかもしれないが、僕のほうが気になってね。仕方ないとわかっているんだが、やっぱりほら、ちょっとかっこ悪い気がして、恥ずかしいんだ」
 なんでもないような顔をして、彼はそう言った。気にも留めていなかったけれど、丁寧にきれいに食器を扱っているように見える彼は、実は相当神経を使ってひとつひとつの動作を行っているのだろうか。そういえばこれまでも、彼はあれこれおかずをつままず、一品ずつ皿を片すような手順で食べていたような気がする。相変わらず上品に食事を続ける彼を眺めつつ、彼が水面下で重ねているかもしれない努力を思って敬服したくなった。それと同時に、もうちょっと気楽にしてもらえたらな、と思った。俺が彼に対してこんなことを考えるのは分不相応というものだという自覚はあったけれど。

 

 

 

 

 

 

PR

× CLOSE

× CLOSE

Copyright © 倉庫 : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]