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『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

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ランナーズ 2

――や、やっぱりすごいや。全然疲れてないね。
――きみもすごいと思う。
――え?
――きみがなかなかいい走りを見せるので、ちょっと遊びたくなってね、後ろからプレッシャーを掛けていた。ペースを徐々につり上げたんだ。きみが勘付かない程度に緩やかに。
――え、そ、そうだったんだ。どうりで距離の割に疲れたと……。
――きみは走るのがうまいな。
――うまい? (速い、じゃなくて?)
――ああ。僕にあれをやられたら、普通は途中で脱落する。誰かに指導を受けたのか?
――いや、特には。カントクにバスケのトレーニングの一環として教えてもらうことはあったけど、走ることそのものの指導は受けたことないよ。
――そうか。走るのは好きか。
――そうだな……好きだよ。短距離はともかく持久走は前は苦しいばっかで嫌いだったけど、走るのが日課になってくると楽しくなってきた。そりゃいまだってたくさん走れば体はつらいし苦しいけど、ひたすら前に進むことに集中していると、苦しいんだけど段々気持ちよくなってくるんだ。息はつらいし、足も重いのに、ただただ前に進みたくなる。そうやって何も考えずに走るのが一番好きなんだけど……漫然と走るのはただのオーバーワーク、怪我の元だってカントクに怒られたなあ。
――そうだな、走り過ぎは無意味どころか有害だ。
――あ、やっぱり。言われると思った。
――走り込みもいいが、短距離を複数回こなすトレーニングも取り入れた方がいい。持久走ばかりでは瞬発力がつかない。筋肉がやせてしまうぞ。
――カントクにも言われたよ。そんなに走りたいなら陸上部行けって、売り飛ばされそうになった。実際、二年の校内持久走、陸上部の中距離専門のやつを除くと、俺が一番速かったんだって。あれはちょっと嬉しかったな。
――それはまた……ずいぶんと熱心だったようだな。確かに、さっきもかなり速かったが。
――赤司くんがそれ言うかなあ。涼しい顔してるくせに。
――きみだってもう平然としているじゃないか。あれではぬるかったか? ではもう一度走ろうか。
――え? も、もう一度?
――嫌か? 体力的には余裕そうだが。いまの話を聞いて、手を抜かれていたような気さえするのだが。
――そんなことないよ。普通にがんばったよ。
――普通に、か。なんだ、つまりまだまだ余裕があるということじゃないか、降旗くん?
――……走ラセテイタダキマス。
――では走ろうか。さあ、行って。
――うえ!? また俺が先に走るの?
――きみの走りが気に入ったのでね。何か不都合が?
――いえ、そう言っていただけて光栄です……。

*****

 デジタル目覚まし時計のアラームが鳴る一瞬前にぱっちりと目が覚める。午前六時。体内時計は習慣として刻まれた起床時刻を正確に把握している。寝起きはよい。用を足し最低限の身支度を整えて水分だけ摂ったあと、ジャージ姿でアパートを出る。公園までジョグ。人のまばらなグラウンドに入ると、スピード練習をはじめる。時間と相談しながら切り上げて、帰りは遠回りをしてロードワーク。この時間が一番好きだ。前へ前へと進むたび、変わっていく景色。見慣れていても、変化の仕方はそのときそのときで異なる。動く背景に包まれながら、ぼんやりとした考え事が浮かびやすい時間でもある。
 今日は夢を見た。いや、夢は毎日見るものらしいから、起きたあとまで夢を覚えていた、というほうが正しいだろうか。しかし、見たという事実はわかっても、その内容はもう大分忘れてしまった。いまから思い出せるだろうか。
 自分の見る夢がカラーなのかモノクロなのか、俺は知らない。色についてはまったく覚えていないのだ。色に関心がないということだろうか。その何色なのかわからない夢の中で、自分は誰かと話していた。誰だ?……ああ、赤司だ。このやりとりは覚えている。過去実際にあったことだ。彼とまともに会話を交わした最初で最後の機会。とすると、あれは夢というより記憶の再生ということか。もちろん現実の出来事がそっくりそのままなぞられているわけではなく、一部は忘れ去られ、一部は改変されたり捏造されたりしていると思う。確か高三の冬のことだった。……そうだ、ウインターカップのときだ。よくわからないが、赤司と話をして、一緒に走ることになった、奇妙な出来事。とても不思議な時間だったので印象に残っている。多分、この夢は過去に何度か見ている。そんな気がする。悪夢ではない。というのは、あの思い出自体、特に悪いものではなかったから。確かに、赤司への印象は何よりもまず恐怖の二文字だし、あのときの会話は終始緊張していた。彼に後ろからぴったり追いかけられるようなかたちで走ったときのプレッシャーも半端ないものだった。だが、多分俺はちょっとだけ楽しかったのだと思う。何が? 多分、走れたことだ。勉強漬けの毎日の中、日課のロードワークを淡々とこなすのも嫌ではなかったが、あの日あのとき、緊張感をもって体に強い負荷を掛けながら懸命に走ったのは、とても気持ちよかった。心身ともにひどく疲れた。けれども名状しがたい心地良い疲労感には違いなかった。まさかあの人と一緒に走ってそんなことを感じる余裕があるなんて。だからあの日の思い出には強いインパクトが残っているのだろう。何年もたったいまでも、鮮明に蘇えらせることができるくらい。あの人に走りを褒めてもらえたのも、ちょっと嬉しかった。なぜか機嫌がよかったようだから、きっとリップサービスなのだろうけど。
 あれから年が明けて受験本番になった。センターは実力通りの結果、つまり悪くもないがよくもない微妙な点数に終わった。当初の計画通り、俺は第一志望の地元の私大に進学を決めた。まだ忙しい国公立受験者をよそに、俺は一足先にポジティブとはいえない冬の風物詩から脱出した。入学手続きの書類を出し終えたところで一気に気が抜け、残りわずかな高校生活を気楽に過ごした。半OBのような感じで時折部活に顔を出しながら。二月の終わり頃、卒業式まであと数日というある日、世代交代を終えた下級生たちと一緒にロードワークに出た。よく晴れていて、二月にしては暖かかった。もうすぐ春、という言葉がふさわしく。寒気の先の青空は、それでも冬にしてはさわやかだった。その晴天の下で俺は駆け出したくなった。
 前へ。もっと前へ。先へ。いまいる場所の一歩先へ。
 衝動的に足を速め、そのままひとりで気が済むまで走った。さすがに疲れて体育館に帰ると、後輩たちが呆れた視線を送ってきた。すっかり体がなまってたよ。そうぼやく俺に後輩のひとりがげんなりした表情を隠さなかった。
 思い出に浸っていると、いつの間にか予定していた時間をオーバーしていた。
「やべ」
 腕時計を確認して慌てる。必然的にスパートを掛け大急ぎで自宅に戻ると、ワイシャツにスラックスに着替え、ベルトとネクタイはカバンに突っ込み、朝食代わりにとペットボトルと固形食を引っさげて慌ただしく仕事に向かった。今日の昼は外食かコンビニか。夜は飲みの予定が入っているからコンビニしておこう。
 あれから何年も経った。大学を卒業し、幸運にも市役所に合格していたのでそこに就職した。実家からは遠いので一人暮らしをはじめた。ようやく新米を少し通り過ぎた社会人。環境はずいぶん変わった。バスケは高校までで辞めた。けれども走ることは続けていた。練習を積めば積むほど、タイムというわかりやすいかたちで結果が出るのがおもしろくなって、速く、速く、とよりよい走りを目指すようになった。努力が目に見えて現れるのに、ちょっと感動したりもした。それでなし崩しに長距離を走るようになっていた。陸上部には入らなかったので、ひとりでトレーニングをした。ただ、素人の闇雲な練習は怪我の元だ。負荷の大きい長距離走は特に。高校で誰よりも世話になったといえる先輩――カントクに相談すると、ちょっとびっくりしながらも、降旗くんには向いてるかもね、と言ってメニュー作成を引き受けてくれた。予想通り、ドSといっていい内容だった。俺は私生活と相談しつつ、抜けるところは手を抜いて、気楽に練習した。自分の手で測るだけでなく、客観的な記録を知りたいと思い、やがてレースに参加するようになった。市民マラソン。ハーフマラソンの場合もある。一番になろうという思いは特になく、レースでの競争にも執心しなかったが、順位は段々と上がっていった。陸上をやっていたわけでもない、専門のトレーニングを受けていない市民ランナーとしては上々の成績。もちろんセミプロと呼べるような人たちには遠く及ばない。言ってしまえば俺のは趣味なのだから当たり前だ。勝ちたいという意志は希薄だ。求めるのはより速く走ること。わかりやすい目標としては、自己ベストの更新と言えるだろう。それが俺の目下の目標だ。年を取ればやがてタイムは落ちていく。その前に、まだ体力の充実しているうちに、できるだけ上を目指したい。自分にとっての頂点を。
 とはいえフルタイムのごく一般的な社会人だ。練習時間は限られている。朝の短い時間と、業務終了後。時期によるが残業もそれなりにあるので、平日のトレーニングはあまり充実していない。もちろん仕事のほうが大切だ。空き時間をいかに活用して効率良く練習し、より速く走れるように持っていくのか。これを考え実践するのもまたひとつの楽しみだった。
 この日は一時間ほどの残業で上がることができた。ジョグをしたいところだが、先約があるのでそちらを優先する。接待ではない。旧友との飲みだ。一週間ほど前に黒子に誘われ予定を合わせた。黒子は小学校で事務をしている。なぜ教員にならなかったのかと尋ねると、人を観察するのと人に教えるのはまた別物だと、答えになっているのかいないのかよくわからない返事が返ってきた。とはいえ俺もなんとなく受けた公務員試験に運よく合格していまの職業を得たので、突っ込んだ質問はしにくい。就職の動機なんてぼやけている人のほうが多いに違いない。
 半年ぶりに会った黒子は、昔と同様影が薄くて、店のどこにいるのか探すのに一苦労だった。というより探せなくて、結局携帯で席の番号を確認した。暖簾のかかったボックス様の席の内側で、黒子は掘り炬燵みたいなちゃぶ台の前にひとり座り、お通しも水もなく座っていた。待っていました、きみがいないと注文も満足にできないんですから。文句でもなく開口一番にそう状況報告した黒子は、やっぱり相変わらず苦労している様子だった。
 居酒屋だというのにアルコール類は注文せず、烏龍茶やソフトドリンクを飲みながら、ちょくちょく好きなものを頼んで適当に分け合った。黒子はどうにも小食なので、支払いは傾斜を掛けて俺が多めに出すのが妥当だろう。半年の間にそれぞれ話題は溜まっていた。が、そんなビッグニュースもなく、仕事の苦労だのハプニングだの、そこそこかわいらしいといっていいレベルの愚痴が続く。実に社会人らしい。と、ここまではいつもどおりの流れだったわけだが。
「ばんそう……?」
 俺がいまだに長距離を走っているという、まあ定番の話題になったとき、ふいに黒子が、聞きなれない単語とともに俺に尋ねた。伴走の経験はありますか、と。俺は少しの間、ばんそう、の単語の意味がわからなかった。伴奏? いや、音楽の話はしていないし、俺達のどちらにも演奏の趣味や興味はない。走ること……伴走? そう漢字変換できたとき、ああ、と思い当たった。
「ってあれだよな、障害のある人が走るときに、その案内役で一緒に走るっていう。視覚障害の人が多いのかな? やったことなんてないよ」
 テレビのニュースでちらっとだけ見たことはあるが、経験はない。特に誘われたり依頼されたこともない。そういえばどういう人がやるんだろう。誰でもできるのだろうか。それとも特殊な訓練が必要なのだろうか。
 俺がぼんやりそんなことを考えていると、黒子が質問を畳み掛けてきた。
「興味ありませんか?」
「興味ないってこともないけど……あんまり気乗りはしないなあ」
 俺が正直に答えると、黒子がきょとんとした。非難するわけでもなく、ただ不思議そうに。
「なぜです?」
「いや……だって案内しながらだろ? 難しそうじゃん。下手なことして転ばせたり怪我させたりしたら気が重いし。それに俺、ひとりで気楽に走るのが好きなんだよ。ほかの人の責任まで負うのはちょっと」
 ひとりで走ることに慣れているし、ひとりだからこそ黙々と走ってこれた俺にとって、誰かと一緒に走るというのは気の引けることだった。目の不自由な相手に下手なことをして怪我をさせたら嫌だという恐怖もある。
「そういやずっとひとりで練習してるんですよね。陸上部にも入らず」
「いまでもカントクにメニューの相談はしてるけどね。マラソンは専門じゃないって文句言われるけど、なんだかんだで引き受けてくれてる。本来お金払わなきゃいけないクオリティだと思う。ありがたい話だよ。カントクありがとー!」
「なぜひとりで?」
「んー。はじめたのが遅かったから? 大学からだからさ」
 俺は大学で陸上部に入らなかった。スタートが遅かったからなんとなく入りづらいというのがあったが、単に時期逸したというのもある。入学時のサークル勧誘の波に揉まれる中、特別陸上をはじめたいとは思わなかったのだ。その時点でも毎日走っていた。が、走るだけで満足していて、競技への興味を持っていなかった。レースを意識したのはもう少し経ってからのことだった。結局大学では文化系の部活に所属して適当に過ごしていた。運動部に入らなかったのは、高校の部活の思い出があまりに輝いていて、どう足掻いたって比較してしまうだろうと感じたからかもしれない。
「降旗くんの大学は、陸上に特別力を入れているわけではないでしょう。入学時点でかなり速かったんですから、陸上部に入ってもよかったのでは?」
「そうかもしれないけど……まあ当時は長距離に対してそんな強い意識があったわけじゃなくてさ。それに……なんていうかな、ひとりでやってみたかったんだ」
 俺の答えに、黒子はまた不思議そうに首を傾げた。ごめんな、説明下手で。
「降旗くん、人嫌いじゃないですよね? バスケやってたくらいですし」
「そういうのじゃないよ。バスケはすげー楽しいと思う。ただ、バスケみたいなチームプレイだと、どうしても人数が必要になるから、やりたいときにできないだろうなって思って。学生のうちはいいけど、社会に出たらスポーツに割く時間は減るし、みんなそれぞれ仕事に就くから、会う機会も減る。結婚して子供ができたらなおさらだ。誠凛で黒子たちとバスケに打ち込んだのは、本当に、最高の時間だった。でも、それは学生だったからできたんだ。大人になって、合間合間の短い時間を活用して何かに取り組もうと思ったら、ひとりでできることがいいなと思った。ひとりでやって、成果がわかって、完結させられることが。就職したら、プロとか実業団に入らない限り、誰かに教えてもらうことなんてそうそうできなくなる。走るのはシンプルでわかりやすいじゃん? ひとりで黙々と練習して、それでいてタイムという物理的なかたちで容易に成果が測れる。コンマ以下を競う短距離と違って、長距離はそれがわかりやすいし、努力が反映されやすいとも聞くし。俺みたいな遅いスタートの平凡なランナーでも、やり甲斐はあるかもって思って。実際楽しいよ、タイムが縮んでいくのは。あと、体ひとつあればいいしね。まあ実際は、靴以外にもいろいろ入用なんだけどさ」
 俺がぐだぐだと理由について並べる間、黒子は特に口出しせず、ときどき相槌を打つだけだった。こいつは話を聞くのがうまいと思う。
「僕は絶対嫌ですけどね、長距離は。トレーニングならまだしも、走ること自体が競技なんてとんでもない。恐ろしくてなりません」
 ちょっぴり青ざめながら、うわ、と露骨に嫌そうな表情をつくって見せる黒子。演技も入っているが、長距離が嫌なのは本心だろう。その気持ちもわからなくはない。俺も昔は好きではなかったから。
「おまえ体力ないもんな。でも、やらず嫌いなだけだと思うぜ? 長く走ったら苦しいのは当たり前。そこを超えてより速く長く走れるようになると、おもしろくなる。そこに行き着くまでが大変なんだとは思うけどさ。機会があればウルトラマラソンにもチャレンジしたいなー。百キロくらい走るやつ。走りきったら気持ちよさそう。やるならクロスカントリーの練習入れたほうがいいかな」
 俺の呟きに、黒子が信じられないというように緩く首を左右に振る。
「降旗くんは地味にバケモノだと思います。僕の感覚からすると、マラソンなんて人間のすることとは思えません。ましてウルトラが付くとか。どこのスーパーマンですか」
「いや別に、完走するだけなら訓練でどうとでもなるし。年配の市民ランナーだってたくさんいるぞ?」
「市民マラソンを見ているとぞっとします。僕の周りにも人外がたくさんいるような気がして」
 おまえがそれを言ってもなあ、と俺は苦笑する。
「いや、実際いたじゃん。人外どもが。何人も」
 キセキの世代と同じチームでプレイしたやつが何を言う、と思う。それから黒子の相棒の火神だって同類だ。俺からしたら、黒子だってそれに準じていると思うのだが。
「でも考えてみると、降旗くんは長距離なら火神くんたちより才能ありますよね。彼らが同じ練習をしたら、多分足腰を壊します」
 確かに無理だろう。長距離向けに体をつくり直せば走れるだろうが、選手として長持ちはしない気がする。そもそも、あれだけ傑出したバスケの才能があったら、長距離を走る意味もないのだが。長距離に才能が必要ないということはない。何をするにしても適正は関係する。が、ほかの競技に比べて後天的な努力の比重が高い種目だとは感じている。努力できることが才能に含まれる――方便か気休めのような言葉だが、長距離走は結構当てはまると思う。生まれもった身体能力が幅を利かせる陸上競技の中にあって、その点では異質だ。だからこそ俺は長い距離を走っているのかもしれない。
「それは才能じゃなくて体格の問題だよ。あんま身長高いと向かないからな。背丈があるとどうしても体重が重くなるから。でもそのうち傾向変わるかもよ? トレーニングとか走法とかが改良されれば。まあ、紫原みたいなのがごろごろいるマラソンは想像できないけど」
「それは嫌ですね。怖すぎます」
「キセキの世代は軒並みでかいから、長距離向きじゃないよな。あ、いや、赤司は普通か。身長のこと言うの恐ろしいけど」
「……そうですね」
 赤司の名前を出したとき、黒子の手の中のグラスが、一瞬不自然に揺れたように見えた。やっぱり黒子も赤司は苦手なのかな、あのメンバーの中でも特に変わり種で怖いやつだからなあ、とそのときはそんなことを呑気に考えただけだった。
「あの、それで、さっきの話なんですが」
 と、そこで話題が戻った。
「伴走のこと? そういやなんでまたいきなりそんなことを? 誰かに頼まれたのか?」
「はい。今年うちの職場に来た若い先生からの頼みごとなんですが……その人の母校の大学に、視覚障害のあるランナーがいるんです。ブラインドランナーってやつですね。長距離走者で、トラックではなくフルマラソンやハーフマラソンなど、長距離のロードレースを希望しています」
「先天の人? 中途?」
「中途です。十八、九のときに失明に近い状態になり、その頃長距離走をはじめました。走るためには伴走者が必要なんですが、その、すごく優秀な方なんです」
 ほぼ成人してからの失明か。しかも若い。高校生か大学生の年齢だ。たくさんの未来を夢見られる時期だっただろうに。きつかっただろうな、と漠然と想像する。
「その子って、男の子?」
「はい、男の子です。その『子』って年齢でもないですけどね、僕らと同じですので」
「そうなのか」
「大学ですからね、年齢はまちまちです」
「それもそうか」
 なんとなく基礎情報を確認してからはっとする。これじゃなんか興味もってるみたいじゃないか……。
 しかし、自分が伴走をするかどうかは別として、黒子の話には少し興味を惹かれた。自分の知らないランナーの世界がどんなものなのか、好奇心が湧いたのだ。速いと聞けばなおさらだ。
「速いんだ?」
「はい。かなり。それだけでなく、とてもストイックにトレーニングに打ち込んでいて、誰も練習についていけない感じです。女性であれば、中堅の男性ランナーに伴走を頼めばなんとかなったでしょうが、男の子ですからね」
 伴走の世界は知らないが、それでも伴走者がブラインドランナーより高い走力を要求されるであろうことは想像できる。黒子の話からすると、その人の伴走者は中堅ランナーでは務まらないらしい。ちょっと待て、と思う。俺だってよくて中堅だぞ?
「で、俺にその人の伴走をしろと?」
 烏龍茶のストローをかき回すと、小さくなった氷がカラカラと小気味良い音を立てて回転した。
「降旗くん、速いし練習もきっちりしていますし、何より走るのが好きということで、お願いできないかと」
「いや、走るのも練習も確かに好きだけどさ、単独で走るのと伴走じゃ、要求される能力が違うんじゃないか?」
「そうですね、主役はあくまでランナーであって、伴走者は彼らの目です。僕はやったことがないので聞きかじりに過ぎませんが、何より一緒に走るという意識が大切なのでしょう。ただタイムを求めたり、逆に『走らせてあげよう』と意気込むことよりも」
「俺、ひとりで走るのが好きなんだけど」
「食わず嫌いかもしれないじゃないですか。降旗くん、仲間思いだし、チームプレイ好きですよね。三年間とはいえ、一緒にバスケやってた時間は濃いですから、降旗くんがひとと一緒に何かするのが好きだし得意だってことを、僕は知っています。僕らはそれにずいぶん助けられたんですから。試合でも練習でも」
 しれっとひとを持ち上げるようなことを言いやがって、黒子のやつ。
「う……な、なんか照れること言うなよ。っていうかおだてるな。断りにくくなるだろ……」
「はい、そのための作戦です」
「おまえなあ……」
「まずは一度、やってみませんか。向いているかいないかは、やってみてから決めてみては。ある程度トレーニングしないと伴走というかたちにならないかもしれませんが、チャレンジするのって大切だと思います」
「言っとくけど、仕事に差し支えるようなトレーニングは無理だよ? 俺ただの社会人だもん。アマだもん。お仕事優先」
「それは向こうもわかっています。その上で、一度一緒に走ってみてほしいとのことなんです」
 黒子が俺にメニューを押し付けつつ、勝手に注文コールのボタンを鳴らす。そういう魂胆か、とようやく理解する。
「ちょっと待って。もしかして、もうそういう話ができつつあるの?」
「はい。あとは降旗くんを説得するだけです」
「……あー、それで今日、飲みに誘われたわけだ。……よし、今日は何が何でもおごるぞ」
「ご飯はありがたくちょうだいします。でも諦めませんよ、僕は」
 追加で頼んだのは、やっぱりノンアルコールのドリンクと、枝豆や冷奴といったローカロリーのもの。黒子は重い食事は好まないし、アシが車なので飲酒はできない。俺は帰りは黒子に送ってもらうことになっているが、アルコールはあまり摂取しないことにしている。健康オタクではないが、気は遣っている。体重が重いと負担が大きくなるから。なのでいまの俺はバスケをやっていた高校時代より明らかにやせている。事情を知らない昔の友達が見たら、過労やストレスを心配されるくらい。黒子も運動量が減ってやせたといっていたが、多分同じくらいか俺のほうが少し軽いだろう。意図的にコントロールしているわけだが。とはいえ、トレーニングの強度によってはむしろ体重の減少に注意を払わなくてはならない。大会が近くなり距離走の練習を多めにしていたとき、体重が短期間で明らかに減って驚いてカントクに電話したのは悪い思い出だ。くどくどと説教された挙句、栄養バランスを考え抜いたというカントクお手製の食事を食べさせられそうになった……。
 やっぱり普段から健康に気をつけた食生活を送っているんですか。えらいですね。アスリート意識を感じます。僕なんて実家出て以来超自堕落ですよ。見てくださいこの力こぶ(と、細い二の腕をさらして見せる)。火神くんとはちょくちょく連絡してるんですけど、まず最初に聞かれるのは、ちゃんと飯食ってるか、ですよ。お母さんですかあの人は。いえ、僕が悪いんですけどね。毎回ろくな答えを返さない僕が。降旗くんはほんとえらいですね。きちんと自炊して、しかも栄養バランス考えたレシピを研究してるんでしょう?
 黒子はなおも俺を持ち上げつつ、陸上の話題へとつないでいった。これは根負けしそうだと薄々感じながら、俺は顔だけはつっけんどんを保ってぼそりと尋ねた。
「そのブラインドランナーって、どんな人なんだ?」
「視力が正常なら間違いなくトップアスリートになるであろう実力者です。体は健康で、元々別のスポーツをやっていて鍛えていたので、身体能力も優れています。陸上に転向したのは目を患ってからです。降旗くん同様、スタートは遅かったわけですが、短期間で非常に伸びています。視覚障害への適応を含め」
「おい。そんなすごい人に俺をあてがう気か。冗談じゃないぞ」
「速いと言っても、きみよりは大分遅いです。タイムがいまいちなのは、彼に合う伴走者がいないのが一因なんですが」
「そりゃ、俺は目が見えてるからね。土俵が同じならその人のがずっと上なんだろ?」
「それはわかりません。確かめることも試すこともできませんから。ただ、実際問題として、彼にはわずかな視力しかありません。脚はまったくの健康でも、ほとんど見えないがために、ひとりで自由に走ることはできないんです。一緒に走る人が必要なんです」
 身体能力に恵まれている人物のようだ。実力がありながら、視力がきわめて低いという一点の制限のために、それを十分に発揮できないということか。もどかしいだろうな、と思う。タイム以前に、力いっぱい走れないことが。自由に走れないことが。俺は、走りたいだけ、走れるだけ走ったあとにやってくるあのなんとも言えない気持ちのよい疲労感と満足感を知っている。彼はそれを味わえないのか。
「それは……なんか残念っていうか、もったいないなあって思うけど」
 なんとなく同情のような気持ちが湧いてしまった。ブラインドの部分にではなく、同じランナーとしての部分に。
「でしょう? 僕も残念に思います。だから降旗くん、お力添え願えませんか? きみなら彼の走力を引き出せると思うんです」
「いや、それはどうだろ。俺はあくまで普通の市民ランナーだぞ? 若くて体力あるからちょっと速いだけだよ。それに、速ければいい伴走者になれるわけでもないだろ」
 結局閉店時間までぐだぐだと言い合った末、俺はなかば押し切られる格好で黒子の話を受けることになった。それでも半分くらいは俺の興味や意志が反映されている。話を聞いているうちに、その人の伴走者として走ってみたいという気になったのだ。黒子の口八丁の賜物にすぎないのかもしれないけれど。

*****

――前言撤回していいかな。
――え?
――きみはバスケを辞めたほうがいいかもしれない。
――ま、また唐突に言うね……。なに、俺そんなに駄目駄目なの? きみから見て?
――いや、才能がないからというのを理由にする気はない。それは競技そのものを辞める直接の理由にはならないと僕は考える。
――……じゃあ、なんか別の理由が?
――走ってみる気は?
――いや……いまのいままで走ってたんだけど……。もう一回はさすがに勘弁してください……。
――ほかに適正があるのなら、そちらに能力を向けるのもいいかもしれないと思ってね。
――赤司くん……?
――とはいえそれはきみの自由だ。いまのは戯言だ。忘れてくれて構わない。きみは自由に選ぶといい。きみはそれができる側に立っている。

*****

 黒子と久しぶりに会った翌週の週末、俺は聞きなれない名前の私立大学へと足を運んだ。共学で、男女比もそれほど偏ってないようだが、どちらかというと女子向けっぽい印象を受ける。言葉は悪いが、あまりレベルの高くない女子学生の花嫁修業場みたいな趣だ。特にスポーツが強いわけではないが、伴走のボランティアを行なっているということだ。黒子が話していたブラインドランナーはここに在学している。自分で想像していたよりも行動が速かったのは、黒子に強引に渡された交通費が落ち着かなかったからだ。俺ら公務員じゃん、大丈夫? みたいな不安がある。もちろん黒子はきっちり計算して過不足なく封筒に入れてくれていたわけだが、手元に置いておくとどうにもそわそわする。なので必要費として消化すべく、さっさと来てしまうことにしたのだった。
 はじめて入るキャンパスだが、案内板をまじまじと眺めるまでもなく、グラウンドの場所は知れた。トレーニングウェアで構わないということだったので、ジャージ姿にスポーツバッグという、なんとも学生くさいスタイルだ。道行く人には、多分ここの学生のひとりだと思われているだろう。もっとも、土曜日のキャンパスは人足がまばらだった。グラウンドはごく普通の運動場で、競技場のような整備された専用のトラックはなかった。まずは黒子に指示された山村という学生を探す。グラウンドに入る手前の木陰で話をしている女子生徒に話しかけて尋ねると、話は彼女たちにも伝わっていたようで、そのひとりが走って彼を呼びに行ってくれた。程なくして山村くんがやって来た。……が、ここから俺が思っていたのとは少し話が違ってきた。俺はてっきり山村くんがブラインドランナーなのだと思っていたが、そうではなく、彼は陸上部の副部長で、伴走ボランティアの取りまとめを行なっている人物だという。背が高くランナーっぽい痩せ型、短髪でさわやかな印象の彼は、体育会系らしく、わずかに年上の俺に対して恭しく礼をしてきた。そういうノリは久々だったので、俺のほうがちょっと萎縮してしまった。山村くんは忙しいらしく、申し訳ありませんが詳しい話は当事者(つまりブラインドランナー)本人としてくださいと、またしても頭を下げながら言った。どうも明日、隣の小グラウンドでなんらかの催し物があるらしく、部活とイベントの調整にあたっているようだ。俺も社会人で、いきなり知らない誰かと話すことには慣れているので、大丈夫、気にしないでと答えた。ただ、山村くんは最後にちょっと変なことを付け加えていった。「お知り合いみたいなので、話は通りやすいかと思います」
 どういうことだろうと訝りつつ、彼が指をさして示した方向へ進む。
 あの木陰で休憩中の人……帽子をかぶったまま寝ているあの人、あれが降旗さんに伴走を依頼した人です。視力がかなり低く、人の顔の区別がつかないので、まずは声を掛けて名乗ってあげてください。正面からであっても、いきなり触ったりするとびっくりさせてしまうかもしれません。
 山村くんの指示を思い出しながら、木陰で寝そべる男子学生に近寄る。背丈は俺と同じくらいだろう。水色のトレーニングウェアの上下を着て、紺の帽子を被っている。膝を山折りにした状態で仰向けになり、折り畳んだタオルを顔に掛けた姿は、棒高跳びの女王を彷彿とさせた。性別も種目も異なるが、なんだかそういった種類の風格を感じる。トップアスリートの気質、みたいな。
 もしかして本気ですごい人なのか? 早くも気圧されそうになりながら、俺は彼の右横に立ってから膝を折ると、山村くんに言われたとおりまずは話しかけた。
「あの、すみません。俺、降旗っていうんですが」
「うん?」
 タオルの下から声がする。眠っていたわけではないらしい。当たり前か。
「あの、伴走の話をもらった者です。降旗光樹です」
「ああ、失礼」
 手を地面につき上体を起こす。ぱさ、とタオルが彼の膝に落ちた。続いてキャップを取る。遮光目的で被っているのなら取らなくていいのに。初対面の相手に失礼だと思ったのだろうか。と、帽子の下から現れた顔に、俺は驚いた。
「え……きみ……」
「降旗くんか?」
 彼は少し視線を彷徨わせてから俺のほうへ顔を向けた。
「は、はい」
「久しいな。三年のウインターカップ以来か。あのときはお互い選手ではなかったが」
「あ、覚えて……」
 確かにあのときの場面は変な会話に変な行動が詰まっていたから、覚えていてもおかしくはない。が、彼が俺とのやりとりを覚えていたことに感動のような何かを覚えた。この人の記憶に俺なんかが残っていたのかと。そして同時に思う。その話題を出すということは、目の前の彼はあの人に違いないのだろうと。
「赤司くん……だよね。どうしてここに?」
 その名前を口にするとき、どうしても緊張した。はじめて会ったときの、とてもではないがよろしいとは言えない思い出と、最後に存外平和的に交わすことができた一連の会話が交錯する。彼はどういう本質をもった人なのだろう。困惑し、それがまた緊張を呼ぶ。
 改めて見ると、彼は確かに赤司、その人だ。髪型は多少異なるが、その顔を忘れるはずがない。面影は十分残っている。というか、あまり面差しに変化がない。高校生だと紹介されれば、知らない人は信じるだろう。俺もあまりひとのことは言えないのだが。
 会うのは何年ぶりだろう。元々、数えるくらいしか顔を見る機会のなかった人物なので、これといった懐かしさも感慨もない。ただ不思議と、久しぶりという感じがしなかった。最近夢を見たからだろうか。彼と最後に交わしたやりとりの夢を。
 赤司征十郎。キセキの世代をまとめていた、バスケットボールの天才のひとり。その彼が、なぜこんな場所に。ここは無名大学のグラウンド。スポーツという以外に接点がなさそうに思える。それでも、屋外と屋内という違いがある。
 混乱する俺に、彼は端的に答えた。
「ここの学生だからだ」
「え」
「ついでにいうと陸上部だ。だからグラウンドにいる。いまは休憩中だが」
「り、陸上? きみが? あの、バスケ、は……?」
「いまはランナーだ」
 短い回答。その言葉の裏側は、現在はバスケットプレイヤーではないという意味を含んでいるのだろうか。
「あの、ここにいるの、きみだけ、だよね?」
「ここ、とは?」
 俺がおずおずと尋ねると、彼は困ったように首をすくめた。このときはまだ、彼が指示語の示す位置や範囲をスムーズに把握できないことを知らなかった。
「このへんの日陰。俺、今日ちょっと人に会いに来てて、さっき山村くんて子に、ここで寝そべっている人がその人物だって言われたんだけど……」
「ああ、彼の案内か」
「きみ、この大学の陸上部なんだよね」
「そうだ」
「あの、なら、俺が会う約束してる人が誰かわかる? なんか行き違いがあったのか、結局誰なのかわかんなんくなっちゃって」
 まさかその人物が赤司だなんて想像するはずもなく、俺はすっかり戸惑っていた。一方彼は、事情はわかっているとばかりにふっと息を吐いた。
「もちろん知っている」
「どこにいるのかな?」
 俺がきょろきょろと周囲を見回すと、赤司が答えた。
「ここだが」
「へ?」
 頓狂な声を上げて目をしばたたかせる俺に、彼が微笑みかけてきた。
「こちらから依頼したというのに、来てもらって悪い。ようこそ、降旗くん。きみを待っていた。歓迎する」
 と、赤司が俺のほうへ右手を差し出す。数秒、意図がわからなかった。
「え?……依頼主って、きみなの?」
「そうだ。よろしく」
 もう一度、強調するように右手を俺の前に出す。握手を求めているのだとようやく理解した。妙に畏れ多い気持ちになりながら、俺は彼の右手を握った。
「あ、はい……よろしく」
 と、とりあえず相手につられるように挨拶をしてから疑問が再燃した。いったいこれはどういうことなんだ?
「え、でも……俺、視覚障害のある選手の伴走を頼まれて、とりあえず顔合わせって聞かされてたんだけど」
「そうだよ」
「そうだよ、って……」
 まさか、と俺は固まった。赤司は自分の胸元に人差し指を向けながらはっきり付け加えた。
「きみに伴走を依頼したそのブラインドランナーが、僕ということだ」
「え!? ブラインドランナー!? きみが!?」
「そうだ」
 赤司がブラインドランナー?
 ということは、いま俺の眼前にいるこの人物は、目が見えていないというのか? 赤司の目が?
 言葉を失った俺に、赤司が微苦笑を漏らす。
「目を悪くしてね。走りたいんだが、ひとりでは無理なんだ」
 すっと目を伏せてそう告げる彼の表情はひどく穏やかだった。これといって苦しげでも投げやりでもない声音。ただ淡々と、事実を述べるだけ。
 あの日の赤司の口調と同じだ。俺はそう感じた。



 

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