火神くん、聞いてください、赤司くんてばひどいんです。いえ、僕に対してひどいというわけではありません。僕たちの共通の友人である、彼に対してひどいんです。とても。
ご存じのとおり、今日僕は赤司くんに呼び出されマジバへ赴きました。前日の夜、火神くんはずいぶん心配してついて来てくれると言ってくれましたね。……あの言葉に甘えておけばよかったかといまになって後悔しています。いえ、何かされたわけではないのでご心配なく。ちゃんとこうして生還し、きみのもとへ戻ってきたでしょう? ただなんていうかまあ、精神的にものすごく疲れたんです。なので今日は労わってください。え? セックス? するに決まってるじゃないですか。むしろ、帰ったらきみとえっちできるんだと自分を励まして、あの難局を乗り切ったと言っても過言ではありません。だから今日は目いっぱい優しくしてください。
昼下がりの微妙な時間帯、閑散としたマジバ店内の一番日当たりの悪い角のボックス席で、僕は赤司くんと対面していました。とりあえずバニラシェイクを一杯おごってもらいました。のんびり味わえる雰囲気じゃなかったんですけど。赤司くんは無難にアイスコーヒーを注文していました。
席につくと、まずは飲み物を口に運ぶ時間になりました。しばらく液体をすする小さな音だけが響きました。彼はテーブルの上で手を組み、何やら少々思い詰めた感のある表情で、アイスコーヒーのカップをじっと見つめていました。用件は、彼から僕に相談があるとのことでした。少しばかりの沈黙のあと、彼は目線を上げると、
「テツヤ。僕はセックスアピールが足りないのだろうか」
唐突にそう切り出してきました。これが相談内容のようです。ストローの内側でシェイクが思い切り逆流しました。自分の唾液だから我慢できますけど、正直気分が悪いです。僕は軽くむせ返りつつ言いました。
「……藪から棒になんですか、いったい」
「だから、僕はセックスアピールが足りていないのだろうかと聞いている」
声が聞こえなかったとか、聞きそびれたわけじゃないのですが、彼はまったく同じ質問をしてきました。特に付加情報もくれません。
「あの……その質問を僕にする動機とか理由とか、聞かせていただけませんか。いきなりそんなこと尋ねられても困惑するだけです。この飲み差しのバニラシェイクを捨て置いてでも、いますぐ帰りたくなりました」
僕は少し腰を上げ掛けました。勝手に帰るなんて恐ろしい真似をする気は毛頭ありませんでしたが、多少パフォーマンスをしておかないと、彼がまともに話してくれない気がしたので。彼はテーブルの上から手をどかし、そのまま腕組みをしました。
「その前に、率直かつ単純な意見を求める。余分な情報がない時点でその質問を受け、おまえはどう答える」
「あ、赤司くんのセックスアピールですか……。いや、あの、そんなの考えたこともないのですが。相対性理論よりも考えたことないです」
「そんな魅力に欠けるか、僕は」
心なしかへこんでいる様子です。しかし、赤司くんからいきなりセックスアピールについて尋ねられた僕の心境よりはましでしょう。意味不明すぎて、なんかよくわからないけどテンション下がりかけました。こう……考えたくないことについて無理やり脳みそを労働させなければならないことに対する徒労感といいますか。
「いえ、そういう次元の問題でもないんですけれども……。どう説明すればいいんですかね……なんていうか、赤司くんとセックスアピールという単語が結びつかないんです。そうですね……例えるなら、仏像に発情する人間は少ないでしょう。そんな感じです」
我ながら何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。僕がいかに混乱しているか、如実に表れています。彼はエロネタ平気というか場合によっては率先して扱う人なんですが、ちょっと人類から超越したところがあるので、人類学的な意味でのセックスアピールとは程遠いんです。火神くんもなんとなくわかるでしょう? 赤司くんが種のレベルでぶっ飛んでるって。
僕の謎の比喩に、彼は大真面目に答えました。
「僕は半跏思惟像の手つきにたまらない魅力を感じるが。京都はすばらしかった」
僕もたいがい何言っているのかわかりませんが、彼の発言も意味不明です。どこかで見覚えのある仏像の手のポーズを再現してくれましたが、それにどう反応しろと……。とりあえず彼の京都でのハイスクールデイズが充実していたらしいことは理解しました。
「ああ……うん、赤司くんは少数派ですよね。希少価値の高い人間ですよね。わかってました、わかってましたとも……」
やっぱりこの人と一対一で会話を成立させるのは至難の業です。僕はこの時点で本気で帰りたくなりました。すでに疲労感がひしひしと肩あたりに圧し掛かっていました。
「おまえにこの質問をしたのは、降旗が僕に対しいまいち性的魅力を感じていない様子なので、どうやったら改善されるか、解決策を模索したいと思ってのことだ」
また脈絡のない説明が投げつけられました。どうキャッチすればいいんですかこれ。
「あの、どこから突っ込めばいいのかさっぱりわからないのですが……。とりあえず最初からいきますね。なんで降旗くんがそこで出てくるんですか」
突然出てきた降旗くんの名前。え、このふたり接点あったんですか? 僕はまずそこで困惑しました。しかし赤司くんは構わず爆撃してきました。
「セックスしても降旗があまりたたないからだ。前提として言っておくが、彼は病気ではないし、こちらの技術の問題でもないと思う。原因は彼のメンタルだと考えられる」
「ちょっと待ってください。なんですか、セックスって。あ、セックスの定義について聞いてるわけじゃないですよ。保健体育的な説明はしていただかなくて結構です。おしべとめしべ的な解説も必要ありません。……あまり聞きたくないんですが、それって、きみと降旗くんはセックスするような関係にあるということですか?」
いくら人気が少ないとはいえ、マジバのオープンな空間で話すような内容じゃないですよこれ。いえ、落ち合う場所にマジバを選んだのは僕なんですけど。シェイク飲みたかったので。
「この一年ほど不定期に性交渉を行っている」
「一年も……!?」
なんですかそれは。初耳ですよ。僕も火神くんも、降旗くんとはちょくちょく連絡取ってご飯食べたり遊んだりしていますけど、こんな話聞いたことないですよね。僕は赤司くんともたまに交流がありましたけど、彼からも聞いたことはありませんでした。友人とはいえ、色恋沙汰を赤裸々に語る必要はないわけですが、これはちょっと……意外すぎました。まさか赤司くんと降旗くんが? びっくりしすぎてシェイクが口の端からこぼれました。慌てて紙ナプキンに手を伸ばしました。
「頻度は少ないほうだと思う。信頼できる統計資料など知らないから、比較しようがないが」
具体的にどのくらいの頻度かについては尋ねませんでした。プライバシー云々以前に、もっと根本的な部分での疑問が多すぎて、そんな些末事、意識に上ることすらありませんでした。
「赤司くん、降旗くんとつき合ってたんですか?」
「交際という意味で聞いているのならノーだ」
「つき合っていないのにセックスしてるんですか」
「そうだ」
「えーと、セフレ……ですか?」
「定義が曖昧だが、それが近いだろうか」
セックスフレンド。何をどうしたらこのふたりがこんな関係になるというのでしょうか。この世は不可解で満ちています。真っ先に思ったのは、降旗くんが赤司くんの傍若無人に無理やりつき合わされているのではないかという懸念でした。なので、僕は恐る恐る、
「仲いいんですか?」
と尋ねました。赤司くん相手にあまりに不躾な発言はできませんので、なるべく普通の会話っぽく、を心掛けました。
「ある程度の期間にわたり性的関係を続けられる程度には、信頼を醸成していると思う」
なんか難しい言葉を使われました。火神くん、理解できますか?
結構自信満々に言い切りましたので、悪い仲ではないのでしょうか。赤司くんの主観では、という但し書きが付きますが。……ものすごく信用できない但し書きです。
「はあ……そうですか。一年くらいということですが、いったいまたどうして知り合ったんですか? 大学違いますよね。接点なさそうなんですけど」
「一応高校の時点で顔と名前は知ってはいた。誠凛の一員として把握していただけだが。彼のほうも僕のことは、他校の主将という程度の認識しかなかっただろう」
きみのあの絶大なインパクトがその程度の認識で留まっているわけないんですけどね?
突っ込みを入れたくて口がうずうずしましたが、ストローを噛んで堪えました。すでにカップは空になっていたので、ずずっと汚い音がするだけでした。品が悪いと赤司くんに注意されました。なんか理不尽です。
「大学行ってから、どうやって知り合ったんです? 確かにふたりとも都内ですけど」
「彼は自分の大学の図書館でアルバイトをしている。僕は周辺の大学図書館をしばしば巡回しているので、彼とはときどき顔を合わせるんだ。どういうわけか彼は僕と目が合うと少しその場で止まったあとゆっくり後退しはじめるんだ。おもしろい行動をする」
「かわいそうです」
それ絶対怯えてますよね。背中を向けて逃げたら食いつかれると感じているのではないでしょうか。
「気になって追い掛けたら、」
「かわいそうなことはやめてあげてください。獲物に困ってはいないでしょう」
「なぜか謝ってきた。なぜだろう」
「ほんと、なぜでしょうね。世の中理不尽で満ちています」
こうして赤司くんの妙な相談につき合わされていることも含め、心底そう思いました。
「彼の行動原理が不思議で、僕は彼のことが気になるようになった。何十回かそんなことを繰り返していたんだが、」
「それいじめですよ」
「あるとき、ふと気づいた。図書館で彼に会うと、いままでにない種類の高揚を覚えている自分に」
「狩猟本能が刺激されたのではないでしょうか」
降旗くんは草食系男子ではないにしても、草食動物タイプですから。まあ、草食獣といってもカバとかサイみたいな強烈なのもいるので、一概に草食だからおとなしいわけでもないんですが。でもまあ、降旗くんはかわいい系でしょう。うさぎとか。赤司くんは猛禽類……と言いたいところですが、この人はカラスでしょう。あの黒い鳥、頭よすぎて怖いです。ほんとに鳥類なんですかね、あれ。彼らにはミスディレクション通用しないんですよ。豆知識です。
なかば現実逃避のようにそんなことを考えていましたが、赤司くんの説明は続きます。
「最初それに気づいた頃は、彼の姿を見ると普段より心拍数が上昇するくらいだった。それとともに脳内物質の濃度が変わるのか、気分もよくなった。不思議に感じ、好奇心が湧いてきた。どうやったらこの謎を解明できるのかと、隠遁した数学者の未解決問題へのほの暗い熱情のごとく、僕は彼のことを考えるようになった。すると、常にではないが、彼に直接会わなくても気分が高揚することがあった。しかし反対に、なぜか息苦しくなることもあった。循環器系の疾患はないはずなのだが」
「赤司くん……それって……」
え、いきなりそういう展開で来るんですか。ちょっと、いえ、大分意外でした。
なんか小難しいこと言ってますけど、これ恋愛感情の生理学的側面への影響じゃないですか。僕が火神くんにどきどきするときと同じ現象ですよ。うわ、まさかの恋バナですか。気持ち悪っ! 赤司くんが恋とか気持ち悪っ! でもちょっと安心しました。降旗くんとつき合っていないのにセックスしているというのはどうかと思いますが、ちゃんとそれっぽい気持ちは持ってるんですね。なんかわけのわからない方向に話が迷走しかけていたので一時はどうなることかと思いましたが、もしかして一種のお惚気で終わったりするんでしょうか。砂吐き系はほどほどにしてほしいですが、まあ恋バナなら比較的平和に終わりそうです。よかった……。
赤司くんは自分の胸元の服を右手で掴みながら、珍しく困った様子を隠そうともせず語りました。
「こんなことははじめてだったので、僕はおおいに戸惑った。そして原因を探ろうと、かつてないほど頭を悩ませた。こんなに悩んだのは小学校のレクリエーションの時間にケーニヒスベルクの橋の問題を皆にわかりやすく解説するよう要請されたとき以来だったかもしれない。しかしかなりの思考と自問の末、僕はついにひとつの結論に達した。僕が彼にたいして抱いている感情が何であるのか、その答えを見つけた。それは……」
「何だったんですか?」
ちょっぴりわくわくしながら、僕はテーブルに身を乗り出しました。赤司くんは焦らすように間を置いてから言いました。
「その感情は――性欲だと」
………………。
何言ってんですかこの人。僕のわくわくを返してください。
「せ、せいよく……ですか」
「そうだ。やっと理解できて、すっきりした」
赤司くんは、難問の解答を見つけ出したことを喜んでいるかのような、自信ありげな顔で言い切りました。
そりゃ多くの場合、恋愛に性欲はついて回りますけども……。
なんでしょう、このはかり知れないがっかり感。やはり赤司くんにまともな感性を求めてはいけなかったということでしょうか……。
火神くん、火神くん、ひとつ聞いてもいいですか?
性欲は感情に含まれますか?