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『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

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ちびっこ狼の思い出 7

ちびっこ狼、あの子のために


 彼と会う最後の日はいっそ不吉とも言えるくらいの暗雲が空全体を覆っていた。夏の雨にしては細かい水の粒が朝からひっきりなしに空から静かに落ちてくる。夕方にはやんでくれないだろうかと俺はその日しきりに縁側に出ては外の様子を確認した。今日は遊びに出れないよ、また明日、ね。沈んだ面持ちの俺を励ますように腰を屈めた母が頭を撫でた。雨の日は外に出ちゃ駄目なの? やや遠回しに遊びに行きたい意思を伝えると、母がふるりと首を横に振る。雨の日は滑りやすくなって危ないから、我慢しようね。雨がたくさん降るとね、小さな川ができて流されちゃったりするの。しきりに表に注意を払う俺の気を引こうと、母が自動車のおもちゃや絵本を見せながら居間に連れて行った。いつもより長い時間、子供向けのテレビ番組を視聴することを許されたけれど、俺は雨のことばかりに気を取られ、いつもなら楽しみな教育番組やアニメはちっとも頭に入って来なかった。
 昼のおやつにスーパーの菓子パン売場に置いてありそうな安い葛饅頭をもらって食べたが、甘いはずのこし餡はただの湿っぽい粉を舐めているみたいに味気なく感じられた。天気は治まるどころかますます雨脚を強めていた。どうしよう、このままじゃあの子のところに行けないよ。絶対来てねって言われたのに。絶対行くって約束したのに。しょんぼりした顔を隠せずちびちびと饅頭をかじる俺に曾祖母が、子供に葛饅頭は嬉しくなかったかねえと困り顔で呟いていた。日の傾きのわからない悪天候では窓の外を眺めても憂鬱になるばかりで、俺はいつもより頻回に時計を見た。年長組に上がったばかりの頃、やっと覚えたアナログ時計の読み方。壁時計の針が読めるようになっていたことに感謝しつつもただ過ぎていくばかりの時間はますます俺を焦燥に駆り立てた。おやつから一時間ほど経った頃、母が曾祖母とともに家を出た。ひいばあちゃんを病院に連れていくから、ひいじいちゃんとお留守番しててね、今日はお外に出ちゃ駄目だからね、と言い残して。曾祖母が病院、正確には診療所へ行ったのは、盆休み前に定期受診を済ませておくためのもので、突発的な病が降りかかったというわけではなかった。わざわざ雨の日に連れて行ったのは、そのほうが空いているからというのが理由だったのだろう。
 外出ついでに買い物も済ませてくるとのことで、母たちが帰宅するのは夕刻を回ってからになる予定だった。雨脚も風も強くはないが、季節を先取りしたような長雨は少しも遠のく気配を見せなかった。曽祖父は俺にテレビのチャンネルを譲り、渓流釣りの道具の手入れに精を出していた。しかしそのときの俺にとって夕方の子供向け番組はただのノイズだった。テレビの右上に表示されるデジタル時計の数字がより一層心を急かす。雨はまだやまない。いつもなら彼と会っていると頃合いだと思われる時刻が近づくと、俺はいよいよ落ち着かなくなった。外に出ては駄目だと母に言いつけられたこと、雨に濡れて帰ってきたら母に叱られ、問い詰められるであろうことに良心と弱虫が騒いだが、一方で、彼との約束を守れないままお別れになってしまうことにも強い罪悪感と自分への失望を感じた。デジタル表示が午後五時を告げたとき、俺は畳からぱっと立ち上がると、滞在中に母と一緒に間借りしている部屋へと向かった。床の間に置かれたボックスから首輪を取り出すと、幼児の不器用な細い指で四苦八苦しながらなんとか自力で首にはめる。それから服を脱いだのだが、シャツが首輪に引っかかってしまい、これまたちょっぴり苦戦した。先に脱いでおけばよかったと気づいたのは、すっかり裸になってしまってからのことだった。服をくしゃくしゃに丸めて押入れに突っ込み、曽祖父に見つからないよう足音を忍ばせながら素っ裸のまま縁側に向かう。ガラス戸の鍵を開け、雨の降りしきる屋外に出てきっちり戸を閉めてから、俺は狼の姿へと変化した。母の帰宅前に自分が戻って来られるかはわからないし、仮にそれが可能だったとしても、濡れネズミの体で家に上がれば、俺が外に出ていたことはばれてしまうだろう。その程度の想像はついたが、俺の小心は怯まなかった――だって、いまこのときあの子に会いに行かなかったら、もう二度と会えなくなっちゃうんだもん。それに比べれば、母にこっぴどく叱られるくらいどうということはないと思えた。
 暗黙の定刻より遅れていることに焦りながら雑木林に飛び込み、雨でぬかるんだ腐葉土を蹴りながらあの場所まで駆ける。普段より滑りやすく、肉球の掴みがうまくいかないことにさらなる焦燥を募らせながらも、持てる力を全部ぶつけるくらいの気持ちで必死に走った。ほどなくしていつもの場所にたどり着いたのだが……あの子の姿はどこにもなかった。足音も、気配さえも。
――……なんで? 俺が遅くなっちゃったから? 帰っちゃったの……?
 ゴーン、と鈍器で殴られたような心地であからさまなショックを受けながら、俺はしばし呆然とその場に立ち尽くした。尻尾はしょんぼり丸まり込み、耳は倒れてしまっていたことだろう。でも、諦めきれずに俺は少しの間そこで彼を待った。俺が遅れてしまったのと同様、彼もまた遅くなっているのかもしれないという儚い希望を胸に。
 けれども彼は現れなかった。居ても立ってもいられず、俺は思い切って林の先に脚を踏み出した。花火大会の日に身を潜めていたブロックの向こう。彼が住んでいる家がそこにある。俺はしばらくの間、はじめて間近で見るロッジ風の建物の周囲を警戒しつつうろついた。中の耳と鼻で様子をうかがいながら。しかし人の気配を感じない。
――どうして? ここ、あの子のおうちじゃないの……?
 もしかしたら、俺は日にちを間違えていたのだろうか。彼はもう東京に帰ってしまったのだろうか。彼がこの家にいない理由はほかにもあっただろうが、俺はまっさきに浮かんだその可能性以外に何も考えられなくなってしまって、ひどく落胆した。挨拶も何もできずにお別れになってしまった、と。俺はなおも未練がましくそわそわとあたりを行ったり来たりしていたが、静まり返った家屋を打ち付ける細かな雨の単調な音に言いようもない悲しみを掻き立てられ、やがて踵を返し、しょげ返った足取りでとぼとぼと林の中へ戻っていった。
 失意の中の帰途はいつもより長く険しく感じられた。また、往路の登り坂は帰りには下り坂になる。それも急勾配の。斜面に差し掛かったとき、足下の地面の緩みを感じ取った俺は、最短距離となるそのルートを諦め、もう少し傾斜の緩やかな方向へ迂回することにした。花火大会の日に意図せずあちこちうろうろすることになったから、いくつかのルートの候補は覚えていたんだ。花火は怖かったけど、思わぬ収穫になったということかな。……もっとも、これがこのあとの事態を引き起こした遠因ということになるのかもしれないけど。
 斜面の回避を試みて遠回りをしていると、上を覆う鬱蒼とした葉の密度が次第に薄くなっていった。子供の頭ではそこまで考えが至らなかったのだが、山道の近くまで出てしまっていたんだ。山道はところどころ切り立った急斜面に面しているところがあるだろう? そのあたりだったんだと思う。
――あれ、もしかして林の外に向かっちゃってる? ひとに見つかっちゃ駄目ってお母さんに言われてるのに……。
 いまさらながら母との約束を思い出し、俺は恐る恐る視線を上げた。見つめた先には雨雲に覆われた灰色の空と、それをキャンバスにした人工物。ガードレールが緩い角度を描いて横に伸びている。人間のときよりさらに目線が低いこともあり、急斜面の先に設置されたそれは、遥か高いところにあるように感じられた。また、実際の角度よりかなり鋭角に、ほとんど垂直の崖みたいに思えた。あそこから誰かがのぞき込んできたら、俺、丸見えだよ。狼が出たって大騒ぎなっちゃうかも? 捕まって怖いところに連れて行かれちゃうかも? 漠然とした想像が恐怖を呼び立て、俺は一歩、二歩とあとずさったあと、そそくさとその場を立ち去ろうとした。が、足を踏み出して数歩のところで上方から小さな物音がした。水溜りを打つ雨だれを不調和に大きくしたような。心臓が小さく跳ねるのがわかったが、危険を確認しないまま背を向けるのもまた怖く、俺は駆け出そうとしたばかりの足を止めそろそろと顔を上げた。ガードレールの向こう側には、それの少し上をのろのろとスライドするように動く見覚えのある物体があった。傘。そしてその下からのぞくのは……
――あの子だ!
 彼の顔だった。子供の体に不釣り合いな大きな傘を差した彼が、ガードレール越しにこちらを見下ろしていた。なんで彼があんなところを歩いているのかはわからなかったが、それを疑問に思うよりも、ただただ彼と会えたことが嬉しくて、俺はその場でぴょんぴょん左右に跳ね出した。もちろん尻尾は振りまくり。嬉しくて嬉しくて、全身で喜びを表現した。彼もまた傘を持ったまま片腕を振ると、
「いつものとこで待ってて。すぐ行くから」
 大きな声で俺に呼びかけた。
――やっぱりまだこっちにいたんだ。俺のこと、忘れてなかったんだ。ちゃんと会うつもりでいてくれたんだ!
 主人の帰宅を予期した飼い犬がすっかり落ち着きを欠くときのように、俺は跳ね回ったり二足立ちしたりと、すっかりテンションが上がってしまった。そんな俺の様子に応えてか、彼はガードレールから少し身を乗り出し、もう一度腕を振ろうとした。が、そのとき、彼の顔が一瞬見えなくなり、そうかと思うと傘がガードレールから飛び出した。
――え?
 目を見開き、前脚を片方上げた状態で俺は一瞬固まった。その刹那の時間にも事態は進み、ガードレールからこちらに向かって何かが近づいてくる。
――え、うそ、落ちた!?
 そう思った直後、硬直した足がひとりでに地面を蹴っていた。どんな動きをしたのかは自分でもわからない。とにかくほんの短い時間で、そして必死だったから。考えるよりも先に動くとは、ああいうことを言うんだろうな。バランスを崩し、ガードレールを越えて斜面を転がる彼のところまで駆け上がり、多分止めようとして、でも体重だけでなく運動の負荷も加わったことで結局止められず、彼と一緒に下まで落っこちてしまったんだ。転落中は重力の方向もわからないくらい感覚が混乱していて、どうにか目を開け体を起こすことを思い当たったのは、全身に走った衝撃が抜けてからのことだった。どっちが地面でどっちが空? そんな基本的な疑問を抱きながら、肉球をつけることのできる場所を探す。どうやら仰向けに近い体勢で転がっていたようで、立ち上がるには体を反転させる必要があった。が、うまくいかない。ひどく体が重い。まだ混乱冷めやらぬ頭のまま首を回すと、俺の体の上にあの子がうつ伏せていた。
――え……? た、大変!?
 慌てて彼の様子をうかがおうとしたが、顔を近づけようにも俺の体は半分ほど彼の下敷きになっており、身動きに制限が掛かっていた。だいたい同じくらいの体重だったと思うから、子供の身にはかなり重く感じられた。じたばたしながらなんとか這い出ると、うつ伏せの彼の頭部にマズルを近づけた。呼吸があることにほっとするのも束の間、ぴくりとも動かない彼の姿にぞわりと全身が泡立った。起こさなきゃ。呼ばなきゃ。名前……ああ、俺、この子の名前知らないや。聞いておけばよかった。聞けるはずもなかったのにそんな後悔が胸によぎった。
――大丈夫、ねえ、大丈夫!?
 実際はクーンクーンと鳴くばかりだったが、心の中では必死に言葉を掛けていた。そうしているうちにやがて、
「ねえ! 起きてよ! ねえ、大丈夫!?」
 聞き慣れた自分の声が耳に届いていた。彼に呼び掛けなければと思っているうちに、勝手に変身が解けたらしい。雨の中、首輪だけつけた素っ裸の子供なんて、もし誰かに発見されたら大騒ぎになりそうな姿だよ。ただ、雨脚の退かない夕刻の山道には、人影はおろか車の気配もなかった……不運なことにね。
 人間に戻り腕が使えるようになったので、俺は彼の体を恐る恐るひっくり返した。顔は泥だらけで、額や頬の擦り傷から血が滲んでいた。はじめて人間の視覚でとらえた彼は、思ったとおりきれいな顔立ちをしていたけれど、それゆえに輪を掛けて、泥と血で汚れた姿が痛々しく映ってならない。完全に意識を失っているのか、苦痛の色はなく、ただぐったりと脱力していた。
「起きて、目を覚まして! 雨降ってる! 濡れちゃうよ、寒いよ!? ねえ!」
 何度も何度も大声で呼んでいると、ふいに彼のまつげが震えた。俺ははっとして数秒止まったあと、ひときわ声を張り上げた。
「大丈夫!? しっかりして!」
 弱々しくまつげを震わせながら、ゆっくりとまぶたが持ち上がる。
「お願い、しっかりして! どこか痛い!?」
 きっと顔だけでなく怪我をしているであろう彼の体を激しく揺さぶるのはよくないことだっただろうが、そこまで頭の回らなかった俺は、仰向けの彼の肩をなかば縋るように掴んで揺すった。すると彼は数回目をぱちぱちさせたあと、焦点の合わない瞳のままぼんやりと俺のほうへ顔を向けたまま、右手をのろりと持ち上げた。子供の小さな手が俺の頬に触れ、雨を拭うように撫でた。大丈夫だよ、と答えるみたいに。狼の俺を幾度となく撫でてくれた彼の手は、いまはすっかり血の気を失い冷たくなっている。
 よかった、気がついたんだ――安堵が漏れるよりも先に、彼のまぶたは再び下り、かすかに持ち上がっていた首もがっくり地面に逆戻りしてしまった。
「あ……」
 その後も同じように、数えきれないくらいたくさん呼んだけれど、彼の意識は浮上してくれなかった。素っ裸のまま無益な悪戦苦闘をしているうちに雨粒が大きさを増してきた。雨雲の向こうで日が落ちかけているのだろう、晴れの日に比べるとぐっと周囲が暗くなるのが早かった。また、程度はそれほどではないとはいえ昨晩からひっきりなしに続く降雨の総量は多いのだろう、雑木林の中でいくつもの斜面が合流する低い部分に、水を逃がすための臨時の小川が自然に形成されていた。そのうちのひとつは彼の落下地点、すなわち俺たちが留まっている場所のすぐそばを流れていた。斜面の急勾配が反映され、水の流れは速かった。
――雨がたくさん降るとね、小さな川ができて流されちゃったりするの。
 母に言われた言葉が脳裏に蘇る。流されちゃう? このままここにいたら、彼も俺も流されてしまう? 母の発言は、俺に外出を牽制するための誇張を含んでいたのだろうが、茶色の雨水が目の前を激しく流れていく光景は、小さな子供に途方もない恐怖を呼び起こした。
――ここから離れなきゃ! 道路に戻らなきゃ!
 そうは思っても、直線距離で駆け上がることは不可能だ。俺ひとりなら変身すればなんとかなるかもしれないが、彼を連れていくことはできない。ガードレールのあるほうを見上げると、一方向に下っていくのがわかった。そちらへ向かって移動すれば、どこかで道路に上がれるかも? 俺は彼の上半身を起こし、背中側に回って胴体に腕を回すと、よいしょと力を込めて立ち上がった。が、そこで左脚に鋭い痛みが走った。彼を起こすのに必死で気がつかずにいたが、転落に巻き込まれたときか、あるいは下敷きになったためか、左脚を痛めてしまったようだった。出血はなかったが、骨や筋をやられたのか、地面に触れさせるのもためらわれるくらいには痛んだ。
 どうしよう、片足じゃ進めない。ひとりならともかく、この子を運ぶのはケンケンじゃ無理だ。狼なら……? 駄目だ、三本足なら片足よりは移動はしやすいけど、狼は腕がない。彼を連れていけないじゃないか……。一時的に彼を置いて助けを呼びに行くのがもっとも妥当だっただろうが、幼い俺にはその発想が出て来なかった。目の前の光景だけが理解し思考できるすべてであり、自分が彼を助けなくてはと、ただそれだけを思っていた。
「どうしたら……」
 途方に暮れかけたとき、にわかに寒気とともに眠気が押し寄せてきた。あ、駄目、いまはまだ……。そう思った瞬間にはもう変身しており、俺は狼に逆戻りしていた。当然彼の上体を支えきれず、地面に落とすことになってしまった。幸い、たいして浮き上がらせていなかったので、大きな衝撃はなかったけれど。
 狼に戻ってしまったのは、一種の生理的な防御反応だったのだと思う。狼のときに受けた傷は狼の姿でいたほうが治りが早いし、無防備な文字通りの裸のサルでいるよりは、毛皮があり運動能力も高い狼の姿でいたほうが安全だから。そういった理由があっての変身だったので、すぐまた人間に戻るのは難しかった。実際、人間のときよりも寒さは感じにくくなっていたから、体温を奪われ体力を消耗するリスクが軽減されたという意味では、俺の体が勝手に起こした変身は、生存のためには懸命な選択だったのだろう。ただ、俺はましにはなったが、彼はどうなるというんだ? 服を着ているとはいえすっかりずぶ濡れで、その上怪我をし、意識を失っている、この小さな少年は、もしこのままここに置かれていたら、どうなってしまうんだ? 心なしか、水の流れが太く激しくなっているような気がした。
――運ばなきゃ! 早くここから離れなきゃ!
 とはいえ狼に腕はない。ものを持ち運ぶのに使える唯一の道具は、己の口。俺はまず彼のパーカーの裾を噛むと、定めた方向に尻を向け、あとずさりするかっこうで彼を引きずって行こうとした。でも夏物の薄い布はすぐに繊維が破綻してしまい、彼の服に穴を開けるだけとなった。Tシャツやズボンを噛んでも結果は同じだった。試行錯誤している間にも空から注ぐ水の粒は大きくなり、細い川は水量と勢いを増していく。急がなくては。幾度かの躊躇を経たあと、俺は大口を開けると、彼の左の太腿をゆっくりと噛んだ。ズボンの布は上に比べると厚くて丈夫だったけれど、シャツの袖などよりつくりが単純なため、強く引っ張ると簡単に脱げてしまう。だから彼を運ぶには、体そのものに力を加えるしかなかった。とはいえ動物の仔みたいに首の後ろをくわえるわけにはいかない。子供の体は筋肉や脂肪の絶対量が少なく犬歯を立てるのが怖かったが、太腿の外側なら比較的肉が厚いし、臓器や太い動脈がない。知識として知っているわけではなかったけど、本能が訴えかけてきたのか、すぐに太腿を選んだ。ほんとはお尻のほうが安全なんだけど、噛みづらい形状だから消去法で大腿部になったんだろう。慎重にくわえたものの、いざ運ぶ段になるとかなりの力が必要で、それは必然的に顎の力を強くしなければならないことを意味した。痛むばかりで力の入らない左後脚はほとんど使いものにならず、実質三本足で彼の体をずりながら後ろ向きにゆっくりと進むうち、生臭いにおいが鼻を突いた。
――やっぱり血が出ちゃったんだ……ごめん。
 彼の体に傷をつけてしまったことを後悔しながらも、いまできること、するべきことは、彼を安全な場所まで運ぶことだ。だからもうちょっと、あとちょっとだから、がんばって。許して。
 水溜りやぬかるみを避けて緩く蛇行しながら十数メートル進んだあたりだろうか、
「あ……」
 小さな声とともにふいに彼が身じろいだ気がした。慌てて口を太腿から離して顔を上げると、彼がぼんやりとではあるが目を開き、首をかすかに持ち上げ不思議そうにきょろきょろと眼球を動かしていた。
――気がついた!? よかった……。
 俺は尻尾をぶんぶん振りながら彼の顔をのぞき込んだ。彼はまだ事態がつかめていないのだろう、しばらく視線と首の動きだけで周囲を眺め回していた。やがておおよその状況を察したのか、あるいは体の痛みがそうさせたのか、おっかなびっくりといった仕草で腕を動かし、左の太腿に近づけた。
――ご、ごめん……痛い? 痛いよね?
 申し訳なさに尻尾を下げた俺に、彼が掠れた声で尋ねる。
「きみが運んでくれたの?」
――うん、そうだよ。あそこじゃ危ないと思って……。でもごめんね。きみに怪我させちゃった。痛い? 痛い?
 太腿の傷に鼻を近づけ、穴の開いたズボンにおずおずと舌を這わせる。傷口に唾液を付着させるような真似はしなかったが、ごめんねと言葉で言えない代わりに、せめて動作で示したかったのだ。だが、彼は俺の行動に別の点を見出したようで、はっとしながら気色ばんだ。
「ごっ……ごめんね、僕のせいで……」
 彼の視線が俺の後ろ脚に注がれている。左を浮かせていることに気づかれてしまった。聡明な彼のことだから、俺が転落に巻き込まれたことをすぐに推測したのだろう。
――俺は大丈夫だよ、このくらい。それよりきみのほうが……。
 俺の足を観察しようと上半身を起こした彼だったが、痛みが走ったのだろう、すぐに地面に転がってしまった。しかし彼の気力たるや驚嘆に値するもので、
「だ、大丈夫。ちょっと痛いけど、動けそうだから。向こうのほうに歩いていけば道路に出られそうだね。ありがとう。あとは自分で歩いて行くよ」
 痛みに顔をゆがめながらも自力で立ち上がり、目的の進行方向に向けて足を踏み出そうとした。ここからが大変で。彼は何度も崩れかけながらも前進しようとした。そのたびに俺は彼の数歩前に回って警告の鳴き声を発した、無理をしないでと。なのに彼は、苦痛に喘ぐのを隠すこともできないのに、必死に前へ前へ進もうとする。その一歩一歩はほとんど意味がないくらい小さなものだったけれど。彼があまりに無茶を敢行しようとするので、俺はついに最後の手段をとらざるを得なくなった。犬歯を剥き出しにして、マズルに皺を寄せ、低い威嚇音を発する。火神に想像させるとかわいそうだけど、荒ぶる野犬って感じかな。自分じゃ確認できないけど、多分すごく怖い顔をしていたと思う。俺の睨みと唸り声は子供の心に恐怖を与えたようで、彼はいままで一度も見せたことのない、露骨に怯んだ表情を浮かべた。ひぅ、と息を呑む音が聞こえる。やがて彼は歩くのを諦めその場に座り込んだ。俺はすぐさま尻尾を丸め耳を倒しながら彼のもとへ駆け寄った。
――ごめんね、怖いことしてごめんね……!
 キューンキューンと鳴く俺に、彼は苦しいだろうに小さく微笑むと、腕を広げて俺を招き寄せた。
「いいんだよ、気にしないで。大丈夫、そのうちお母さんたちが気づいて探しに来てくれるから。だからきみはもうおうちに帰りな。早くおうちのひとに手当してもらって。ね?」
 彼は俺を抱きながらそう言うと、回していた腕をのろりと引っ込め、道路のほうを指さした。俺だけでもうちに戻れというように。
――嫌だよ! きみを置いていけるわけないじゃないか。
「お願い、言うことを聞いて。きみも怪我をしてるんだから。無茶しないで……」
 抗弁に代えて再び唸りはじめる俺を、彼は困ったように眉を下げながら諭した。でも、先に帰れという言葉裏腹に、彼の表情は苦痛が消えず、そして心細げだった。そんな顔をしている子を、どうして置き去りにできるだろうか。あの花火の日、彼は心細くてたまらなかった俺のそばにいてくれたじゃないか。優しく撫でていてくれたじゃないか。あのとき彼が一緒にいてくれて、俺はどんなに心強かったか知れない。だから、今度は俺の番だ。俺がきみと一緒にいるよ。置いていったりしないよ。
――俺がきみを助けるよ!
 助けたいなら、なおさら早く家に行って大人の助けを求めるべきだったのにね。まだ分別のつかない幼児だったから、判断ミスは仕方ないのだけれど。
 ふいに耳介がぴくりと動いた。機械……エンジンの音。車だ!
 自動車の走行音をとらえた瞬間、はじめて俺の頭に、他人をここへ読んで助けを求めるという選択肢が浮かんだ。そう思ったら一刻も早く呼びたいと、俺は遠吠えをした。声自体は人間のものよりもよく通るが、いかんせん獣のものだったから、人間の反応を求めるのは無茶な話だった。車が通りすぎてからも、俺は遠吠えを繰り返した。助けて、誰か助けて。俺の声を聞いて。気づいて。
 声が枯れかけてもなお吠え続けようとする俺を案じた彼が、おずおずと制止する。
「も、もういいよ。無茶しちゃ駄目だって。疲れちゃうでしょ。やめよう?」
――でも、誰か呼ばないと。雨降ってるし、夜になっちゃうし……。
 そう思ったところで、彼の唇が、いや体全体が小刻みに震えていることに気づいた。寒いんだ。そうだ、彼は俺と違って毛皮がない。びしょ濡れの服を纏っているだけ。夏とはいえ陽光がなければ高地は冷える。降りしきる雨は彼の体温を容赦なく奪っているだろう。
――温めなきゃ! この子、温めないと!
 俺は彼から少し距離をとってぶるぶる体を震わせ被毛についた水を飛ばすと、再び彼に近づき、なるべく接地面が大きくなるように彼の胸に背中を押し付けた。俺が何をしたいのか、わかってくれるかな……。
 彼はちょっとの間、きょとんとしていたが、やがて、
「あったかい……」
 小さな呟きとともに俺の体に腕を回してきゅっと抱き締めた。
「温めてくれるの?……ありがとう」
――うん、あっためるよ。俺、きみをあっためるよ。
 お互い濡れネズミだったけれど、それでも接していれば多少はましだった。間近で見ると、彼の奥歯は小さく打ち鳴らされていた。狼の目ではよくわからなかったが、多分すっかり血の気の失せた顔色をしていたに違いない。生理的な震えを帯びた声で、彼がぽつりぽつりと謝りはじめる。
「ごめんね、今日僕、親戚のおうちに行ってたんだ。だからいつものところに行くの、遅れちゃって……。きみに会いに行くの、忘れてたわけじゃないよ? でも、遅くなっちゃった。僕がちゃんといつもの時間にいつものところにいれば、こんなことにならなかったのに……ごめんね、ごめんね……」
――違うよ。俺も遅れちゃったんだもん……。それに、俺がこのへんをうろうろしてなければ、きみは落っこちたりしなかったのに。ごめんね……。
 お互い、相手への罪悪感でいっぱいだったのだろう、彼はごめんねを繰り返し、俺もしょぼんとした小声で鳴いた。そんな中でも、彼の体温に接していることは幾許かの安心材料になった。それは、彼がちゃんと生きているとかそんな大仰なものではなく、ただ彼がそばにいることが嬉しかった。……うん、俺は彼が大好きだったんだよ。
 安心から緊張の糸が緩んだのか、それまで気づきもしなかった疲労がどっと押し寄せてくるのを感じた。つい彼に体重を預けてしまうと、
「だ、大丈夫?」
 心配そうな声が上がる。
「クー……」
 大丈夫だよと答えるつもりで、俺は彼の口元を舐めた。半分は甘えが入っていたと思うけど。彼はよしよしと俺の耳の間を撫でながら、厳かな声音で言った。
「ほんと、僕は大丈夫だから。大分時間経っちゃったと思うし、そろそろお母さんかお父さんが来てくれると思う。きみにもお父さんとかお母さん、いるでしょ? 帰らないと、おうちのひと、心配するよ。僕はここで待ってればそのうち迎えに来てもらえるから」
 その言葉にはっとする。そうだ、うちのひと……助けを呼びに行こう。ここから誰かを呼ぶんじゃなくて。父は長野にいないし母は曾祖母とともに出かけている。高齢の曾祖父に頼れるか、あるいは俺がきちんと説明できるかは未知だったが、とにかく誰かに応援を求めないと、このままでは夜になり、ますます気温が下がってしまう。雨が激しくなるかもしれない。急がなければ。俺はそろりと彼から離れると、ゆっくりと距離をとった。彼はそれを、俺が帰ろうとしていると解釈したのか、ジェスチャーとともに早く行けと命じた。心配で心配で仕方なかったけれど、俺はもと来た方向へ駆け出した。左の後ろ脚をぴょこぴょこ浮かしながら。
 脚が万全でないことと地面のコンディションが悪いことが重なり、思うように進めない。どうしよう、これじゃあいつものルートは降りられない。迂回するしか……でも時間が掛かってしまうし、迂回路もそれなりに険しい。怪我をしていなければ平気だが、この脚では厳しいかもしれない。まだ日没には早いが、分厚い雨雲のせいであたりは薄暗かった。急がなきゃ。焦燥を募らせる俺の耳に、再びエンジンと水溜りが飛沫を上げる音が届いた。車……止められるか? 大胆にも、そして危険にも、そんな考えがよぎる。路面の悪い雑木林の中の斜面はきついが、公道までならさほど労せず出られそうだ。そして、夕刻という時間帯のためか、自動車の音は一台だけではないようだった。吠えるだけでは駄目だったが、姿を見せて呼びかければ……。いま思えばとんでもない発想だったが、そのときの未熟で余裕のない思考回路に客観性を求められるはずもなく、俺は思いついたばかりのアイデアを実行に移すべく、道路へ向けて必死に斜面を登った。
 県道だか国道だかわからないが、アスファルトで舗装された道路の端で、俺はなりふり構わず吠えた。トラックや観光バスは無情にも通過していき、二、三台の普通車も動物の存在に警戒して速度を落としたものの、無視をして過ぎ去っていった。やっぱり、狼の姿でどんなに吠えても駄目か……。母との約束を全部反故にしてでも人間に戻ればよかったかもしれないが、このときは変身を解除できそうになかった。体力の消耗がそれに拍車を掛ける。なんとか、なんとか助けを……。焦りのさなか、一台のコンパクトカーが近づいてきた。後続車はない。これを逃したら多分しばらく車は通らないのではないか。勝手な予想が脳裏に浮かんだとき、俺は先ほど考えた最終手段に打って出ることにした。
 痛む脚を無視して四足で走りだし、接近する車に向けて全力疾走。正面からだったのでドライバーはさすがに気づいたのだろう、急ブレーキが耳に痛いスキール音を生む。これでこの車は止まるだろう。しかしそれだけでは駄目だ。なんとかして中のひとを彼のところまで連れて行かなければ。だから、停車させるだけでは足りない。俺はぶつかる数メートル手前で思い切り前方にジャンプした。全身を激しい衝撃が襲う。雨の山道ということで元のスピードが控えめだったこともあり、衝突時にはかなり減速していたが、それでも金属の塊とせいぜい十数キロの生身の体では、あまりに差が大きかった。だが俺はふっ飛ばされなかった。何をどうやったのか自分でもわからない。同じことを再現しろと言われても、二度とできる気はしない。一念岩をも通すというが、まさか物理法則までねじ曲げたのだろうか。そんなわけはないんだけど。
 何にせよ、俺はかろうじてボンネットに着地できたようだった。まだ勢いの止まらない車体の上で、フロントガラスに向けて一声吠える。しかし慣性の法則のためか、次の瞬間には振り落とされてしまった。キキッ、ともう一度激しいスキール音。が、それも一瞬のこと。次の瞬間にはアスファルトに強打される衝撃が全身を突き抜けていた。少し遅れてドアの開く音。ひとが出てきたらしい。よし、あと少しだ。平衡感覚が戻らない体で俺はよろよろと起き上がった。あの子のものではない鉄臭さを無視して。
――もうちょっと、もうちょっとだよ。すぐにきみを助けに行くから、だから待ってて、お願い……。

 

 

 

 

 


 

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