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『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

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ランナーズ 14

 残暑見舞いが行き交う時期にはなったが、日の長さを除いてはまだまだ季節は夏真っ只中で、熱帯夜も続いている。水曜の夜、練習を終えて俺のアパートに戻ると、いつもどおり俺が仕事帰りに買ってきた惣菜二品と白米、インスタントの味噌汁、温野菜、それから冷凍しておいたささみ肉を塩胡椒でシンプルに焼いただけのメインを食卓に並べた。この時期は何かと食べ物が傷みやすく、前日の残り物を夜まで置いておくのは怖い。味噌汁も小鍋にいっぱいつくってしまうと、冷蔵庫に保管しておかねばならずスペースを浪費するので、夏の間、汁物はインスタント頼りになる。そのため平日の食事はシンプルになりがちだが、食中毒の危険性を減らすことを優先しているので仕方ない。俺ひとりでつくって食べるだけならまだしも、ひとに提供する食事でそのような事態を引き起こしたら大変だ。平日に時間が取りにくいのは赤司ももちろん理解しているので、食事のバランスについてあれこれ文句をつけられたことはない。それは休日に彼が泊まっていくときも同じだが、休日はなるべく手づくりが多めになるようがんばってはいる。週末に赤司宅に泊まるときは、きっちり栄養バランスが考えられていそうな手料理が並ぶので、俺のほうもあまり手抜きはしたくない。最近は一緒に食事をする回数が増えたこともあり、レパートリーの問題から丼物偏重も解消されつつある。持ちやすくて、中身がこぼれにくい深めの小鉢があると助かるんだけど――以前、やや浅い大きめの皿に少しだけ食べ物を残したまま赤司が遠慮がちに言ったことがある。多分、その食器では彼には食べづらかったのと、料理の残量がわかりにくかったのだと思う。多少学習した俺は、ごめんとは言わず、じゃあ次からそういうのに容れて出すようにするよ、と答えた。食器は一人分以上の揃えはあったが、いざ赤司が希望するようなものを念頭に置きながら棚を探すと案外ふさわしいものがなく、休日にホームセンターの安物陶器市まで足を伸ばして物色した。二人分購入する必要はなかったのだが、ふたつでセットになっているものも多かったので、結局自分の分まで買ってしまった。食事の用意のとき、この皿は自分用でこっちは赤司用……と分けるのも面倒なので、手間を省くための投資ということで。食器にこだわりがあるほうではないが、揃っていたほうがなんとなく食卓の見栄えがいい気がする。まあ俺の自己満足にすぎないわけだが。小ぶりなキティのマグカップを発見したとき、つい手にとってしまった。表面の猫のイラストに指の腹を這わせ、刻みつけられたインクの微妙な隆起を確認する。俺にはさっぱりだが、彼の指先なら絵のかたちがわかってしまうだろうか。ちょっぴりいたずら心をくすぐられたが、キャラクターものは若干値が張るし、第一マグカップはすでに四つもあるので(貰い物で増えていくのだ)、無駄に収納スペースを圧迫することはあるまいと、思い留まった。赤司のマンションと違い、俺の部屋は狭いのだ。空間さえ省エネを追求せねば。
 新しく増えた揃いの食器を洗い終えると、もう少ししたら風呂入れよー、と言いながら部屋に戻る。ついでに現在の時刻も告げて。言葉ではっきり取り決めをつくったわけではないが、入浴に関してはゲストが先でホストが後、という暗黙の原則ができている。赤司は慣れた動作でベッド下に置かれたプラスチック製の収納ケースの一番右を開けると、手前に収められたTシャツをハーフパンツを取り出した。何枚か預っている彼の衣類はこの場所に収めるようにしており、彼にもそれを伝えてある。部屋着のほか、翌日の練習着や登校・外出用の私服も何枚か置いてある。なんとなくマナーとして下着は毎回持ってきては持ち帰っているが、それ以外の嵩のある衣服は洗濯後そのまま預かることになっている。なのでそれなりに収納スペースが必要なのだが、だいたい同じ量というか嵩の俺の衣類が現在赤司の家に出張しているので、互いの服が一部入れ替わっただけで、必要な空間の大きさ自体は変わっていない。だから収納グッズについては新しく購入することはしていない。彼が風呂に行っている間に、俺はテーブルを部屋の隅に寄せると、客用の寝具を用意した。年に数回しか押し入れから出る機会のなかったそれらは、ここ二ヶ月ほど大活躍だ。用意といっても真夏なので敷き布団にシーツ、その上に厚手のコットンのシート、そしてタオルケットと枕くらいしか出すものがない。さっさとセッティングすると、俺はベッドに転がってテレビを見た。特に見たい番組はなかったが、適当にリモコンをいじって局を選ぶと、習慣のように垂れ流しにしておいた。若者のテレビ離れそのものに、番組の視聴自体には熱心でなく、正直現在のラインナップもあまり把握していない。それでも一人暮らしの部屋の静けさと寂しさを紛らわすBGMとしては役に立つ。というかテレビの存在意義の第一はBGM装置だと思うようになった。入浴から赤司が戻ってくると、布団を敷いたこととテーブルを寄せたことを伝え、入れ替わりで俺が風呂に向かった。湯船は張らずシャワーのみだ。さっとひと通り髪と体を洗って出る。赤司のマンションと違いうちは古い1Kのアパートなので、脱衣所に該当する空間が存在しない。そのため風呂の一歩外はいきなりキッチンだ。異性ではないので神経質になる必要はないが、一応のマナーとして、キッチンに相手の気配がないことは確認する。これも暗黙のルールとして、相手の入浴中はキッチンにできるだけ立ち入らないことになっているので、そう気を遣う必要もないのだが。
 キッチンで水分を補給してから部屋に戻ると、赤司はストレッチでもしていたのか、布団の上で右脚を伸展させていた。俺が風呂から出たことはすでに物音でわかっているので、こちらを向いてお疲れと声を掛けてくる。
「光樹」
 と、赤司がちょいちょいと手招きをした。
「ん? どうしたの?」
「寝る前にちょっといいか」
「いいけど。どうした?」
 彼は一旦右脚を引っ込めて胡座をかくと、いましがた自分の右の踵が置かれていたあたりを示した。
「向かいに座ってほしい。あ、少し距離を取って」
 話でもあるのかと訝りつつ、俺は布団の上に腰を下ろした。自室で使っているテーブルを間に挟んだときよりも少し遠めに距離を取る。
「ええと……これでいいのかな? どのくらい離れればいい?」
「脚を僕のほうに伸ばして。思いきりじゃなくていい。軽く膝が曲がるくらい」
 炬燵で脚を伸ばしたときのイメージを浮かべながら、俺は彼の指示通り足先を彼に向けた。胡座をかいている彼の足につま先がぶつからないよう気をつけて。
「こんな感じでいい?」
 ストレッチの誘いなのだろうかと考えていると、
「よし捕まえた」
「え?」
 赤司の手が俺の右足の甲を探るように触ってきたかと思うと、右手でつま先から土踏まずを、左手で踵からくるぶしに掛けての部位をがっしり掴まれた。
「え? え? なに?」
 驚く俺に、しかし赤司は何の説明もなく、右手の親指の腹を俺の足の裏に押し付け、ぐっぐっと圧力を加えてきた。くすぐられているわけではないが、人肌の感触と体温が伝わり、かすかなこそばゆさが生まれる。
「ちょ、あ、赤司? な、ななな、なに!?」
 俺が素っ頓狂な声を上げると、赤司がぴたりと手を止め、呆れ気味の苦笑を漏らした。
「そんなにうろたえなくてもいいだろう。足つぼを押してるだけだ」
「あ、足つぼ? え、マッサージ的な?」
「そんな本格的なものじゃないよ。勉強も訓練もしていないし。ちょっと触るだけ。知識を聞きかじっただけの、素人の興味だよ」
「は、はあ……」
 鍼、灸、按摩マッサージ指圧といういわゆる三療に就いている視覚障害者は多い(というか、それ以外の職業選択の幅が非常に狭いということだが)ので、友人や知人に教えてもらったというような背景があるのだろうか。彼の交友関係は大学の陸上部以外把握していないのでさっぱりだ。国家試験による免許が必要なはずだが、リラクゼーションなどの名を関して民間でも似たようなサービスがある。いや、実際は全然違う種類のものなのかもしれないが、後者の類は訪れたことがないので比較しようがない。まあ、家族や友人間で肩叩き感覚で行うだけなら免許は不要だろうから、素人と自称する彼が他人の足をちょっといじるくらい問題ないだろう。医療行為だといちゃもんをつける余地がないわけではないだろうが、なかなかぶっ飛んだ言い分にはなると思う。なので、足つぼを押されるくらいは構わないといえば構わないのだが……
「な、なんかくすぐったいんだけど……」
「まあ、他人に足の裏触られたらそうだろうな」
「ってか、い、いいの? きみにマッサージ?……みたいなことさせちゃって。風呂あがりとはいえ、その……足の裏なんてそんな丁寧に洗ってないし」
 このひとに何やってもらってんだよ! と胸中で自分に突っ込むのを抑えられない。赤司に思いっきり足向けちゃってるよ。いいのこれ、許されるの? いや、向こうがそうしろと指示したのだから、むしろこうしていることこそ従順なのだけれど……でも、足なんて。汚いよ。風呂から出たばかりだが、正直ナイロンのボディタオルで気休め程度に擦っただけなので、清潔な気がしない。なにばっちいもん赤司に触らせてんだよ……。しかし、最初に大学でお試しの伴走を行ったときには、うっかり転びかけたあと、心配してくれた赤司に洗ってもいない足を診てもらったのだから、そのときに比べれば大分ましだ。うん、清潔度でいえばいまのほうがずっといい。とはいえ、それを全面的なリラックス要因とできるほど神経の太い俺ではない。布団に尻をつけて座っているもののまったく落ち着かず、終始小さく身じろぎしている。それはもちろん赤司の手の中にある右足にも伝わる。
「なんだ、ずいぶんそわそわしているな」
「だ、だって……なんか悪いなって。足触らせるなんて」
「水虫をうつす心配でもあるのか?」
「え、い、いや、それはないと思うけど。爪も普通の色してるし」
「なら問題ないだろう」
「えー、でも……」
 外部からのくすぐったいわけではないが、なんだか足の裏がむずむずしてたまらず、俺は右足を引っ込めたくなった。しかし彼の手の中にがっちりホールドされているので動かせない。それが余計に焦燥のような感覚を生むという悪循環だ。まったく落ち着かない俺に、赤司が手を放す代わりにとでもいうように提案してきた。
「じゃ、きみもやってくれ」
「へ?」
 赤司は左手で俺の足首を掴んだまま、右手を布団について自分の体重を支え、あぐらを崩した。そして自らの右脚を俺のほうへそろりと伸ばしてくる。いま俺が彼に向けて右脚を放り出しているのと同じような格好で。つまり互いに片足を相手に向けて座っている。対象である俺の体との距離を探るように測りながら、彼のつま先が近づく。やがて親指の側面が俺の左膝に当たった。その脚は何かを促すようにつんつんと俺の腿をつついた。
「頼めるか?」
「え、お、俺が? 赤司に?」
 これはつまり、俺も赤司に足つぼマッサージ的な行為を施せということなのか? 知識なんてまったくないんだけど。戸惑う俺に、赤司が名案だろ? とでも言いたげに、わざとらしく人差し指を斜め上に向けてぴんと立てていた。
「これならギブ・アンド・テイクになるだろう?」
「え、えーと」
「水虫が怖い? 皮膚病にはかかっていないはずだが、心配か?」
「いや、そんなこと思ってないよ!」
 彼の足を触るのに嫌悪感があってためらっているわけではないと、俺は自分の左膝のすぐ近くに置かれた彼の右足をとっさに握った。外出時には常に靴に包まれているであろうくるぶしから下は元の肌色のままで、日焼けした彼自身の下腿や俺の手と対比すると、ずいぶん白く映った。大きさは普通、というか身長に対して妥当なサイズだろう。靴のサイズは、メーカーや個々の品にもよるが、概ね俺より〇・五大きかったはずだ。幅は広すぎず狭すぎず、厚みも普通。人間の足の形状の平均なんて知らないが、いろいろな既成品に合わせられそうな、癖のないかたちをしていると感じた。土踏まずのアーチはなだらかで、足の甲は皮下脂肪の薄さにより薄青い静脈が盛り上がるように浮き出ていた。大きさや幅よりもこの静脈のくっきりとした隆起が、男性の足であることを雄弁に語っている。爪は白の下に薄いピンク色が透けて見え、健康的だった。クーラーの冷気のためか、足先は少しひんやりしていた。風呂あがりの俺の手はいつもより熱く、触れているところから体温が奪われていくのが心地よかった。彼からしたら熱が伝わってきて不快かもしれないけれど。
「え、えと……じゃあ失礼します」
「じゃ、お願いします」
 いまさらのように芝居じみた挨拶を交わすと、俺は左脚を曲げたまま少し膝を浮かせ、内腿で彼の足を軽く支え、両手で包み込むようにして触れた。お互い右脚を伸ばして相手に預けているので、少々不安定な体勢だ。相手の足を掴むことでバランスを取っている節もある。彼の足を掴んだものの、正しい押し方なんてわかるはずもなく、俺は首を傾げて動きを止めてしまった。と、彼が顔を上げ、僕の真似をしてみて、と指示をくれた。真似をするとはつまり、赤司が触れた自分の足の裏と同じ場所を押せとということだろう。彼は親指の付け根あたりを手の親指で緩やかに押していた。だから俺も彼の足指の付け根に弱い圧を掛けた。
「肉刺のあとがあるな」
 押す動きから表面を指の腹で擦るような動きに変わったのは、マッサージではなく皮膚の感触の確認だったのかもしれないが、動作の模倣を念頭に置いていた俺は、その動きも真似して、彼の足の裏を擦った。肉刺はなるべくつくらないよう気をつけているが、過去に幾度ができたことがある。潰してしまったこともあれば、治るまでトレーニング強度を落としたこともある。
「あ、うん。何度かできたよ。赤司もあるね。陸上で? それともバスケ?」
「どちらもあるが、主に陸上だ」
「そっか。俺もそんな感じ」
 長距離走は長い時間同じ姿勢で同じ動きを繰り返す。もちろん徹頭徹尾同一動作の繰り返しではなくリズムやペースによって差は生じるが、基本的には『走る』という動作であり、高負荷の掛かる場所は限局される。つまり長時間同じ部位に負担を掛け続けることになり、身体の組織が摩耗される。肉刺ならまだしも、ときに疲労骨折のような骨格の故障を招く。慢性的な故障に悩まされるトップランナーは少なくないが、それだけ身体への負担が過大であるということだ。一介の市民ランナーの俺はいまのところ故障と呼べるような怪我はなく、またそれほど体のケアに気を配ることもなく、気楽に走っていられたが、伴走を引き受けたいまは自分の故障や体調不良がダイレクトに彼の走りやトレーニングに影響するので、もう少し気をつけなければと思う。……思っているだけで、現実には半年前の生活習慣とたいして変わっていないのだが。仕事が忙しかったり帰りが遅かったりすればコンビニ弁当になるし、相変わらず野菜ジュースは活躍しているし、寝不足だってままあるし、十分なストレッチを行えない日もある。ただ、赤司と合同で練習する必要性から、トレーニングのスケジュールは単独での練習も含め以前より計画的に行うことを意識するようになった。ロードワークのやりすぎをしばしばカントクに指摘されていたので、抑制を心掛けるようになったのは、副産物的ではあるが改善された点と言えるだろう。まあ、ストレス解消と称して漫然と長時間走り回ることはいまでもあるのだけれど。伴走のおもしろさを知り、もっともっとと追求しているいまも、やはりひとりで走っているときにふと訪れる、肉体の苦しさを通り越してやってくる気分のよさを、俺の脳は麻薬のように覚えている。その感覚の虜になるランナーはきっと少なからずいるだろう。あの独特の気持ちよさは、走っているとき、走り続けたときにしか味わえない。走っていないいま思い出そうとしても、心地よかったという事実が蘇るだけで、どのような感覚なのかは想起されない。また味わいたいと思うと同時に、俺との走りで赤司がそれを得ることができるのだろうかという疑問が少しだけよぎった。伴走を受けているブラインドランナーがランナーズ・ハイに至ることはあるらしいが、俺の伴走はそれを実現するに足る水準に到達するだろうか。……そうなれたらいいな。いや、そうする、と表現したほうが意志が固い感じがしていいかな。俺は何かと保険を掛けたがる正確だから、断定的な言い回しは苦手なのだけど。
 今後の走りに、彼との走りに思いを馳せながら、彼に揉まれる自分の右足の感覚を追い、それを標に彼の足の裏を弱い力で押していたのだが、
「――痛っ! 赤司、そこ痛いっ!」
突然、前触れも予告もなく鋭い痛みが足から脳に伝達され、俺は小さく悲鳴を上げた。土踏まずの真ん中あたりをぐいっと押し込まれたとき、反射的に下腿を跳ね上がるような痛みが生じたのだった。いまの何? 目を見開き沈黙という名の言語で尋ねる俺に、赤司がちょっと驚いたように首を傾げた。
「そんなに痛かったか?」
「うん、すげー痛かった。な、何したんだよ?」
 責めるわけではないが、唐突な痛みを与えた相手に少々疑心暗鬼になる。負傷させられるかもと恐れたわけではなく、単純に、痛みの理由がわからず困惑しているというだけだが。
「そんなに強い指圧を掛けたわけではないが……内蔵に疲れでも溜まっているか?」
 独り言のように呟きながら、赤司が同じ部位を先ほどより少し弱めた力で押してくる。
「う、そこやめて、痛い……」
「やっぱり痛いのか」
 俺の制止を聞き入れてくれたのかは知らないが、赤司は指圧をやめると、今度は労るようにその場所を指の腹でさすった。
「そこ何のツボ?」
「十二指腸だと思ったが」
「十二指腸?」
 というとあそこか、胃と小腸の間にある短い腸。胃とともによく潰瘍になる器官というイメージだ。いまのところ異常を感じたことはないが、性格的に緊張しやすいし、それが身体にも出やすいから、器質的な強度はともかくとして、心理面からのダメージを受けやすいかもしれない。でも子供の頃からの経験だと、胃が痛くなるよりは、おなかが下ることのほうが多かったような。
「ちなみに胃はこのへんだったと思う」
 今度は一応の予告を入れてから赤司が先刻より少し上の部位に指圧を加えた。一瞬の鋭い痛みのあと、痺れのような不快感が足を覆う。
「つっ……う~、痛いってほどじゃないけど、なんかじわじわ来る」
「消化器が弱り気味か?」
「ううむ……暑いせいかなあ。別に食欲落ちてるわけじゃないけど」
 俺は赤司の足から左手を離すと、自分の上腹部に持って行き、胃のあたりを手の平で押さえた。最近を顧みても消化器系の調子が悪いといったエピソードは思い当たらないのだが、自覚症状がないだけで、多少疲れていたりするのだろうか。腑に落ちないものを感じつつ、
「……なあ、同じとこ押してもいい?」
 左手を彼の足の裏に戻し、土踏まずの中ほどに親指を当てながら尋ねる。
「ああ、やってみてくれ」
「えと、このへんだよね。……どう?」
 爪が皮膚に食い込まないよう慎重に指の腹を押し付けぎゅっと指圧を掛けてみたが、赤司は眉をぴくりともさせない。
「鈍く痛む。が、多分圧力によるものだろう。どちらかというと気持ちいい」
「えー? 俺、びっくりするくらい痛かったんだけどなあ……」
「仕事のストレスじゃないのか? 市役所は窓口業務も多いだろう」
「あー、そうだね。いろんなひとがいるよ」
「公務員は風当たりが強いだろうしな」
「ごもっとも」
 ふふ、と俺が苦笑とともに肩をすくめると、赤司はお疲れ様と言いながら俺の足の裏を指先で軽く押したり揉んだりしてくれた。これくらいの力なら、先ほど痛みを感じたエリアを押されても平気だった。むしろちょっと気持ちいい。やってもらってばかりでは悪いと、俺は赤司の手つきを真似てやんわりと彼の足の裏を指の先で押さえた。
「きみが足つぼに興味あったなんて意外だよ。科学的エビデンスがどうのって言っちゃうタイプかと思ってた」
「科学的根拠がなくとも、経験則から導き出される法則性や因果は当てになるということだ。風水なんかもそういうものだし。まあ、だからといって素人が気軽に手出しするのも考えものだろうが。生兵法は怪我の元というし」
 答えながら、赤司は再び俺のつき踏まずの上部を一点集中とばかりに押してきた。加えられる力そのものはさして変わっていないのかもしれないが、圧力が掛かる面積が狭いので強く感じられる。
「痛っ! また胃のとこ? あかしー……手加減して」
「だから怪我させないよう優しくしているつもりだが? さほど強く押された感じはしないと思うが」
「そうだけど……場所によってはすげー痛いんだよ」
「そんなに? 足の故障はないだろう?」
 俺の呟きが聞き捨てならなかったのか、赤司がにわかに俺の足の裏と甲を両の手の平で包み込み、優しくさすってくれた。くすぐったい。でも人肌が掠める感触が気持ちいい。
「そのはずだけど。っていうか、そういう整形外科的な痛みでもないような。卒論で肩がビキビキに凝ったときの痛みみたいな。……そんなに胃腸、疲れてるかなあ」
「ほぼ毎年だが、今年も猛暑だからな。生活しているだけで体に緩やかなダメージはあるはずだ。勤め人は何かと多忙でストレスフルだろうし。……では今日のところは僕がサービスしようか」
 にやりとした笑みとともに飛び出す彼からの申し出。これは断れない、断ってはいけない。本能的にそう判断する。しかし相反して嫌な予感しかしない。俺は声を上擦らせた。
「や、優しくしてよ?」
「怪我をさせるような真似はしない」
 じゃあ足を替えようか。上向いた赤司の指先がちょいちょいと動かされるのを合図に、俺は右足を引っ込めて膝を曲げると、指示通りおずおずと左脚を彼のほうへ伸ばした。ちょっと失礼、と内心で断りを入れながら、彼の左の膝頭を足の親指でつつく。これで位置がわかるはずだ。彼は迷わず俺の左足を掴むと、次の瞬間、
「いたたたたたたっ! ちょっ……言ったそばから痛くするとかっ!」
 土踏まずに強い指圧がやってきた。来ると思った! 絶対やると思った! 予想していたので驚きはしなかったが、痛みにはやっぱり声が出てしまうものだ。
「いじわる」
「こういうの、痛いくらいが気持ちいいだろ? 痛気持ちいいっていうじゃないか」
 確かに、凝り固まった筋が伸ばされるときのような痛みには解放感的な気持ちよさが混じるけれど……
「そりゃ気持ちいいっちゃいいんだけど……びっくりするからあんま痛くしないで?」
「善処しよう。僕のほうも左足頼む」
 まったくもって信用ならない返事を返しながら、彼は右足を折り畳むと、今度は左足を俺のほうへ寄越した。静脈の走行が違う以外はぱっと見の左右差はなく、きれいなかたちをしていた。しかし右足と同じく、足の裏は皮膚が硬く、肉刺の痕でわずかにごつごつしていた。甲側の涼やかさに比べると、なんとも泥臭い印象だ。でも、これがランナーの足かと思うと、格好のよいもののように感じられた。もっとも引っ込めた自分の右足の裏側をまじまじと観察しても、なんか小汚いなあ、としか思えないのだが。
 ほおずきの実を揉みほぐすようななんともぬるい力加減でお互いに足の裏やら指の間やら踝の下やらに指をあてていった。足つぼを押しているというより、ゆっくり撫でているような動きだ。大学の教養の講義で視聴したDVDに出てきた、キリスト教の洗足式を連想した。手順や意義は記憶にないしナレーションは声さえ思い出せないが、ぼうっと見ていただけの映像はなぜか鮮明に蘇らせることができた。別段感銘をうけたわけでも何かのインスピレーションを得たわけでもなく、講義で見たきり忘れていたというのに、不思議だ。
 ふいに、テレビから流れてくる音楽が変わったことに気づいた。ずっと垂れ流しにしていたのだが、音楽も効果音も人がしゃべる声もすべてひっくるめてBGMとしてしか認識していなかったので、何の番組が流れているのかいまのいままで知らずにいた。俺の入浴中に赤司が見ていたのだとしたら多分夜のニュースだろうが。イメージに違わず、彼はニュース番組を選択することがもっとも多い。しかし意外とトーク番組を楽しむ感性も持ち合わせているようで、赤司の家に泊まって風呂を借りたあとリビングへ戻ったら、彼が『新婚さん』の録画を真面目に見ていた姿には驚いた。録画してまで観たいほどなのかと。
 テレビ画面を見ると、中央にひとり四十歳前後のスーツの男性の上半身が写っており、下に太字のテロップが出ていた。最初の予想通りニュースのようだ。映像が切り替わり、研究施設らしき建物が映り、続いてテロップそしてアナウンサーの声が、失明、視力の再生、というような言葉を伝えてきた。俺は少しだけ目を見開いてテレビに注目した。
 視覚障害者に人工的に視力を取り戻す方法として、人工眼が開発され、その被験段階が進んだというものだった。視覚を代替する人工装置の研究開発の話は耳にしたことがあるが、実用段階に至ったと聞いたことはない。被験段階だと言っていたから、まだ一般に普及させられる状況ではないのだろう。テレビの中では、装置付きのゴーグル上の眼鏡をつけた白人女性が診察室とも実験室ともつかない部屋で椅子に座り、医師か研究者あたりと思しき男性の質問に英語で答えていた。アナウンサーの説明によれば、眼鏡に取り付けたカメラから得た視覚情報を眼に埋め込んだ電極に送り、電気信号として視神経に伝えるというようなものだった。医学的なことにも工学的なことにも明るくないが、現在すでに実用化されている人工内耳の視覚版のようなシステムだろうか。あれは内耳に電極を埋め込み、外側の取り外し可能な装置から得た音を送るというやり方だったと思う。
「へー、人工眼かぁ……人工内耳に比べると、目のほうの人工装置の話ってあんまり耳にしないと思ったけど、やっぱり開発は進んでるんだ」
 思わずぼそりと呟いてしまったが、先に赤司のほうに顔を向ければよかった。俺より彼のほうが関心のありそうな話題だ、その分反応や感情も複雑かもしれない。××動物園で象の赤ちゃん生まれたんだって―、と日常会話を振るのと同じような感覚で切り出していい話題ではなかっただろうか。眼球の動きだけでちらりと彼を見やる。彼は俺のアキレス腱やくるぶしの隆起を指でなぞりながら答えた。
「視覚のほうが処理が複雑だし、人間は視覚優位だから処理すべき情報量も聴覚より多いはずだ。その分、実用可能な水準に技術を引き上げるのに時間もコストもかかるのだろう」
 話題に応じた返事が帰ってくるということは、彼もニュースの内容を頭に入れてはいたようだ。不用意にプライバシーに踏み込むのが怖くて、俺は自分の興味とはずれるが当たり障りのなさそうな方向性で話を続けた。
「確か人工内耳は普及してもう二十年くらい経つんだっけ」
「現在のところもっとも成功している人工臓器ということだ。もちろん、内耳以外の部位が障害されていたら適用できないが。聴神経障害に対して聴性脳幹インプラントなんてのもあるらしいが、普及しているのかな。中枢にいくほど技術的な対応が難しいようだが」
 彼は俺のアキレス腱から指を上方へ這わせ、ふくらはぎをきゅっと揉んだ。もはや足つぼ押しの範疇を超えているが、延長線上の行為ではあるので、互いに何も言わなかった。俺も彼のふくらはぎあたりまで触れたほうがいいのだろうかと考えつつ、口の動きは会話の流れに合わせる。
「いまやってる人工眼ってのは、末端のほうの目の病気に対してかな? さっきちらっと出てた被験者の患者さんたち、網膜の病気だって紹介されてたような気がする」
「網膜色素変性症だな。中途の視覚障害の原因では上位に来る」
「そういえば聞いたことあるかも」
 病態についてはあまり知らないが、病名のとおり網膜に何らかの変性が起こって視力が低下するのだろう。緑内障、糖尿病網膜症に次ぐ中途失明の原因だったと思う。赤司をちらりとうかがうが、それ以上何か付け足す気配はなく、テレビに関心を向けるでもなく、俺の足に触れている。多分彼はこの病気ではないのだろうな、と漠然と思った。リアクションが希薄というのも推測の要素ではあるが、記憶を探ると、時期が合わないように思えるのだ。網膜色素変性症は進行がかなり遅い。黒子によれば赤司が失明に近い状態になったのは十八から十九の頃で、そうだとすると、高校生の時点ですでに相当視力が低かったことになる。出場自体しなかった高三のウインターカップではそのとおりだったように感じるが、同じ年のインターハイでは問題なく活躍しハイレベルなプレイを見せていた。それからわずか数ヶ月で試合を観戦できないほど(これは当時の状況を鑑みた上での俺の推測にすぎないが)視力低下を来したことになるが、さすがに進行が速すぎる。ウインターカップでバスケ可能な視力が失われていたのなら、夏の時点でもすでに同程度の視力になっていたと考えるのが妥当だが、インターハイでの彼の姿を思い出すに、その可能性は低いというか限りなくゼロだろう。だから、彼の失明原因は別の病気、あるいは外傷だと思われる。原因疾患ないし怪我が何であるのか気にはなるが、眼病の種類や症状なんてほとんど知らないし、俺が疾患を特定する意味もないので、詮索はしていない。彼が俺に情報を伝えないということは、第一にはその必要性がないと判断しているということだろうが、もしかしたら、あまり話したくないという気持ちもあるもかもしれない。
「俺が定年になるまでには一般にも出回るかな。そしたらいずれは助成対象になるんだろうな」
「行政上の扱いが気になるか。職業病だな」
「あー……まあ、そうだね。医療的なことはよくわかんないっていうのもあるけど、やっぱ自分の仕事に関わりそうな側面が真っ先に気になっちゃうかな」
 ちょっとだけ嘘をついた。嘘というよりは取り繕いだが。このニュースを聞いて最初に気になったのは、赤司の視力を回復させる手段はないのだろうかということだった。多分彼は、俺がそう考えたことをとっくに見抜いているだろう。その上で自分に関する発言を積極的にしてこないということは、やはり語りたくないのだろうか。自分でうっかり話を切り出しておいて、どこに着地点を持っていけばいいのかわからない。個人ではなく一般的な方向で、と考えながら口を開く。
「これ、失明したひとが視力を取り戻すことについて言及してるってことは、先天性のひとには適用できないってことなのかな」
 ニュースの被験者はいずれも中途失明の人たちで、先天性の視覚障害者はいなかった。たまたま今回の被験参加者に該当する人がいなかっただけなのかもしれないが。
「先天盲として育った場合、視覚野に外部刺激がないまま脳が大人になってしまうから、ある程度の年齢になってからはじめて光を入れても、視覚情報をうまく処理できず、実用的な視力にはならないだろう。何の疾患かは忘れたが、実際に先天性の視覚障害を成人後に手術で治療した例があるとのことだが、芳しい結果にはならなかったと聞く。リハビリの困難さもあり、そのひとは結局見える世界に適応できず、見えない世界のほうに安寧を見出したらしい。すでに普及している人工内耳も、先天ろうで育った成人にはあまり有効でないという話だし。幼児期に手術すればその後の訓練次第でかなりの程度まで聴覚を使えるようになるらしいが。この人工眼というのが幼い視覚障害児に適用できるものなのかはいまの放送からはわからないな。言及されていないということは、そこまで進んでいないということかもしれない」
 さすがに博識だと感心する一方で、やっぱり自身のことについては言及を避けているように感じられた。不自然に回避している印象はないが、踏み込んでほしくないラインが見え隠れしているような距離感がある。俺の気にしすぎかもしれないけれど。
 むず、と自分の唇が戦慄きかけた。彼はいまの自分の眼を、視力を、どう考えているのだろうか。不便さを語ることはあるが、愚痴っぽくはないし、悲観的な発言も聞いたことがない。時間的に、すでにそういう心理段階を過ぎているということかもしれないが、現在の彼の明朗さはごく自然で、それがかえって不可解な印象をもたらす。ただ、こう感じるのは畢竟俺が、視力を失ったら嘆くのが当たり前だと考えてしまっているということだろう。障害を受けたことのない者の貧困で傲慢な想像力だと思うが、やっぱりその考えは払拭できない。自分が視力を失ったら、きっとすごくショックを受けるだろうし、絶望する姿も容易に想像できる。また、視力を回復させる手段があるならそれに縋りたくなるだろうし、いつか再び見えるようになる日が来ると、日進月歩のテクノロジーに期待と希望を抱き続けるだろう。……だが、彼にはそれがあるように感じられない。諦観や受容の結果が現在の姿に結びついているというような印象ではないのだ。どう表現していいのか適切な言葉を見つけられずにいるが、語弊があるのを承知で言ってしまうと、現状を気楽に気軽に、それでいて積極的に楽しんでいるというか。無論、彼がそう見せかけている可能性もあるので、俺が勝手に受けている印象にすぎないけれど。
「……赤司はさ、こういうの、もっと開発されたらいいなって思う?」
 きみは可能ならば視力を取り戻したいと思う?――間接的な含みを持たせて聞いてみた。どうしても気になってしまったから。
 赤司は特に身構えることもなく、相変わらず俺の左足をいじり続けながらさらりと答えた。
「見える世界を取り戻したいと思っている中途失明者は多いだろう。そういう人たちのためには、いいのだろうな」
 その多数派の中に自分を含めての回答なのか、俺には読み取れなかった。
 回復させたいのは当たり前だから明答するまでもないという意味なのか、あるいは、誰も彼もがそう望むとは限らないという意味なのか。
 尋ねたのは俺のほうだが、それ以上話を発展させられるような話術が自分にあるとは思えなかったので、そうだね、とありきたりな相槌だけを返しておいた。不自然に会話が途切れ、沈黙が両者の間に降りてくる。ニュースはとっくに切り替わり、どこかの地域物産展の模様が流れていた。ちょっと強引だが、ニュースにならって食べ物の話でもしようか、汎用性があるし、なんて考えていると、
「……った――――っ!? ちょ、いきなりはやめて!」
 足裏の踵に近い部分から強烈な痛みが走り、もう遅い時刻だというのに思わず大きな声を出してしまった。考えすぎて集中力が落ちていたのと、しばらく優しい触り方しかされていなかったので、急な強い刺激に驚いたのだ。実際にはそこまで痛かったわけではないと思う。彼も驚いたようで、手の動きを止め目をしばたたかせている。
「そんなに痛かったか?」
「うん、すげー痛かった。優しくしてって言ったのに」
 唇を尖らせて非難がましく文句を垂れると、
「いまの、生殖器の反射区だぞ?」
「え?」
 斜め上からのパンチに思わず固まった。しまったと思ったときにはもう遅く、赤司が愉快そうに唇の端をつり上げた。
「お疲れの余り元気でないのかな? まだ若いのに大変だ。現代日本のストレス社会は亡国ものかもしれない」
「赤司さーん、それセクハラっすよー」
「まあ、男の性欲のピークは十九歳から二十歳だと言われているが。それ以降はずっと下り坂だそうだ。……どうする、僕たちとっくに成人だから、あとは転がり落ちていくだけらしいぞ?」
 下品な単語は一切使わず、けれどもそれゆえに座りを落ち着かなくさせるような言い回しの間接的な下ネタが飛んでくる。こういう話は嫌いではないが、TPOと相手による。まあ赤司だって同学年の男で、最近はそれなりに親しいわけだから、そういう話題で盛り上がってもいいのだろうけれど……どこから銃撃されるのかわからないし地雷がどこにあるのかわからないので、気軽に楽しくどころか終始変な緊張感に包まれそうだ。でもやられっぱなしというのも悔しいと感じ、
「……よし、やり返すぞ。このへん?」
 彼の足裏の踵近くを親指でぐにぐにと強めに押してやった。俺が痛くてびっくりしたのはこのあたりのはずなのだが、彼は平然としている。それどころか、余裕の笑みをうっすらと浮べている。
「場所はまあ当たりだが……気持ちいいだけだな」
「……お盛ん?」
「どうかな? 年はきみと一緒だが」
 ふふっ、と意味ありげに彼が笑う。視覚にハンデはあれど、頭脳、運動能力、ルックス、財力、社会的地位、あれこれ揃った勝ち組男だ、引く手数多というか選り取り見取りなのかな、やっぱり。あるいはとっくにフィアンセがいたりして? きっと家柄いいだろうし。ついつい下世話な想像が脳内を駆け巡る。井戸端会議に興じる主婦を揶揄できないな……と自分の発想の陳腐さに苦笑を禁じ得ない。
 とここで赤司から冷静というか当たり前というか、ある意味で空気を読まない発言が飛んできた。
「まあ、正式な免許持ってるひとに言わせれば、デタラメらしいがな、世間に出回ってる足つぼだのリフレクソロジーだのは」
「えっ……なにそれひどい。じゃあこれ、セクハラ目的だったのかよー」
 このオチがやりたくて延々足つぼ押していたというのか。本気でひどいと感じたわけではないが、ノリでむくれてみる。ここで「まあそうだよな、くだらないよな、世間はなにこんなのに踊らされてるんだろうな」なんて同意してしまうのは、機微がないというものだ。女性から『つまらない男』のレッテルを貼られる見本だろう。
 いかにも演技がかってぶーたれる俺に、赤司がおかしそうに息を漏らした。
「ふふ……」
「なに?」
 馬鹿にした笑いでないことは察せられたが、含みがあるというか、なんで笑っているのか理由を聞いてみてよ、と言われている気がした。
「いや、昔見た洋画だか海外ドラマだかのやりとりを思い出した。話の脈絡は違ったが」
「……どんなの?」
「三十代のカップルが、ソファに座ってアメフトの試合やバラエティを見ながら、ダラダラ互いの足の裏をマッサージし合うんだ。ちょっぴり倦怠期気味で、会話はほとんどない。マッサージをはじめた理由は、会話もスキンシップもないパートナーに不満の彼女が、テレビで紹介されているのを見て試しにやろうと彼を誘った。で、その後なんとなく習慣的にするようになったはいいが、それが会話のきっかけになることはなく、惰性で続けていた。そんな流れだったと思う。ところがあるとき、テレビの別の番組で、この手の民間療法に効果はない、なんて話が出てきた。おもしろくなさそうにぼやく彼女とは対照的に、彼のほうはそんなこと最初からわかっていた、信じるほうが馬鹿なんだという態度だ。男にありがちな物言いだな。テンプレすぎてギャグかと思った。まあ様式美を楽しむものなんだろうがね。その後も実にありきたりで、彼らはちょっとした喧嘩になった。もちろん彼女が少々ヒステリックに彼を責め、彼はげんなりしているという構図だ。フェミニストの団体が見たら怒りそうだった。気を立たせる彼女に、彼が揶揄なのかフォローなのかわからない台詞を言う。
『マッサージとしてはまったく気持ちよくないし、マッサージとしての効果がないのもわかっていた。でも、きみに触ってもらえるのは気持ちよかったし、きみに触れるのも気持ちよかった。だから、何の効果もないわけじゃないかと思うんだけど?』
『じゃあなに、セクハラ目的だったわけ?』
『倦怠期の刺激にはぬるすぎると思うけどね』
『へえ……そういうこと言っちゃうの?』
 ……あとはまあお決まりというやつだ。陳腐な展開で笑ってしまった。ようはスキンシップの口実というかきっかけになったということだ。リフレクソロジーに謳われる効果が実在するかはともかく、人肌に触れるというのは有意味なのかもしれない。場合によっては気持ちがいいし?」
 何年前なのかはわからないが、おそらくテレビを『見る』ことができていた頃に視聴したと思われるドラマの一幕を説明したあと、赤司は俺の土踏まずのラインを踵側からつま先に向けて親指の腹でこすり上げた。確かに気持ちいい。つぼ押しの効果は実在しないとしても、プラセボで元気になる可能性はありそうだ。つい、もうちょっと続けてほしいなと思ってしまうくらいには気持ちがよい。しかし彼はそろそろおしまいとばかりに、俺の足を布団の上に置いてしまった。時計を見ると、結構な時間こんなことをしていたのだと驚いた。
「ええと、そのカップルってやっぱりそのあと……」
 俺もまた彼の左足を離した。すると、彼は引っ込めた足を折り曲げたかと思うと膝立ちになった。
「オチは言うまでもない気がするけどな。まあかなり昔に見ただけだから、あまり覚えていないのだが……こんな感じだったと思う」
 と、赤司は布団の上で伸ばされた俺の左下腿に右手を置くと、ススス、と上に向かって手の平を滑らせた。それに合わせ、膝でちょこちょこと前進する。腹のあたりに手が当たると、そのままゆっくりした動作で俺の左肩を掴んだ。
「赤司……?」
 俺が尻をついて座っている一方で彼は膝立ちなので、接近されると顔を見上げるかっこうになる。何がやりたいんだろうと訝っていると、急に上体が揺れ、それに伴い視界がぶれた。
「え?」
 わずかな落下感と小さな衝撃。疑問符を浮かべつつ視線を動かすと、正面の延長に、普段あまり注目することのない自室の天井があった。仰向けになっている? と思った瞬間、視界が翳った。数十センチ先にある赤司の上半身が俺の視界の中心を占めている。
「あ、かし……?」
 もしかして、と思いつつ身じろぐが、上半身を浮かすことができない。これ、俗にいう押し倒されたってやつですか……? どうやら肩を彼の手で押さえられているようで、うまく身動きが取れない。動作の起点となる関節などを封じられると弱体化するというのは本当らしい。彼は右手で俺の左肩に軽く体重をかけ、左手は俺の頭の横に置いている。
「彼らがその後どうなったか……聞くのは野暮ってものじゃないか?」
 低くささやくような声音で赤司が言う。彼が上体を倒し、覆いかぶさるようにして顔を接近させてきた。口角がかすかにつり上がっている。ほとんど見えていないはずの瞳は、しかし獲物を見据えた肉食獣のように鋭い光を宿していた。捕食とか食物連鎖とかいう単語が脳裏をよぎり、ぞくりとした寒気が背筋を駆け上った。そうだ、彼はもともとこういうタイプの人間じゃないか。最近鳴りを潜めていたから忘れそうになるけれど、十代の頃に見せていた研ぎ澄まされた刃のような怜悧さ――それはいまでも変質していないのだ。単にカバーがうまくなったというだけで。ドクン、と心臓が跳ねる。あかし。呼ぼうとするが声が出ない。そのまま十秒ほど見つめ合う。彼の瞳の局面に俺の像が映っているのがわかった。彼自身はそれを感じ取れないはずだけれど。まばたきを忘れたわけではないが、まぶたひとつ自由に動かせる気がしない。不可抗力に相手を凝視していると、ふいに視界が明るくひらけた。きょとんとしていると、上からすっかりいつもどおりの冷静な彼の声が降りてきた。
「まあ、こういうのも一種の様式美的な展開なんだろうな」
 くすっと笑いながら、彼は肩をすくめた。
 からかわれたらしい――やっとのことで理解する。俺は怒るよりもほっとする気持ちのほうが大きく、布団に寝転がったままあからさまに脱力して息を吐いた。
「あ、あかしぃ……そんな体張ってまでジョークかまさないでよ」
「おもしろかった?」
「もうちょっと軽めが好みです」
 赤司の冗談はたいていわかりにくい。もっとこう、明快でライトなノリでお願いしたいのだが……と思っていたら、
「いまでも結構がんばって体重絞ってるんだけどな」
 などとトンチンカンなことを言いながら、赤司が俺の上半身に自分のそれを重ねるようにして乗ってきた。グラドルがビーチパラソルの下でうつ伏せに寝そべるようなポーズで、俺の胸のあたりで腕を組んでいる。全体重が掛かっているわけではないが、場所が場所なのでちょっと苦しい。
「ちょ……あかしー!」
 軽めって、体重のことじゃないよ! いや、わかっててわざとすっとぼけてるんだろうけど。彼のジョークというかおふざけはまだ続いていたらしい。
 その後は取っ組み合いというわけではないが、お返しとばかりに俺のほうも彼の体に乗っかってみたり、体重を掛けてみたり、そうかと思ったらいつの間にか彼にサブミッションを緩く極められていたり……とまるで修学旅行の男子学生みたいなノリでじゃれあうことになっていた。いい年して何やってたんだ、夜のアパートで非常識な、とあとから頭を抱えたものの、ふざけあっている間はまさしく中高生の心に戻っていて、楽しかった。男って馬鹿よね、という世の女性の言葉は正鵠を射ていると思う。しかし、俺はともかく彼もこんな馬鹿をやるなんて、意外すぎて驚いてしまった。彼も男というか男子なんだなあと感じる一方で、高校時代の赤司とは絶対こんなことできっこないと思った。年月とは不思議なものである。

 

 

 






 

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