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『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

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ランナーズ 3

 なんでもないことのように告げられた言葉に、俺は呆然とするばかりだった。赤司の平坦で穏やかな声がまだ耳の奥で反響しているかのようだ。
 ブラインドランナー。目を悪くした。
 そんな単語が聞こえた気がする。聞き間違え? 最初に思ったのはそれだった。まず頭を占めたのは、まさかという思いだった。
 俺に伴走を依頼したのが赤司? 彼がブラインドランナー? 目を悪くしたって……そんなまさか。だとすると、彼はいま目が見えていないのか? 彼の瞳は俺の姿を映していないというのか?
 多少の面識はあれど、親しくもなければ交わした言葉だって多くない人物だ。しかしそんな相手であっても、視覚という人間にとってきわめて重要な感覚機能を失ったと聞かされることには衝撃を受けざるを得ない。
 思わず彼の顔を、ふたつの目をまじまじと見つめる。眼球はある。きちんと目を開いている。特徴的な色をした瞳は昔のまま。ぱっと見てわかるような異変はない。きれいな色をしている。ちゃんと俺のほうを見ているような印象だが、よくよく観察すると、どこか違和感がある。なんだか遠くを眺めている感じを受ける。焦点が合っていないというのはこういうことだろうか。俺のほうに向けられた双眸は、何を像としてとらえているのか。それがさっぱりわからない。
 自分の唇が戦慄くのがわかった。確認したい。でも、聞いてしまっていいのだろうか。
 十秒ほどの躊躇のあと、俺はあからさまに震えた声でどうにか質問を口にした。
「目……見えないのか?」
「あまり見えない」
 赤司はやはり落ち着いた調子で言った。彼の答えを頭の中で反芻する。あまり見えない。ということは、多少は視力があるということか。
「全然見えないわけじゃないんだ?」
 ふたつめの質問。先刻よりましだが、声からはいまだかすかなビブラードが抜けない。ぼんやりとこちらに目を向けたまま、赤司が答える。
「いわゆるロービジョンだ。弱視と思ってもらっていい」
 ロービジョン。弱視。細かいことはさておき、だいたい同じ意味だ。医学的な話となると門外漢だが、職場で福祉系の研修を受けたことがあるので行政関連の知識はいくらかある。視覚機能がゼロではないが弱い状態、またそのような人たちのことだ。弱視は近視や遠視と異なり、眼鏡やコンタクトレンズによる屈折矯正によって正常な視力を得ることができない。俺の知る中で典型的なド近視というと、赤司の旧知である緑間だが、緑間の場合、眼鏡を掛ければ、すなわち人工的に屈折を変えてやれば問題なく物を見ることができる(と思う。直接聞いたことはないのでわからない)。個人差はあるが、強いレンズを使えば1.0程度までは見えるだろう。弱視はどれほどレンズで矯正しても、十分な視力に至らない。とはいえ矯正がある程度有効な場合もある。いま赤司は少なくとも眼鏡は掛けていない。コンタクトレンズはわからない。どの程度の弱視なのだろうか。俺は自分の顔を指さしながら恐る恐る尋ねた。
「俺の顔、わかる?」
 すると、赤司は腰を上げて膝と左手を地面につき、そろそろと右手を低空にさまよわせた。その指先が座っている俺の太腿に当たる。そこで彼の手は一瞬止まったかと思うと、今度はゆっくりと持ち上げられた。手の平が肩に触れると、彼は二回ぱちぱちとまばたきをした。ちょっと考えるように。そして慎重な動作でさらに手を上げ、手の平をぺたりと俺の頬につけた。少し低い体温に驚いたわけではないが、俺は思わず声を上げた。
「わ……」
「失礼」
 と言ったが、彼は手をひっつけたままだ。体に触れられたことで、必然的に彼との距離が詰められる。鼻先が触れ合うのではというくらいまで接近してくる顔に、俺はびくっと肩を震わせると、ぎゅっと目を閉じた。蛇に睨まれたカエルというか、いままさに捕食されようとしている小動物のような心持ちで。が、鼻には何も触れなかった。俺がそろそろとまぶたを持ち上げると、すぐ前に彼のちょっとだけ幼い顔があった。そこでようやく彼と目が合った――気がした。間近にある彼の唇が言葉を紡ぐために動く。
「この距離でどうにか、目の前に何かあるらしいとわかる。が、識別はまったくできない。触ってはじめて人の顔だとわかる。誰なのかは声で判断する。距離感も微妙だ。まあ、眼前以外は勘か当てずっぽうなわけだが」
 俺の頬を緩く撫でたり指の腹を這わせたりしながら、赤司はそんな説明をした。右手をさまよわせていたのは、俺の体がどのあたりにあるのか視認できず、探っていたということか。人間の体が見てとれない? こんなに大きな物体が? 弁別以前に存在がわからない? 視界がぼけているという次元ではないだろう。ほとんど見えていないのではないか。実際、俺の顔に手を至らせるまでの彼の行動は、目の見えない人の動きのようだった。弱視と一口に言っても幅広く、歩いたり自転車に乗ったりと、一見普通に行動できる人もいる。赤司は全盲ではないようだが、相当重度の弱視のようだ
 まったく見えないわけでないという回答に少しだけほっとしたのも束の間、俺は再び強いショックを受けた。視力が残っているとはいえ、かなり重度じゃないか……。
 俺がすっかりその場で固まっていると、ふいに小鼻の両側から圧力を感じた。
「これは鼻だな」
 親指と人差指で俺の鼻を摘んだ赤司が、いたずらっぽい調子で言ってくる。
「あ、はい、そうです。鼻です」
「そんな律儀に答えなくても」
 真面目かつ丁寧に答えた俺に、赤司はおかしそうに小さく笑いながら指を離した。痛くはなかったが、なんとなく彼の指の感触が残っている気がして、俺は自分の鼻を手のひらで覆いながら、こわごわとしたトーンで尋ねた。
「あの……病気?」
 赤司はその場に胡座をかくと、
「いや、すこぶる健康だ。フルマラソンできるくらい」
 見てのとおりとばかりに腕を広げ肩をすくめた。上下ジャージなので体型はよくわからないが、やせ細っているといった印象はない。
「そ、そっか」
 現在の健康状態を尋ねたわけではなかったのだが、赤司のちょっとずれた答えに対し、俺はそれだけ返しておいた。赤司とて、俺の質問の意図を理解しなかったわけではないだろう。わかった上でとぼけた答えを返したのだ。すなわち言外に、詮索するなと言っている。彼が視力をほとんど失うに至った事情について。確かに必要な情報ではないかもしれない。俺は伴走者としてここへやって来た。ブラインドランナーと走るために。だから知っておくべきは、そのランナーが現在走れる健康状態であるかどうかということだ。過去に起きたであろう視力低下の原因を聞いたところで意味はない。
 気にはなったが、本人に間接的に回答を拒絶された以上、しつこく聞くなんてできない。病気にせよ怪我にせよプライバシーに関わることだし、何より相手はあの赤司だ。今日ここで再会して以来、高校時代の恐怖の思い出を連想させるような言動は見られないが、やはりあの第一印象はいまだ心に根付いている。下手な深追いをして機嫌を損ねるのは怖かった。
 しかしどうやって会話を続ければいいんだこの人と。そもそもなんで彼と再会することになった? 俺とは生きている世界が違うように思える人なのに。接点なんてないはず……あ、黒子!
 そこでようやく俺は思い出した。この状況の発端を。俺に伴走の話を持ち掛けた人物を。
 黒子は赤司とは中学からのつき合いだ。現在どうなっているのかは確かめていないが、多分つながっている。黒子は居酒屋でもその後の連絡でも赤司の名前を一切出さなかったが、知らなかったはずがない。黒子もまた職場の人に頼まれたと言っていたが、それが本当だとしても、その話題の当事者が赤司だというのは偶然にしては不自然すぎる。あいつ……はかったな。山村くんに会えという指示はミスリードというか、とりあえずあやしまれない程度に情報を出したということだろう。ちゃんと確認しなかった俺にも非はあるだろうし、最初にその話をされたとき、黒子はランナーの情報をヒントっぽいかたちで出していた。しかし、非常に優秀とか身体能力が高いとか別のスポーツをやっていたとか、その程度で赤司に行き着くはずがない。赤司の存在を当日まで隠すつもりだったのだろう。なんでそんなこと……と思ったところで答えは自明だった。赤司の伴走をやってくれなんて言われたら即刻全力で断固拒否していた。これに関しては推量の助詞なんていらない。絶対断っていた。そうさせないために、黒子は曖昧な情報のみで俺をここへ向かわせたのだ。とりあえず当人と顔を合わせてしまえば、即座に逃げることはできないだろうと踏んで。断りにくい状況を作って! なんてやつだ。友達を売るような真似をするなんて。
 なんとか穏便に辞退する方法はないだろうか。赤司の伴走者をやるなんて、考えただけで足がすくむ思いがする。いっそこの場から逃げてしまおうか? いま赤司の視力では逃げる俺の姿は追えまい。いや駄目だ。根本的な解決にならない上に、あとでどんな恐ろしい報いを受けるかわからない。両者平穏な合意のもとでお断りを受け付けていただくにはどうしたらいいのか……。
 どうしようと頭を悩ませながらちらりと赤司を見やる。彼はこちらに顔を向けていた。もしかして全部見られていた? 俺が狼狽しながら辞退の理由を胸中でこねているのを。いや、すぐ前にある人の顔すらわからないという彼の目には何も見えてはいないだろう。しかし見透かされている気分になる。
 どれくらい沈黙が続いていたのかわからない。さすがに不自然に感じたのか、赤司が声を掛けてくる。
「どうした、黙り込んで」
「え、あ、そ、その……」
「そんなに緊張することはないだろう。まあ、驚かせてしまったとは思うが。深刻になることはない。確かに不自由はある。が、そんなに困っているわけでもない」
 そう言って赤司は宙を仰いだ。つられて俺も視線を上げる。常用樹の緑色の間から差し込む木漏れ日がきらきらと美しい。彼は目を閉じ、少し眩しそうに目元をしかめていた。光は感知できるようだ。
「赤司くん、ここの大学だったんだね」
 会話に困った末、俺はそんなことを聞いた。俺の問いの意図をすぐに察したのか、赤司がにやっと口角をつり上げた。
「意外だろう?」
「う、うん……こう言っちゃ悪いけど、そんなレベル高くないよね、ここ」
「偏差値はそうだな」
 赤司の具体的な成績は知らないが、黒子から学業も優秀だと聞いていたし、頭の切れる人物だというのはわかる。学力だけを考慮すると、この大学は彼の知的好奇心を満たすには不十分だろう。とはいえ、中途の視覚障害がある身で大学へ行くには、学力以外の問題が絡む。入学時の視力はわからないが、いまと同じくらいだったとしたら通常の筆記試験は無理だし、入ったあと大学側がどの程度配慮してくれるか、施設は利用しやすいのか。そういった諸々の問題と相談して決めたのだろうとは思う。
「ここ選んだのは設備面とか?」
「ああ。交通の利便性と施設の充実、入学後の支援体制などで決めた。陸上部の有志がボランティアで伴走練習を提供しているのが大きかったが。入学前から世話になっていたから」
 スポーツで選んだということか。強豪でもエリートでもない平凡な陸上部。しかしいまの彼に必要なものを提供できるのがここだったのだろう。
「いまは学部生? 院生?」
「学部生だ。リハビリのため入学を遅らせたし、四年では必要単位を取れない」
 単位を取れないのは学力の問題ではないだろう。それ以前の学習の困難さがある。文字やグラフなどは読めないだろう。どういったエイドを用いているのかは知らないが、なんらかのかたちで本来視覚から得られる情報を補わなくてはならない。いかに彼が優れた頭脳を持っていても、時間と手間が掛かるのは仕方ない。
「陸上は大学から?」
「本格的に取り組んだのはそうだ。入学前から練習はしていた。目以外は健康で、体力を持て余す有様だったから。バスケはまあ……以前のようにはできないということは、想像に難くないだろう。技術はいまでもそれなりに保っているつもりだが、通常のルールではプレイしようがない。工夫が必要だ。さすがに視覚情報を完全に補えるような超能力はないから」
 彼の言葉に、視覚障害者バスケってあったっけ? と考える。車椅子バスケは知っている。視覚障害向けもありそうだけれど……。なぜ陸上に転向したのだろうか。それも長距離走。彼ならば走れると思う。体格的にも能力的にも。でも、あえて選んだのはなぜだろう。健常者ほど選択肢が多くないのは想像できる。彼の突出した能力のひとつが視覚依存であることも。しかし頭脳、統率力、ゲームメイクのセンスを考えると、陸上より球技のほうがいいのではと思ってしまう。中長距離は駆け引き要素があるので、純粋な肉体勝負というわけではないが。
「長距離走やってるんだよね。ロードレースに出たいって」
「ああ。きみと同じだよ、降旗くん。きみが市民ランナーとして走っていると知って、興味を持った。接点は多くはないが、知っている人物ではある。共通の友人もいる。何かの縁かとね。それで、伴走を頼めないかと思った。きみにとってはいい迷惑だったかもしれないが」
「いや、そんなことはないけど」
 気乗りはしなかったが、関心がないわけでもないので、伴走の依頼自体は迷惑ではない。……相手が赤司でさえなければ。しかし正直に言えるものか。
「強引に来させてすまなかったね」
「いえ……」
 共通の友人とは黒子のことだろう。名前は出されなかったけれど。
 あの赤司が殊勝な態度で俺に接してくることがかえって不気味というか、そんなことがあっていいのかという気になり落ち着かない。なんだかとても畏れ多いのだ。陸上に転向した動機とか黒子の関わりとか、聞きたいことはいろいろあったものの、そわそわしてしまい、機会を逸した。
「あの、せっかく呼んでもらったわけだけど……俺、伴走の経験ないから何やっていいのかわかんないんだ。どうすればいいのかな」
 微妙な空気の会話を続けることに限界を感じた俺は、そろそろ本題に移りたい旨をそれとなく伝えた。
「そのあたりは承知の上だ。今日は顔合わせのつもりだから、いきなり、はいいますぐにとトレーニングを頼んだりしない。まずは僕の実力を見てほしいと思った。だから、最初に僕が走る。見ていてくれ」
 と、赤司はすくっとその場に立ち上がり、上着のファスナーを開いた。練習着と思しきワンポイントのついた青いTシャツ。下も脱ぐと黒のランニングパンツが現れる。薄着になった彼の体は細かった。下半身はそれなりにしっかりしているが、上半身が薄く細い。背丈はもちろんそのままだが、体つきは記憶にある高校生の姿より明らかにひと回りは小さい。特に、半袖からのぞく上腕が目立つ。筋肉が張って締まっているのは見てとれるが、高校の頃ほどわかりやすく隆起していないように思う。しかし、それが病的なやせ方でないことはひと目でわかった。これはランナーの体だ。長距離走の。長い距離を走り続けるために必要な筋肉だけを求め余計な肉を削ぎ落とすと、どうしてもこんな体つきになる。筋肉質だが細く、ともするとひょろっとして見える体に。俺も似たり寄ったりの体型をしている。赤司のほうが瞬発力に恵まれていると思うが。俺は完全に、長距離しか走れない人間だ。
 かなり鍛えている。それが第一印象だった。もちろんランナーとして、だ。バスケットプレイヤーとしての彼しか知らない人間が見たら、その頼りなさに驚くと思う。しかし俺の目には彼の細くなった肩や背はとても力強く映った。これは走れる人間の体だ。俺ごときが彼の実力をうかがうのはおこがましいと思う。が、観察しているとどうしても考えてしまう。どれくらい走れるのだろうかと。ランナーとしての走力のほか、もうひとつ気になる点があった。走るという行為において、視力はどのくらい影響するのか。これはさっぱり想像のつかないことだった。視界を閉ざすのは難しくない。自分で試すこともできる。が、あえてやってみたことはない。特に関心をもっていなかったから。今度やってみようかと考えるが、短距離ならともかく長距離では厳しいだろうと気づく。目隠しをして公道を走る。危険極まりない。トラックならまだいいだろうが、それでも長い距離、長い時間はきついと思う。彼はそんな状態で走るという。そこで、彼が言った言葉が蘇ってきた。
 走りたいんだが、ひとりでは無理なんだ。
 ひとりでは走れない――黒子も言っていたことだ。どれだけ優れた走力を持っていても、あの視力でひとりで走るのは厳しいものがある。だから伴走者が必要なんだ。一緒に走って、目の役割をする誰かが。
 しかし、それでなぜ俺を呼んだ? これといった関係のない間柄なのに。伴走者は不足しがちだと聞いてはいるけれど……。
 見とれているのか考え込んでいるのか。多分半々くらいだっただろう。俺がぼうっとしている間に、彼が木の根元に寄せられたスポーツバッグに脱いだジャージの上下を几帳面に折り畳んで置き、その上にキャップとタオルを乗せた。立ち上がって半回転すると、俺の横に立ち、正面を向いたまま言う。
「先に言っておく。僕は速いぞ。ブラインドランナーとしては、だが」
「あ、うん……そう聞いてる。だからなかなか伴走者が見つからないって」
「期待はしすぎるな。きみよりは絶対に遅い」
「そりゃ、俺は視界がはっきりしてるから」
「今日はトラックを走る。ここから見ていても構わないが……トラックの中に入ってもらったほうがいいかもしれない」
「あ、はい。そうするよ」
「ではついて来て」
 短いやりとりのあと、彼は足を前に進めた。と、日陰から一歩出たところで立ち止まる。右手を目元にかざして、眉をしかめながら。
「少し日差しが強いか……」
「あー、さっきより晴れてきたな。眩しい?」
 時刻はそろそろ正午だろうか。ここを訪れたときより晴れ間が広がり、日光も強くなっている。おそらく赤司は羞明に見舞われている。俺でも少し光がきついように感じられるくらいだ。
「ああ。強い光は目に痛い。しかし、これくらいならすぐに慣れる。少し待ってくれ」
 しばらくその場で明順応するのを待っていると、そろそろ行ける、と声が掛かる。赤司は迷いのない足取りでトラックへと向かった。左右にぶれたりせず、ほぼまっすぐ最短距離で。いまは誰もトラックを走っていないので、接触の心配もなく内側へ入るとそこで足を止めた。不安定なところはない。本当に見えていないのかと疑いたくなるくらい。どうやって位置や方向をフィードバックしているのだろう。距離は歩数から割り出しているのだろうか。
 彼がトラックに立つと、気づいた部員が小気味よい走りで近づいてきた。先ほど俺が話しかけた女子学生の片割れだ。短髪でやや長身、スプリンターっぽい体つきをしている。あるいは跳躍競技か。彼女との間で打ち合わせが行われている様子だ。一分ほどして、彼女に誘導され赤司がスタートラインらしい位置につく。指示されなかったが俺も後を追った。女の子が伴走を? と思っていたら、彼女はトラックの内側に引っ込んだ。赤司と彼女と俺のほかに、周囲には誰もいない。
「え。ひとりで?」
「ああ。まずは単独での走力を見せたい。ここのトラックは走り込んでいるから、ひとりでも大丈夫だ。体がコースを覚えている。もちろんレース形式では無理だが」
 トラックに打ち込まれたロープには、小さな結び目がついている。赤司は靴の裏でそれを何度か踏んだ。これがスタート位置の目印のようだ。
「中途半端だが、三千メートルにしよう。これより短いと短距離っぽくなるし、単独で五千はきついから。中距離の走り方に近くなるが……スピード練習としてやろう。そのつもりで見ていてくれ」
「わ、わかった」
 ついさっき、ひとりで走るのは無理だと言っていた相手が、これから単独でトラックを周回するという。言動が一致しない気がするが、考えがあってのことのようなので、とりあえず疑問を口にするのはやめておいた。
 オン・ユア・マークス。あえてやっているらしいカタカナ英語の発音で女子部員が合図をすると、赤司がスタンディングスタートの構えを取る。スタートは笛の音を使っているようで、彼女はホイッスルをくわえた。ピ、と高い音が空気を切る。少しのロスもなく、彼は地面を蹴った。

*****

「ほ、ほんと速いな……」
 最初に赤司と会ったときの木陰に戻り、俺は驚嘆とともにそう呟いた。三千メートルを走り終えた赤司は、ジャージのズボンを穿き上着を肩に掛け、樹の幹にもたれかかって座っている。
 伴走をつけず単独でトラックを走った赤司は、かなり速かった。曲走路では目に見えて減速したが、ほぼ無駄なく正確に曲がっていた。補助に入った女子部員が音声で何週目か教えていたが、どこで曲がるかといった情報は特に伝えていなかった。見学する俺の前を通過するとき、時折トラックのロープを踏んでいたので、それで位置確認をしている様子だった。ルール上どう扱われるのかは知らないが、彼がひとりで走る上では必要な行為なのだろう。視覚情報を他の手段で補いながらの足運びなので、もちろん絶対的なスピードはそれほどではなかった。しかし、中堅の中距離選手に混じっても遜色ないと思える速さだった。三千は扱いが微妙な種目だが。しかし走力が優れていても、ポジション争いができなくてはレースにはならないから、彼が晴眼者に混じって走ることはできないだろう。
「言っただろう? 僕は速いと」
「ひとりであんなスピードで走れるってどういうこと……。あの……伴走なしのほうがいいんじゃ? めっちゃ普通に走ってるように見えたんだけど……」
 俺がおずおずと尋ねると、赤司はこちらへ顔を向けた。相手のいる方向は声で判断しているようだ。やっぱりちゃんと俺を見ているように思える。何を映しているのかと不安になる両の目をよく観察しなければ。
「確かにガイドランナーと一緒よりひとりで走ったほうが速い場合もある。距離と状況によるんだ。いまみたいにレース形式ではなくトラックを単独で走るだけなら、中距離であれば伴走なしでも大丈夫だ。合図などの手がかりは必要だが。このトラックで走るのは慣れているから、自分がどのあたりにいるのかだいたい把握できる。だから今日は特に助けがなくても走れたんだ。ただやはり神経というか集中力を使うから消耗が激しい。五千メートル以上はきついと思う。体力もそうだが何より集中力がもたない。距離というより時間の問題かもしれないが」
 木に体重を預け、顎を上向けて息を吐く。呼吸は整ってきているが、かなり疲労した様子だ。
「ひとりで長時間走るのって、どれくらいきついんだ?」
「どれくらいと言われてもな……。スピードが遅ければそう厳しくないが、速いとかなり怖い。だから精神的に疲弊する。恐怖心はストレスになるから」
「え、怖い?」
 その単語に俺は目をぱちくりさせた。怖い。およそ、この人の口から出てくる言葉として似つかわしくないと感じる。俺がきょとんとしていると、赤司が苦笑とともに説明した。
「当たり前だろう。運動していない状態でも、一メートル先に何があるのかわからない、というか、物があるのかないのかさえわからないんだ。それなりの速度で走りながら周囲や足元を確認できるわけがない。このレベルだと動体視力なんて意味がないしな」
「ええと……ど、どのくらい悪い――見えにくいんだ? 人の顔は全然なんだよな」
「明暗の区別はつく。それから、こうやって――」
 と赤司は自分の顔の真ん前に右手をかざし、ひらひらと振った。
「――目の前で何かが動いているのはわかる。指の本数を答えさせられたこともあったが、それは難しかった」
 この視力の表し方は知っている。通常の視力検査表では測定できないくらい弱視が重い場合に用いられる方法だ。手動弁といって、光覚に加えて目の前の手の動きがわかる程度の視力を言う。行政上、これは失明に含まれる。医学的な失明は明暗の弁別ができない状態だが、行政上や社会的な文脈ではもう少し範囲が広い。本人はロービジョンと言っていたが、その中でもかなり重く、失明に近い状態ということだ。それであれだけの走りができたとは、改めて驚かざるを得ない。
「視野は?」
「中心が少し黒っぽい。色覚も低下したようだ」
 彼はやはり平坦な口調のまま答えた。特に含みもなくあっさり回答してくれたのは、現在の状態を伝えるのは必要なことだと判断したからだろうか。
 自分と同じ年の、まだ若い青年が、かつて健康で才能と実力に溢れ輝かしい実績をつくっていたあの人が、失明? その事実が頭を駆けるたび、俺はじわじわとショックを感じた。たいした関わりのない相手でも、知っている人間の身に起きた不運というのはひとの心にそれなりに衝撃を与えるものらしい。話に聞くだけなら胸に留まらないかもしれないが、目の前に当事者がいて、そのひとから状況を告げられると、胸の奥やら頭の中やらがざわざわしてくる。
 どういう反応をするのが妥当なんだろう。俺は困惑に声を上擦らせながらなんとか言葉を口から出した。
「だ……大分不便そうだね」
「そうだな。いろいろ不便だ」
 なんでもないことのように赤司が言う。手持ち無沙汰なのか、キャップを右の人差し指に引っ掛けくるくる回して遊んでいる。
「その視力であんなに走れるのは驚きだよ」
「何事も訓練ということさ」
「たくさん練習したんだ?」
「ああ」
 遠心力に負け、キャップが指から離れ、空気抵抗で宙に舞った。赤司は手を伸ばして即座にそれを掴み取った
「慣れと訓練。それですべてが解決するわけではないが、できることはやっておくに越したことはない」
 キャップのつばを持ち、ぱたぱたと仰ぎながら赤司はちょっとだけにやっと犬歯を見せた。
 すっかり汗の引いた赤司は、おもむろに立ち上がると、器用にも肩にジャージの上着を羽織ったまま、木陰から日向へと変わる手前まで歩いた。光が顔に掛かりそうになっている。陽光が眩しいようで、額に手をかざす。キャップをかぶろうとはしなかった。視線の先にはトラックと、そこで練習中の大学生たち。彼の目には誰ひとり、何ひとつ映っていないに違いない。しかし彼は見ている。同じ陸上部の仲間が走る姿を。
 こちらに背を向けたまま、赤司が言う。
「心肺機能や筋力、体力を考えれば、僕はもっと速く走れると思う。だが、今日きみに見せたあの走りが限界だ――ひとりでは。誰もいないトラックであってもあれ以上のスピードは出せない。怖いんだ。安全だとわかっているトラックであの速さということは、路面の状態やコースが一様でないロードで走った場合はもっと遅くなるということだ。まあ、そもそもひとりでそんなことをしてはいけないんだが」
「赤司くん……」
 彼が立っていて俺が座っているという状況が落ち着かず、俺は何をしたいわけでもないのにその場で立ち上がった。その気配を察したのか、くるりと彼が振り返ってきた。
「だから伴走者が必要だ。僕はひとりでは走れない。だが、共に走る誰かがいれば、僕はもっと速く走れるだろう」
 あの赤司が、尋常でなく自尊心が強いであろう彼が、自分の中の恐怖心を吐露し認めている。自分に何ができないのか認めている。そして、それを可能にするために何が必要なのか告げている。求めている。俺なんかに。あの彼が。
 それはある意味で、とても気高い姿だった。
 くる、と彼がこちらに体を向けた。
「降旗くん。僕により速い世界を感じさせてほしい。僕と一緒に走ってくれないか。僕はきみと走りたいと思っている」
 すっと差し出される右手。逆光で彼の表情はうかがえない。その立ち姿は、輪郭が光に縁取られているようで美しかった。
 俺のほうへ向けられた彼の右手。握手を求めるようなかたちをしている。
 俺が取っていいのだろうか。彼の手を。触れてしまっていいのだろうか。この俺が。

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