あの夏から十年、これまで幾度となく思い出しまた夢の中で再生されてきたあの少年との日々を、しかしこんなふうに時系列に沿って詳しくひとに語ったのははじめてかもしれない。バラバラだと思っていた場面場面のピースは、言葉を音声に乗せると連鎖反応を起こしたかのように次々と記憶が蘇り、今日まで一度も思い出したことのなかったシーンまで頭の中で鮮明に浮かび上がった。こんなに長くたくさん話してしまうなんて。降旗自身、仲間に語りながら驚いていた。あの子と過ごした幼い日のわずかな時間が、自覚していた以上に自分の中に大切な思い出として根付き、保存されていたことに。
「いまとなってはこのバンダナだけが、俺があの子と出会って一緒に過ごしたことが本当のことだと示す唯一のものなんだよな。小学校に入ってからも何度か長野には遊びに行ったけど、苦い思い出もあるし親に目をつけられてるしで、あの場所には一度も行かなかった。そうこうしているうちにひいじいちゃんが死んじゃって、ひいばあちゃんは別の町に住む身内――俺の大伯父だったかな?――と暮らすようになって、遺産分割とか固定資産税とかの関係で家と土地を売っちゃったから、もうあのあたりに行くこともなくなった。学年が上がれば学校や地元の友達とのつき合いの比重が大きくなって、保育園のときみたいに親戚のうちに長期滞在ってのも難しくなるしね。あの男の子は当時東京に住所があったみたいだけど、東京って一口に言っても広いから、どこかで偶然再会するなんてこともなかった。まあそんな機会があったら奇跡に近いけど。それに、もしすれ違っていたとしても気づかないと思うんだよな。俺は狼の姿で街中をうろついたりしないから。あの子は俺を犬だと思っているから、人間の俺を見ても反応しようがないし、俺の中のあの子のイメージは狼の感覚を通してのものだから、人間の姿のときにあの子を見かけても、わかんないと思うんだ。ずっと子供の姿のままなわけないし。ひょっとしたら、気づかないだけで中学とかで一緒だったかも? と想像しなくはなかったけど……まあ夢見がちな話だとは思うよ。少子化の時代とはいえ、東京住まいの同い年の男子なんて腐るほどいるんだから。どんどん時間が過ぎていって、あの夏に彼と出会ったことは子供の想像力がつくり出した架空の出来事なんじゃないかって感じることさえあるんだけど、このバンダナを見ると、ああ、やっぱり本当のことだったんだなって思う。それに、こうやってひとに話すために思い出してみると、びっくりするくらいたくさん思い出せるもんなんだなって。きっと実際の出来事とは違っている部分もあるだろうけど、意外なほど風化していない。記憶は古いもの、小さいときのものほど鮮明に残っているっていうけど、あれ、ほんとみたい」
降旗はようやくひと息つくと、すっかり氷が溶けほんのり甘く薬っぽいだけの液体と化したコーラをストローで吸い上げ慰め程度に喉を潤した。写真の中で水色のバンダナを巻き、機嫌よさげにカメラの前でくつろいだポーズをとる子狼の自分を見下ろし、カバー越しにその表面を親指で撫でる。
「あの子、どうしてるのかな。元気にしてるといいな。多分、いまの俺らくらいの年になってるだろうけど……」
自分が成長したのと同様、彼にもまた同じだけの時間が流れているはずだ。病気や不慮の事故での不幸がなければ、おそらく彼はいま高校生くらいの年齢だろう。そんなに大きくなっていたらもう会ってもわからないだろうなと苦笑を漏らす。と。
「うっ……ううっ……」
十年前の思い出という名の感傷から現在に意識を戻した降旗の鼓膜を、なにやらくぐもった声が震わせた。種類としては嗚咽だろうが、やけに騒々しい。はっとしてあたりを見回すと、自分を除くバスケ部の仲間が全員、うつむいて肩を震わせていた。リコは目尻にハンカチを当て、日向は眼鏡を外し目頭を指でつまむように押さえ、木吉をはじめとする他のメンバーは前腕を目元にかざし男泣きのポーズをとったり両手で顔を覆ったりテーブルの端に額を押し付けたりと、さまざまな形態ではあるが、いずれも皆鼻をすすっていた。それはもう、湿っぽく。アメリカ育ちの火神だけはリアクションがオーバーで、膝に乗せた黒子を抱きまくらよろしく抱え込み、おいおいわかりやすく泣いている。
「え……ちょ? み、みんな……?」
ここがファーストフード店の屋外席であることを考慮から外すにしても異様な空気に気圧されながら、降旗が上擦った声を上げる。
「ど、どうしたんだよ? 福田? 河原?」
一様にしくしくする面々を見渡しつつ、とりあえず手近な位置にいる一年生ふたりに声を掛ける。彼らはのっそりと顔を上げると、涙の筋を拭こうともせず唇を震わせた。
「だ、だって、だって……フリィ……おっ、おっ、おまえっ……おまえのっ、話が……」
「あんまりにも、悲しいじゃんかそれぇ……」
「うっ、ううっ……」
「うぉぉぉぉぉぉ……」
ほぼ同時に滂沱の涙を流しはじめる福田と河原。降旗は驚きと困惑とともに視線をさまよわせ助けを求めるが、ほかのメンバーもだいたい同じような状態である。
「そ、そんなに泣くような話?」
当惑する降旗に、黒子が首を持ち上げ顔を向けてきた。表情は普段とさほど変わらないが、大きな目の白目部分は細い血管が赤く浮かび上がり、お手本のように充血している。
「当たり前じゃないですか……なんですかその悲しくも感動のストーリーは。ハチやサーブをリスペクトですか?……駄目です、そんなことをしたら死んでしまいますよ。降旗くん、死なないで!」
うわぁぁぁぁ、と黒子が普段の姿からは想像もつかないような涙声の叫びを上げながら降旗に抱きついてくる。自分で口にした内容に自らの涙腺を刺激されたらしい。
「そういうこと言うなよ黒子! フリが、フリが死ぬとか……うわぁぁぁぁぁ!」
「ふ、降旗ぁ……」
「フリ、フリ……死んじゃったなんて……」
「なんで死んじゃったんだよぉぉぉぉ……」
「いや、死んでねえぞ!? 目の前の現実を見ろ!?」
不吉な呟きをこぼしながら涙を流す同級生たちに降旗はさすがに気色ばんだ。彼らはちゃんと話を聞いていたのだろうか。あるいは傾聴のあまり、降旗ではなくあの男の子のほうに感情移入しすぎてしまったのか。
「ったく……死んでねえし、当分死ぬ予定もねえっての。っつーか、そこまで泣くような話かなー……。結果論だけど、犠牲者は出ずに済んだんだし。まあ、あの子の心中を考えると申し訳ない気持ちにはなるけど。俺はお互い無事だったって知ってるからいいけど、あの子は俺が――ほんの一時期とはいえ仲良しだった子犬が――自分を助けて死んじゃったって思ってるわけだから。あの子を助けることができて、俺はある種の満足があったけど……それはあの子を泣かせちゃったってことだろうから。多分、あの子は悲しんでくれたと思う。俺の行動はあの子を助けたけど、同時にあの子に悲しい思いをさせちゃったってことでもあるんだよな……。そのことに思い当たったのは、結構大きくなってからのことだったけど。小さい頃はまだ、相手の気持ちを想像しきれなかったから」
知らず声のトーンが下がる降旗にますます刺激されたのか、仲間たちの嗚咽が高まる。降旗は慌ててフォローした。
「いや! でも! 十年も前のことだから! さすがにいまだにぐずぐず引きずってたりはしないと思うよ? あの子だってきっと元気にやってるって」
何の根拠もなくただの希望的観測として口早に言ってみたものの、部員たちの声はしばしやむことなく、週末のファーストフード店の一角をどんよりと曇らせていた。十分ほどしくしくめそめそと周囲の空気を湿度飽和にしたところで、次第に嗚咽の波は引いていったが、気づけば彼らの回りはものの見事に空席になっていた。まだ客のはける時間帯ではないというのに。
「お、落ち着きました?」
恐る恐ると言った調子で降旗がキャプテンの日向にうかがいを立てると、
「おう……」
弱々しい小声で返事が返ってくる。涙で眼鏡のレンズが汚れてしまったのか、ケースから専用のクリーナーと布を取り出し拭いている。その横ではリコがハンカチで鼻を覆いぐすぐす鳴らし、それに気づいた木吉が鞄からポケットティッシュではなくなぜかトイレットペーパーを一ロール取り出し、彼女に渡した。すると、俺も俺もと小金井や土田もトイレットペーパーをめいめいちぎって鼻をかみだす。
「みなさん……感受性が強いようで」
同輩ならともかく、上級生相手に軽口で茶化すのは気が引け、降旗は当たり障りのないコメントをぼそりと落とした。ちら、と向かいの河原に視線をやると、彼は大きく息を吐き出しながらなおも目元を手の甲で拭っていた。
「だ、大丈夫か?」
「おう……。……はあ、俺、アレ思い出しちまって涙もひとしおだったわ」
「アレ?」
愛犬との別れの思い出でもあるのかと降旗が首を傾げると、
「こだぬきポンポ。昔みんなのうたの再放送枠で流れてたレトロな歌。ポンポ超泣ける……。ポンポ……ポンポ……ポンポぉぉぉぉ……」
架空のタヌキ(しかも古い)の名前を連呼しながら再び泣きはじめる河原。
「や、俺ポンポじゃねえよ。タヌキでもないし」
戸惑う降旗をよそに、そのレトロなみんなのうたを知っているメンバーがどういうわけか自然と合唱をはじめた。歌詞を聞く限り、自分の語った思い出話とさほど似ている感じはしないのだが……一度出会って別れそれきりというあたりが彼らの心の琴線に触れたのだろうか。
いいひとたちなんだけど正直ちょっとはずかしい。降旗はいたたまれない気持ちで肩をいからせ萎縮した。
「それにしても」自分の肩にうずめられた火神の頭を撫でながら黒子が言う。「初恋は苦いものとは使い古されたフレーズですが……降旗くんの思い出はあまりに苦すぎます。むしろ痛いほどです」
「だーかーら! なんでそういう方向に持ってくんだよ。おまえ意外と恋愛脳なのか?」
降旗はパフォーマンスとして軽くテーブルを叩いた。話している間も――特に少年と一緒にきゃっきゃとじゃれている幸せな記憶を語ったとき――皆に散々初恋だのキスだのからかわれたが、ここでもその話題が再燃してしまった。
「だって……『ずっと一緒にいたいね』って何事ですか。五歳にして将来を誓い合ったんですか、幼児の無邪気さで結婚の約束をしちゃったんですか」
「いや……別れを惜しんでの言葉なんだけどそれ。だいたい、向こうは俺のことを犬だと思ってたんだぞ。子供がわけもわからず結婚って単語を使うことはあるけど、相手が動物じゃおかしいってことくらいはわきまえてるだろ。あの子、頭よさげだったし」
「でもきみは人間の言葉がわかるんだから、彼の言葉はちゃんととらえていて、その上で自分もずっと一緒にいたいと思ったんでしょう? 約束としては成立しないかもしれませんが……でも、そのくらいその子のこと、好きだったんでしょう?」
後半に行くにつれ、黒子の声は神妙な響きを帯びていった。からかい半分での言葉でないことが感じられ、降旗は一瞬詰まった。
「それは……まあ、そうだよ。親を慕う以外では、ある意味一番純粋な『好き』だったんだとは思う。なんてったって五歳の子供だったんだからさ」
唇を尖らせつつも認める降旗。ふりであっても否定するには、あの少年との記憶とそのときの感情は降旗にとって重みがありすぎた。きっとからかわれるだろうな、と照れと座りの悪さの中で覚悟を決めながら仲間たちからの反応を待っていたが、予想に反し、誰ひとり揶揄の言葉を放つものはいない。代わりに彼らは、拳を握りしめたり目頭を押さえたり口元を手の平で覆ったりしながら、じ~んと音がしそうな空気を醸していた。またしても感動の渦に巻き込まれているようだ。それにつられてか、語っているときにはさほど感傷的にならなかった降旗の胸にも、じわじわと熱が灯るような感覚が生まれる。単独で写っている子供の自分の写真を見下ろす――確かに自分しかいないけれど、首に回る水色の布が、パーカーを着た少年の姿を浮かび上がらせるかのような錯覚を生む。
――だいすき! きみがだいすき!
幼く高い少年の声が耳の奥に蘇る。子狼の自分に向けてくれた純真な笑顔とともに。
やべ、ちょっと目が……。
仲間の感受性が自分にもうつったのか、降旗もまた目の奥が熱くなるのを感じずにはいられなかった。
*****
ひとり一セットずつの注文で三時間近く居座ったあと、バスケ部の面々は一斉に店を出た。帰る頃には皆頭も冷えていたので、しばらくこの店には入れないな、とそれぞれ口には出さないが胸中で思いながら。
しばらく同じ方向に歩いたあと、大きな交差点にあたったところで各々自宅への方向へと解散することになった。リコに頼まれ持ってきた降旗のアルバムはしばらくの間貸し出され、メンバー内で回されるという話でいつのまにかまとまっていた。なんでそんな流れになり、そして俺はいつOKを出してしまったんだ? 釈然としないものを抱えつつ、減るもんでもないしまあいいか、と深く考えるのはやめた降旗だった。
長時間鞄の中に潜ませておいた二号を出してやった黒子は、最短ルートをあえて回避することで長めの散歩をしてやることにした。途中まで進路が同じ降旗は、二号のリードを持つ黒子の隣を歩いた。秋分を越えた空は、すでに星影のきらめきが散らばりはじめている。
「そういえば、例の男の子、東京住まいなんですよね?」
黒子が思い出したように尋ねてくる。いささか脈絡がないが、例の男の子が誰を示すのかは明白だ。
「ん? 当時はそうだったみたい。いまはわかんないけど」
「探したことってあります?」
「いや、ないよ。名前も知らないんじゃ、無理がありすぎるって。長野のほうも、もうずっと行ってないし、ひいじいちゃんの家ももうないから行く機会もなくなっちゃったんだよな。だから、探し回るのは現実的じゃない。親からもう会っちゃ駄目って言われていたってのもあるけど、子供の力じゃ不動産の所有者なんかの個人情報調べるのも難しいだろ? また会えたらいいなって思いながらぼんやり年月が過ぎるに任せちゃって、いまに至ってる感じ」
「そうですか。まあ手がかりがパーカーの布くらいじゃ探すのは非現実的ですよね」
黒子が残念そうにため息をつく。心なしが二号もそれに同調したかのように尻尾を下げ耳を倒した。やっぱりこいつら一号二号だよな、と降旗はしみじみ感じなんだか微笑ましい気持ちになった。
「なんでおまえがしょげた顔すんだよ。そりゃ会えたらいいなとは思うけど……どうしてもってわけじゃないんだから。いっぱい周りに迷惑かけちゃったこともあって、思うところはいろいろあるけど、結局あれは子供の頃の思い出なんだ。それにさ、もしかしたら東京の大きい駅とか店とか、あるいは模試の会場とかで、お互いそうとは知らずにすれ違ってる可能性だってあるじゃん? ドラマだったら双方向からのカットが入るようなイメージで」
うまい比喩が見つからず曖昧に笑う降旗だったが、黒子には通じたようで、ドラマ的なシーンを頭に思い描いたのか、ああ、と小さくうなずいた。
「そこでどちらかあるいは双方が振り返ったら、まさにドラマチックですね」
「ま、現実はそううまくはいかないんだろうけど」
ふふ、と苦笑しながらふいに降旗は足を止めると、暗い紫がグラデーションを打つ高い空を仰いだ。都会の明るさが支配的な首都の夜空は、長野の山地で見上げた夏の空のような華やかさに欠けた。空は時間的にも空間的にもずっとつながっているというのに。そう考えると、ちょっと不思議な気持ちとともに、わけもなく自然の壮大さにため息が漏れた。
「俺はさ……あの子がこの同じ空の下でいまも元気にやってるんだろうな、って思うだけで満足だよ。ほんと、ただの自己満足だけど。かわいくて優しい子だったから、きっと優しくてかっこいい男の子になってるんだろうな」
独り言のようにこぼしたあと、降旗は歩みを再開した。
バス停への分岐点に到達したところで、ふたりと一匹は立ち止まる。左へ折れる黒子に、直進の降旗がじゃあなと手を振りながら背を向けようとした。と、降旗くん、と呼び止める黒子の声にぴくと止まる。肩越しに振り返ると、薄い表情の中に柔らかいまなざしを混ぜる黒子と、その足元でちょこんと行儀よくお座りし見上げてくる二号の姿。
「降旗くん、きみがまたその子に会える幸運が来ることを祈ってます」
「……そだな。ありがとう」
降旗もまた目を細めて答えると、今度こそバイバイと手の平をひらめかせたあと、帰途についた。
ハンバーガーショップでの話の余韻が残っているのか、ひどく懐かしい気分がいまも続いている。あのパーカーから仕立て直したバンダナ、どこにやっちゃったっけ。お母さんに聞けばわかるかな。久しぶりに見てみたいかも。もう首には巻けないし、あの子のにおいはとっくに消えて、洗剤か防虫剤のにおいしかしないだろうけど……。
変身すれば、あの子のにおいを思い出せるだろうか。子供特有の甘ったるさと、お菓子のわかりやすい甘い香りを纏った、懐かしいあの子のにおい。すでに薄暗い視界の中、脳裏ではパーカーの水色が鮮やかに翻る。子狼の自分とあの少年が戯れる姿を思い描きながら、降旗は少し楽しい気分で自宅への道のりを歩いた。
――だいすきー!
思い出の中の子供はいまも優しい声でそう告げる。