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『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

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ランナーズ 4

 差し出された彼の右手を見下ろし、俺はひるんだ。その手を取れと何者かにささやかれた気がして、反射的に自分の右手が持ち上がった。が、それは中途半端なところで止まる。このひとは本来、俺なんかが触れていい相手じゃない。どうしてもそう感じてしまうのだ。いまの彼からは、息苦しい威圧感は受けない。しかしそれでもやはり恐怖にも畏怖にも似た感情に支配される。
「あ、あの……」
 声が上擦る。手が動かない。前へ差し伸べることも、後ろへ引っ込めることもできない。俺が戸惑いに固まっていると、赤司は右手をすっと引き、気を悪くしたふうでもなく肩をすくめてみせた。
「とはいえ、これだけでは情報が足りないだろう。……今日のうちにもう少し時間をもらえるか?」
「うん、大丈夫だけど」
 彼は左手首の腕時計に右手の指を這わせた。カバーを開き直接文字盤を指の腹で確かめている。触覚式の腕時計のようだ。
「このあと、うちの部の伴走ボランティアのメンバーが練習会を開く。二十分後だ。少し待たせることになるが、時間があるならきみにも参加してほしい。気負うことはない、ちょっとした講習だ。初心者もいる。体験も行う手筈になっている。それも判断材料にしてくれ」
 そう言って、赤司は俺に考える余地を与えてくれた。しかし、知識を得たり体験したりすると、余計に断りづらくなる気がしないでもなかった。静かに外堀を埋められているのだろうか、と少し背筋が寒くなった。あとに退けないところまで追い詰められるのではないか。しかし、この状況で脈絡もなくさっさと帰りますと言えるわけもなく、
「あ……うん、そうさせてもらうよ」
 押されるようにして肯定の返事をした。
 その後、赤司はここで会ったときと同じような格好で休憩に入った。キャップをかぶり、顔にタオルを掛けて。本人も言っていたとおり、体力面はともかく、精神的に疲労したようだ。休息の邪魔をするのもはばかられ、俺は無言で木陰に座っていた。初夏を思わせるさわやかな、けれどもかすかな熱をはらんだ風が吹き抜け、木の葉をさわさわと揺らしていった。寝そべった彼の姿をじっと見つめていると、今日会ってからいままでの短い間に与えられた数々の情報が、改めて頭の中に溢れてきた。
 時期や原因は教えられなかったが、失明したということ。バスケは辞めたらしい――少なくとも通常のプレイヤーとしての道は断たれたこと。現在大学生で、陸上部に所属しているということ。長距離走をやっていること。かなりの走力があること。しかし走るためには伴走者が必要だということ。
 ひとつひとつの情報が思いもよらないものばかりで、箇条書きのように頭の中に並べるほどに混乱する。視覚をほとんど失ったという事実に対する同情は、ゼロではないが、あまり湧いて来なかった。特に感情を込めず平然と話すから? いや違う。超然としているからだ。いまの彼からは、小動物を射すくめるような眼光も、冷えきった刃のような険も感じない。別人のように柔和な雰囲気を醸している。けれどもそうやって纏う空気の向こう側には、やはり彼の尋常ならざる本質が隠れている気がする。常人とは違う何か。視覚を閉ざされたところで、彼はやっぱり俺のような平凡な人間には手の届かないはるか高みを歩いているのではないか。根拠はないが、そう感じられてならなかった。俺が卑屈なだけなのかもしれないが。あるいは、少年の日の彼の姿が脳裏に焼き付き、いまの彼に重なって見えてしまっているだけなのだろうか。
 そこで俺はまた混乱する。彼は走りたいと言った。動機はわからない。が、彼がしたいのなら、していいことなのだろう。重度の視覚障害がある彼が伴走者を必要とするのはおかしなことではない。いかに彼の心身が優れていようとも、前も見えず長い距離を走ることは難しい。仮に可能だとしても、規則が許さないかもしれない。ほかの選手にとって危険だと。近視の人がレンズによって自己の視力を補うように、失明に近い弱視の彼は伴走者というかたちで視力の代替を得る必要がある。それだけのことだ。だが……なぜ俺にその話が来たのだろう? そこが不思議でならない。ロードレースの経験があり、それなりの速さで長距離走ができる(あくまでそれなりの、だ)。プロめいた立場ではなく、成績を残す義務がない。このあたりが身軽そうに感じられたのか? しかし俺はただの市民ランナーで社会人だ。質、量とも、彼が求めるレベルの練習を提供できるとは思えない。伴走者は不足気味だと聞くが、それでもその気になればもっとふさわしい相手を探せるのではないだろうか。
 なんで俺を選ぶ気になったんだろう。俺なんかでいいのか?
 釈然としない思いを胸に、木陰で休む彼の姿をぼんやりと見つめていると、キャンパス内の通路からひとりの学生が走ってやってきた。山村くんだ。はっとしてグラウンド内の大きな柱時計を見やると、赤司が言っていた講習会の時間になっていた。山村くんに案内され、俺は講習の集合場所へ向かった。
 ボランティアは学生だけでなく広く市民から募っているようで、集まった人たちの性別も年齢もばらばらだった。さすがに高齢者はいないが、俺たちの親世代くらいの年配者はいた。視覚障害の人も混じっているようだが、ひと目でそうとわかる人もいれば、どちらの立場で訪れているのかさっぱり判断できない人もいる。サングラスの有無はあまりあてにならない。晴眼者でも目の保護はするから。講習は伴走経験の長い中年の晴眼ランナーからの心得の教授からはじまり、体験はガイドヘルプからはじまった。小学校の福祉関連の学年講義みたいな時間に少し体験して以来だったので懐かしかった。過去一度だけとはいえ経験があるのでだいたいのやり方を覚えていた。名簿番号の近い原田くんと一緒に組んで交互にアイマスクして、確か俺が登り階段のところで盛大にすっころんだっけ、とおよそいままで回想する機会がなかったであろう思い出が蘇る。校舎内の埃っぽい廊下、壁に入ったひび、階段の高さ、手摺の鉄臭さ……さまざまなことが急に、そして一瞬のうちに奔流となって記憶の扉から流れだしてきた。子供の頃の記憶ってすごい、と十数年前の自分にちょっとだけ感動する。ただ、小学校のときと違うのは、ただのアイマスクではなく、弱視体験ができるという特殊なゴーグルを装着していることだった。俺が赤司の伴走者候補だという話はある程度伝わっているようで、主催者グループのひとりが俺に赤司と同程度の視力を再現したゴーグルを使用させてくれたのだった。アイマスクで完全に遮断するのに比べると、ぼんやり明るさがある分ほっとするが、障害物を視認するのはまったく不可能だった。ぼやっとした視界の中、何かが動くのはかろうじて認識できる。しかし段差はもちろん、自分の足すら見えない。ぼやける、かすむ、という言葉より先に、見えない、の一言が浮かぶ。光があるし、多少の動きはわかるのに、見えない。不可思議な視界だった。ガイドされているし、いざとなればゴーグルを取って視界を確保できるので恐怖が全面に立つわけではないが、足の運びはちょこちょこと小股になる。周囲では、主に女性陣の怖い怖いという語が飛び交っていた。男の声はあまり目立たないが、言葉にしないだけで女性以上にびびっているんだろうな、とちょっぴり思った。なぜなら俺も内心かなりびくびくしながら歩いていたからだ。歩くことに集中するあまり、ガイド役の男子学生の案内の声にろくに返事を返せなかった。
 いよいよ伴走そのものの講習になった。これはまったく未知の領域だったが、事前にネットで調べていたので、大雑把な方法は把握していた。ガイドヘルプとは違い、ランナーが直接ガイドの身体を掴むことはなく、代わりに両者はロープを握る。一メートルほどの長さのロープを円状にしたものを用いる。この両端をそれぞれ握ることで、ランナーと伴走者はつながる。当たり前だが、ランナーが左手でロープを持つ場合、伴走者は右手でロープを握る。音声で方向や距離、路面状態、時間、他の走者の位置といった情報を伝えながら、ロープ越しに手をつないで並んで走る。ガイドヘルプの走るバージョンといえばそうなのだが、やってみるとそれよりはるかに難易度が高いのがわかった。体を直接掴んでいるときとは違い、ロープ越しだと引かれる方向がはっきりわからない。ただ引っ張られる感じがして、どこへ足を向ければいいのかと戸惑う。そして引かれる感覚自体が怖かった。音声で「十メートル先、左に曲がります」と言われても、十メートルという距離を視覚なしでとらえることは俺にはできなかった。直前に伴走役の人が「左に曲がります」と言ってくれてようやくわかった。ガイドするほうはするほうでこれまた難しく、的確かつ簡潔な指示の言葉がとっさには出ず戸惑い、次に何を伝えるべきかと絶えず周囲を見回し情報の取捨選択のために思考を巡らさなければならない。第一に考えるべきは、ランナーの安全である。が、慎重になるあまりスピードがまったく出ず、歩いているのと大差ないありさまだった。俺とペアを組んだ男の子も初心者だったので、ふたり揃って恐る恐るの足運びで、おおいなるへたれっぷりを発揮していた。キャンパスの南側をそれぞれの役で一周し終えてゴーグルを外したときには、お互い苦笑しながら、下手くそですみません、怖かったですね、と言い合った。
 講習が終わり、解散となる。そう長い時間ではなかったので疲れるというほどではなかった。気疲れはしたが。このあともう少し立ち入った練習をするグループもいれば、今日のところはこれで帰宅、という人たちもいた。それぞれの事情に合わせて動いているようだ。俺はどうすればいいのだろう、と休憩エリアとなっているらしい木陰から赤司の姿を探した。このあとの指示は受けていないが、勝手に帰る度胸はない。グラウンドを見やると、サングラスを掛けた赤司が伴走付きでトラックよりずっと外側を走っていた。伴走者の男子は赤司と同じくらいの背丈で、彼より若干体格がいい。中距離走者だろうか。中距離走としてはそれほどスピードは出ていないが、伴走であることを考えればかなりのものかもしれない。俺にあの速度が出せるか? 伴走では絶対無理だ。単独で走ったとしても、かなり必死にならなければならないだろう。昨今言われるマラソンの高速化なんていうのは俺程度の市民ランナーが気にすることではないが、速く走りたいという欲求はあるので、スパート練習や短めの距離を速く走るトレーニングも取り入れている。が、やればやるほど自分には天性の走力がないことが身に染みる。俺は俊足ではない。短距離はきわめて普通。特別遅くはないが、まったく速くない。スピードがない。つまり、才能がない。それでもマラソンにおいては、まだ速く走れる、タイムを縮められる気がしている。レースで勝てるようになるかは別問題だが、努力という名の練習の積み重ねは、怪我や加齢による肉体の劣化を置いておけば、自己ベストというかたちでいずれ報われる。もちろん限界はあるだろう。だが、やってみなければわからない。長距離は、走り込まなければ結果が出ないしわからない。そこがおもしろい。俺はランナーとしては比較的若いし、経験も浅い。タイムもたいしたことがない。だからまだ伸びる余地がある。走り続ければもっと速くなる。実力が微妙なラインだからこそ、そう信じて走っていられるとも言えるかもしれない。
 濃い曇りガラスのような視界でかなりのスピードで走っている赤司の姿をとらえながら考える。いつからかは知らないが、彼はずっとバスケをやっていた。好きだからだと。一方で、他の競技にも才能は活かせるだろうとも言った。多分球技やチームスポーツを念頭に置いていたと思うが、陸上だったらどうなのだろうか。バスケもたいがい身長がものを言うが、陸上は種目によってはさらに天性の身体能力によるところが大きい気がする。残酷なほどに。さすがにスプリントは無理だろう。人種の壁が厚すぎる。投擲はパワーが必要だから体格的に難しいかもしれない。跳躍は確か身長で差が出ると聞く。やっぱり走競技になるか。……とそこまで考えて、赤司にも向き不向きはあるのだといまさらのように気づく。バスケでのポジションを顧みればそんなことは一目瞭然なのだが、なんとなく、なんでもトップレベルでやってのけてしまう気がするのだ、あの人は。視力が冒されなければバスケを続けていただろうから仮定しても仕方ないが、もし目が以前のままで陸上をやっていたとしたら、中長距離でタイトルを取っていそうだ。中距離だったら転倒者を続出させるんじゃないか、なんて不穏な想像がよぎる。自分で考えておいて、その光景を思い浮かべてぞっとした。やるやらないは別にして、あの人なら絶対できていたと思う。
 そこまで考えて思ったのは、何をやるにしても彼にはそれなりの適性があり、非凡な才を発揮する機会も多いだろう、ということだった。
 では、そんな彼はまさしく平々凡々な俺に何を求めているのだろう。単なる速さではないはずだ。スピード練習ならトラックの長距離走者や中距離走者に頼んだほうがいい。距離走か? 俺は長い距離を走り続けることはできるし、それが一番好きだ。フルマラソンはその過酷さから若年のうちは普通やらないし、大学の長距離は男子は特に駅伝重視なので、二十歳前後の一般の大学生ではマラソンの伴走はなかなか務まらないだろう。ここのボランティアは市民ランナーも含まれているが、多分それほど速い人はいないのだろう。伴走者が見つからないと言っているところから、赤司はまだロードでの長距離練習の経験が少ないと見られる。現時点では俺のほうがロードの走力はあるだろうから、ある程度の練習は提供できるかもしれない。
 やっぱり距離走が目的なのだろうか。彼が満足できるレベルに足るかわからないけど。正直まったく自信ないけど。うだうだ考え込んでいると、グラウンドから赤い髪がこちらに向かってくるのに気づいた。意識していなかったが、俺がいま腰を下ろしている場所は、最初に赤司が休憩していた場所だ。なんだか待ち構えていたみたいだ。いや、次の予定は彼に聞かなければならないので、待っていたことに違いはないのだけれど。
 赤司は迷いのない足取りで進み木陰に入ると、スポーツバッグの置いてある木の二歩手前で立ち止まり、腰を屈めて少しだけ手を宙にさまよわせた。見えているようで、やっぱり見えていない。不思議な行動に映った。かなり汗を掻いていて、いきなりTシャツを脱ぐと、それを使って体をぞんざいに拭きはじめた。シルエットは細いが、筋肉で締まったいい体つきをしている。分割と言うほどはっきりとはしていないが腹筋の隆起もある。普段日に当たらないであろう胴体は割と色白で、屋外競技で日焼けした腕とコントラストを描いていた。タンクトップで練習することもあるのだろう、それほどくっきりとはしていないが、指先から肘の少し上まで、そこから肩のあたりまで、そしてその先、というように日焼けの程度が違い、段階的に色が薄くなっていく。自分のTシャツ焼けの跡を鏡で見ると格好悪いと思うのだが、彼だとサマになっていると感じ、いったい何が違うのだろうと思わずまじまじ観察してしまった。彼のほうが骨格がしっかりしていてスタイルがいいのと……あとはまあ、顔だよな、と即座に認める。赤司の名を聞くと最初に思い浮かべるのがあの目をかっぴろげたおっかない形相なのだが、普通にしていれば怖くないし、素直にかっこいいと思う。頼むからそのままイケメンフェイスを保っていてくれと願う。あの懐かしい表情は、できればやめていただきたい。今日ここで再会して以来一度も見ていないけれど。
 バッグからのぞく布を見るに、着替えは用意してあるようだ。しかし運動後の体が熱いようで、上半身裸のまま地面に胡座をかいた。彼がバッグから保冷用の袋に入れられたペットボトルを取り出したところで声をかける。
「お疲れ様」
 彼ははっと顔を上げ、こちらを向いた。
「降旗くんか。失礼、部員かと思っていた」
 近くに誰かいるのは察していたらしいが、俺とは思わなかったようだ。サングラスを外すと、着替えを引き寄せようとした。
「……あ、いいよ、暑いならそのままで。汗引いてから着替えたいだろ?」
 赤司はちょっと迷った様子だったが、それでは、というと着替えをバッグに戻した。俺の存在がわからなかった彼に、尋ねてみる。
「話しかけるとき、名乗ったほうがいい?」
「そのほうが助かるが、毎回名乗らなくても大丈夫だ。ただ、いるなら声をかけてほしい。存在自体、気づかないことがあるから。無視しているわけじゃない」
「それは思わないよ。なるべく声かけるように気をつける」
 彼はペットボトルを口に含み何秒か傾けたあと、腕時計に触れた。
「講習は終わったようだな。待たせてすまない。暇だっただろう」
 確かにすることはなかったが、いろいろと考え込んでいたので、暇ではなかった。
「いや、暇ってわけじゃ……休んでたんだよ。慣れないことして疲れたから」
「疲れたか」
「うん、体験が特に。月並な感想だけど……怖かった。それで、なんか気疲れしたみたいだ」
「そうだろうな。みんな怖いと言う」
「きみも怖かった?」
「それはそうさ」
 弱視体験のゴーグル越しに眺めた、ぼやけきった世界を思い出しながら、俺はなかば独り言のように呟いた。
「赤司、いつもあんなような視界で生活してるってことだよな……すげえ」
 視野障害も合併しているらしいから、実際はもっと見づらいのだろう。
「すごくはない。所詮は慣れに過ぎない。霞んだ視界で生きていかざるを得なくなれば嫌でも慣れる。人間はどんなことにも慣れるものだ。いまある環境に適応していく。それだけのことだ」
 とはいえ、相当訓練したのだとは思う。彼は言った――できることはやっておくに越したことはない。つまりはそういうことなのだろう。
「ガイドヘルプなんて久しぶりだったよ。小学校の体験授業以来? 子供の頃は恐怖心よりも好奇心のが勝ってて、目隠しして校内歩くのちょっとおもしろかったんだ。いま思うと不謹慎な話だけど」
「子供なんてそんなものだろう。それに、好奇心は尊いものだ」
「でも、大人になってからやってみると、とにかく怖かったよ。なんで昔はおもしろいなんて思う余裕があったんだろ。子供ってすごい。うーん……最近転んだり怪我したりってこともあんまないから、膝ひとつ擦り剥くのにもびびっちゃってるのかも? 小さい頃はそんなこと怖がりもせず跳ね回ってたんだろうね」
 子供はよくも悪くも物怖じしない。昔は転んだり体を打ったりしながらも一輪車やアイススケートを楽しんでいたが、いまは絶対無理だし、やりたくないと思う。ついこの間のような気がするが、はるか十五年ほど昔のことだ。俺も年をとったものだとしみじみしてしまった。だって高校生だったのが十年近く前なんだから。
「伴走の練習っていうか体験もさせてもらったよ。こっちは完全にはじめてだった」
「ロープを使った練習か」
「うん。ガイドヘルプで肘持ってるときは、ガイドの人の動きが結構ダイレクトに伝わってきて、次こういう方向に行くんだろうなって予測しやすかったけど、ロープだと全然だね。急に引っ張られる感じがして戸惑うし、怖かった」
「それはわかる。僕だっていまだに怖いことがあるから」
「そうなんだ?」
「相手による。うまい伴走者もいれば、いまいちな者もいる。慣れのほか、相性もあるしな」
「相性かあ……」
 俺がぼそりと呟くと、
「さっそくだが走ってみるか? 僕と」
 赤司が自分を指さして言った。彼としてはこれが目的なのだから、この提案は真っ当なのだが、予想はしていても俺は戸惑ってしまう。彼と走ることを考えると。
「い、いきなり?」
「さっき多少はやっただろう」
「そうだけど……」
「僕は見えづらい状態にも、誘導を受けるのにも慣れている。健常の受講者同士よりはやりやすいと思う」
 赤司はすっかりやる気のようで、先ほど脱いだ、汗で湿っているであろうTシャツを再び着た。ジャージの下を穿いたのは、転倒時の被害を減らすためだろう。先刻の練習で使っていた伴走用のロープの確認までしている。完全にその気だ。
「あ、あの、俺、多分全然うまくできないよ? きみが、その、恐怖感を覚えるかもしれないし、もしかしたら怪我させちゃうかも」
「最初から上手な者はまずいない。きみがまったくの未経験だと知っていてここまで来てもらったんだ、そのあたりはわきまえているつもりだ」
 と、そこで赤司はにやりと口の端をつり上げた。
「どうだ、ひとつ記念に僕を転ばせてみるか? なかなかない機会だと思うぞ」
「いやいやいや、何言ってんの。わざとやっちゃ駄目だよそういうのは、人として」
「きみが良識ある人間でよかったよ」
「当たり前だろー」
 もちろん冗談なのだろう、彼はふふっと笑った。
「で、どうする? 僕はきみの伴走技術に期待はしないが、良識には期待しているのだが」
 地面に両手をつき、赤司がずいっと顔をこちらに近づけてくる。見えていないはずの双眸にとらえられた気がして、心臓が高鳴った。軽い調子で言ってはいるが、彼の目は真剣だった。
「……わかった。やってみる。伴走するにあたってアドバイスとかあればお願いしたいんだけど」
「先ほどの講習ではどんな注意点を聞いた?」
 確認され、俺は視線をさまよわせながら、講習で聞いた内容を思い起こす。ちゃんと覚えているか答え合わせをされるような心地で落ち着かない。
「ええと……走るときは二人三脚みたいな足の運びで。ロープは使うけど、イメージは手をつないでいる感じ。ランナーが腕を振りやすいように、ガイドは外側に腕を出すような感じで。あとは……主役はあくまでランナーだということ。ランナーが走りやすいようにって心掛けること、かな。ごめん、もっといっぱい聞いたと思うけどこれくらいしか頭に残ってないや」
 記憶力あんまりよくなくてすみません、と胸中で付け加える。
「いや、重要なポイントは押さえていると思う。十分だ」
「そっか。よかった」
「では、僕からもひとつ、いいか」
 と、赤司が人差し指を立てた。
「は、はい!」
 俺は勢いよく返事をした。心のなかでは正座をしている。赤司からの忠告を聞き逃したら、あとで大変なことになりそうだ。
 緊張する俺の左頬に、赤司の右の手の平が添えられる。
「きみは僕と共に走る」
「う、うん?」
「僕はきみと共に走る」
「え、ええと……?」
「それが伴走だ」
 シンプルなような、それでいて抽象的にも感じられる言葉を残し、赤司はさっさと俺から離れ、鞄に仕舞ったサングラスを再び取り出し装着した。そして、その場から立ち上がる。
「ご、ごめん、もうちょっとわかりやすく」
「これ以上わかりやすくは無理だ。別にいま理解する必要はない。さて、行くとしよう。走ろうか――一緒に」
 困惑する俺を見下ろしながら、赤司が誘った。
 走ろうか。ひどく懐かしく響いた。あの日、ウインターカップで一般客として遭遇したとき、わけもわからず一緒に走ることになったとき、確かそう言われた。あれは不思議な思い出として、いまも記憶に鮮やかに残っている。鮮明なのに、どこか夢のようでもある過去の一時。怖いばかりだった赤司と走って、ちょっとだけ楽しいと感じた時間。伴走とはかたちが違うが、微妙に並んで走ったっけ……。
 ……もしかして、あのときもう、目がよく見えていなかった?
 あのときの、少しぼんやりした視線をした赤司の姿を思い出す。
 隣りに座った俺を凝視していたのは、睨んでいたわけではなく、目を細めてなんとか見ようとしていたのでは? 自販機の押し間違えは、うっかりミスではなく、表示が読めなかったせいでは? 俺を先に走らせたのは、視界が霞んでいて、自分が先行して走るのが怖かったからでは?
 当時の赤司の行動を改めて回想したときそう思いあたったが、本人に確認することはできず、俺はただ、外周を走ろうと先をゆく赤司の背を追った。

*****

 今度あそこを右へ曲がる……あ、え、ええと、十メートルくらい先? あ、ごめん、五メートル。
 二十メートルくらいで坂に差し掛かるよ。勾配はそんなきつくない。……ごめん、上り坂です。次気をつけます。
 次の角曲がったら、西門に出るよ。ええと……二十メートルくらい先? あ、角のことね。
 西門からキャンパスに入った。この急勾配を越えたら平坦になって、五十メートルくらい直進すると小グラウンドに出て……あ、前方に人がいる。避けるね。あ、こ、こっち。ええと、左、左。
 初の伴走練習、俺のガイドはひどいものだった。普段の練習である程度意識はしているので、距離感はあるほうだが、走りながらそれを伝えると、言葉を紡ぐ間にどんどん前方に進み頭の中で描いている距離が狂っていくので、自信を持って何メートルだと言えない。段差や坂は上りか下りかまで伝えるのを忘れがちになる。つい指示語を使ってしまう。スピードはまったく出せないし、自分の足がもつれかける始末だった。俺がふらつくのが伝わるようで、ガイドされている赤司に、僕を見るよりまずはちゃんと前を見よう、と忠告されてしまった。左右の距離を掴みかね、互いの腕が何度も接触した。赤司はそのたび、ちょっとだけ横にずれて距離をとってくれた。完全に俺が練習につき合ってもらっているかたちである。赤司のほうが格段に慣れているのだからそうなるのは当たり前なのだが、こんなので本当にいいのかと不安になる。これは初回にしてクビになるのでは、と気まずい思いをしながら走り続けた。きっとさぞかし失望しているんだろうな、と想像しながら。赤司は何も言わないけれど。こんな下手くそなガイドでは、全神経を集中させて前に進まなければならないから、無駄口を叩く余裕はないのかもしれない。
「えと、あともうちょっと走ったらグラウンドに戻る」
「どのくらい?」
「五十メートルくらい?」
「まっすぐか」
「う、うん」
 赤司の頭にはキャンパス及びその外周の地図が出来上がっているのだろう、俺の混乱極まるガイドにもうろたえた様子を見せない。
「あの――」
 あまりに下手な伴走をしていることに居たたまれなくなって、耐え切れずごめんと謝ろうとつい彼のほうを向いてしまった。それがいけなかった。
「わ!?」
 これまで何度も自分の足に突っかかっては転び掛けていたが、今度こそ本当にもつれた。確実に転倒する。彼を巻き込んではいけない。そこに考えが及ぶ程度の理性は残っていて、とっさにロープを離した。でも慣性はあるだろうから、結局彼もバランスを崩すことになるかもしれない。怪我させちゃうかな。ああ、あとが怖い。やっぱり俺に伴走なんて無理だ。難しすぎる。地面に突っ伏すコンマ以下の時間にあれこれ考えた。いざというときの人間の思考力には我ながら恐れ入る。
 ……が、実際に俺に加わったのは、地面に激突する衝撃ではなく、予測した方向とは真逆に引かれる力だった。
「えっ……?」
 衝撃の代わりに感じたのは、妙な浮遊感、そしてそれに続く不安定な体勢。
 見えたのは、地面ではなく空の青。そして、その手前にある影。逆光で黒っぽく見えるそれは、しかしよくよく見ると鮮やかな赤だとわかった。
「あ、あか、し……」
「ちゃんと前を見ていたか?」
「ご、ごめん……」
 それほど濃くない色のサングラス越しに、赤司の両の目が見えた。苦笑しているようだ。彼の双眸が間近にあることを意識したとき、ようやく俺は彼との距離がひどく近いことに気がついた。
 どうやら赤司は、俺がバランスを崩した直後、腕だか服だかを掴んで自分のほうへ引き寄せたようだ。俺は完全に重心を失い、彼の腕に上半身を提げられるような格好で支えられている。背中に彼の腕が回っている。顔と顔の距離が近い。見えないだろうに、俺の顔を覗き込んでくるのは、心配してくれているからだろうか。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
 鼻先が掠りかけて、俺は慌てて顔を背けた。体重はまだ彼に預けたままだ。どぎまぎしながら答える。
「大丈夫だよ。ご、ごめん……どっちがガイド役かわからないな、これじゃ」
「いや、ガイド自体は助かった。まあ……まずは自分の身の安全を考えてくれるとありがたいが」
「う……ほんとすみません」
「足をひねったりはしていないか。つい引っ張ってしまったが、あのまま転倒させたほうが安全だったかもしれない。急に力の向きを変えると身体に変な負担が掛かることがある。そのあたりの調整がいまはしづらくてね。どうしても反応が遅くなるし」
 彼は元々体術だかなんだかを習得していた節があるので、とっさに体が動いたのかもしれない。しかし、ほぼ体性感覚だけで俺の転倒を察知してそれを防ぐように動いたということだろうから、見事というしかない。達人技を見せられたような気分でちょっと惚れ惚れしかけていたが、自分の体が不安定なことに思い当たりはっとする。
「だっ、大丈夫だと思うけど。……あの、一応、足、確かめたいので……その、そろそろ離してもらえない……かな?」
 よく考えると、赤司に半分抱きかかえてもらっている格好だ。そのことにようやく意識が回り、とても恥ずかしい気持ちになる。なんて駄目ガイドなんだ俺……。
 身じろぐ俺に、赤司はその場に座るよう指示した。
「ああ、そうだな。確認してくれ」
 足首を前後左右、そして時計回り、反時計回り、と動かす。痛みや違和感はない。膝の進展や屈曲も問題ない。怪我はなさそうだ。その事実にとりあえずほっとするが、すぐにまた心拍が上がった。赤司の顔が近い。凝視されている気分だ。そんなわけはないのだけれど。本当に、きれいな顔をしている。場違いな感想を自覚すると、よけいに心音がうるさくなった気がした。
「なんだか緊張しているように感じられるが……どこか痛めたか?」
 俺がどぎまぎしているのを痛みのせいだと受け取ったのか、赤司が心配そうな声音で尋ねてくる。……のみならず、恐る恐るといった手つきで俺の膝辺りに手を伸ばし、羽が掠めるような軽さでズボン越しにふくらはぎに触れた。くすぐったさと驚きに、悪寒のような感覚が走った。
「あ、いや……ちょっと驚いただけ。ほ、ほら、さっきも言ったけど、大人になるとあんまり転ぶことないから、さ……」
 赤司の顔が近すぎて緊張したのが本当のところなのだが、とても本人には言えない。適当にそれらしく取り繕う。
「そうか。ならいいが。一応あとで部の仲間に見てもらうか」
「大丈夫だよ。さ、残りちょっとだから、走ろう」
「いや、やめよう。無理はよくない。グラウンドの方向を教えてくれ。僕が誰か呼びに行く」
「いやいや、別に怪我なんてしてないから。心配しないで」
 俺は立ち上がると、赤司の手を軽く引いて立ち上がってもらった。ロープを握らせると、彼は首を横に振り、俺の手を掴んだ。
「嘘はついていないな?」
 こ、怖い……。声が低い。目つきが険しい。怒っている? そんなに疑わなくても。
「う、うん。おかしいところあったらちゃんと言うからさ……」
「僕は異変に気づきにくいんだ。きみの歩き方が多少おかしくても、わからないかもしれない」
「あ、うん……ほんとだよ。ほんとに大丈夫だから」
 ずっと冷静だった彼の声音が、ちょっとだけ揺れているように聞こえた。
 そうか、目で確認できないんだ、不安にもなるだろう。以前は見ただけで相手の身体の状態が読み取れるくらいだったという人だから、余計にそう感じるのかもしれない。なんだか悪いことをしてしまった気分だ。でも、無闇にごめんなどと言ったら彼のプライドに抵触しそうだったので、何も言えなかった。
 結局妥協案で、ふたりで連れ立ってグラウンドまで歩いて帰った。慣れたキャンパス内なので直接ガイドされなくてもそばに誰かいれば気配でだいたい進行方向がわかり、歩けるらしい。一応音声で周囲の状況を伝えるようにはしたが。しかし、不必要なくらいぴったり近くに寄ってきたのは、やっぱりまだ俺を疑っていたからだろうか。見張られているようで緊張するのと、こんなに接近していたら接触して今度こそ本当にお互い転倒するのではと気が気ではなく、足が震えて仕方なかった。しかしそれを気取られると、やはりどこか痛めたのかと睨まれそうで怖かったので、気合の限りを尽くして平静を装って歩いた。
 グラウンドとキャンパス内の通路を隔てるように植えられた木々の間には、等間隔でベンチが置かれている。俺と赤司はそのひとつに座った。少し距離をおいて。基本的に冷静な赤司は、俺の転倒を騒ぎ立てることはなかった。練習中の部員に迷惑を掛けずに済んだことにはほっとしたものの……
「あ、あの……赤司、くん……?」
 それ以上にとんでもない状況に、俺は全身に冷や汗だか脂汗だかわからないものを垂らし、ベンチの上で固まっていた。贅沢にも横向きに座り、ベンチに足を伸ばしているのだが、その先にはなんと赤司の姿。捲り上げられた裾からは膝下が剥き出しになっており、靴も靴下も脱がされている。脛、ふくらはぎ、くるぶし、アキレス腱、踵、足の裏、足の甲、指の爪……順々に生暖かい感触が這っていく。彼の指の腹や手の平が俺の下腿やら足やらに触れている。彼は大丈夫だという俺の言葉を信じず、自ら確かめにかかったのだ。腫脹や熱を帯びていないかどうか、触覚を使って。バスケットプレイヤーとして活躍していた彼の手の平の皮はいまでも厚いままのようで、少し硬く感じる。感覚としてはこそばゆい。が、気分はそれ以上に気まずい。いや、畏れ多い。
 あ、赤司が俺の足に触ってる……!
 ひぃぃぃぃぃぃぃぃ、駄目だ、いますぐ平伏して謝り倒したい。スニーカーしばらく、っていうかずっと洗ってないよ、絶対足臭いよ。不衛生なもの触らせてごめんなさい。いい年した成人男子だから仕方ないんだけど、脛毛が野生だよ。赤司には見えないから見苦しくはないかもしれないが、触ったら不愉快な感触がするに決まっている。そんな汚いもの触らせてごめんなさい。なんかもう、何もかもまとめてごめんなさい……!
 俺が硬直している間に、赤司は淡々と目的をこなしていった。すなわち、右足の無事を確認すると、今度は同じように左足のズボンを捲り、靴下を脱がしてじかにぺたぺた触るという。この人になんてもの触らせてるんだよ俺……。でも彼の意志に基づく行動である以上、拒否するのも怖い。どうすればいいんだこれ。誰か助けて……脳が現実を処理しきれない。やばい涙滲んできた。赤司にはわからないだろうけど……。
 怪我がないことを確認されるだけでなぜこれほどまでに緊迫感に包まれなければならないのだろう。いや、俺が一方的に包まれているだけなのだが。浅くなりかける呼吸を根性で抑制する。そのことに必死になっていると、
「大丈夫そうだな。大事ないようでよかった」
 赤司が顔を上げてそう言った。ようやく納得してくれたようだ。やっと解放されたと、俺は心底安堵した。
「う、うん……大丈夫だよ。心配かけてごめん」
 思いっきり息を吐きたかったが、彼に不審に思われるかと考えて堪えた。靴下を履き、ジャージの裾を元に戻してから、スニーカーに足を突っ込む。しかしそこで気が緩んだのか、結局盛大なため息をついてしまった。
「疲れたようだな」
「あ……いや、その……はい……つ、疲れました」
「うん、僕も疲れた」
「ご、ごめんなさい!」
「いや、いい意味の疲労だ」
 ほとんど反射のように即座に謝罪した俺に、赤司がどうどうとなだめるような仕草をした。だが俺はすっかり萎縮してしまい、背筋を伸ばし、やや肩をいからせるようにして腕を突っ張り、手の平を自分の膝に置いた。
「なんかスイマセン……やっぱすごい下手だったよな。遅いし。走りにくかった……よな? きみのほうこそ、足挫いたりしてない?」
「平気だ。なんともない。はじめてにしてはうまいほうだった」
 後半の言葉はただのフォローだろうが、とにかく自分が彼に怪我をさせていないことにほっと息をついた。赤司はベンチの背もたれに片腕を引っ掛け、やや斜めに体を傾けてこちらを向いている。
「貴重な休みを潰させて悪かった。社会人は何かと多忙だろう」
「いや、それはいいよ。どうせ練習にあてるつもりだったから」
「それはなおさら悪かった。今日きみはほとんど練習らしい練習をできなかっただろう」
「別に、そこまで綿密に計画しているわけでもないから。俺みたいなただの一般市民ランナーは、予定なんて狂うのが当たり前だからね、多少練習が滞ったってどうとでもなるし、するよ」
「今日このあとも練習か?」
「どうしようかな。体力は残ってるけど、神経使って疲れたかも。……あ、いや、きみとの練習が嫌だったわけじゃないよ?」
 そんなこと全然思っていませんと主張するように、俺は手の平をぶんぶんと横に振った。
「疲れるのは道理だ。慣れないことをしたのだから」
「きみも最初は疲れた?」
「ああ、疲れた。体力はともかく、精神的にぐったりしていたな」
「あの……やっぱり怖かった?」
「もちろん怖かった。……いや、いまでも怖いという気持ちはあるな。が、これは正常なことだろう。恐怖心を失えば、危機管理意識もなくなるだろうから」
 彼は自分の目の前で手をゆらゆら動かしていた。それだけが、いまの彼の目がとらえられるものなのだろう。
「ごめん……俺、きみに嫌な思いさせちゃったかな……」
 直接的に、怖かった? と聞くのがはばかられ、少し遠回りにおずおずと尋ねた。彼はふるりと首を横に振った。
「きみの伴走は怖くなかった」
 あ、気を遣われた。
 と俺が思っていると、彼の右手がこちらへ伸ばされた。緩慢な動きだが、俺はびくりと体を強張らせた。彼の指先が頬を掠めた瞬間、思わずぎゅっと目を閉じた。人の手を怖がる捨て犬のように。多分体がびくっと痙攣するみたいに震えたのだろう、彼が驚いたように一瞬手を引っ込めた。ちょっと指先を擦り合わせて何やら感触を確かめている様子だ。少し考えるように止まったあと、再び、さらに慎重そうな動作で俺の横髪のあたりに触れてきた。
「怖くなかった。本当だ」
 念押しのように告げてくる。さら、と髪を撫でられる。ひどく弱い、労るような触れ方。ああ、と彼の手つきの優しさに合点がいった。正確な距離や位置がわからないから、勢いがつかないように慎重になっているのだと。多分、眼球を突いたりしないように気をつけているんだ。
「あの……もしかして、キャンパスとこのへんの外周、全部覚えてる?」
 怖くなかったのは、その気になれば自走できるからではないのか、と思い、そんなことを聞いた。俺が言葉にしなかった部分も彼にはわかっているのだろう、空いているほうの手の人差し指を自分のこめかみに当てながら説明する。
「頭の中にマップはある。自分の歩幅と歩数から進行した距離も概ね割り出せる。が、路面の状態や障害物は一定ではないから、把握しておけるものではない。全部覚えるのは不可能だ。情報を更新しきれない。それに、一度自分の現在位置を見失うと、進行方向がわからなくなる。だから、グラウンド以外をひとりで走ることはない。通行人にとっても危険だから。外を走るには、誰かに付き添ってもらう必要がある」
 言っただろう? ひとりでは走れないと。
 ほとんどのものをとらえられない彼の瞳が雄弁にそう語りかけてくる気がして、俺は胸が苦しくなった。
「きみの動きがぎこちなかったのは確かだ。でも、きみは僕が走りやすいように動いていた。それはもう、気を遣って。常にそれを意識しているんだと伝わってきた。当たり前だが技術は未熟だ。だが、きみは信頼できる伴走者だと感じた。だから怖くなかった」
「よかった……」
 彼の言葉を鵜呑みにしたわけではない。俺があまり気に病まないよう、かなり盛ってしゃべってくれているのだと思う。しかし、少なくとも彼に完全に失望されたり不興を買ったりしたわけではないのだと感じ、やっと一息つくことができた。こうして話している間には気づかなかったが、ここで赤司が俺にすっかり呆れていれば、伴走の話はなかったことになっただろう。そうすれば赤司とのつき合いもこれ一回だけで、あとはいつもどおりの日常と自分の走りに戻れたというのに……どうしてだろう、俺はこのとき彼に落胆されずに済んでよかったと思っていた。伴走を断ろうという意志が、どういうわけかすっかり消えていた。
 以前とは違う彼の柔和な雰囲気を少しは信じられる気がして、俺は現金にもへらっと笑った。
「伴走ってはじめてだったけど、なんか不思議な感じがしたよ」
「不思議?」
「講習でも言われたけどさ、なんか手をつないで走ってるみたいだった。うまく走れてるときは、ロープのこと忘れて本当に手をつないでいるような感じがするってことだったけど、練習すればそうなるのかな。きみと手をつないで走るイメージって、なんか不思議で不思議で」
 すでに一度握手は済ませているのだが、彼の手に俺が触れることに現実感が湧かない。やっぱり、いいのかな、と思ってしまう。しかし同時に、ひどく魅力を感じたのも事実だった。天上にいる相手に触れていいと言われたようで、畏怖と憧憬が入り混じる。
 気がつくと、俺は自分の髪に触れていた彼の手を上から軽く掴み、じっと見つめていた。珍しいものに好奇心を惹かれる子供のように、両手で彼の手を握った。と、彼がぴくりと指先を動かしたあと、固まった。はっとして相手を見上げる。彼が驚いたように口を薄く開けていた。
「あ、ごっ、ごめん……びっくりさせちゃった?」
 そんなに強く掴んだつもりはないが、正面からでも彼には不意打ちに近いことを考えると、浅慮な行動だっただろうか。俺が慌てて解放すると、
「いや……」
 彼はいまのいままで俺が掴んでいた手を顔の直ぐそばに引き寄せ、何度か開閉させた。いったい何のための仕草なんだろうか。俺が怪訝に思っていると、彼と視線がかち合った。いや、そう感じるのは俺のほうだけなのだろうが。
「本当のにいいのか」
「え? 何が?」
「伴走の話だ。いまの口ぶりだと、今後も練習に参加してもらえるように感じたのだが」
「あ、うん。きみが俺でいいっていうなら」
 どう辞退しようか悩んでいた自分はどこへやら、俺はあっさりとそう答えた。というより、断るという選択肢が頭の中から消えていた。どういう心境の変化だと自問自答することさえないくらい、ごく自然に頷いていた。
「……ほんとに俺でいいの?」
 俺の確認の問いに、赤司が困ったように苦笑する。
「頼んでいるのは僕のほうなんだが」
「でも……今日の走りを見る限り、きみのほうが速そうなんだけど」
「今日は短距離や中距離が多かったから。きみが長距離特化型なのは知っている。長い距離を通して走ればきみのほうがずっと速いはずだ。きみの走りをこの目で見られないのを残念に思う」
 赤司は自分の目尻を左手の指先で押さえた。
「いや、俺ほんと、そんな速くないよ?」
「速いだろう、十分。公式レースの結果は把握している。きみが公務員でなかったら、実業団が声を掛けに来たかもな。まあ、駅伝には興味がないようだが」
「そんな大仰な。俺なんて全然だよ」
「なんでそう卑下する? 陸上経験のない社会人が、合間の時間にひとりで練習してあのタイムだ、関係者が聞けば恐れ入るだろう」
 その点に関しては、自分でもこだわりがあるというか、隙間時間の活用と練習能率の向上の追求を楽しんでいる面がある。しかし、それを堂々と主張するのも気恥ずかしい。
「……まあタイム更新がひとつの楽しみだから、そこは意識して走ってるかな。でもほんとおもしろい走りじゃないよ? ランナー仲間には、『おまえのはレースじゃない。精神修養だ』なんて言われちゃうし」
 つまり勝ちたいという意識がまるでない。あえて言うなら、自己ベストの更新とか、大会までに行いうる練習量から期待されるタイムを出すとか、そういった自分で定めた目標を達成することが俺にとっての勝利というか報酬だ。しかし赤司はこういういかにも自己満足な姿勢は好まないんじゃないか。そう考えが至ったとき、まずい、失言だったかと、本日何度目になるかわからない鋭い緊張が体に走った。が、特に気に障った様子もなく、彼は肩をすくめた。
「よっぽどマイペースに走っていると見える」
「うん、だからおもしろくないと思う、俺の走りは」
「でも、きみはおもしろいんだろう?」
「そりゃまあ……だから走ってるんだし」
「いいことだ」
 と、赤司はベンチから腰を上げ、一歩進んで俺の正面に立った。こちらに体を向けたかと思うと、す、と右手が差し出される。
「改めて言う。僕はきみと走りたいと思っている」
 さっき戸惑って取ることのできなかった、彼から伸べられた右手。
 触れてみたいと、いや、取りたいと、明確に思った。
「は、はい」
 俺もまた立ち上がり、右手でぎゅっと彼の手を握った。温かい。すでにわかっていたことだけれど、意識してやっとそう感じた。
「よろしく、降旗くん」
 彼の目が細められる。柔らかい笑みとともに。彼だってそういう表情をつくることもあるのだろうが、それが俺に向けられることがあるとは夢にも思わなかった。だから俺はちょっと夢心地になった。なぜだろう。自分がやってきたことを認めてもらえたようで嬉しかったから?
 でも、俺が伴走者でなかったなら――彼が伴走を必要とする身でなかったのなら、こんなことは起こり得なかったに違いない。だから、少しだけとはいえ嬉しいと感じた自分に罪悪感を覚えた。俺を必要としないでいられたほうが、彼にとっては幸運だっただろうから。視力を失ったことを彼がどう感じているのかはわからない。幸不幸は他人が決めることではない。しかし少なくとも、失わずに済んだならそのほうがよかったんだろうな、とは思う。
「うん、よろしく……」
 かろうじてそう返したものの、彼の微笑に勝手に居たたまれなさを覚え、俺は眼球の動きだけで逃げるように視線を逸らした。彼はなおもまっすぐこちらに顔も目も向けている様子だった。それが申し訳なくて……そして、悲しかった。

 

 

 

 

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