目を覚ますと、指の間に何かが絡んでいる感触はなかった。それはそうだ、睡眠中は勝手に寝返りを打って体勢を変えるものだから、ずっと手をつないでいるのは難しいし、また体にとって不自然で疲れも取れにくくなってしまうだろう。拘束のない自分の左手を見て、寂しさがちょっぴり胸に染みた。眠ってからどれくらいの間彼の手を握っていたのだろうか。優しく絡められた指の、骨っぽく少し皮の厚い感触。外気に触れて少し低くなった体温。心身の疲労を癒すべく一晩ぐっすり眠ったあともはっきり思い出せるのがなんだか不思議だ。
でも、まさかこの年で他人と手をつないで寝るなんてなあ。前つき合ってた子とだってやんなかったよこんなこと。彼女割とドライだったし。……って、なんでここで元カノとの思い出を連想するんだよ自分。全然シチュエーション違うじゃん。いま何考えようとした俺の脳みそ。起き抜けで霞がかかったままなかば自動的に生じた己の思考展開のおかしさし胸中で突っ込む。と同時に、顔がカァッと熱くなったような気がした。ついさっき目覚めたとは思えないくらい血圧が上がっている気がする。え、なにこれレースの疲れ? いやそんな馬鹿な。でも朝っぱらからなんでこんなに心拍数上がってんの。拍動が内耳に響かんばかりの自分の身体状況に、しかし俺は健康への心配など微塵も感じず、というか心配という発想すら起きず、ただただ羞恥と焦燥に駆られた。なんでそんな感情が生じるのか理解できないまま、俺はなんとも恥ずかしくて気まずくて、ずいっと布団の内側に潜り込むと、毛布に体臭を付けようとする犬のごとく、もぞもぞとのたうった。動きとともにこの座りの悪い気持ちもどこかに発散されてくれというように。
俺が蓑虫みたいな格好でジタンバタンとせわしく転がっていると、
「光樹? 起きたのか?」
寝室の引き戸がすいっと開かれ、ジャージの上下に身を包んだ赤司が現れた。そこでようやく俺は隣の布団がとっくにもぬけの殻だったことに気づいた。まだ畳まれてはいないが、掛け布団もブランケットもベッドメイキング直後のようにかっちりと整えられていた。彼のほうはすでに一日のはじまりを迎えていたようだ。やべ、奇怪な行動を目撃されてしまった、と俺がぴしりと固まっていると、
「光樹? まだ寝てる……?」
彼は足元を探るような動きをしながら慎重に寝室へと踏み入れた。その様子に俺ははっとすると、慌てて返事をした。
「あ、ご、ごめん。起きてるよ。ちょっとぼけっとしちゃってさ。まだ自分の布団で転がってます。すみません……」
彼に自分の位置を伝えたあと枕元に置いた自分の携帯を確認すると、ディスプレイに表示されたのは月曜日、午前九時。すでに一週間のお勤めがはじまっている時間だ。あらかじめ有給をもらってあるので今日はのんびりできるのだが、職場の同じ課の仲間に負担を掛けることになったことをちょっぴり申し訳なく感じ、今日はあんまり忙しくありませんようにと祈っておく。
「ごめん、爆睡しちゃったみたい。すっかり寝坊だね。でも、そろそろ起きないとなー」
携帯を掴んだまま上半身を起こし、立ち上がろうとしたところでぎくりとする。うわ、これは……と嫌な予感がじわじわと背筋を上ってくる。俺は布団に手をつくと、そろりそろりと慎重に足を伸ばして立ち上がった。起きると宣言したあとの妙に長い沈黙と、その間ののっそりとした物音に察するものがあったようで、出入り口に立つ彼が小さくうなずいた。
「もしかして、体痛い?」
「う、うん……」
静止状態なら気にならないが、体を動かすと途端に体の内側に突っ張りというか引っかかりを感じ、次の瞬間に鈍い痛みが襲ってくる。筋肉痛。ありふれた症状だし、トレーニングに慣れたいまでも生ずることはあるのだが、体がぎしぎし軋むような感覚を覚えるのは久しぶりだ。痛み自体はそこまで強烈ではないのだが、自分の体が錆びついたぜんまい仕掛けの人形になったかのような動きにくさがある。
うお、懐かしい感じだ。でもバスケはじめたての頃よりはずっといいか。当時の全然体鍛えられていない体にカントクのしごきはきつかったなー。練習よりもその後の体の痛みが地獄だったよ……。あれに比べればはるかにマシってもんだよ、うん。
胸中で自分を励ましながら、関節の軋みが聞こえてきそうな脚を一歩一歩進めて戸のそばへ移動し、前に立っていると彼に伝える。
「大丈夫か?」
いつもはぺたぺた触ってくる彼だが、今日は手を掲げたところで躊躇を見せた。筋肉痛の俺を案じてのことだろう。
「まあ……動けないほどじゃないかな」
そう答えつつ、いででで、と情けない声を上げる俺。レース慣れしていなかった頃に戻ってしまったみたいだ、なんでだろ、鍛え方間違えた? と思ったところではたと気づく。そうか、ストレッチが不十分だったんだ。昨日はレース直後に彼が倒れたことですっかり狼狽してしまい、レース直後のケアが全然できなかったんだ。その後、彼が目を覚ましてからアイシングやストレッチは行ったのだが、早期ケアが抜けた代償はこうして体に返ってくるらしい。早期のクーリングダウンやストレッチの重要性を再認識する。しかし、俺はそれでもレース後に一応自分の脚で歩く程度の運動はしたのだが(移動のためであって意識的なものではないが)、彼はそれこそゴールのあとちょこっと前に進んだだけで、あとは担架で医務室に運ばれぐったり寝ていた。レース経験の浅さを考慮しても、彼のほうが体のダメージは大きかったはずだ。なのに彼はいま平然と、それこそいつもと変わらない佇まいで俺の横に立っている。筋肉痛、ないんだろうか。それとも表情に出していないだけだろうか。彼の視力が低いのをいいことに、不躾にまじまじ見つめてしまった。が、視線の気配というのは通じるようで、彼は眉根を寄せて首を傾げた。
「光樹? どうした? 歩くのつらい?」
「あ……いや、大丈夫だよ。顔洗ってくる。洗面所借りるね」
軋む体にきっと俺の顔はしかめられているだろう。彼の目にとらえられることはないとはいえへろへろの体をさらすのはやっぱり情けない気がして、水でもかぶって気を引き締めて顔に出さないようにしようと、俺はそそくさと洗面所に向かおうとした。が、彼の横を通過しようとしたところで呼び止められる。
「あ、光樹、待て」
「え? 何?」
「寝癖」
「ねぐせ?」
寝癖がついているという指摘だろうか。毎朝のことだからいまさら恥ずかしいとは思わないけれど。……いや、しかし、俺の髪に寝癖がついているかどうかなんて彼にはわかりようがないじゃないか。目で確認するまでもなく俺の寝癖など把握しているという意味だろうか。心配しなくても洗面所でちゃんと直すから、寝癖のまま出歩いたりしないのに。いままで彼のほうから指摘してきたことがない事項に、どういう意図だろう首を傾げていると、壁際に立つ彼が楽しげに、そしてかすかな好奇心をのぞかせながら唇の端をにっとつり上げた。
「触らせてくれる約束だっただろう?」
そういえば、ゆうべそんな会話をしたっけ。俺が彼の髪をドライヤーで乾かしているときに。頭髪の話題ついでに出てきた、言ってみれば世間話みたいなやりとりだったけれど、彼の中ではあの口約束は有効であるらしい。しかし、寝癖を触らせるってどんな約束だよ。この世でもっとも価値のない約束事ではないだろうか。俺は両手を持ち上げ自分の頭髪をわさわさと触ってみた。右側はしんなりしているが、左側に外ハネがついている。だいたいいつものとおりだ。どうも寝癖にもつきやすい部位や跳ね方の傾向というものが存在するらしい。無造作に跳ねた左の横髪を手の平で軽く押さえながら、こんなもの触ってもおもしろくもなんともないようなあ……と、期待してくれているらしい彼には悪いが心中で正直な感想を漏らす。俺が黙り込んでいると、
「なんだ、ひとには触らせられないくらいひどいのか?」
彼がますます愉快そうに口の端を持ち上げながら聞いてきた。視覚としてはほとんど機能を果たさない双眸は、しかし興味の光で満ちている。
「あ、や、そんなことないよ。ちょっと跳ねてるくらい」
いったい何がそんなに楽しみなのか、彼の心境の理解に苦しみつつも、別に減るようなものでもないので、俺は彼の右手を取ると、自分の左側頭部にやんわり触れさせた。ぽんぽんと軽く押さえられたかと思うと、後方に撫でつけられる動きを感じる。
「ほんとだ、跳ねてる。でも控えめだ。かわいい」
かわいいとか言われましても……寝癖ですよ?
基準のわからない「かわいい」に戸惑う俺とは対照的に、彼は寝癖の感触が気に入ったのかおもしろいのか、両手で俺の頭を挟むと、指を差し入れ髪の毛を梳いた。その手つきは優しく、また心地よさを与えるものだった。なんというか、ペットになって飼い主にかわいがられているような気分だ。人間としてそれはどうよと思いつつ、その気持ちよさに俺は知らず目を閉じていた。が、そう時間の経たないうちに彼は動きを止めると、顔を洗っておいでと俺に促した。もう撫でてもらえないのかと思うとちょっぴり名残惜しさを感じてしまった。しかし、すでにたっぷり寝坊させてもらったのだから、いい加減活動をはじめねばなるまい。俺は、じゃあ行ってきます、と返事をして改めて洗面所へとつま先を向けた。と、数歩進んだところで後ろから彼の声が掛かる。
「あ、寝癖はそのままで戻ってきて」
「え、なんで?」
妙な頼みに俺は足を止めて振り返った。彼は先ほどと同じ楽しげな表情のまま、とっておきの秘密でも告げるかのように思わせぶりにゆっくりと唇を動かした。
「僕が直したいから」
「へ……?」
「ゆうべきみに髪を乾かしてもらったから、今度は僕の番」
そう言って、彼は自分の髪にドライヤーをあてる仕草をした。なんだろう、ゆうべのお返しがしたいということか? やっぱり彼の意図は読めない。しかし拒否するようなことでもないかと、俺は「ああ、うん」とまだどこか眠たげな声音で適当にうなずくと、三度目の正直で今度こそ洗面所へ移動した。それにしても、彼に寝ぐせを直してもらうことをこうもたやすく受け入れてしまう日が来るなんて、考えてみれば不思議な話だ。半年くらい前ならまだ畏れ多さにびくついていたことだろう。人間慣れるもんだなあ、と小心な自分の中にも確かに存在するらしい生物としての図太さに感心する。彼が友好的な態度で接してくれているのが大きいのだろうけれど。
風呂場の脱衣所も兼ねる洗面所では、すでに低いうなりを上げながら洗濯機が回されていた。俺が惰眠を貪っている間、彼はせっせと日常生活を営んでいたようだ。申し訳ないことに。洗面台の鏡に映った自分の顔はまぶたが少し腫れぼったく、普段より多めの睡眠を取ったことがありありとわかった。寝癖は手で確認したとおり、左側の跳ねが目立つ。うん、どこからどう見ても起き抜けの姿だ。冷水で顔を洗うのはよくないらしいが、気分的なフレッシュを求めて俺はあえて湯の蛇口をひねらなかった。共用になって久しい洗顔で肌を軽くこすって冷たい水を掛ける。いつもの癖でそのまま頭を傾け寝癖の部分を濡らそうとしたところで、ついさっき彼に言われたことを思い出して止まる。おかしなことだが、今朝は寝癖を保存しておかなければならないのだ。よくよく洗面台を見れば、いつもなら所定の場所に掛かっているはずのドライヤーがなかった。すでに先手は打ってあるらしい。こんなどうでもいいところにまで熱意を傾けなくても、と少々呆れつつ、俺はタオルで水分を拭い、リビングへと踵を返した。
リビングでは彼がいつものようにソファの右側に座っており、手前のローテーブルの上にはすでにコンセントに繋がれたドライヤーと寝ぐせ直し用と思しき霧吹き、コーム、それからタオルが置かれていた。さあ座って。彼に支持されるがまま、俺はソファに腰掛けた。
「水つけるから、ちょっと冷たいと思う。まあ我慢して」
「オッケー。じゃ、お願いします」
シュ、シュと小気味よい音とともに霧吹きから細かな水の粒が降り掛かる。ミスト状のためか、あまり冷たさを感じなかった。根本をしっとりと濡らしたところでコームで髪の毛を梳かれ、余分な水分をタオルで軽く拭き取る。髪の毛は彼の指の間で細い房となり、ドライヤーの温風があてられる。水分が大分散ってきたところで、彼は手櫛のようにして指を俺の髪の間に滑らせた。指の腹が時折地肌を掠める。マッサージをされているような、撫でられているような感覚が心地よくて、
「んー……」
思わず鼻から息とともに声が漏れた。
「どうした?」
「や、ひとに髪触られるの、気持ちいいなって」
素直に感想を述べることに若干の気恥ずかしさを感じつつ、俺は彼のほうをちょっとだけ振り向きながら照れ隠しのようにえへへと笑った。
「そうだな。ひとの手とは心地いいものだ」
そう言って細められた彼の目は優しかった。ひとの手は心地よい――確かにそうかも。俺に触れる彼の手は優しくて心地よくて、触れるものに対するいたわりや慈しみが込められているように感じられた。なに自惚れてるんだか、とすぐに自分を戒めたものの、気分は満更でもなかった。
やがてドライヤーのちょっとした騒音がやみ、彼が両手でふんわりと俺の頭を押さえた。
「どうかな? 触った感じでは跳ねは治まったと思うけど、見た感じどうなってるかは僕にはわからないから、確認は自分で」
と、どこからか――おそらくはジャージのポケットから――コンパクト式の鏡を取り出し俺に差し出してきた。まったくもって用意のいいことだ。使用の機会の少ないであろうそれは、おろしたてのように表面のプラスチックが滑らかだった。俺は鏡を開くと目よりやや上方に掲げ、のぞき込むような上目遣いで頭部を映した。左右反転された鏡像を確認する。左右どちらにも跳ねはなく、きれいにまとまっていた。
「おー、きれいになってるきれいになってる。さっすがー」
「それはよかった」
ふふっと笑い合ったあと、彼は用具を片付けはじめた。俺が起きるのを待っていたのか、朝食はまだ摂っていないとのことだった。しかしすでに味噌汁はできており、ニラ玉のニラも切られボウルに収められていた。あとは冷凍の白米を解凍し、その間に加熱調理するだけという状態だ。
「なんか……全部やってもらってごめん」
結局この宿泊で楽をしたのは俺のほうじゃないのか? 朝起きてからの至れりつくせりに俺は若干の自己嫌悪で肩を落とした。
「いや、これくらい僕がやらないと。昨日はいっぱい世話をしてもらったんだから」
豆腐とわかめの味噌汁、ちょっとだけ醤油の利いたニラ玉、サラダ、納豆、きゅうりの漬物、そして白米が並べられた食卓を彼と向かい合いで囲む。いまが月曜の午前だと考えると、とんでもなく贅沢な時間に感じられる。相変わらず彼の手料理はおいしかった。
食事のあと、タイミングよく洗濯機が止まったので、せめて洗濯物を干すくらいはと仕事を回してもらった。彼は最初、自分で干さないと配置がわからなくて取り入れるときに困ると言ったが、俺が取り入れと畳みまでやるからと主張し納得してもらった。そうすると夕方まで彼のうちに留まることになると気づいたのは、すでにベランダに出て干しはじめてからだった。明日は普通に仕事があるのでさすがに二泊もするつもりはないが、それでもいささか長居しすぎかとちょっと不安になった。洗濯かごを持ってベランダから部屋に戻った折、キッチンを片付けていた彼に、今日は大学や仕事などで予定はないのかと尋ねてみた。さすがにストレートに、長居しては迷惑かとは聞けなくて。しかし彼は俺の心配を読んでいたようで、練習抜きできみとゆっくり過ごすのははじめてかもしれない、楽しみだよ、なんて気の利いた返事をくれた。社交辞令っぽさのないスマートな言い回しが自然にできてしまうあたり、やっぱりひとを惹きつける魅力のあるひとだなあとぽぅっとしてしまった。
朝食が遅かったので、昼食は一時半頃にしようということになった。いまはまだ正午前なのでまだまだ時間はある。気温は平年並みだが、天気は快晴で、雲のほとんどない青空が広がっていた。室内は空調を掛けていないが、南中に向かう太陽がもたらす光が窓から差し込み、十分な温かさを部屋に与えていた。そんな気持ちのよい日ではあるのだが。
「うー、さすがに体痛いや。レース後のこればっかりは慣れないなあ」
脚を中心に体のあちこちが軋み、とてもではないが日光の暖かさや秋の高い青空、窓からのぞく街路樹といった景色を楽しむ気にはなれなかった。痛みを堪えてストレッチを行ったあと、ぐったりとソファに沈む俺の横で、赤司はリラックスした様子で座り、ポチャッコのマグカップを傾けココアを飲んでいた。実渕さんが選んだ品の中では使い物になるほうだと、以前ぼやき混じりに説明してくれた。この家のキッチンにやたらとキャラクターものが多いのは概ねあのひとが原因のようだ。実渕さんはその手のコーディネイトが趣味らしく、一緒に買い物に行くとだいたい毎回余分なキャラクターグッズが増えてしまうということだ。マグカップはペアになっており、いま俺が両手で支えているココア入りのカップもまたポチャッコだ。
「今回は特に、レース直後に十分なストレッチやクーリングができなかっただろうからな、多分いつもより痛いのでは?」
「うーん……まあ、そうかも?」
あんまりぎゃいぎゃい騒ぐと、彼が自分がレース直後に倒れたことを気にするかと思い、曖昧に答えておいた。マグカップに唇を押し付けながらちらりと彼を見やる。特別ぴんと背筋を伸ばしているわけではないが、俺のように見るからにぐったり体重をソファに預けるでもなく、平然とした居ずまいだ。家事のあと一緒にストレッチをやったのだが、俺が痛い痛いと漏らす傍らで、彼は無駄口を叩かず体をほぐすのに集中していた。l
「赤司は痛くないの?」
「もちろん痛い」
当たり前のような即答が返ってくるが、まるで信憑性を持てない。
「涼しい顔してるように見えるんだけど……」
「痛い痛い言ってもすぐに治るわけじゃないし、動けないほどでもないからな、まあ我慢するしかないと思っている」
「まあそれはそうなんだけど……やっぱり痛いものは痛いよ」
俺にはポーカーフェイスは無理だよ、と口の中でもごもごと呟く。
「レース後は職場でもその調子なのか?」
「お客さん――市民の目がないところでは、事情を知ってる相手なんかにはマラソン走って筋肉痛だってぶつぶつ言ったりすることもあるかな。怪我や病気じゃないし、そもそも自分が好きで走った結果の状態なんだから、他人にぼやいてもしょうがないんだけど、でもなんかぼやいちゃうんだよなあ。……あー、いてててて」
職場で勝手に愚痴をこぼすのは、体が痛いのでいたわってくださいとかノロくても大目に見てくださいというアピールというよりは、単純に弱音を吐きたいだけなのかもしれない。言葉に出すだけで気分的にちょっとすっきりするというか。あるいは単にコミュニケーションの一環であるのかもしれない。とりあえずなんかしゃべっておくか、みたいな。社会におけるささやかな処世術と言えなくもない。
「軽く走りに行くか? 少し体を動かしたほうが回復の助けになるだろう」
「そうだね、あとで公園に行こうか。……夕方でいい? 世間体とかは別にいいんだけど、病気でもないのにみんなが働いている時間帯に有給もらって休んでるのにちょっと罪悪感が……。市が違うから、うちの職場の人間が真昼間にこのへんうろついてたりはしないと思うけど」
労働者の権利を行使することに罪悪感がつき纏うのは我が国の労働環境の問題点であり、以前から指摘され続けていることだが、俺が生きている間にこの問題は解消されるのだろうか。
「なんとも日本人らしい心意気だ。じゃあ、夕飯の下ごしらえをしたらにしようか。食べていくだろう?」
「いいの?」
「もちろん」
「じゃあよばれていくよ、ありがとう。あ、今日買い出しどうする? 野菜とかはストックはあるみたいだけど……」
冷蔵庫や納戸の物色は自由にどうぞと許可されているので、洗濯籠を戻すついでに納戸とキッチンに立ち寄り、少々拝見させてもらっていた。しばらく生活できる程度の品は揃っていたが、生鮮食品が足りないかもしれない。
「きみが構わないのなら、つき合ってくれないか。買い物は何かと煩雑だから、介助の手があると助かる」
「うん、じゃ一緒に行こっか」
「夕方は混み合って移動が不便だから、生鮮食品の選択肢は減ってしまうが、閉店に近い時間帯にしよう」
「それか、早めに行こうか? 昼下がりの中途半端な時間帯なら空いてるんじゃないかな。そのへんの時間帯にスーパー行くことってないからわかんないけど」
二時とか三時あたりなら空いてて歩きやすいんじゃない? 俺がそう提案すると、赤司が目をぱちくりさせる。
「真昼間から行動して、罪悪感は大丈夫か?」
あ、そういえば……。
「まあ……生活に必要な行為だし? 移動以外は店内だしね」
表メインで活動するわけじゃないから、と強引に理由をつける。
「じゃあ、早めに買い出しに行こうか。三時くらい?」
「うん、それくらいで」
昼食はチャーハンと温野菜で簡単に済ませ、夕飯は昨日和食亭で食べたから今日は洋食にしようとだけ決め、二時半過ぎに近くのスーパーまで徒歩で出かけた。魚売り場でカレイの切り身が打っていたので、メインはそれのムニエルに決めた。あとは温野菜の残りをクラムチャウダーに放り込み、ムニエルのついでに切りかけの状態で残っていた野菜をソテー風に焼いておいた。洋食ではあるが主食はやっぱり白米だった。ゆうべは食欲減退気味だった彼だが、今日はすっかり回復しており、過不足なくしっかり三食摂取した。俺も筋肉や関節の軋み以外はこれといった不調はなく、三食きっちり彼の手料理を味わうことができた。この調子でしっかり食事を取っていれば回復も早いだろう。
……と思っていたのだが。
*****
大会を終えた週の木曜日の夕方。俺は仕事から帰ると彼に電話を掛けた。さすがに今週末から練習再開なんて無茶なことをする気はないし、軽いランニングやストレッチなら俺が一緒でなくても大学の陸上部の練習の中で十分行えるだろうから、わざわざ週末一緒に体をならそうなんて誘うつもりではなかったのだが、これまでほぼ週二ペースで会って練習をしていたので、それがしばらくないかと思うとなんだか落ち着かない心地がして、その後の調子を尋ねるという口実のもと、連絡を入れたのだった。そうしたら、数コールののちにつながった電話口からは、びっくりするくらい濁った鼻声が返ってきたのだった。
「あちゃー、風邪ひいちゃったか」
彼は火曜から大学に出たとのことだが、水曜の午後に不調を感じはじめ、その後風邪症状が次々に現れたということだった。フルマラソンは肉体へのダメージが大きく、それは整形外科領域だけでなく、内臓や免疫系にも及ぶ。実際、レース後に風邪をひくランナーは多く、俺も過去何度か体調を崩したことがある。レースから二週間程度は免疫力が低下し、風邪などの感染症に罹患しやすくなる。彼は今回、その例に当てはまってしまったようだ。
『ああ。気をつけてはいたんだが、拾ってしまったようだ』
鼻から呼気が抜けないのだろう、ちょっと苦しげに声がくぐもっている。
「大分鼻声だね。最初聞いたとき、一瞬誰かと思っちゃった」
『喉より鼻に来ていてな、鼻水がうっとうしい。喉の痛みは治まったから、しゃべるのや食事は楽になったが……ゆうべ久しぶりに発熱してしまった。自分でもびっくりしたよ』
「え、大丈夫? いまも?」
熱を出したと聞いて驚く。本格的な風邪というか、いわゆる風邪の症状のメインディッシュがやって来てしまったらしい。
『まだ下がりきってはいないな。ゆうべは久々の高熱に参っていたが、いまは割と平気だ』
「ごめんね、そんなときに電話して」
『いや、今後の練習プランのこともあるし、きみの体調も気にはなっていたから、そのうち連絡を入れなければと思っていた。ちょうどいい』
「一人暮らしで熱出るとつらいよなー」
加えて視覚が利かないとなるとかなり心細いのではと思ったが、俺にはわかりようのないことなので、口の中に留めておいた。ただ、一人暮らしの身に体調不良がきついというのはよくわかる。熱でふらふらだろうが、頭痛腹痛に悩まされようが、自分のことは自分でしなければならないのだから。彼も一人暮らしは長いようなので、不調に沈むのは多分今回がはじめてではないだろうが、経験で慣れたところでつらいものはつらい。
『そうだな。食料の備蓄はあるから生活はできるが、高熱だと動く気力もなくなるからな』
「ゆうべはどうしたんだ?」
『食欲ないから食事をつくる意味もなかった。口当たりのいいものがほしくて、みかんの缶詰を開けて食べておいた。あとはスポーツドリンクを薄めて飲んだくらいか。エネルギーゼリーもあるが、競技柄やっぱり食傷気味だからな、みかんのほうが魅力的に感じた』
「とりあえず塩分糖分と水分が補給はできた感じか……。熱が高いと、滋養云々以前にとにかく食べられそうなもの食べておくしかないよね。一日くらいならいいけど……」
水曜の夜にみかんの缶詰を食べたとして、すでにほぼ丸一日経過している。その間、何を摂取して過ごしたのだろうか。大学は休んでずっと家にいるということだったが……。
『心配はいらない、さすがに今日はフルーツ缶オンリーなんて食生活じゃないから。一人暮らしをしてるんだ、インスタントや冷凍食品の買い置きには余念がない。防災バッグを漁るという手もある。たまには入れ替えないと行けないし』
俺の心配の内容にすかさず余さず回答をくれるあたり、意識はしっかりしているようだ。熱に浮かされているという印象もない。
「さすが、しっかりしてるなあ。……あ、病院は行った?」
『行っていない。風邪に特効薬はないし、レース後の弱った体で菌やウイルスの巣窟に足を踏み入れるのは危険だと思う』
「まあそうだよな……。病院行って別の風邪もらったら意味ないし」
風邪で病院を受診したらそこで別の感染症を拾ってくるというのは、しばしば耳にする笑えない話だ。免疫の落ちている身体にとっては、治療の場というよりむしろ悪化のリスクを多大に孕んだ空間と言えるかもしれない。
『きみは大丈夫か?』
「んー、実はちょっと消化不良起こし気味だったけど、まあどうってことはないかな。まだ油断できないけどね。赤司さあ、生活できてるって言ってたけど、いるものとかない? よかったら何か買って持っていくけど」
仮に視力が正常でも、熱でふらついていたら外出はつらい。買い出しには不自由しているだろう。スポーツをやっているためドリンク類やエネルギー食品、アイシング用品には困らないだろうが、それ以外にも必要な物はあるかもしれない。具体的にどういうものかはぱっと思いつかないけれど。体温計やマスクは常備してあるだろうし。食料品そのものより料理に困っているのではないかと思い、買い出しを口実に何かつくりにいくか、あるいはつくって持って行こうかな、なんて考え始めていたのだが、
『いや、大丈夫だ。気遣いだけもらっておく。大学の仲間もいるから、そのあたりはどうとでも頼れる。それに、きみだっていまは免疫力が落ちているんだ、うつしたら嫌だからいまは会わないほうがいい』
もっともな理由とともに遠慮を食らってしまった。うつすのが嫌だと言われてしまうと、押しかけるわけにもいかない。俺がまったくの健康体ならまだしも、いまは彼と同様病原菌への抵抗力が落ちている状態だ、不用意に接触するのは賢明ではない。俺も仕事がある以上、そうそう休めないから気をつけなければいけない。それに、俺が彼のもとに行くことで一緒に新たな風邪の菌を運んでしまう可能性もある。
「そうだね。お気遣いありがとう。でも、何か必要なことがあったら連絡してね」
『ああ、そうさせてもらうよ。ところで光樹、筋肉痛は治まったか?』
「あ、うん、まだちょっと関節が軋むような感じはするけど、痛くはないかな。動かしたほうがいいから、軽く走ったりはしてるかな」
『そうか。もう少し休んだら、練習を再開したい』
「うん。どのみちもうちょっと休養期間は必要だから、焦ることないよ。俺もいまはおとなしくしてるし。治ったら教えて。練習の話はそのときで。いまはゆっくり休んで」
『ああ、ありがとう、光樹。……またな』
「うん、それじゃあ」
病人相手にちょっとばかり長電話だったかと反省しつつ携帯を耳から離そうとしたそのとき、
『あ、ちょっと待て』
機械を通しより不明瞭となっている鼻声に呼び止められた。通話オフにしようと動きかけていた親指を慌ててとどめ、俺は相手の引き止めに応じた。
「あ、うん、何?」
やっぱり用事があるのかなと思っていたら、
『ちょっと遅れてしまったが、誕生日おめでとう、光樹』
「え……」
思わぬ言葉が電話越しに届き、俺はその場で目を見開いて固まった。
誕生日おめでとう。
……え、誕生日?
はっとして卓上カレンダーを見ると、特に印などはつけていないが、確かに俺の誕生日の数字が存在する。その日付はちょっとばかり前に過ぎてしまっていたけれど。自分でもすっかり忘れていた誕生日を唐突に祝われ、しかもその言葉をくれたのが赤司ということに驚いて、俺は少しの間沈黙に陥った。
『今月の八日だと聞いていたが、違ったか?』
「そ、そうだよ。十一月八日。知ってたんだ?」
あれ、誕生日の話なんてしたことあったっけ? 首を傾げる俺に赤司から説明が届く。
『レースの少し前にテツヤから激励?……といっていいのかわからないが、マラソンがんばってください僕は死んでも走りたくありませんが、的な内容の電話が来たんだ。そこでテツヤが、きみの誕生日が近いと言っていた』
「へー……黒子、ちゃんとひとの誕生日覚えてるタイプなんだ。マメそうに見えてズボラなのに、やっぱりところどころマメなんだなあ」
どういう会話の流れで俺の誕生日を教えることになったのかはわからないが、日数的に近ければ、なんとなく思い出したという理由で話題に出すこともあるかもしれない。
『今週来週は休養期間にあてることになるからしばらく一緒に練習する機会がないし、どのみちもう過ぎてしまったんだから、電話でもいいから言ってしまおうと思ってな。レースの日に、先んじて祝いの言葉くらい言っておこうかと思っていたんだが、僕がぶっ倒れてドタバタなんて事態になってしまったから、すっかり忘れていた。ま、あのとき言っていたら、それこそとんでもない誕生日プレゼントになってしまっていただろうが』
「あはは。いままでで一番のサプライズプレゼントかも?」
『悪い意味の、な』
彼が鼻声の中に苦笑を交えてぼそりと付け加える。
「確かにきみが倒れちゃったことはいいことじゃないけど……こうしてきみにお祝いしてもらえるのはいい意味のサプライズだよ。きみに誕生日おめでとうなんて言ってもらえることがあるなんて、考えたことなかったから。自分でも誕生日なんてほとんど忘れてるようなもんだし」
実際今年は完全に忘れてたし。書類に書くとき以外本気で意識しなくなっているというか無頓着が極まっている。
『日本人の男なんてそんなものだろうな。僕もさっきたまたま思いだしただけだし、今日電話をもらわなかったら完全に時期を逸してうやむやになっていただろうから』
言えてよかった、と赤司が電話の向こうで呟くのがかすかに聞こえた。たまたま思いだしたとは言ったけど、レースの日に言おうとしていたということは、以前から祝ってくれる気はあったということだ。俺はそのことを嬉しく思い、また少しだけ照れくさく感じた。誕生日なんて、すでに家族にさえ気にされなくなって久しかったから。
「あ、そういえばきみは誕生日いつ? もう過ぎちゃった?」
『いや、来月だ』
おお、すぐじゃないか。これは俺のほうもおめでとうのひとつも言わねばなるまい。いや、言いたい。
「そうなんだ。意外と近いんだね。十二月の何日?」
『二十日だ』
「クリスマスのちょっと前か。……覚えてられるかな」
正直、いまぱっと思い返しても友達の誕生日なんてほとんど思い浮かばない勢いだ、わずか一ヶ月ちょっと先とはいえ、記憶に留めておける自信がない。もちろんメモは取り、卓上カレンダーの十一月のカードを外し、十二月二十日に赤丸を打ってはおいたのだが……自室のメモ類は往々にして背景になりやすいものだ。
『忘れたら忘れたで構わない。自分の誕生日に関心がないのは僕も同じだ』
「でも、きみは祝ってくれたんだし」
『電話口で言っただけだ、それも遅れて。何か贈ったわけでもないし、気にしなくていい』
「でも、やっぱりおめでとうって言うくらいはしたいよ」
『まあ、期待しないで楽しみにしておくよ』
彼がプレッシャーのない緩い答えを返してくれる。俺は情けなくもそれをありがたく受け取った。
「そうしてください。その手の記憶力はまじで自信ないんで」
『ああ。それじゃあな』
「うん、またね。お大事に」
改めて挨拶を交わすと、今度こそ本当に通話を切って携帯をテーブルに置いた。
十二月二十日か……忘れないようにしなきゃ。そう思い鞄の中のスケジュール帳に手を伸ばしかけたところで、
「う……」
腹部に鈍い痛みが走り、前屈み気味に立ち上がってばたばたとトイレを目指す。彼には消化不良気味と言ったが、実はそれより少しばかり重症だ。といっても胃腸風邪ではなく、単に内蔵が疲れているだけだろう。彼と同じ理由で受診していないので断言はできないが。もし感染性の胃腸炎だとしたら彼にうつしてしまう可能性があるので、助力できないのは残念だが、風邪ひきの彼のもとに行かないという判断は正解だろう。
トイレから出てしっかりと手を洗い消毒を済ませると、俺はころりとベッドに寝転がった。たいしたことがないとはいえ、一人暮らしに体調不良はつらい。彼もいまこんな気持ちでいるのかな。彼が俺と同じような感覚を持っているかはわからないけれど。でもそうだとしたら、心細さを感じているんじゃないかな。何かできたらと思うものの何もできず、もどかしさを抱えたまま夜は更けていった。