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『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

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ちびっこ狼の思い出 3

ちびっこ狼、あの子が気になる

 ひとりで林の中を散策し、男の子と遠目で出会った日から一日経過した。父が東京に戻り、母親とふたりで曾祖父母の家に寝泊まりする生活がはじまった。だいたいいつもどおりの時間に目を覚ました俺は、自宅でのパン食とは違う味噌汁とご飯が基調の朝食をよばれた。少し前に覚えたばかりのアナログ時計を読み方を思い出しながら壁時計を見やると、まだ八時台。もちろん午前。夕方まではまだまだ長い。そう思うと俺はちょっぴりため息が出てしまった。というのも、早く変身してあの林の中を歩きたかったから。いや、もっと言えば、狼の姿になって昨日の場所に行きたかったから。もちろん、昨日と同じ場所、同じ時間にあの子がいるとは限らない。会う約束をするどころか、離れたところからちょっと目が合ったという程度のコンタクトに過ぎなかった。けれども幼かった俺には、夕方にあそこに行けばまたあの子に会える、そんな考えが当たり前のように浮かんでいた。なぜなのかはわからないけど、すごく気になっていたんだ、その子のことが。地元から離れた山地ということで、近くに遊び相手になってくれるような年齢の子がいなくて寂しいというか、つまらなかったのかもね。同い年くらいのあの子に、なんていうかな、お近づきになりたいって気持ちだったんだと思う。彼がどこの子供なのかは知らないし、どんな子なのかも当然わからなかったわけだけど、年が近いってだけで根拠もなく友達になれるような気になっていたのかもしれない。とにかく、もう一度あの子に会いたい――そんな思いが俺の気持ちを逸らせ、早く夕方にならないかな、なんて朝っぱらから待ち遠しい気分にさせた。そうはいっても、はじまって間もない一日を楽しむことは忘れなかったけど。
 午前中、日が高くなる前、母と一緒に庭先の林の浅いところに行くと、小一時間ほど蝉取りに励んだ。蝉たちの大合唱も、足元の弾力のある落ち葉の堆積や腐葉土の感触も、狼の姿で感じたそれとはまた違った感覚だった。夏休みの期間中に放映される子供向けのテレビ番組を見たり、曾祖父母の飼っている犬と遊んだり(犬が遊んでくれたという方が正しいかもしれない)、母親に付き添われて昼寝をしたりして、日中が過ぎていった。夕方の幼児向けテレビ番組が一段落したところで、俺は母に外出をねだった。無論、変身して林の中を駆けるという意味で。すでに一度聞かされた約束事――道路に出ない、ひとに見つからない、日が暮れる前に戻ってくる――を改めて確認し合ったあと、いそいそと変身し、母に首輪をつけてもらった。新しいものに交換してからまだそれほど経っていない赤い首輪は見た目はきれいだったけれど、馴染んでないがゆえにちょっと付け心地が悪く、装着されてしばらくは違和感が拭えなかった。俺は何度かぶるぶる首を震わせたり後ろ足で首を掻いたりしてなるべく違和感の少ない位置取りを定めると、そろそろ出発したいと示すように、ぴょんぴょん庭を跳ね回った。母はもう一度約束事項を告げたあと、拾い食いをしないことも付け加えてから俺を送り出した。拾い食いというのは単に落ちているものを食べないということだけではなく、狩りをしてはいけないという意味も含む。殺生がいけないということではなく、感染症や寄生虫を拾ってきてはまずいからだ。野生動物からうっかり菌や虫をもらってしまうことがいかに危険で恐ろしいことであるかは重々言い聞かされてきたし、元より狩りをするような度胸もないので、この点については心配はなかった。なんでも口に入れてしまうような年齢はすでに通り過ぎていたしね。
 ちゃんと約束は守るよ。すでに狼の姿になっていたので言葉を紡ぐことは不可能だったが、母にそう言うつもりでウオゥと不明瞭に吠えると、バイバイと手を振る母の姿を背後に俺は勢いよく駆け出した。雑木林に向かって一直線に。
 林は前日と同じく夏の湿気が呼び起こす緑と土のこもったにおいに満ちていて、また四方八方からそこに暮らす生き物たちの音や気配を感じた。蝉取りでお邪魔したときとは異なる聞こえ方、そして人間のときには気づきもしなかった音やにおい。もし俺の目的が漠然とした散策であったなら、それらに興味を惹かれて耳介を耐えず動かし、また鼻を地面すれすれのところでひくつかせていたことだろう。しかしこのときの俺にははっきりとした目的があった――あの子に会いに行くんだ。あの子がこの日もあそこにいるなんて保証は一切なかったのだけれど、俺は彼に会えることにおおいなる期待を抱きながら、軽やかな足取りで昨日の場所へと向かった。朝、人間の姿で林に入ったときには、前日に自分が辿った道のりをさっぱり思い出せず不安だったのだが、いざ狼の姿になってしまうと、不思議なことにきっちりと場所を覚えていた。木の密度が小さくなってきたあたりから、少し警戒心を取り戻し、体を低くして足音を潜め、周囲の気配を探りながら慎重に進んだ。木が少ないということは、人間の生活エリアが近いことを意味するとなんとなく理解できていたから。
 いるかな。あの子、いるかな。
 林の拓ける先を示すように光が濃くなる方向に顔を向け、くんくんと地面に鼻を近づけて嗅ぎはじめる。が、においを選別するよりも先に耳の奥が特有の音をとらえた。人間の足音。軽く、それでいてどこか安定感がない。子供の足音だろう。
 きっとあの子だ。
 期待を込めて顔を上げると、案の定、夕刻の眩しい光を背景に人間の幼児の影があった。今度は空気中のにおいを嗅ぐ。……あの子だ! 昨日の子だ! においの記憶は一致した。俺の根拠のない期待は、幸いなことに叶ったというわけだ。またあの子に会えた、嬉しい。その程度のことだったにもかかわらず幼く単純だった俺の胸は喜びでいっぱいになった。しかし、有頂天になったのも束の間、俺は直後に急激な戸惑いに襲われた。
 このあとどうしたらいいんだろう?
 またあの子に会いたいという気持ちは確固として自分の中にあった。それは間違いない。けれども、幼児の頭はたくさんのことを考えられない、あるいは目先のことにしか思考が及ばないということだろうか、会って、それからどうしたいのかということをさっぱり思い浮かべていなかったのだ。会ったといってもこの時点では俺が一方的に彼の姿を発見したというだけだから、向こうに俺の存在を気づいてもらってはじめて『再会』が成り立つ――そんな複雑なことは考えられない当時の俺だったが、あの子に気づいてもらいたいという気持ちはすぐに生まれた。姿を見ただけじゃ会ったことにはならない、そのくらいはさすがにわかったから。
 でも、いったいどうすれば? 相手の気を引くなら、音を立てるなり接近するなりして気配に気づかせればいい話だが、俺はどうも犬みたいな吠え方ができず、また体の大きさゆえか声が低く、どうしても唸り声みたいになってしまう。下手に声を出したら彼を怖がらせてしまうかもしれない。また、当時すでに中型犬程度のサイズだったから、急に距離を縮めた場合もやっぱりびっくりさせてしまうかもしれない。五、六歳の幼児からしたら、中型犬もかなり大きく感じられるだろうから。俺は狼人間にもかかわらず、よその犬を怖く感じることも珍しくなかったから、そのあたりの想像はできた。そして、彼を怖がらせたら嫌だ、自分が彼に怖がられるのは嫌だ、と思った。そう考えてしまうと、子供の俺の脳みそはすでに八方塞がりで、どうしたらいいのかわからず、十数メートル先に彼の姿をとらえているにもかかわらず、何もできずにただ木陰で佇んでいた。彼のほうへじっと視線を固定し、耳をピンと立て、嗅覚を研ぎ澄ませながら。
 彼は何やら林の出口付近をうろついており、きょろきょりとあたりを見回していた。少し深いところへやって来たり、また戻ったり。最初は何をしているのか不思議だったが、そのうち、何かを探している様子だと気づき、そしてその『何か』は俺のことじゃないかと予想したとき、どくんと心拍が高なった。都合のいい想像にすぎなかったけれど、でも多分、これはビンゴだったと思う。彼は俺を探して林を見渡していたんだ。
 確かめるように一歩ずつ慎重に進んでは引き返すのを繰り返していた彼だが、やがて落胆したように肩を落としたあと、名残惜しげに林の奥を見つめ、踵を返そうとした。彼の位置からは俺の姿は発見できなかったのだ――それはそうだ、見つからないよう、俺は視覚となりそうな木の根本で伏せていたのだから。茶味のある灰色は、案外保護色として働くものだ。背中を向けようとする彼の姿はにわかに俺の焦燥を誘った。行かないで! 胸中で叫んだときにはすでに脚がすくっと伸び、続いて前足が一、二歩前に出ていた。小さな音だっただろうが、男の子はそれに気づいたようで、はっとしたようにこちらを振り返ってきた。静止視力に優れない狼の目には、十メートル以上先にいる彼の姿かたちははっきりとは映らなかった。一方で、動きをとらえることには長けているため、彼がびっくりしたような不安定な動きでこちらに体を向けようとしていることはわかった。体ごと振り返った彼と視線がばちりと合ったところで、俺ははじめて自分が木の陰から飛び出してしまったことを自覚した。焦りに突き動かされるがままの行動だったから、この先どうするべきかという考えがまるでなかった。とりあえず互いに存在を認知したから二度目のコンタクトは成立したことになる。が、これからどうしたらいいのだろうか。彼と仲良くなりたいという漠然とした思いはあったけれど、そのために何をすればいいのか、という点が完全に抜け落ちていた。仮に人間の姿をしていたとしても、俺の性格では見知らぬ男の子に気軽に遊ぼうよと声を掛けたりできなかったことだろう。しかし、それを考えると、このときの俺はなかなかアクティブだったと言えるかもしれない。一度目が合っただけの男の子に、再びひとりで会いに行こうなんて気になったのだから。
 どうしよう。せっかく会えたんだから、もっと近くに行きたいな。だってこの距離じゃ、顔もわかんないんだもの。でも、近づいて怖がられたら嫌だな。
 迷いは完全に体に現れていて、知らないうちに前脚が進み掛け、それに気づいては引っ込めるという動きをのろのろと繰り返していた。俺のはっきりしない態度に彼は気を利かせたのか、あるいはじれったく感じたのか、戸惑いながらも平静に抑えた声で声を掛けてきた。
「こ、こんにちは。あ、えっと……こんばんは、かな?」
 第一声は挨拶だった。丁寧にも、時間帯に気を回してくれながら。どうも育ちのいい子だったようだから、初対面の相手にはとりあえず挨拶するという発想があったのかもしれない。
 彼が声を掛けてくれたことは嬉しかったけれど、向こうからのアクションに何ら予想が立っていなかった俺はびっくりしてしまい、緊張のまま右の前脚を上げた。どうしよう。挨拶してくれたけど、俺、しゃべれないよ。こんばんはって言えないよ。
 俺がリアクションに困ってその場でぴくぴく耳を動かしたり鼻をひくつかせていると、彼はその場に屈み込んで手を地面近くまで降ろし、来い来いと小さく手招きをした。
「おいで? 大丈夫、いじめたりしないよ」
 そう話しかける彼の声は優しかった。この子は乱暴なことをしたりしない。言葉そのものではなく雰囲気からそう信じられた。まあ、小型犬ならともかく、中型犬サイズの、しかも狼のような鋭い容姿の犬(というか事実狼なんだけど)をいじめる度胸のある幼児もそうはいないだろうけれど。
 こっちへおいでと呼んでくれた彼の言葉は嬉しかったけれど、でもやっぱりまだちょっと警戒心が解けないというか、緊張に固まって素直に足が進まずにいた。それから、俺おっきいよ? 怖くない? という気持ちもあった。でも、おいでおいでと柔らかく動く彼の手は魅力的で、俺はなんとなく癖でくんくんと地面を嗅いだあと、そろそろと歩を進めた。腐葉土を踏みしめるほんのかすかな音を立たせながら、俺は体ひとつ分ほどの距離をあけて彼の前で足を止めると、一瞬の迷いのあと、その場にちょこんと座った。前脚をまっすぐ立て、後ろ脚は崩さずに。置物みたいにきれいに座ると、ただそれだけで大人たちから上手ねいい子ねと褒めてもらえたものだ。だから、きちんとお座りすればとりあえず悪い印象は与えないかなと思ってそんな行動をしたのだと思う。もちろん当時は印象なんて言葉は知らなかったけどね。
 姿勢よく座った俺だったが、数分前から続く緊張でなんだか無性に体が熱くなってしまい、熱の放出のために舌を出しへっへっと呼吸した。舌を閉まっていたほうが締まりがいいのはわかっていたけれど、人間でいう発汗にあたる行為だから、抑えるのはつらいんだ。
 狼の視力と視点からだから人間のときとはいまいち感覚が違って把握しづらかったけれど、間近から見上げた男の子は人間の俺と似たり寄ったりな体格だった。顔は小さく、整っていてきれいだった。前髪や横髪がちょっと長めだったこともあり、一瞬、あれ、女の子だったの? と思ってしまった。においで男の子だと確信はできたのだけど。……いや、どんなにおいかと聞かれても、人間の嗅覚とは全然別物だから人間の言語で形容するのは難しいんだけど、まあ識別はできるんだってことで納得しといてくれよ。
 人間のときに見たらもしかしたら気後れしちゃうくらいきれいな子だったかもしれないけど、生憎そのときの俺は狼だったので、容姿よりもにおいのほうが重要だった。離れていてもそれなりににおいは感じたけれど、距離を縮めたことでより明瞭に嗅ぐことができた。できれば鼻をくっつけるくらい接近して思い切りくんくんしたい……と思っていたのだが。
「お、おっきいね。びっくりしちゃった……」
 俺を見下ろしていた男の子は少し息を呑んでいた。気持ち重心が後ろに傾いている。無意識のうちに離れようとしているように。
――怖い? 俺、怖い?
 やっぱり怖がらせちゃったんだ。
 狼の自分の姿は嫌いじゃないけれど、このときばかりはしょんぼりしてしまった。せっかく近くで彼に会えたのに、びっくりされちゃって。途端に沈んだ気持ちとともに、俺は座った姿勢のままずりずりと後ずさった。近くにいないほうがいいよね、と思って。しかし、俺が後退するのを見た男の子は、慌てて口を開いた。
「あ……だ、大丈夫だよ。怖くないよ。だからこっち来て?」
 そう呼び掛け、彼はもう一度手招きをした。そのおっかなびっくりな手つきに、やっぱり怖がらせちゃったんだろうなとしょぼんとしつつも、彼が呼んでくれたことが嬉しかった俺は、そろりそろりと前に踏み出した。今度は半歩ほどの距離まで近づく。彼はまだ少しきょどきょどしつつも二本の脚でしっかり地面を踏みしめていた。ちょっと首を伸ばせば簡単に鼻先が当たる。そんな近さも手伝って、俺は引かれるようにして男の子の体に鼻を近づけ、無遠慮にもにおいを嗅いだ。生物としての体臭のほか、生活環境がもたらすさまざまなにおいを感じた。俺の家でも馴染みのあるにおいもあれば、全然知らないようなにおいもあった。その中でも人工的な甘い香りを強く感知したが、お菓子そのものを所持しているときほどはっきりしたにおいではなかった。割と最近食べたか、あるいはお菓子のたくさんあるところで過ごしていたか。そのあたりはわからなかったけれど、バニラ系の甘い香りを漂わせていたことをいまでもよく覚えている。そしてそれとは別の、甘く優しげなにおいがした。なんて表現すればいいのか困りどころなんだけど、そう、優しそうな子だと感じたというか。においというよりは雰囲気に近かったかもしれない。嗅覚優位だから、人間でいう雰囲気を嗅覚として感じているって言えばいいのかな。ほら、犬って犬好きな人とそうでない人がわかるっていうじゃん? あんな感じで、なんとなくその人の大雑把な性質を感じるんだ。人間だと、見た目から受ける第一印象ってところだと思う。こう言うとみんなの気を悪くさせちゃうかもしれないけど、正直なところ人間の感覚よりはあてになる気がする。視覚より嗅覚のほうが本質を突けるって意味じゃなくて……なんて言うんだろ、動物の勘みたいな。まあとにかく、俺は彼にいい印象をもったんだ。いじめたりしないよ、って言葉は本物に違いないってね。
 新規情報の取得に夢中になる俺に彼はちょっと緊張して体をこわばらせていたけれど、結構度胸があるのか、あるいは好奇心が強いのか、じきに慣れたようで、今度は自分の番だというようにじろじろと俺を眺めた。人間ならまず視覚から入るのが普通だからね。彼は俺の首元に視線を落とすと、
「首輪してるね。どこのおうちの子? 迷子? 違うかな」
 首輪をのぞき込むようにして上半身を少し下げた。このときは彼の行動の意味が理解できなかったけれど、いま思うに、多分名前がどこかに書いてないか探していたんじゃないかな。残念ながら俺の首輪にはネームプレートはぶらさがっていなかったので、彼が俺の名前を知る術はなかった。実を言えば、首輪の裏側には名前やもしものときのための連絡先なんか掘られた金属プレートが付けられていたのだけど、さすがにそこまでは考えが及ばなかったのか、あるいはどこかの飼い犬の首輪を勝手に外すような不躾なことはできなかったのか、彼がそのプレートの存在に気づくことはなかった。ただ、どこかに名前が書いていないかという考えはあったのか、色んな角度から首輪へと視線を注いでいた。生憎外からわかる位置に名前の刻みはなかった。
 首輪に注意をやるうちに彼の手は自然、俺の首元に伸びてきていた。俺は顔に接近した彼の手を嗅いだ。濡れた鼻先が当たると冷たかったようで、びくっと腕を小さく跳ねさせたが、嫌がったりはせず、俺のしたいようにさせてくれた。次第に、彼の指の背が俺の顎の下をなぞるように触れてきた。
――撫でてくれるの?
 俺がちらりと目配せをすると、彼に通じたのか、あるいは彼自身そんな欲求があったのか、
「触っていい?」
 と好奇心のうかがえるまなざしで尋ねてきた。もちろんいいよ。撫でて撫でて。俺は尻尾を振りながら体を反転させ、彼の脚に自分の背を擦りつけた。返事としてはこれが一番わかりやすいかなと思って。あと、口を閉じているのがしんどくなってきたっていうのもあるかな。あ、なんでかっていうと、俺このとき、彼と向き合っている間はなるべく口を閉じているようにしたんだよ。噛んだりしないけど、向こうは動物の行動なんて予測できないからきっと不安だろ? 甘噛さえするつもりはなかったけど、俺は牙が大きくて鋭いから、もし何かの拍子に歯が当たったりして、それで彼が怖がったり、俺のこと凶暴だと思ったりしたらヤだなと思ったってわけ。でも、標高が高いとはいえ日の出ている時間帯は毛皮の身には暑かったし、緊張もしていたから、そろそろ舌を出しちゃいたかったんだ。
 へっへっと浅い呼吸を繰り返しながら俺は彼に背中を向けて待った。少しの間をおいて、肩のあたりにふんわりとした圧を感じた。右側だったから、多分最初は右手を触れさせたのだと思う。そして毛並みをたどるようにして上から下へと移動していく。動物に触り慣れていないのか、ぎこちなく少しだけびくついた手つきだった。けれども優しさの伝わる丁寧な動きでもあった。身内の大人に撫でてもらったり、変身した父に毛づくろいしてもらうときとはまた違った、幼い少年の小さな手が被毛を滑っていく感触がなんとも心地よかった。マッサージとも違う、大切な柔らかいものを大事に大事に触るみたいな、そんなタッチだった。その動きがとても気持ちよくて、俺はうっとりとしてしまった。さっきまでの緊張なんか忘れて、耳は完全に倒れちゃってたよ。男の子のほうも俺の毛並みに関心を寄せてくれたのか、おー、とか、へー、とか言いながら、きゃっきゃと笑っていた。毛並み、気に入ってくれたのかな。だったら嬉しいな。ちゃんとお手入れしてくれてお母さんありがとう。変身時によくブラッシングしてくれる母に感謝した。
 ああ、それにしてもこの子、なんて優しい触り方をしてくれるんだろう。すごく気持ちいい。もっといっぱい触ってほしいな。背中だけじゃなく……。
――おなかのほうも触ってほしいよー。
 ふとそんな思いがよぎった。でも、さすがに今日知り合ったばかりの相手に無防備に腹をさらすのはちょっと怖くもあった。彼が悪さをするとは疑っていなかったし、たとえ幼獣でも狼の運動能力なら人間の幼児よりは優れているからそう恐れることもないのだが、そういった諸々の保証要素があってもなお、おなかを見せるのは勇気がいることだ。でも一方で、おなかを触ってほしいという欲求も確かにあった。
 どうしよう。触ってほしいんだけど、触られるのちょっと怖い。でもやっぱり触ってほしい。寝転ぶのは怖いから……この姿勢のまま、せめて胸のあたりだけでも触ってくれないかな。背中の毛より柔らかいから、触り心地いいし。
 と、俺は閃いたとばかりに体をちょっと横向けて側面を彼に見せるようにして座ると、後ろ脚を少し崩し、前脚の間隔を広げて片側を浮かせながら、首と背を丸めて自分の腹のあたりに舌を這わせ、毛づくろいのパフォーマンスをした。そしてちらっちらっと彼に視線をやった。
――ねえねえ、こっちも触って……?
 俺の無言の訴えに、彼は目をしばたたかせると、
「こっちも触っていいの?」
 ぱっと顔を輝かせた。どうやら彼も俺の腹側の毛に興味を示してくれたようだ。
――もちろん! 触って触って!
 俺は尻尾を振って喜びと期待を表した。彼は俺の横に膝をついて姿勢を低くすると、俺の胸に密生する白い被毛にそっと指を沈めた。わ……と彼の口から感嘆のような声が上がった。彼は俺の顔をのぞき込むと、
「ふかふかしてる。気持ちいいね」
 嬉しそうにふふっと笑った。狼の目にも、その笑顔はとてもかわいらしく、そして純粋に映った。彼は右手で首から上腹部にかけてを撫で、左手で背中を撫でてくれた。途中で俺がふいっと顎を持ち上げると、彼は察したように、顎の下や頬の端を擦るように両手で撫でた。そしてついでに耳の後ろを指先でくすぐる。
――きゃー、きもちいー。
 先ほどはぎこちなかったというのに、もうすっかり触り方を心得たのか、彼の手つきは不思議なほど俺の好みに合うものだった。気持ちよさに上機嫌になった俺は、つい親に甘えるときと同じ要領で、彼の顔に自分の顔を擦り付けた。
「ひゃっ……!?」
 突然彼から素っ頓狂な短い悲鳴が上がる。その声に俺は一瞬びくっと固まった。そして、どうしたのだろうと彼に視線をやる。彼は自分の左頬を軽く押さえながら、目をぱちくりさせていた。そこはついさっき俺のマズルの先、つまり鼻が当たっていたところだった。
――あ、鼻……冷たかったのかな。濡れちゃった?
 活動時に鼻が濡れているのは当たり前なのだが、いきなりそれが触れたら濡れた感触や冷たさにびっくりするのは致し方ない。うっかり家族にするような感覚で甘えてしまった自分の行動のまずさに思い至り、俺はしまったとばかりにがっくり首を下げた。
「あ……ご、ごめん。ごめんね。嫌だったわけじゃないよ? ちょっとびっくりしちゃったの。……お鼻、濡れてるんだね。元気がいいってことだっけ?」
 彼は狼狽しながらも俺にフォローを入れてくれた。そして励ますように俺の鼻先をちょんちょんと指先で触れてきた。大丈夫、怖くないから、というように。
――よかったー。嫌じゃなかったんだ。でもびっくりさせてごめんね? ごめんね?
 謝る勢いでまた対家族用のごめんなさい――すなわち顔や手をぺろぺろ舐めるといった行為が出現しかけたが、すんでのところで思いとどまり、彼の手を舐めたい気持ちを抑えるべく口を引き結んだ。と、ふいに後ろから彼の腕が回された。え? なに? 少し驚きながら振り返ると、背後から俺の体を抱きしめていた彼が、えへへと笑いながら小声で言った。
「大丈夫、怖くないよ」
 その声も表情もとっても優しくて、俺はほんの少し見惚れてしまった。そして、そんなふうに接してくれることが嬉しくて、俺は彼に顔を擦り付けて甘えた。鼻の先っちょがつかないように気をつけながら。ほんとは顔をぺろぺろしたかったけど、この日はやめておいた。……ああ、うん、後日ぺろぺろさせてもらったよ? 仲良くなれたからさ。
 いい子だなー、優しいなー。当たり前だけど、同い年くらいの子供にこんなふうに優しくしたりされたりってこと、あんまりないじゃん? だからそれが新鮮であると同時に、子供同士どこか通じ合うような感覚があって、大人に甘やかされるのとはまた別の心地よさを感じていた。ずっとこうされていたい、こうしていたい。そう思ったけれど、すでに空は昼の時間を終えつつあった。拓けた場所で空を見上げれば、きっと星影のきらめきがあちこちに散っているのをいくつも発見できたことだろう。と、ふいに内耳が小さな物音をとらえ、耳介がぴくんと動いた。足音だ。人間の。母のものと似ている。大人の女の人? うちのお母さんじゃない。もしかして、この子の……?
 自分の母親のものでないという以外は足音の正体はわからなかったが、彼と俺以外の誰かが周囲にいることは理解できた。ひとに見つからないように、との母との約束は彼に出会った時点で破ったことになるけれど、俺の中で彼はその約束の範疇外だったので、破ったという意識はなかった。しかし、彼以外の人間に見つかるのはよくないという考えはすぐに浮かんだ。いまだ俺の体を柔らかく抱きしめてくれている彼の腕を解くのは名残惜しいし忍びなかったけれど、母親との約束を破ったら、もうひとりで外に出してもらえなくなってしまうかもしれない。そうしたら、もう彼に会いに行けなくなってしまう。いまこの瞬間の居心地の良さに飛びつかない程度の判断力はあったようで、俺は彼の腕を抜け出ると、音源のほうへ顔を向け、耳を動かし息を吸い込み、聴覚と嗅覚に意識を集中させた。足音が近づいてくる。小さいが、声も聞こえる。呼んでいる? この子の名前? 聞き取れなかったけどそんな気がした。女性の声だったから、おそらく彼のお母さんだったのだと思う。子供が林の中で迷子になったのかもと心配して探しに来たのかもしれない。相手が誰であれ、彼以外の人間との接触は回避したかったので、俺はくるりと体を反転させると、もと来た道を辿るように歩きはじめた。
「帰っちゃうの?」
 寂しそうな弱々しい声で彼が尋ねた。
――うん、ごめんね、帰らなきゃ。きみも帰らないと。お母さんが心配するよ。……また明日も会える?
 俺は足を止めて振り返ると、そんな思いを込めて彼に視線をやった。人間の言葉を話すことができないのがもどかしかった。また明日、の一言だけでも伝えることができればよかったのに。
 接近する足音と気配に、俺はそそくさと逃げるように帰途についた。あの子に会って触れ合えた束の間のひとときを喜ぶ気持ちと、ほんの短い時間でお別れしなくてはならなかったことを寂しく感じながら。
 足早に斜面を下って曾祖父母の家の庭に戻ると、虫よけに長袖の上着を着た母が縁側に座っていた。色はよくわからなかったけど、太陽はまだわずかに山の間から姿をのぞかせ、さようならまた明日、と挨拶をしているようだった。
 おかえり、光樹。母が立ち上がる。俺は心の中でただいまと言いながら走り寄ると、勢いそのままにジャンプして母に飛びついた。俺の扱いに慣れた母は小型犬でも抱きとめるように難なく俺を受け止めると、どうしたの、ご機嫌ね、と甘い声で言いながら顔を近づけた。お外は楽しかった? 俺を抱き直しながら母が問う。
――うん、楽しかった。また明日も行きたい。
 俺は上機嫌で母の口元を舐めながら、まだ日が暮れてもいないうちから、次の日の夕刻を心待ちにした。狼の姿ならうっかり口を滑らす心配がないのをいいことに、胸の内でついさっきまで過ごしていたあの男の子との優しい時間を味わうように反芻して。

 

 

 

 

 

 

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