忍者ブログ

倉庫

『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

ランナーズ 6

 その日は朝から初夏の日差しが強かった。カーテンの隙間から差し込むまだ早い時間の陽光は、しかし古びて焼けた畳にくっきりと明るく細長いかたちを描いていた。朝の空気は肌に心地よくさわやかだったが、日が昇るに連れじきに熱くなるだろう。部屋の中から窓越しに空を見上げ、その眩しさに思わず手を額にかざした。
 早朝練習から戻った俺は朝食を済ませ洗濯物を干すと、部屋が整理されていることの最終チェックをしてからアパートを出た。目的地は最寄りのバス停だ。今日は赤司がはじめてこちらに練習に来る。
 日曜日の午前十五分ちょっと前、俺は自宅に一番近いバス停に到着した。俺の借りているアパートは狭い区画の中にあり、バスのルートが走る大きな通りからは少し離れている。だから微妙にアクセスが悪く、その分家賃も控えめだった。軽いジョグを意識しながらやって来たので、少し体温が上がっているが、暑いというほどではない。俺が着いた時点で、バスを待っていると思しき客は二名だけだった。俺はバス停のベンチの横に立ち、デジタル式の腕時計を見下ろしつつ、ちらちらと通りをうかがった。交通量はそれほど多くないが、常に自動車の走行音が聞こえ、また排気ガスの熱気とにおいが肌や鼻を掠めていく。この工業的なにおいは嫌いではない。が、体によくないことはわかっているので、鼻孔に刺激を感じるとなんとなく呼吸を止める。その程度で微粒子が体に侵入するのを防げるはずもないのだが。
 五分と少しその場で待機していると、右手から市バスが向かって来るのが見えた。ルート名と行き先を確認し、携帯を開いて二日前に赤司から届いたメールを確認する(彼の視力では文字は読めないが、音声読み上げ機能のおかげで、多少手間取るもののメールは打てるということだった)。この停留所にはいくつかのルートのバスが停まり、予定時刻が詰まっている場合もあるので、赤司が事前にどのルートのバスに乗ってくるのか教えておいてくれたのだ。このバスは違った。停車したとき、一応降りてくる客を不躾にならない程度に注目しておいたが、彼の姿はなかった。ルートの情報を聞いておかなかったらバスが来るたびに乗客を確認し、彼がいなかったらその都度心配でハラハラする羽目になっていたと思うので、事前メールをくれた彼の配慮に感謝する。文面には「きみが心配するといけないから」なんて余分なことは書かれていなかったけれど、もしかして俺の性格を考慮してくれたんだろうか、とちょっと思ってしまった。
 ネットで調べておいた到着予定時刻が過ぎる。バスは電車みたいに正確でないのはわかっているが、ちょっとだけ不安になってくる。携帯で確認すればいいのだが、バスの中で通話はよろしくないし、赤司はメールを見てすぐに返信するのが難しい。むやみに送信するのは彼にとって負担になるだろう。そう考え、携帯を片手にきゅっと握りつつ、そわそわと通りを眺める。三分ほどすると、またバスが近づいてきた。ルート番号を確認する。これだ。
 バスが停車し、乗客が降りてくる。二番目に降車した中年の女性が、ドアから少し離れたところに立ち止まっていましがた自分が降りたばかりのバスを何やら心配そうにのぞく。もしかすると、と思っていると、次に降りてきたのが赤司だった。白杖を右手に構えている。女性は、ひと目で視覚障害者だとわかる彼が気になったようだ。ひょっとして身内の方かな、なんて想像したが、単に乗り合わせただけの他人のようだった。俺が彼に近寄ろうとしたとき、女性と目が合ったので、軽く会釈をする。どうも、程度の言葉だけだが、俺が彼を待っていた人間であることは伝わったようで、彼女は小さく微笑むと、そのまま歩道を歩いて行った。俺の母親くらいの年齢だろうか。だとすると、彼女からすると赤司は自分の子供くらいの年ということか。好奇のまなざしではなく純粋に心配している印象だったので、息子とかぶって気掛かりになったのかもしれない。
「赤司」
 バスから降りて数歩歩いたところで立ち止まっている彼に声を掛ける。正面に立っているのは声の方向からわかるようで、顔はこちらに向けている。誰なのかはすでにわかっているだろうが、一応名乗ることにした。
「俺だよ、降旗。ええと、すぐ前に立ってる」
「光樹か。おはよう」
「お、おはよう」
 きちんと挨拶され、ちょっぴりたじろぐ。そうだ、第一声は挨拶がよかったんじゃないか、と思って。ナチュラルに挨拶からはじまる彼とは育ちが違うということだろうか。卑屈に考えても仕方がないけれど。
「今日、日差し強くなりそうだけど、眩しくない?」
「いまのところはそれほどでもない。練習のときはもっと日が高いだろうから、あとでサングラスを掛けるつもりはあるが」
 赤司は肩から斜め掛けしているスポーツバッグを示した。へこんで皺ができているので、そんなに大荷物でもなさそうだ。
「移動の前に少し時間をもらえるか」
「いいけど、何か用が?」
「手間は取らせない。ここは降りるところだから、乗り場の位置はそれほどきにしなくていいが、周囲のもの……ベンチなんかがあればその位置を把握しておきたい」
「あ、そっか、はじめて来るバス停だもんね」
 今後の練習方針が定まっているわけではないが、これからも俺の練習場所に来るという話になれば、彼がここまで通うことになる。移動には苦労すると言っていたから、ルートの情報は早めに得ておきたいのだろう。赤司は右手に白杖を構え、慣れた動作で自分の進行方向の下方を探りはじめた。これまで赤司とは大学での部活中に会うだけで、練習でキャンパス周辺を走る以外、外を出歩く姿を見たことがなかった。だから、彼が白杖を使う姿を見るのははじめてだった。
「あ、杖……」
 使用するのだろうと予想はしていたが、思わず単語が漏れてしまった。
「ああ、白杖だ。見たことはあると思うが。杖の先で物を探るんだ。位置だけでなく、伝わってくる感触からどんなものなのかアタリをつけたりする」
 赤司は時刻表やベンチを杖の先で触れたり軽く叩いたりして確かめ、そのあと実際に手で触っていた。きっと彼にとっては日常のことなのだろう、手早く作業を終えると、俺のほうへ戻ってきた。ほぼ正確に、元いた位置まで。それが難しいのか、慣れていればそれほどでもないのかは俺にはわからないが、結構すごいことなのではないかと思った。
「だいたいわかった」
「あ、も、もういいの?」
「ああ、大丈夫だ。把握した。……驚いたか?」
 俺の声の上擦りから、戸惑いが伝わったのだろう、赤司が肩をすくめて軽く笑った。
「使うんだろうなとは思ってたけど……」
 確かにちょっと驚いた。何に驚いたのかと言われてもうまく答えられないが……ああ、本当に見えていないんだな、とまざまざと実感させられる行動だったからだろうか。俺の微妙な反応に気を悪くしたふうもなく、彼は答える。
「そういえば、見せたことがなかったか。部活中は部員の介助が得られることもあり、あまり使っていないからな。キャンパス内を歩くときは使っている。もちろん公道を歩くときも。持たなければならないということになっているし」
「道路交通法で決まってるもんな。持たなくてもよっぽどしょっぴかれないと思うけど」
 正確な法律の条文は覚えていないというか知らないが、公道では白杖を携帯するか盲導犬を連れるかすること、みたいな決まりがあった気がする。弱視だと杖を持たない人も多いらしいが、赤司はほぼ失明しているから、歩行には白杖が必要だろう。
「慣れているところなら、なくても移動できる自信はあるが、この視力だとわざわざ法律に反発する意義も感じない。義務を満たさないで事故に遭った場合、こちらの過失として問われる可能性もある。それに白杖はやはりあるとずっと楽だし安心する。目の悪いことを周囲にアピールしたほうが双方とも安全が高まるし。法律の狙いもそこだろう。もっとも、今日ははじめて来る場所だから、なしでは歩けないだろうな」
 赤司の言葉に、俺は口元に曲げた人差し指を当てて考え込んだ。彼が外出時に白杖を使用するだろうことは予想していたのだが、そこから派生する問題――というと言葉が悪いかもしれないが――まで思慮が及んでいなかった。移動に白杖が必要ということは、このあと練習場所の公園にも携帯することになるのだが、走るときに杖は持たない。そうすると、練習中はどこかに置いておかなければならないのだが……。
 ひとりで考えるより、当事者である彼と相談したほうが早いかと、俺は口を開いた。
「あのさ、これから俺のうちに案内するわけだけど、そのあと公園に移動するときって、杖ないときついかな」
 赤司はすぐさま俺の質問の意図を理解したようで、
「ああ、置き引きの心配か」
 打てば響くテンポで尋ね返してきた。そう、それが心配なのだ。
「うん。そんな悪意的な人間が頻出するとは思いたくないけど、万一いたずらされると困るなって」
 以前被害を受けたときは、何かの粗品でもらった安物のマイバッグを、中に入れたペットボトルとタオルを盗られたくらいだった。まったく価値がないというか、他人からしたらごみに近いようなものだ。つまり金目当てではなく、困らせようとしてのことか、あるいはちょっとした窃盗そのものを目的とした愉快犯だろう。被害はその一度だけで、その後もこれといって対策せずに練習に赴いているので、たまたま運が悪かっただけだとは思うが、彼にとって視覚の代替になるものが盗難に遭うのは避けたいところだ。しかし、俺がガイドするとしても、知らない場所を白杖なしで出歩くのは不安だろう。考えあぐね、彼の意見を待っていると、
「僕はこのあたりの治安には詳しくない。住民であるきみが心配するのなら従おう。携帯用の白杖も持っているが、今日は持参していない。まあ、目立たないよう携帯用を鞄に仕舞っておいても、荷物ごと持ち去られたら意味が無いが」
 俺の部屋に白杖を置いて練習に出かけるという方向で同意してくれた。でもそれはそれで俺も不安だ。
「でも、赤司にとっては視覚の代わりのひとつなわけだから、なかったらなかったで困る、よなぁ……」
 再び彼の意向をうかがう。彼は首を傾げ、肩をすくめた。
「移動に関してきみに頼り切ることになるが、それでよければ。仮に公園まで走っていくとしたら、どのみち杖は持てないし」
 これは公園まで走りたいからよろしく、という意味だろうか。伴走で走ったことがないコースなのでプレッシャーというか緊張を感じるが、彼がこう言ったのは、俺が気にし過ぎないようにという意図もあるかもしれない。……あれ、ガイドがいれば白杖なしで公道を歩いて、というか走ってよかったんだっけ……? 駄目公務員ですみません。法律云々より、慣れないことをしてうっかり事故ったら怖いので、今日のところは歩いて移動ということにさせてもらいたいところである。
 赤司は口には出さないが、先ほど白杖があると安心すると言っていたことから、なしで出歩くのはやはり不安があると思う。それでも妥協してくれた彼に、俺ができることといえば――
「うん、なるべくひとりにしないようにする。ごめん、知らない場所なのに」
「きみは心配性だな」
「よく言われます」
「まあ、そのくらいのほうが僕としては心強いかもな」
 とりあえず話はまとまった。と、別のバスがやって来て停車した。乗客が降りたあと、運転手が俺たちのほうをうかがった。俺は慌てて首を横に振り、乗りませんすみません、とジェスチャーだけで答えた。ここで立ち話をしなくても、俺の自宅に移動してから話し合ってもよかったかもしれない。でも、不安な点は順次解消していかないと落ち着かない。だから心配性と言われるのだろう。
「ええと、まずは俺のアパートだな。ここから徒歩なんだけど……」
 そろそろ移動したいが、案内するためには、ただ単に並んで歩けばいいというものではない。彼は俺を視認できないのだから。
「ガイドヘルプ……でいいのかな」
「ああ、頼む」
 ガイドヘルプということは、赤司に腕を掴まれた状態で歩くということだ。必要なことだとわかっているが……き、緊張する! 伴走は何度か練習したが、あれはロープを使う。今回は直接体の一部を掴ませるから、伴走よりも距離が近くなるはずだ。赤司とのやりとりには慣れてきたけれど、はじめてのことはやはり緊張する。もちろん、顔に出さないだけで彼のほうも不安なのだろうけれど。
「わ、わかった。案内するね。でもこないだ体験でやったきりだから、うまくできないと思うけど……」
「伴走ができるんだ。それよりは楽なはずだ」
「伴走もまだ微妙だけどね……」
 不安感溢れる声音の俺に、赤司がやれやれと苦笑した。
「やればどうとでもなるものだ。僕の左少し前に立って。同じ向きで。右肘を掴ませてほしい。……このへんか?」
 指示従って彼の左斜め前に立つと、彼がそろりと手を伸ばし、俺の腕に触れた。控えめな力で俺の右肘の少し上あたりを掴む。
「あ、うん。そこでいいよ」
 薄手のパーカーの布越しに彼の手の感触が伝わる。握手したり顔に触れられたりしたことはあるが、明確に掴まれる感覚ははじめてなので、ちょっとだけ背筋がびくっとした。いけない、触られているのだから、彼に気取られてしまう。しかし、彼は俺の反応を予想済みだったのか、特に笑ったりむっとしたりはせず、目下優先すべきはほかにあるとばかりにガイドの注意事項を告げてきた。
「わかっていると思うが、伴走とは違い、きみが先行し、僕が斜め後ろにつくようなかたちで歩きたい。歩くペースは普通で。あまり遅いと歩きにくいし、何かあるのだろうかと不安になる。慣れないうちは気になるとは思うが、あまり僕のほうを振り返らないようにしてほしい。ひねる動きを感じると、曲がるのかと思ってしまうから」
「う、うん」
 肯定の返事をするために、斜め後ろにいる彼をちらりと見ると、
「ほら、言ったそばから振り返らない」
「ごっ、ごめん」
 いきなり駄目出しを食らってしまった。つい振り返ってしまっただけじゃないかと思ったが、ガイドの動きを頼りに足を進める彼からしたら、つい、でやってしまう動作も気になるのだろう。
「階段、段差、方向転換などは、近くなったら事前に教えてほしい。障害物を避ける必要があって軽く迂回するときなんかも、伝えてもらえると助かる。指示はなるべく明確に頼む。あっちとかそっちとか、こそあどで言われてもよくわからない。このへんは伴走と同じだから、きみもわかっていると思うが」
「わかった。気をつけるよ」
「注文が多くてすまないが、頭の中でマップを構成したいから、必要な情報以外はあまり話さないようにしてほしい。歩数から距離をはかっていることもあるから。雑談しながら歩くのは無理だ」
「そ、そうだろうね……」
「あと、なるべく壁や障害物を手や杖の先で触りたい。これもマップ構成の情報となる」
 道順を覚えるために、視覚以外から得た情報を元に頭の中で地図を描くようだ。バス停から俺のアパートまではそれほど複雑な道のりではないが、視覚情報なしだとかなり難しいのではないだろうか。経路のほか、距離を掴まなくてはならない。そのあたりの感覚には優れているようだし、記憶力もいいはずだから、彼にとっては難題ではないのかもしれないけれど。今後も俺がバス停まで迎えに来てもいいのだが、自分でできることはなるべく自分でしたいのだろうな、と思い、申し出るのはやめておいた。
「すごい頭使いそうだね」
「そうだな。一度では無理なこともままある。時間を見つけて訓練はするつもりだが、何回かは今日みたいに手間を掛けさせるかもしれない。いいか?」
「構わないけど……訓練って、ひとりでここを往復するってこと?」
 道を覚えて単独で歩くために訓練が必要なんて、移動は本当に大変なのだろう。それをスムーズに行うために労力を払う意欲を見せる彼だが、具体的な訓練方法が思いつかない俺は、平日にひとりでここまで来て歩行訓練をするのかと想像し、心配になった。彼からすれば、的はずれな質問だったかもしれないが。
「いや、最初は誰かに介助を頼むことになると思う。依頼先は確保してあるから大丈夫だ」
「そっか。ならよかった」
「そろそろ行くか?」
「うん、じゃあ歩き出すよ」
 俺は赤司を案内しながら自宅への復路を歩いた。俺の肘を掴んだ彼が、一歩後ろからついてくる。なんだか既視感がある――と感じたところでその正体に思い当たった。あのウインターカップの日だ。会場で赤司に遭遇し、なぜか会話をし、そのあと外を走ることになった。あのときも、彼は俺の後ろについていた。走っていたから、こんなに近い距離ではなかったけれど、配置は似ている。十八歳の俺は、ぴったりと張り付いて走る彼に極度の緊張と恐怖を煽られながら、会場の外を走りはじめた。スピードはそれほど出していない、というか出ていなかったが、気持ちの上ではまさに必死、全力だった。頭の中にはハンターに追われる小動物のイメージがのべつ幕なしに流れていた。しかし一心不乱に足を動かし、前へ前へと進むうち、走るという、そのときまさに現在進行で行なっていた行為にだけ意識が向いていった。冬の刺すように冷たい空気のもと、走って、走って、走る。疲労で呼吸が苦しくて、足が重くて、胸の底だか腹の奥だかが鈍く痛み出す。皮膚は冷たさを感じているが、体は熱い。確かに苦しいが、その疲労はけっしてつらいだけのものではなかった。受験間近で勉強で缶詰になりがちでフラストレーションが溜まっていたせいもあるだろう、あの日、赤司に強引に誘われるかたちだったとはいえ外を思い切り走れたのは、とても気持ちがよかった。解放感があった。入試のことなんて頭からすっぽり抜け落ちて、ただ文字通り前へ進むことだけを考えていた。
 もちろん会場から家に帰ったらまた受験勉強を再開したし、そこからの約二ヶ月はまさに怒涛のように過ぎていった。あれはいったい何だったんだろうとしみじみ思い返す暇もなかった。ウインターカップ会場での奇妙な思い出も、じきに記憶の引き出しに仕舞われ、ときどき夢の中で蘇る程度だった。
 それが、何年も経ってまたこうして赤司と走る機会が巡ってきたのだから、人生ってわからない。人の縁とは不思議なものだ。でも、嫌じゃないかも、こういうの……。
 そんなことを頭の奥で考えているうちに少しずつ緊張が解れていった。ガイドヘルプは距離感こそ戸惑ったが、伴走よりも易しく、そう気疲れすることもなかった。住宅街なので、繁華街とは違い道そのものが雑然としているわけではないという要素もあるだろうが。一般的なサイズの乗用車が対向でぎりぎりすれ違える程度の道路の右側を歩きながら、赤司は塀や柵に杖を当てているようだった。どのくらい伝わってくるものなのか好奇心をそそられないではなかったが、真剣にマップづくりをしているのがわかるので、声をかけることはできなかった。何年も白杖歩行をしているであろう彼は、情報収集のために歩調こそ遅めだったが、恐れる様子もなく堂々と歩いているように感じられた。白杖歩行には専門の訓練が必要だと聞くが、彼もやはり最初のうちは苦労したのだろうか。きっとそうなんだろうと思いつつ、彼のそんな姿はどうにも想像ができなかった。
 アパートに着くと、荷物を置いて簡単に身支度を整え、さっそく練習に繰り出すことにした。ワンルームなので、キッチンから先には食べる寝るくつろぐ勉強するダレるなどすべてが詰まった空間がある。あまり他人を招く機会がないのでちょっと緊張した。赤司にはキッチンとの境目に立っていてもらったのだが、彼は彼で未知の空間に少々落ち着かない様子で、扉や壁をそろそろと触っていた。自分から動き回ろうとしないのは、遠慮もあるだろうが、どこに何があるのかわからず身動きが取りづらいせいもあるだろう。帰ってきたら、間取りや家具の配置などを実際に触らせて案内することを約束した。少なくともトイレと水場は教えておかなくてはなるまい。
 あまりいいウェアは持ってこないほうがいいかも、と俺が事前に告げておいたためか、赤司は格安衣料品店で叩き売られていそうな部屋着まがいのジャージを着ていた。彼がこんなものを持っているとは意外だった。その下の練習着はちゃんとしたもののようだが。俺はイオンのバーゲンで買ったごく普通のウェアだ。メーカーものも持っているが、外出先で脱いで放置することが確定しているときは着ていかないようにしている。
 部屋の外に出て施錠をし、いよいよ練習場へ向かう。赤司の右手に白杖はない。彼はよろしくとだけ言って左手で俺の右肘を掴んだ。運動公園までは二キロほどある。いつもはジョグをしながらだが、今日は歩きだ。しかしただの徒歩ではなく、ガイドという役割と責任があるので、ジョグよりも大変かもしれない。
 赤司の足取りはやはりしっかりしたものだったが、先ほどに比べるとわずかにペースが遅い気がした。これは、俺のほうが気を揉みすぎているせいかもしれない。本来義務である白杖を携帯させていないのだから、俺が不履行を教唆したようなかっこうだ。やっぱりまずかったかな、と自己保身的なことも頭をよぎる。置き引きの発生率は低いので、今度からは携帯用の白杖を持ってきてもらったほうがいいかもしれない。
 もうひとつ気になることがあった。俺の肘を掴む赤司の手の力が少し強い。俺にあるのはわずかばかりのガイドヘルプの体験だけだが、なんとなく理由は察せられた。
「杖ないとやっぱ不安……だよね」
 公園まで数百メートルというところの通りの手前で赤信号に立ち止まったとき、俺は振り返ってしまわないよう意識しながら、赤司に尋ねた。ふ、と苦笑するような息が漏れるのが聞こえた。
「伝わってしまったか」
「ご、ごめん……」
 何を謝ったのだろう。彼に白杖を置いてきてもらったこと? こんな質問をしたこと?
 続ける言葉に窮し、やっぱり言わないほうがよかったかとさっそく後悔していると、赤司が俺の右肘を何度か握り直した。
「不安を感じていると、どうも強く掴んでしまうようだ。歩きにくいか?」
「ううん、それは大丈夫」
「いまの僕はひとりでは歩けない。だからきみが頼りだ。頼むよ、光樹」
「う、うん」
 どきりとしたのは、名前を呼ばれることにまだ慣れないからだろうか。頼まれている立場なのに、言葉裏腹になんだか諭されているみたいだ。そんなに責任を感じなくてもいいと。でも、やはり気が気でない。
「ごめん、やっぱり杖、取りに戻ろうか?」
「もう公園が近いんだろう? 練習中はどのみち使わないんだから、いまから往路を引き返しても手間にしかならない。それとも、僕をどこかに置いて、きみがひとりで取りに戻るか? それはやめてほしいな。知らない場所で杖もなくひとりにされるのは怖い」
「そ、そんなことしないよ。ていうか俺のほうが怖くてできないよ」
「わかっている。次回からは携帯用の白杖も持ってこよう」
 俺の考えなど見抜いているようで、俺がそう頼む前に彼は先取りして言った。
「うん、そうしてもらえるかな。でも、今日はほんと、ごめん。心配する点が間違ってた」
「そんなにしょげた声を出されると、なんだか僕がきみをいじめたみたいじゃないか」
 彼は数秒だけ俺の肘から手を離すと、励ますように背を撫でてくれた。その手は再び俺の腕へと戻った――と感じたとき、ふいに右肘を引かれた。思わず振り返ると、間近に赤司の顔があった。以前と変わらない色をした虹彩。瞳孔も特に違和感はない。それでも、この距離で人の顔がわからないというのだから、不思議な気がした。
 え、なにこれ、ものすごい近いんだけど……。
「あ、赤司?」
 俺が狼狽した声を出すと、赤司がふっと笑った。左手は元の位置のままだが、右手まで俺の腕に絡めてきた。彼は俺の肩に顎を乗せた。さすがにこれだけ密着していると、見えなくても相手の体の部位くらいは把握できるようだ。
 あの……元カノとすら外でこんなことしなかったんですけど……。いや、背丈が同じくらいじゃないと、立った状態では難しい体勢なんだけど。
 いったい何事かと硬直していると、赤司がしれっと答えた。
「まあそう固くならずに。頼っているとは言ったが、そんなプレッシャーを与えようと思ってのことじゃないから」
「あの……いますごく、プレッシャーを感じているの、ですが……」
 彼の行動はもちろん、その意図がわからないことにびびってしまう。思わず語尾が敬語になる。
「おや、それは悪いことをした。きみを和ませようと、お茶目をしてみたのだが」
「お、お茶目?」
「ああすまない、ここはきみの家の周辺だったな。近所の人に変に思われたら迷惑だろう。困らせて悪かった」
 多分すでに台詞は用意してあったのだろう、冷静にそう言うと、彼は顔を引いた。両手はそのままだったが。
「え、あ、いや……そういう心配をしたわけじゃ……」
「困ってない?」
「え? あー、うん? ど、どうなんだろ?」
 びっくりしすぎて外聞を考える余裕なんてまったくなかった。指摘されてはじめて、そういえばいま赤司は白杖を持っていないから目が悪いって周囲にはわからないし、いい年した男がふたりでくっついていたら妙な光景に見えるかも、とぼんやり思い当たった。だから彼の質問にとっさに答えられない。俺の曖昧な返答に、彼はくすりと笑みを漏らすと、再び肩に顎を乗せてきた。
「困ってないならこのままだが」
「えっ」
「信号が青になるまでだよ」
 五秒くらいすると、青信号に切り替わり、ピヨ、ピヨという機械音が流れてきた。
「さ、行こうか」
 赤司は左手だけを俺の肘に残し、あっさりと体を引いた。そのいたずらっぽい声音と仕草に、このひとやっぱ余裕なんじゃないか、どこが不安なんだ、からかわれただけなんじゃ、と思った。
 しかし歩きを再開したあとも、肘を掴む力は相変わらずだった。公園の出入り口にある車両通行止めの金属のバーが障害物としてあることを教え、手で触らせて確認させる。だいたい配置はわかった、といって彼がまた俺の腕を掴もうと手を伸ばしてくる。が、確認のために彼自身がちょっと横に移動していたため、位置感が狂ったのか、戸惑うように手をさまよわせていた。俺が腕を動かして掴ませると、一瞬だけぎゅっと握られた。不安そうに見せかけて余裕なのか、余裕そうに見せかけて不安なのか、どっちなのだろうと訝る。ただ、目のほとんど見えない彼が俺のガイドを信用して白杖を置いてきてくれたのは事実なので、頼りにしているという言葉は本当なのだろうなと感じた。

 

 

 

 

 

 

PR

× CLOSE

× CLOSE

Copyright © 倉庫 : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]