泣きながら赤司くんの名前を呼び続ける降旗くん。僕は彼をなだめようとしただけなのですが、第三者によって止められてしまいました。僕が彼によからぬことを致そうとしたわけでないことはわかっていただけたと思うのですが……泣いている降旗くんをこれ以上放っておけなかったのでしょうか。このタイミングで出てきてしまうとは。別に予想外ではありませんが。むしろきみなら介入してくると思いましたよ。
僕は体の向きはそのままに、首をひねって肩越しに背後を見やりました。視界の端に映るのは、赤い髪。
「やきもちですか?」
赤司くん?
……っていう展開にならなくて心底よかったです。いやー、ここで赤司くんはないですよ。それはさすがに怖すぎます。そんなドラマティックな展開、あまりに非現実的ですしね。赤司くんはいま、京都滞在中で都内にはいません。母校の部活の後輩たちをゲストで指導すべく、洛山まで赴いています。なので本日の計画は鬼のいぬ間を狙ったわけです。赤司くんが絡むと事態が複雑化するに決まっていますから。
現実に僕の手首を掴んだのは……
「黒子、そのへんでやめておけ」
「火神くん」
僕とともにこの部屋の主である火神くんです。振り返った先には、見慣れた僕の恋人がバスタオルを小脇に抱えて小難しい顔で立っていました。
「意外と耐えましたね。そろそろ妬きました?」
「いや、降旗がかわいそうで見ていられなくなった」
ちら、と降旗くんに目配せをする火神くん。改めて見やれば、降旗くんの姿はとてもまずいものでした。全裸でぺたんとソファに座り込み、頬を真っ赤にして、目をこすりながらえんえん子供のように泣いています。こぼれたローションが内腿に透明な筋を描き、蛍光灯の光を時折反射しています。事情を知らない人が見たら、連想する被害はただひとつでしょう。
「確かにちょっとかわいそうですね。いやしかしこの姿、見る人が見たらものすごーく興奮するんじゃないでしょうか。やばいですね降旗くん。そっちの気がない人までそそっちゃいかねませんよこれ」
「元凶が何言ってやがる」
はあ、と火神くんは大きなため息をつきました。そして、持ってきたバスタオルを広げると、降旗くんの下半身を隠すように落としました。しかし降旗くんはタオルにも火神くんの存在にも気づくことなく、まるでおまじないのように赤司くんの名前を唱え続けています。火神くんは床に片膝をつくと、怯えさせないよう降旗くんよりも目線を低くし、のぞき込むようにして彼に声を掛けます。
「降旗? 降旗?」
「うえぇぇぇぇぇ……あかしー、あかしぃ……」
いまだ赤司くんを呼び続けている降旗くんの頭を、火神くんがよしよしと撫でます。
「落ち着け降旗。もう大丈夫だから」
そこでようやく降旗くんが火神くんのほうを振り返しました。最初は触れられたことに反応しただけのようで、数秒は不思議そうにぼんやりしていましたが、やがて火神くんの姿を認識すると、
「か、かがみ?」
混乱と狼狽の声を上げました。まあそうでしょう。火神くんが帰っているとは思いもしなかったでしょうから。本日この計画を実行するにあたり、火神くんには外出していてもらったのですが、降旗くんを心配していた(残念なことに僕の心配はしてくれませんでした)彼が、耐え切れず戻ってきてしまう可能性は当然考慮していたので、ソファの背もたれ越しに彼と目が合ったとき、僕はうろたえませんでした。彼の帰宅時、僕は降旗くんにローションを使おうとしていたところでしたので、ここからが肝心なところですとばかりに、参加しませんか? とアイコンタクトで訴えかけたのですが……意気地なしの火神くんはその場に棒立ちになるだけでした。まあ途中経過を知らない人に下手に乱入されても困りますので、火神くんをお誘いしたのは単なる社交辞令であり、参加を期待していたわけではありません。火神くんに伝えてあった事前情報は、「降旗くんに恋心を自覚させる努力をします」程度の抽象的なものだったので、裸の降旗くんの上にパンイチの僕がまたがっている光景はさぞ心臓に悪かったことでしょう。あのときの火神くんの顔はすごかったです。それを上回る形相で黙れと命じた僕の表情筋は優秀だと思います。その後も、実際に止めに入るまで、火神くんは何度か干渉を試みましたが、そのたびに僕が視線で牽制しました。彼はなんだかんだで僕を信頼してくれているので、そこまで本気で制止に踏み切ろうとはしていませんでしたし。けれど、降旗くんが見も世もなく泣きだしてしまったことで居ても立ってもいられなくなったのでしょう。降旗くんにとってちょっとばかり刺激の強い状況をつくり出した張本人である僕とふたりきりだと、降旗くんが落ち着きを取り戻せないと判断したのかもしれません。何にせよ、火神くんの介入は想定内でした。
「か……かがみっ、かがみ……お、おれ……」
降旗くんは口を動かしますが、音声がついていかず、呼吸が乱れて苦しそうにするばかりでした。
「あー、よしよし。無理にしゃべらなくていい。泣きながらだと苦しいだろ。まずは落ち着こう。な?」
それだけ忠告すると、火神くんはしばらく口を閉ざし、ただ静かに降旗くんの頭を緩い動作で撫で続けました。さすが火神くん、その優しさに痺れます。あとで僕にもやってくださいね。
降旗くんのひっくひっくとしゃくりを上げる肩の動きが治まってきたところで、火神くんが落ち着いた声音で尋ねました。
「大丈夫か、降旗?」
「か、火神、火神……く、黒子が……ご、ごめん、俺……」
青ざめながら、ゆるゆると首を左右に振る降旗くん。僕の彼氏である火神くんにこのような場面を目撃されたことに血の気を引かせているようです。大丈夫ですよ、このひとも一種の共犯ですので。まあ、降旗くんはそんなこと知らないので、たとえ彼の立場からしたら襲われたようなものだとしても、びくびくしてしまうのは仕方ないのですが。
火神くんは気まずそうに視線を逸らしながら、側頭部を掻きました。
「あー……なんかごめんな。黒子が暴走して。おまえが謝ることねえよ。悪いのはこの馬鹿だ」
「馬鹿とは失礼な。自分では何も解決策を考えつかなかったくせに」
火神くんが降旗くんをなだめている間に衣服を整えた僕は、降旗くんの服を回収しながら、むっと唇を尖らせました。僕の最初の案に火神くんが賛成すればよかったんですよ。そうすれば降旗くんの希望を叶えつつ、彼に怖い思いをさせずに済んだでしょうに。まあ、どのみち降旗くんの逆吊り橋の恋を解く手は考えなければならなかったでしょうが。
不服そうな表情をつくって見せる僕に、火神くんが眉間に皺を寄せながらぼやきます。さっきとは別の理由でふるふるしはじめた降旗くんを背後にかばいながら。
「だからってこれはねえよ。降旗泣いちまったじゃねえか。かわいそうに、こんなに怯えちまって。あんま怖がらせるなよ。こいつはおまえみたいに図太くねえんだよ」
「いやあ、想像以上に繊細なようで。赤司くんが強引に迫れないのもわかる気がします。プレイとしては楽しいかもしれませんが、本命がこれだったら強く出られませんよね」
「繊細っつーか……ある意味当たり前の反応だと思うぞ」
「降旗くん、ノリはいいほうなのでいけるかなーと思ったんですが」
「いや、無理だろ。常識のあるやつだったら」
火神くんは一際大きなため息を落としたあと、降旗くんを一瞥しました。
「しかしどーすんだよ、ここまでやっちまって。赤司に知れたらどうなるか……」
と、小刻みに震えていた降旗くんが、全身をびくりと揺らしました。
「あ、あかし……?」
いまの降旗くんに赤司くんの名は刺激が強いのでしょう、再び目を見開くと、絶望にも似た表情で硬直してしまいました。三十秒ほど経過すると、彼の目尻からぽろぽろと涙が止めどなく溢れだしてきました。
「うっ……征くん……」
「お、おい、降旗?」
「うわ――――――ん! 征くん、征くんっ、ごめん、ごめんねっ……! 征くん……うわぁぁぁぁぁぁ……」
彼は片手で顔を覆いうつむくと、再び大きな声を上げて泣きはじめました。征くん征くんと、赤司くんとふたりきりのときに使用するらしい呼び名を連呼しながら。どうやら降旗くんの意識からは、火神くんの存在も僕の存在も飛んでしまっているようです。
「うぇぇぇぇ……征くん……俺、俺……ご、ごめん……」
自分は悪くないのに赤司くんにごめんごめんと繰り返す降旗くん。その健気な姿を眼前にした、彼よりちょっぴり大人な火神くんと僕は(断じて爛れてなどいません!)、ああ、これはもう弁明しようがないくらい惚れているな……と、泣いている降旗くんには悪いですが、生温かい気持ちで見つめ合ってしまいました。
「降旗、別におまえが悪いわけじゃ――」
優しい火神くんは降旗くんを慰めようと手を伸ばしかけましたが、僕が間に体を割り込ませ、阻みました。火神くんが何やら文句を言いたそうな視線を送ってきましたが、厳しい僕はそんなものは無視です、無視。時として心を鬼にすることも必要なのですよ、火神くん。僕はソファに肘をついて目線を下げると、うつむいている降旗くんにずいっと顔を近づけました。
「降旗くん、ここに赤司くんはいませんよ」
「くっ、くろこ……」
びくん、と一瞬痙攣したあと、驚いた降旗くんが顔を上げ、後ろに体を倒します。距離を取りたがるように。すでに変な雰囲気は消え去っていますが、あんなことがあったばかりですから、彼が怯えるのも無理はありません。僕が意識的に若干高圧的な声を出していることも影響しているでしょう。
「なんで赤司くんに謝るんですか? 赤司くんが怖いから?」
僕の問いに、降旗くんは震える声で途切れがちに答えました。
「だ、だって……ほかのやつと、こ、こんなことして……それも、黒子、赤司の友達だし……」
「関係ないでしょう。僕とああいうことして、赤司くんにとってまずいことがあるとでも? ないんじゃないですか? だって降旗くん、赤司くんとつき合ってるわけじゃないんでしょう? 一種の友人みたいなものなんでしょう? 僕とも友達、彼とも友達。その間柄なら、心配しなくても不貞行為になんてなりませんよ。きみが彼に申し訳ないと思うことなんてありませんし、また同様に、赤司くんには怒る権利も義務もないわけです」
「ふぇ……」
僕がややきつい調子でまくし立てると、降旗くんは顔をくしゃくしゃに歪め、またしても涙を滲ませました。無意識下では赤司くんにベタ惚れの降旗くんにとって、僕の言葉は心をぐさぐさ突き刺したことでしょう。まあ半分くらいは、単に僕の口調の厳しさに気圧されているのかもしれませんが。僕の指摘がなぜ胸に痛いのか、考えてくれるといいですが。
「……まあ、きみの主張を聞く限り、そう解釈せざるを得ないわけですが……きみにとってはいじわるな言い方だったでしょうか」
僕は右手を伸ばすと、彼の頬に残る幾筋もの涙の跡を親指の腹でなぞりました。
「降旗くん、なんできみは泣いているんですか。なぜ、赤司くん以外の人とするべきじゃないって思うんですか。よく考えてみてください。きみの悩みの答えは、きみの胸の中にあるはずです」
小さな嗚咽が治まらない降旗くんは何も答えられず、しゃくり上げるような呼吸を刻むばかりです。と、見かねた火神くんが僕と降旗くんの間に腕を割り込ませてきました。
「黒子、あんま畳み掛けるな。いま降旗、混乱していっぱいいっぱいなんだから」
火神くんは降旗くんの二の腕を軽く掴んで自分のほうを向かせると、小さな子をなだめるように、反対の手を彼の背中に回して擦りました。なんと母性に満ちた姿でしょう。
「降旗、変なことしてほんとごめんな? もっと早く止めるべきだった」
「か、かがみ? もしかして……み、見てたのか?」
「あー、うん……ごめん。少し前に帰ってた。黒子のやつがエライ暴走してたみたいだな。怖かったよな、うん。俺でも怖いときあるから」
ちょっと、僕に責任をすべて押し付ける気ですか。
「僕に一任するって言ってたくせに、心配で帰ってきちゃったんですか」
「おまえがスパルタすぎる可能性を考えてな」
ジト目をこちらに向ける火神くん。優しさと生ぬるさは違いますよ?
そう深刻でもないですが、なんとなく睨み合いになりました。すると、空気のちょっとした剣呑さを察知したらしい降旗くんが、不安げな声とともに火神くんを見ました。
「火神……俺があんなこと相談したから、こんなことを? お、怒った? やっぱり怒った?」
彼は縋るように火神くんの肩を掴むと、弱々しい動きで揺すりました。火神くんはそんな馬鹿なというように即座に首を横に振りました。
「違う違う。その……黒子と相談した結果、暴走したというか迷走したというか……。話が変な方向に逸れて修正が効かなくなった、みたいな……。すまん、言い訳だな……」
「お、俺があんなデリカシーのない頼みごとしたから、怒った……?」
「いや、そうじゃないって。おまえに嫌がらせしようと企てたわけじゃない。まあ、結果は嫌がらせよりもひでぇことになっちまったんだけど……」
「ご、ごめん、火神……う、うぇぇぇぇぇん!」
降旗くんは、自分が失礼な相談をしたことで僕たちを怒らせ、その意趣返しとして僕たちがこんなことをしたのだと解釈したようです。その考えはちょっとひどいですよ降旗くん……と突っ込みたいところですが、火神くんが「おまえのほうがひどい」と即レスしてきそうなので、胸のうちに留めておきました。
「ふ、降旗、だから違うって――」
「ご、ごめっ……俺、おまえたち困らせちゃったんだよな……ごめんな、ごめんな……うっ、うっ、え、ふぇ、ぇ……」
おおう……なんですかこの子は。結局自分が全部悪いってことでまとめようとしていますよ。やめてください、そんな穢れなき涙とともに謝ってくるのは。なんか僕がすごい悪者じゃないですかこれ……。
「う~……なんかすごい罪悪感が……。いっそ怒ってくださいよ……」
「だからやめろって言ったんだよ。降旗の性格じゃ、こうなるのは予測できただろ」
火神くん、それは本当にそこまで考えてのことですか? それとも意気地なしの自分へのフォローですか? どっちにしろ、火神くんの弁が正しいのは認めざるを得ませんけど。しかし、こんな純粋な子があんな宇宙人の侵攻を受けるなんて……世の中ちょっと理不尽すぎやしませんか!?
赤司くんの罪深さに僕がうち震えていると、面倒見のいい火神くんが僕の手から降旗くんの衣服を取り、彼の前に差し出しました。
「とりあえず服着よう? な?」
降旗くんはそこでやっと、自分があられもない姿であることに気づいたようで、泣き腫らして真っ赤になった顔に、さらに朱を上らせました。まだ赤くなる余地があったとは。
「う、うん、ありがと。……あっ」
片手で服を受け取り、腰のタオルを押さえたまま立ち上がろうとした降旗くんですが、途中でぎくりと止まると、へなへなと床に座り込んでしまいました。いや、あの、腰が立たなくなるようなことは一切していないんですけど……。
「ど、どうした?」
動揺する火神くんから思い切り目を逸らしながら、降旗くんがぼそりと告げます。
「こ、こぼれて……」
「こぼれる……?」
火神くんは床をきょろきょろ見渡しました。飲み物がこぼれるという意味だととらえたようです。火神くんは火神くんで純粋ですよね……。僕は一瞬で事情を把握しました。
「ああ……念のため結構たくさんローション入れたので。出てきちゃいますよねそりゃ」
降旗くんの言ったこぼれるとは、立ち上がったことで、中に入れたローションが重力に従って流れ出てきたという意味でしょう。タオルに隠れて見えませんが、その下がとてつもなくコケティッシュなことになっているであろうことは想像に難くありません。
僕の説明に、火神くんはびしりとその場で固まり、降旗くんはぼのぼのくんのような大量の汗を浮き上がらせました。ふたりとも、なんて愛らしいのでしょう。……けっして僕が汚れているわけではありませんよ。彼らが歳の割に純朴なだけです。
「このまま服着ると大変なことになりそうですね……」
僕が指摘すると、ふたりははっと我に返りました。
「よ、よかったら風呂入っていくか? なんなら湯入れるけど」
「いや……あの……シャ、シャワーだけ借りていい、かな……」
「おう。遠慮せず使ってけ」
僕は降旗くんにティッシュを渡し、彼はそこから何枚か引き抜いて、タオルの下に手を差し込み、ぎこちない動作で簡単な始末をしました。ついでに床も拭ったようです。その光景に火神くんは頬を紅潮させると、完全に後ろを向いてしまいました。うん、とってもイケナイ姿ですね。
バスルームに消える降旗くんを見送ったあと、僕はようやく一息つきました。さすがに疲れたので、ぐったりとソファに沈み込みます。
「はあ……先生という職業がとんでもない激務であることが身にしみました。……しかし降旗くんてほんと無防備ですよね。あんなんだから赤司くんにつけ入られるんですよ」
「赤司はともかく、おまえがあんなことしでかすなんて夢にも思ってなかったんだろ」
ぺし、と火神くんが僕の頭をはたきます。無論弱い力で。僕の強硬手段に呆れている火神くんですが、今回の降旗くんのお悩み相談を持ち込んだのはそもそも火神くんですし、自分が僕の提案をことごとく蹴った上で代替案も出せないままだったということに負い目があるのでしょう、責め立てられることはありませんでした。口論なら僕のほうが強いですしね。
「いまもあんまり思ってないみたいですけどね。降旗くん、勧められるままにホイホイお風呂に入っちゃうなんて。これで、実は僕と火神くんが完全に結託していて、このあと3Pにもつれ込む算段だったらどうするつつもりなんでしょう」
僕の発言に、火神くんが思い切りげんなりします。
「やらねえぞ?」
「計画には一応その選択肢も入っているので、ご考慮いただけませか?」
「するか!」
「悪い案じゃないと思うんですけどねー。僕たちふたりで降旗くんをかわいがるの。僕が降旗くんに挿れて、火神くんが僕に挿れるのが一番自然でしょうか。火神くんがいれば僕たちますし」
「不自然にもほどがある」
さして激しく突っ込んでこないのは、僕が本気でないことを火神くんも理解しているからでしょう。あんなに一途な降旗くんを目の当たりにしたあとでは、そんなかわいそうなこと、できるはずもありません。赤司くん、早く抱いてあげてください。……とそこまで思ったところで、僕はひとつ胸にむかむかするものを覚えました。
「……でも悔しくありません?」
「何が?」
「降旗くんが赤司くんにいただかれちゃうの。降旗くん、あのとおりの性格と性質なので、なんだか弟を見ているようで、火神くんとは別の意味で胸キュンになるんです。ていうか、むしろこう、蝶よ花よと育てたかわいい娘を悪い男に取られちゃうような心境で。お母さんは心配です」
いえ、悪い男だったらどんなによかったことか。地球上のどこかにさらわれるだけで済むならまだましです。宇宙人はキャトルミューティレーションを行うんですよ。
「降旗がかわいいのは俺も同意するが……お母さんは娘に襲いかかったりしないからな?」
なんと妥当でおもしろみのない突っ込みをするんですか。ユーモアに欠けるひとですね。
「っつーか黒子、いくらなんでもあれはねえぞ」
火神くんが僕の額を人差し指で小突きます。ついでにデコピンまでかましてきました。僕は額を押さえながらぶーたれます。
「ぎりぎりまで止めに入らなかったくせに。火神くんだって、降旗くんに自覚してほしかったんでしょう? 僕は汚れ役を買って出ただけです」
「それにしても、見事なヒールだったぜ」
「はい、がんばりました。褒めてください。ついでもご褒美もくれるとなおよしです」
「おまえな……」
僕が隣に座る火神くんの膝に乗り上げ顔に唇を寄せると、彼は呆れながらも一瞬だけリップ音を立ててくれました。さすが火神くん。甘い。そしてチョロい。
僕を膝にしっかり乗せたあと、火神くんが心配そうに眉をしかめました。
「しかし、ほんとどーすんだよ、赤司のこと」
「赤司くんが何か?」
「いや、未遂とはいえ降旗にあそこまでやっちまったんだぞ……赤司にばれたら血を見るんじゃねえか?」
「一年もへたれ続けた挙句困って僕に相談を持ちかけるような人ですよ? いまさら降旗くんをどうこうできるとは思いませんが。どんだけ大事にしたいんですかって話ですよまったく」
「いや、降旗じゃなくておまえのことだよ。降旗のことだからぺらぺらしゃべったりはしないと思うが、反応次第ではばれるぞ」
「赤司くんが僕に何をするって言うんです? 口出しする権利なんてないでしょう。あの人は、降旗くんのただの友達です。セックスを伴ってるだけの。赤司くんはニブチンで非常識ですけど、ものがわからない人ではありません。降旗くんと恋人でもなければ、降旗くんとの間で貞操に関する協定を結んでいるわけでもありません。降旗くんが自分以外とセックスするのを禁じる道理はないと考えるでしょう。……そこでモヤモヤのひとつも感じてくれればいんですけどね」
多分人生でもっとも赤司くんに対して強気になれた瞬間です。いや、いまでもあのひとのことは十分恐れてはいるんですが、この件に関してはなんていうか……赤司くん実はすげぇヘタレなんじゃね? と思わざるを得ません。自覚がないし、あのひとのことなのできっと真顔なんでしょうが、深層心理では降旗くんに萌え萌えしてるんじゃないでしょうか。
降旗くんが赤司くんとくっつくことを想像すると寂しさと悔しさと心配は絶えませんが、降旗くんが赤司くんに恋慕を寄せている以上、妨害するのも野暮な話です。早く僕たちのような健全な恋仲になってくださいと思いつつ、僕はそろそろ自分の中の衝動を抑えきれなくなってきました。火神くんの首に腕を引っ掛け、焦点がぼけるくらいの近さで言います。
「それより火神くん」
「なんだ」
「抱いてください」
「いきなりなんだよ」
「いえ、ムラムラしちゃって」
「おまえ、自分は降旗に興奮しないから大丈夫だっつってたじゃねえか」
「あ、嫉妬ですか? 嬉しいです」
ふふ、と笑ってみせる僕に、火神くんは予想通りのつまらない回答を寄越しました。
「降旗が危なかったって冷や汗かいてるんだよ」
そう来ると思っていましたが、その懸念は無用です。
「嘘はついていません。降旗くん自体には欲情していませんから。ただ、僕も男ですから、ああいう雰囲気に包まれると、ついムラっと来ちゃうだけです。それでも、降旗くんの体いじってるときは直接反応しませんでしたよ? 後ろは疼いちゃいましたけど。僕の僕が明確に元気になったのは、きみが止めに入ってからのことです。ちょっと気分が煽られているときに火神くんのエロいフェロモンを吸い込んだら、そりゃ欲情するってものです」
ええ、降旗くんがどんなにしどけない姿になっても無反応だった僕ですが、火神くんが近づいてきた途端、瞬間湯沸かし器もびっくりなほど一瞬のうちに体がカッと熱くなりました。降旗くんへのレクチャー中、僕が火神くんを寄せ付けなかった理由は実はこちらのほうが大きいかもしれません。火神くんのフェロモンを明確に嗅ぎつけたら、本当の意味で暴走していた可能性があります。火神くんが不用意に近づかなかったのは、本能的にその危険を察知したからかもしれません。火神くん、フェロモンを理由に幾度となく僕に襲い掛かられていますから、学習したのでしょう。火神くんの学習能力ごとき、僕は今後も上回り続けて見せますが。
「俺のせいかよ」
「はい。僕、火神くんじゃないと満足できない体ですから」
火神くんの耳に唇をすり寄せると、耳朶に軽く前歯を立てます。火神くんもその気はあるのか、僕の腰を緩く撫でてくれますが、
「あー……降旗が帰ったらな」
この場では断られてしまいました。
「火神くんもたいがい繊細ですよね。ちょっと怯えモードの降旗くんに一発、恋人同士の真のセックスをお見せすることによって、彼の心を癒すのが狙いだというのに」
「余計にえぐってどうする」
「えー?」
「降旗が出てきたら、ちゃんと謝れよ」
ここはちょっと神妙な顔になる火神くん。まあそうですよね。このままなし崩しに笑い話にするのはいくらなんでも不誠実というもの。
「わかってますよ。ちょっといじめすぎました。でも、レクチャーの真意まで告げちゃっていいものですかねえ。ひとに教えられるのと自覚するのは違いますよ」
「でもそのへん明かさねえと、なんで俺ら――主におまえだが――がこんなことしたのか説明がつかねえだろ」
とりあえず、お風呂に入って降旗くんが多少は冷静さを取り戻してくれているといいなあとふたりで祈っていると、がちゃ、と浴室の扉が開く音がしました。
「出たようですね」
階下に迷惑というほどではないですが、明らかに乱暴で速い足音がこちらに近づいてきます。これは正座をして待ち構えねばならないでしょうか。そう感じた僕は、とりあえずソファの上にちょこんと正座をしました。火神くんも僕に習いましたが、アメリカでの椅子生活が長かった彼の正座は、一般の日本人に比べるとどこが不恰好です。
リビングに入ってきた降旗くんは、眉間に皺を寄せ、口をむっつりと引き結んでいます。彼は入り口で僕たちが並んで座っている姿を見とめると数秒立ち止まりましたが、すぐに歩みを再開させ、足早にこちらへやって来ました。ローテーブルを挟み僕たちの正面に立った彼は、しばしその場で沈黙を保ったあと、
「黒子、火神、ほんっとごめん!」
がくっと勢いよく膝を折って床にくずおれたかと思うと、ぱんと乾いた音を立てて合掌しました。この行動には僕も火神くんも目をぱちくりさせました。
「え?」
「へ?」
てっきり怒りをぶつけられると予想していた僕たちは拍子抜けというよりも、何が起っているのだろうと、混乱しました。降旗くん、入浴前も僕たちに謝っていましたけど……もしかして、まだ僕たちへの誤解が解けていないのでしょうか。
「あの、降旗くん……?」
思わず右手を前に伸ばす僕に、降旗くんは片手を床につき、それはそれは深刻な表情と声音で話しはじめました。
「ほんとごめんな。あんなわけのわかんないこと相談して悪かったよ。おまえら、俺のこと心配して、何とかしてくれようとしたんだろ? こんな面倒くさいことまでして」
「え、ええと……降旗?」
どうやら僕たちの行動の理由は理解してもらえたようですが、それでもなお謝ってくるなんて。確かに話を持ち掛けたのは降旗くんですが……あの相談と依頼の内容からはいささか外れたやり方だというのは僕も自覚するところではありますよ? ここは怒っていいところですよ降旗くん? なのになぜきみのほうが謝るのですか。
「降旗くん? お、怒ってないんですか?」
「え? なんで?」
降旗くんがきょとん顔で尋ね返してきます。うおおおお、眩しい。なんですかこの純粋な瞳は。僕を罪悪感の海に叩き落す作戦ですね、そうですね!?
「なんでって……」
「黒子こそ怒ってない? あんな嫌な役回りさせちゃって……。火神もごめん。俺のせいで黒子にあんなことさせて……嫌だったよな、その、自分の恋人がああいうことするなんて」
本気ですか降旗くん。ここで僕たちのことを気遣うのですか。何なんですかきみは。ユニコーンのお友達ですか。
火神くんは呆気にとられながらぼそっと答えます。
「まあなんつーか……ある意味すげえ嫌ではあるな。下手したら犯罪者だから」
火神くんの心配の仕方が悲しいです。ちっとも妬いてくれません。そりゃ、僕に対する絶大なる信頼の証だとわかってはいますけど……。
しかしいまは火神くんと僕の話は脇道に置いておかねばなりません。そのくらいの常識は僕にもあります。僕はソファから立ち上がると、降旗くんのすぐ手前まで移動し、床に膝をついて目線を同じにしました。胸に手を置き、僕は心底申し訳ない気持ち及び罪悪感に駆られながら彼に謝罪を述べました。
「降旗くん、僕のほうこそすみませんでした。きみに自覚してほしいと願うばかりに、ちょっと事を急ぎすぎました。きみと赤司くんの関係が進展してほしいというのは僕の願いであって、きみを置いてけぼりにしていたと反省しています。もっときみの気持ちを大切にしなければいけなかったのでしょう……。本当に、ごめんなさい」
「ううん。黒子は悪くないよ。俺のためにしてくれたことだし……それに、俺、黒子のおかげでわかったんだ」
「えっ」
僕は驚きに目を見開きました。声を失った僕に、降旗くんが続けます。
「俺、赤司のこと、ずっと怖い怖いって、そればかり思ってた。でも、今日、ちょっと強引な方法でびっくりしちゃったけど、黒子に教えてもらって気づいたんだ。自分は赤司のこと、そんなすげー怖いと思ってるわけじゃないって」
「ふ、降旗くん……!」
おおぉぉぉぉ……! 火神くん、聞きましたか!? 降旗くんが、降旗くんがわかってくれました! 僕すごい! 荒療治効いた! 褒めて火神くん、僕を褒めてください力の限り!
そんな思いを込め火神くんのほうを振り返ると、彼も驚きの表情を浮かべ、ソファから腰を上げかけています。
僕の横にやって来た火神くんと抱き合う準備をしながら、僕たちは次なる降旗くんの言葉を待ちました。降旗くん、それで、それで……!?
「赤司ってさ、確かに怖いには怖いんだけど、それはなんていうか、すごく強いからだろうなって思うんだ。ほら、よくあるたとえで、円柱をある一面から見ると円にしか見えないけど、側面からだと今度は長方形に見えるって言うじゃん? 斜めにしてはじめて円柱だってわかるみたいな。そんな感じで……俺、あいつの一面にばっか目がいっててほかの面が見られてなかったんだと思う。見方を変えれば、あいつ、すげー頼りになるやつだなって感じた。いままでも、実際たくさん頼りにしてきたところはあると思う。それに気づいたら、いままで以上に赤司のこと、すげえなって感じて、しみじみしちゃった」
僕は感極まって右手で自分の口元を覆いました。そうでもしないと感涙の雄叫びが漏れてしまいそうだったからです。世に言う「クララが立った!」の衝撃とはまさにこのようなことを言うのでしょう……!
「ふ、降旗くん、降旗くんが、ついに……!」
「やったな黒子! おまえの努力は無駄じゃなかった!」
「俺、やっとわかったんだ。自分が赤司のことどう思ってるか」
「降旗くん!」
「降旗!」
ようやく、ようやく自覚したんですね。自分が赤司くんのこと好きだって! さあ、早く僕たちに聞かせてくださいその言葉を。赤司くんより先になっちゃって悪いですが、このくらいは許されるでしょう。
「俺、赤司のこと――お父さんみたいだなって思うんだ」
……なんですと?
「え……?」
「へ……?」
固まりました。完全に硬直しました。火神くんも僕も。
「お、おとう、さん……?」
「A father....?」
火神くんなんてびっくりしすぎて英語になっちゃったじゃないですか。
なんですかお父さんて! お父さんて……! どういう思考回路をたどったらそんな結論に行き着くのですか! 説明を、説明を求めます!
と胸中で叫んでいたら、降旗くんがそのとおりにしてくれました。
「あいつさー、勉強だろうがバスケだろうが料理だろうが機械いじりだろうがなんでもできちゃって頼りになるし、結構人の世話するの好きみたいだし。怖いところもあるけど、それはそれで威厳があってかっこいいし。意外にも、やればちゃんと生活力あるし。み、見た目もすげーかっこいいし? 俺のこと神経症だとかなんだとか勘違いしててちょっとうるさいときあるけど、それも俺を心配してくれてのことなんだよな。うん、心配してくれる人がいるってありがたいことだよな。明後日の方向だけど、それに対する解決策も考えて、しかも一緒につき合ってくれるし! 威厳あってそれでいて面倒見いいって、あいつ、あの変な言動が治ればすげーいいお父さんになれるんじゃないか?」
降旗くんは両の拳を握り締めると、やや興奮した調子で、いかに赤司くんが父性的でかっこいいかについて語ってくれました。そりゃ、あのひとが母性的か父性的かと問われたら、後者でしょうけども……! ついでに火神くんは前者ですけれど……!
「うちの親父みたいにフレンドリーなのもいいけど、やっぱこう、父性が感じられるっていいよなー。かっこいい! 俺すっげー憧れるよ」
ふ、降旗くんが静かに崩壊していく……!
待ってください、きみはお父さんとセックスしたいと思うんですか!? 自分に対し性欲を全面に押し出して迫ってくるようなお父さんがいいんですか!?
あれだけきわどい手段に打って出た挙句、引き出せた答えが「お父さんみたい」!?
なんですかそれ! ひどい! ひどすぎます!
っていうか……なんか恋愛とは一番対極の誤答が出ちゃってませんかこれ。親というのはもっとも親愛の情を感じる人間のひとりですが、恋愛とは程遠いというか、完全に別軸の存在じゃないですか。むしろ僕は彼の誤解を悪化させてしまったのでしょうか……。
そう思い当たったとき、僕は全身の力が一気に抜けていくのを感じました。どこか気持ちのいい浮遊感が襲ってきます。すべてが徒労に終わったどころかマイナスに働いたかもしれないのですから、それも致し方ないでしょう。現実逃避したくなりのも当然です。
「火神くん……僕はもう駄目です……」
「黒子! 大丈夫か!?」
誇張でなく、僕は後ろにふらりと倒れました。火神くんが背中を支えてくれたので転倒はしませんでしたが、僕にはもう、自分の体重を支える力が残っていませんでした。ああ、天井を超えて天上が見えるような心地です……。
僕と火神くんは、まるでバトル漫画における死に際のキャラクターとその友人のような格好で見つめ合いました。といっても僕の意識はすでに途絶えかけ、視界は白み、火神くんの赤い髪の毛だけをかろうじてとらえられるような状態でした。
「あとのことは……頼みました……。降旗くんを、よろしく……」
「黒子、しっかりしろ、おまえが倒れたら、俺があいつらの面倒見る羽目になるじゃないか。やめてくれ、俺ひとりじゃ荷が重すぎる……! 黒子、しっかりしろ、黒子ー!」
僕の意識は一旦そこで途切れました。
気づいたときには時刻は夕暮れになっており、そばについていてくれた降旗くんがしきりに心配の言葉を並べ立ててくれました。なんていい子なんでしょう……。でも、アホなんですよね……。アホの子なんですよね……!
脱力感と悲しみに打ちひしがれた僕は、ベッドから這い出す気力もなく、火神くんが用意してくれたスポーツドリンクで水分補給をしました。僕が意識を取り戻したことにほっとした降旗くんが、そろそろ帰らなきゃと言いましたので、火神くんが送っていくことになりました。いい大人ですので普段はひとりで帰っていくのですが、今日はそれは駄目だと判断しました。というのも、降旗くんはすっかり元気になったものの、僕にいろいろいじられた残り香のようなものを纏っていまして……こう、とても危うげな雰囲気だったのです。成人男子とはいえ、日が暮れる時間帯にひとりで表を歩かせるのがはばかられるような、そんな空気です。火神くんも同じものを感じ取ったようで、僕と示し合わせるまでもなく、降旗くんを家まで送ると申し出ました。無論、鈍い降旗くんが自分の状態に気づくわけもなく、当然のように遠慮してきました。が、その遠慮を受け取ってはいけないのは明白です。僕たちはもはやまともな理由もなく、いいから送らせろと降旗くんに迫りました。迫力にたじろいだ降旗くんは、びくつきながらも首を縦に振りました。本当に、素直な子です。
ひとりになった寝室のベッドの上で、僕はごろごろする気力もなく、ぼやっと天井を見つめていました。今夜は火神くんに存分にかわいがってもらう予定だったのですが……ちょっとそんな気にはなれそうにないです。この全身を覆う虚脱感と言ったらないですよ。火神くんがセックスを希望してきたら、どうぞお好きにとマグロになるしかありません。そのくらい疲れています。主に精神が。
と、そのとき、ベッドサイドの小テーブルに置いた携帯から電子音が流れてきました。起き上がるのも億劫だったので無視しようと一瞬思いましたが、着信音が火神くんからのものだったので、出ることにしました。
「火神くん? どうしました?」
『黒子。ついさっき、降旗のアパートに着いたんだけどさ……』
短い言葉ですが、僕は尋常ならざる気配を察知しました。なんだか声を潜めている様子です。トーンも深刻な響きを帯びています。
「何かあったんですか? まさか……強盗がいた、とか?」
『いや……強盗だったらどんなによかったことか』
「火神くん?」
『赤司が……いた』
「へ?」
な、なんですって……?
『部屋に電気ついてて、換気扇も回ってて、変だと思ったら……降旗が鍵開けるより前にドアが開いて……中から赤司が……』
なにそれ怖い。ホラーより怖いですよ。
「ちょ、ちょっと待ってください。赤司くん、今週末は京都に行っているはず……洛山のOBとして招かれてるって」
『多分、予定が変わったか、前倒しして帰ってきたんじゃねえかな。よそ行きっぽいちょっとカッチリした服着てたし』
「じゃあ、帰ってきてそのまま降旗くんのところに……?」
『みたいだ。そういや降旗、前に赤司に合鍵渡してあるとか言ってたし……』
僕は声が震えるのを抑えられませんでした。
「い、いまどうしてるんです? 火神くんと降旗くん」
『俺はドアの外に突っ立ってる。降旗は……中に引きずり込まれた』
「え」
え、これ最悪の事態じゃないですか?
数日空けば大丈夫でしょうが、今日はまずいです。だっていまの降旗くん、明らかにアレな空気漂わせてるんですよ。恋愛には激鈍な赤司くんですが、性欲の概念は普通に持っているのです、気づかないはずがありません。普通ではない感覚の持ち主である赤司くんがそのことで即座に腹を立てるかは未知数ですが、降旗くんを部屋に連れ込んだということは、少なくともそういった雰囲気を感知したのでしょう。普段の純朴な降旗くんにさえ性欲を刺激されているような人です、いまの降旗くん相手だったらそれはもう……ん? 降旗くんの願望的にはこれで正解でしょうか? いや、でも、性欲だけを理由にセックスするのだったらいつもと変わらないので、やっぱり意味がないでしょうか?
……などと僕ができるだけポジティブな方向に思考をこねくり回しているところに、火神くんが悪いニュースを届けてきやがりました。
『赤司のやつ……玄関前にいた俺らを最初は不思議そうに見てたんだが……おまえがいないのに気づくと――つまり降旗が俺とふたりだってわかると――急にこう……目が険しくなってよ……。あれは攻撃色だった』
「攻撃色って……王蟲じゃないんですから。……あの、攻撃されたんですか? ハ、ハサミとか……」
僕は震え上がりました。ワンルームのアパートは構造上、玄関と台所が近いというか一体化していることが多いです。降旗くんの部屋もそうです。つまり刃物がナチュラルに詰まった空間がすぐそこにあったということです。鋏ならまだしも、包丁だってあるのです。
もしかして火神くん、いまお腹から血を流しながら必死にメッセージを残そうとしているのでしょうか!?
不穏な想像が頭をよぎる中、火神くんが今度は相対的に幸運な情報をくれました。
『いや、物理的な攻撃はなかったけど……目がすげえ怖かった。視線だけで殺されるかと思った』
「もしかして……嫉妬……なんでしょうか」
あの赤司くんが嫉妬するなんておよそ想像もつかないことですが、信じがたいことに彼は人類である降旗くんに恋をしたのです。嫉妬という恋愛につきものの感情が湧き上がる可能性もあるでしょう。
『わかんねえ。状況からするとそうかもしれねえが、やつの感情は読めん。とりあえず殺意だけは明確に感じ取ったが。そのあとちょっと話をしたっつーか、詰問? みたいな感じになった。その雰囲気で降旗のやつ、かなりびびっちまった。俺もびびったが。そのときの行動も一種異様だったんだが、そのあと赤司のやつ、突然降旗を部屋の中に連れ込んで、鍵かけちまった』
「ふ、降旗くんは……!?」
『いまそれがわかんねーから困ってんだよ。放置して帰るわけにはいかねえけど、だからってドア破って乱入するのも怖ぇ。下手に刺激したら余計事態を悪化させそうだし』
「中から何か物音はしますか?」
『静まり返ってるわけじゃないが……大声とか、なんか暴力的な音とかは聞こえない。それがかえって不気味――って、うわぁ!?』
電話の向こうで火神くんの素っ頓狂な悲鳴が響きました。と同時に、通話の音声が小さくなります。携帯が遠ざかった……?
「火神くん!? どうしたんです、火神くん!?」
返事はありません。やや間をおいて、火神くんの驚きと警戒に満ちた声が小さく届きます。
『あ、赤司……!?』
「か……火神くん!? 火神くん!?」
通話はまだ切れていないらしく、ふたりの声が不明瞭ながら遠く聞こえてきます。
た、大変なことになってしまいました。
混乱と焦燥に支配された僕の頭の中では、東京という世界有数の大都市で暴れ回るゴジラの映像がひっきりなしに流れていました。
どうなっちゃうんですかこれ……!?