十二月三十一日。一年で最も慌ただしい時期を乗り越えやって来る最後の日はのんびりあるいはぐったりして過ごすことが多かったが、この年はまさしくぐったりしていた。冬至からわずかに経っただけの日の短い季節、太陽はとっくに水平線の向こうへと姿を隠し、とっぷりと暮れた夜の闇を街明かりが点々と彩っている。本格的に冷え込むのは年を越してからだが、日の落ちたあとの外気は屋内の熱を奪うように冷たい。普段よりエアコンの温度設定を高めにした寝室で、降旗は布団の住人になっていた。一定のリズムで刻まれる小さなノイズは加湿器の稼動音。省エネを無視して整えられた快適な環境に、自分の中の貧乏性が落ち着きを欠いているのを降旗は自覚した。もっとも、室内の温度と湿度を適切に保つことが遠回りには経済的であることは理解している。寝込む期間が長引けばそれだけ生産性が落ちるのだから。
「征くんごめんね……年末の忙しいときにこっち戻ってきてもらっちゃって」
重ねた布団と毛布の下から顔を上半分だけ出して鼻声で謝る降旗の額を、前髪をかき分けるようにして赤司が撫でた。あらわにした額の上に、冷水につけ固く絞ったタオルをおいてやる。
「僕が勝手に戻ってきたんだ、きみが気にすることじゃないと言っているだろう」
マスク越しのくぐもった声でそう答えると、降旗もまた、鼻づまりの上にマスクで遮られ少々不明瞭な声で言った。
「うん……何度もごめんね。でも征くん、俺と違って実家でごろごろするために帰省するわけじゃないじゃん? 半分くらい仕事っていうか接待みたいな感じなんだろ? 大事な席だと思うんだけど、外しちゃって大丈夫?」
本来なら実家に戻って年始の準備に明け暮れているであろう赤司が、今年も残すところ数時間というタイミングでいまだアパートに滞在しているのには、もちろんわけがある。赤司にとって一年でもっとも大切で忙しい時期なのに……と気に病む降旗とは対照的に、赤司本人はいつもどおり泰然としている。
「どうということはない。僕の立ち回りに抜かりはない。多少の予定変更に対応できないほど無能だと思うか?」
「……そうだよね、征くんがこの程度で慌てるわけないよね」
「いや、きみが高熱を出してアパートに残っていると聞いたときは慌てたぞ。さして遠くもない実家に帰ることもできないほどなのかと」
「や、帰れないってわけじゃないんだけど、帰っても意味がないと思ったから。年始に旅行行くっつってたから、うちの親」
一緒に暮らしはじめる以前から、ふたりが年末年始をともに過ごしたことはなく、この時期はそれぞれ帰省するのが暗黙の了解になっていた。降旗は実家に帰って母親に家事を甘えてのんびりできるのだが、赤司は年始に家に戻ると家事からの解放など何のご褒美にもならないくらいせわしなく拘束されるようで、師走が来るたびに憂鬱を隠そうとしなかった。それでも、いや、その分、自分の誕生日とクリスマスをまとめて祝う日には(日付は一番近い休日を選ぶ)、ペットたちのために専用ショップで材料を揃えペット用のケーキを自作するくらいには気合が入っていた。もっとも、ネコ科より雑食傾向のあるイヌ科のコウは喜んで食べるのだが、セイはネコ科の肉食獣としての食性なのかプライドなのか、普通に市販されている猫用の生肉ほうがいいようだった。わざわざ小さめにつくったケーキを半分残し、コウに食べさせるくらいだ。もっとも、バラけないようスポンジ部分を残して口にくわえ、さあどうぞとばかりにコウの目の前に置くのを見るに、セイなりのプレゼントというか貢物なのかもしれない。コウはセイからもらったケーキを食べ終えると、お礼とばかりにセイの小さな顔をぺろぺろ優しく舐めるのだった。いちゃいちゃしやがってとぼやきながらも、自分たちもデザート用スプーンを互いの口に運び合っている飼い主ふたりだった。
さて、そんな楽しい時間を一週間前に終え、ちょっとだけ離れ離れの季節がやって来た。ふたり同時に帰省する際は降旗がコウとセイをまとめて実家に連れていくことにしているため、先んじて年末休暇に入った赤司は降旗とペットたちを残してアパートを発った。コウは環境が変わるとストレスで食欲不振になりやすいため、ペットホテルより元々飼われていた降旗の実家に連れていったほうがよいのである。セイは所属でいえば赤司の飼い猫なのだが、一度めいめいにペットを連れ帰ったところ、セイがコウを恋しがって夜鳴きするわ不機嫌になるわで大変だったそうで、以来降旗の実家でまとめて世話をすることにしている。セイは赤司に引き取られて以来ずっとコウと一緒に暮らしているため、そばにいないと不安らしい。一方コウはそのあたりの感性は鈍いのか、はたまた元々一匹で飼われていたためか、セイがいないならいないで特に気にしない様子で、降旗の実家でくつろいでいた。休暇明けにアパートに戻ってセイに会うと尻尾を振って喜ぶのだが。
今回の年末年始の休みも定例通り降旗が二匹の世話をする約束になっていた。降旗の両親はこの休暇中、老い先長くない祖父母のために寺巡りと温泉の旅に出掛けることになっており、実家は年始留守の予定だ。実家でもアパートでも一人暮らし状態が変わらないなら、顔を出すのは正月明けの週末にして、年末年始はアパートでだらだらしようかな、なんてのんびり構えて冷蔵庫や水回りの掃除をしていた矢先、休暇に入ったという気の緩みがいけなかったのか、高熱を出して寝込む羽目になってしまった。いつもは赤司とふたりで眠るダブルの布団で一人寝をしていた三十日未明、悪寒に襲われ目を覚まし、もしやと思って体温を図るとすでに三十八度を記録していた。嘘だろ、と思いつつ治まらない悪寒につきまとわれながら正午を迎えた頃には、お目にかかるのは子供のとき以来の、三十九・五という数字がデジタルで表示されていた。もしかしてインフルエンザ? どうしよう、病院もう休みだよな。でも一応保険証用意しておこう。昼下がりに財布の現金と保険証を確認したあと、ペットたちの餌やりだけは忘れまいとアラームを掛け、納戸にあったスポーツドリンクを枕元に置き、あとはひたすら体を休めることにした。高熱にうなされていた朝から昼に掛けてはレンジのボタンを押す元気もなかったが、胃腸の具合は悪くなかったので、夜になって多少熱が引くと空腹を覚えた。非常食というわけではないが、何かのためにと常備してあったインスタントの白米とハヤシライスを温めて夕飯とし、その後は引き続き休んだ。一夜明けても発熱は続いていたが、高熱の域は脱しようとしていた。不調で車を運転するのも嫌なので、やっぱり今年はこのままアパートに留まろうと考えていると、アラーム代わりに枕元に置いておいた携帯が鳴った。赤司からの電話で、ペットたちは実家でうまくやっているかどうかの確認を受けた。実家に帰っていない上、餌と水以外の世話がろくにできてない降旗は、少々言葉を詰まらせた。正直に現状を伝えれば赤司を心配させるからためらわれ、かといってしれっと嘘をつけるほど器用でも大胆でもない。結果、即座に赤司に異常を察知され、追及されることになった。意外と妬きやすいらしい彼に下手な言い訳をするとあとが怖いと判断した降旗は、結局昨日から今日に掛けての自分の体調不良を素直に話し、実家には帰っていないと答えた。昨日は熱高かったけど、今日はもう大分下がったから大丈夫だよ、お正月には元気になってると思う、だから心配しないで。そう告げようとしたが、言葉なかばで赤司の「今日中にそちらに戻る。おとなしく休んでいろ」の一言に中断され、電話もそこで終了となった。
夕刻、電話での一方的な約束通りアパートに戻ってきた赤司は、ひとまず降旗に現在の体調と生活状況を聞き出し、経口補水液とみかんを与えた。寝ていろ、とだけ命じたあと、冷蔵庫や納戸を確認したりコウとセイのトイレの世話をしたりと必要な作業を終えると、再び寝室に入り、降旗の寝る布団の横に腰を下ろした。
――お、怒ってる?
布団の中に引っ込んだまま、降旗は声だけを赤司の前に出した。アパートに帰ってきてからこっち、赤司がずっと剣呑な表情で顔を固めていることに小心をつつかれたのだった。
――……なぜ、そんなことを?
――熱出したこと、ちゃんと連絡しなかったから……。
――そうだな、連絡はほしかった。
――ごめん……。
降旗が謝罪すると、赤司は布団の箸をちょっとだけ捲った。顔を出せ、というように。逆らえるはずもなく降旗がびくつきながら首を伸ばすと、
――そんな顔をするな。怒ってなどいない。
赤司が困ったような顔で見下ろしてきた。
――でも……。
どう見てもご機嫌斜めに見えるんですけど、と無言で伝える降旗。赤司がため息とともに苦笑した。
――すまない。機嫌が悪いのは、自分に少々がっかりしていたからだ。
――自分にがっかり?
――きみにまだまだ気を遣わせている関係らしいと。
――ご、ごめん、信頼してないわけじゃないんだよ?
――わかっている。うちの実家の年始は大仰だからな、きみが気を遣ったり遠慮する気持ちもわからないではない。ただ……それでもやっぱりちょっと寂しく思った。すまない、これは個人的な感傷だ。きみが気にすることじゃない。
――征くん……。
じんとしながら降旗が呟く。赤司はそんな彼の額を撫でた。
――僕が年の瀬にこっちに居座ってると、きみはかえって落ち着けないかな?
――そんなことないよ。征くんが看病に帰ってきてくれて、俺嬉しい。
ふふっと降旗は笑ってみせた。忙しいはずの彼が自分のために時間をつくってくれていることを申し訳なく思いながらも、降旗は幸せに感じた。目より下を全部覆う白い不織布のせいでその表情が伝わらないのが残念だった。
コウの散歩から帰ってきた赤司は、降旗に体温計を渡し検温させた。三十八・一。もう少しで八度を切りそうだ。赤司はデジタル表示を見つめながら呟く。
「下がってきたとはいっても、平熱からするとまだ熱が高いな。休日夜間(診療所)に行かなくて大丈夫か?」
「うん、それはいいや。きっとすごい混んでて空気悪いだろうし、待ってるだけで疲れそうだから、やめとく。熱は出てるけど食欲はあるから、大丈夫だと思う」
「食事は普通にできるのか」
「うん、昨日も熱高かったけどお腹すいてレトルトのハヤシライス一人前ぺろっと食べちゃった。ちょっと鼻詰まっちゃってるくらいで、食欲はあるんだ。鼻つまってるってだけで、口もまずくないし」
「なら粥より普通の食事のほうがいいか」
「でも材料あんまりないかも。帰省する予定だったから、年末はあんまり買い出しに行かなかったし。日持ちする野菜なら納戸にあるけど、なまものがないかな。多少冷凍に残ってるかもだけど」
食料の備蓄が少ないことを案ずる降旗に、赤司は涼しい顔で答えた。
「一応こっちに来る前に買い出しはしてきた。肉とか卵とか魚とか。あと葉っぱものも買ってきた。適当に冷蔵庫を埋めておいたから」
「え! 征くんさすが」
「年末の店閉め前で叩き売りされていたから、あまり選べなかったがな。豚肉のコマがあるから、湯掻いて油を抜いて、ポン酢にでも漬けて食べるか。食欲があるとはいえ、こってりしたものは避けたほうがいいだろう。付け合わせはもやしと白菜あたりが無難か?」
「うん、任せるよ」
降旗は赤司が提案したメニューをそのまま受け入れると、ご飯の支度よろしくと布団の中から腕を出してひらひらと手を振った。ではさっそくと腰を上げかけた赤司だったが、ふと思い出したように一瞬動きを止めたあとまばたきをした。
「そうだ、蕎麦を持ってきたんだが、食べるか? フライングだが年越し蕎麦で。今日は夜更かししないほうがいいから、食べるなら夕飯に出そう」
「蕎麦を? 『持ってきた』……?」
買ってきた、じゃなくて? 言外にそう尋ねるつもりで目をぱちくりさせる降旗。赤司がちょっぴりいたずらっぽく肩をすくめる。
「実家から失敬してきたんだ」
「いいの? 征くんのおうちのやつなんて、高級品なんじゃない?」
「どうかな。うまいとは思うが」
「そんないい蕎麦、鼻づまりの状態で食べるのもったいないなあ」
一生に何度も味わえるものじゃなさそうだから、できれば味覚も嗅覚も万全の状態がよかったよ、と貧乏臭く呟く降旗に、赤司がやれやれとため息をついた。
「でも、生だからあまりもたないんだ。早く食べてしまったほうがいい。今日の夜に消費することを想定して打ってあると思うし」
「え、生蕎麦なんだ。じゃあ今日食べちゃおうか。ありがとね。俺ひとりだったら緑のたぬきになるところだったよ」
夕飯のメインは少し早い年越し蕎麦になり、事前に提案していた豚コマのおかずは少なめになった。スーパーでちょっとだけ売れ残っていたという煮しめも、おせちには一日早いが食卓に上った。風邪がうつらないよう、食器はすべて二人分に分けてある。統一感のない食卓だったが、一緒に過ごせるはずがないと思っていた一年の最後の日を彼と迎えられ、降旗はまだ熱でだるいながらも幸せに食事の席についた。
食後はソファに座って体を休め、BGMのように年末特番を適当に流しながら、それぞれ膝に乗ってきたペットたちの背中を撫でた。飼い主の不在と不調で彼らも寂しい思いをしていたようで、いつもよりべったりと甘えている。
「征くん先にお風呂入っていいよ。俺が先だと菌うつりやすい気がするから」
「入れるか?」
「うん、汗で気持ち悪いからそろそろ入りたいんだ。もうそんなふらふらしないから大丈夫だよ」
「ということは、ゆうべはふらふらしていたのか」
わずかに赤司の声が低くなる。
「う、うん……」
降旗は、昨日の段階で連絡を入れなかったことを改めて謝るような上目遣いで彼を見た。彼はふっとため息をつくと、
「風呂、入れてくる。あと、洗濯物がちょっと溜まっているから洗濯機を回しておこう。明日はシーツとか洗いたいし」
セイを降旗に渡しソファから立ち上がって居間を出ると、水場に向かって行った。湯を貯めている間に寝具のカバーを替えたり洗濯機を回したりと、せっせと働いている様子だった。
「一年の最後の最後まで、パパほんとお疲れ様だよねえ」
「ナァ」
降旗は胸に抱いたセイにそう話しかけた。コウが降旗や赤司にべっちょり甘えているとやきもちを焼いて不機嫌になることのあるセイだが(気まぐれなので常に機嫌が悪くなるわけではない)、体調の悪い相手を気遣ってか、今日は愛想よく抱かれていた。
赤司が入浴を終え、入れ替わりで降旗も風呂に入る。案の定、浴室に向かう前に長湯や湯冷めには気をつけろと忠告された。風呂から出ると、冷えないうちに寝るよう赤司に言われ、降旗は素直に従った。体調が悪いいま、夜更かしは許してくれそうにない。せっかくなら一緒に年越ししたかったのに、と内心ちょっとだけぼやきつつ、でもそもそも熱が出なかったら赤司がここで年を越すことはなかったということをすぐに思い出し、風呂上がりに替えたばかりのマスクの下で、知らずため息が出た。
同じアパートにいるものの、今日は普段と違い一緒に寝ることはしない。共倒れを防ぐため、片方が感染の可能性のある病気に掛かっている場合、別々に眠ることにしているのだ。今日は降旗が寝室に寝て、赤司は居間を使う予定だ。寝室の加湿器は水がきちんと補充されており、汗で皺くちゃになって湿っていたシーツと枕カバーは清潔なものに交換されていた。布団の中に入ってみると、足元には湯たんぽが用意されていた。普段も使用しているものだが、熱が高い間は使っていなかった。昨日に比べると熱が下がり、廊下の冷気に足先が冷えていたので、置かれて間もないと思われる湯たんぽの温かさは心地よかった。ダブルの布団で一緒に寝ているふたりだが、足に熱源が当たると落ち着かないという理由で、湯たんぽはもっぱら降旗の足元に置かれていた。それでいて、足が冷たいから温めてほしいと、赤司は降旗の脚に自分の脚を絡めてくる。そんな口実つけなくてもシーズン問わず堂々といちゃついているのに、と不思議に思いつつ、降旗もまた彼の動きに呼応するように足を絡めてやるのだった。ダブルの布団をひとりで広々と使えるのに、降旗は無意識のうちにいつものように真ん中より左に寄って寝ていた。またいつもの癖なのか意図的なのかは不明だが、赤司が用意してくれた湯たんぽも左寄りに置かれていた。右側の空間と、いつもなら絡んでくる脚がないのが寂しくて、横向きになった降旗は寝付くまでの間、時折もぞもぞと右方向に脚を動かしていた。
平日の就寝時間を考えれば異例の早寝であったせいか、夜中にトイレで目を覚まし、もう年は開けちゃったんだろうなと思いながら枕元の携帯を確認したら、時刻はいまだ日付をまたぐ手前を示していた。新年まで三十分を切っていた。降旗は用を足して冷たい水で手を洗ったあと、居間のほうへ足を向けた。照明は落とされているが、音とかすかな光が扉の隙間から漏れている。テレビがついているようだ。そっとドアを開き中に入ると、床に敷いたシングルの布団は平らなままで、代わりにソファの上にこんもりと毛布の山ができていた。
「どうした、トイレか?」
赤司は起きていたようで、ソファの盛り上がりはすぐに動いた。降旗は小さく頷きながらソファに近づいた。赤司は渋い藍色の昔ながらの半纏を着て、胸から下には薄手の小ぶりな毛布を二枚重ねていた。薄暗がりで色はわかりにくいが、茶色地に白のドットのデザインと、水色一色のシンプルなものが一枚ずつ。いずれも就寝用の毛布としてはシングルだとしても小さすぎる。大きめの膝掛け程度のサイズだ。降旗はソファの背もたれ越しに赤司をのぞき込みながら、半眼で指摘した。
「征くん、コウたちと一緒に寝てるだろー」
赤司は数秒の沈黙のあと、悪びれるでもなくくすっと笑った。
「バレたか」
「バレバレだよ。その毛布かぶってる時点で」
赤司がいまかぶっている毛布はペットたちに与えてある毛布である。茶色がコウ、水色がセイのものだ。人間の寝具で寝かさないよう躾けてあるので、二匹が許可なく飼い主の布団に上がることはなく、また人間のほうもかわいいを理由にむやみに彼らに甘くしないよう気をつけている。……のだが、赤司はきっちりしているようで存外ペット煩悩らしく、「人間用の布団でなければいいだろう」という理由のもと、ソファでペット用毛布をかぶり、セイやコウと一緒に寝ていることがしばしばある。おそらくいま毛布の下では、股の間でコウが体を丸め、胸から腹にかけてセイが丸くなっていることだろう。
「こいつらと寝るとあったかいんだ。このナチュラルな温かさがいい。天然湯たんぽ」
「もー……甘いんだから」
幸せそうに胸元の毛布の山を撫でていると、ふと中から動き出し、箸からひょっこり猫が顔をのぞかせた。
「お、セイ。出てきたか。お兄ちゃんだぞー」
セイは降旗の姿を見とめると、抱っこしてというように降旗の胸に向かってジャンプした。降旗はそれを受け止め、バランスが保ちやすいよう抱き直してやる。顔を近づけると、セイが頬に顔を擦りつけてきた。
「お? お? なんだ、今日は機嫌いいな。いつもクールなのに」
「きみがちょっと元気になったから嬉しいんだろう」
「セイ嬉しい? お兄ちゃん元気になって嬉しい? そっかそっか、いい子だな~」
猫の甘えた反応を勝手に解釈して一方的に会話を成立させると、降旗は珍しくデレデレの成猫を存分に堪能した。
「あ~、セイはほんと美人さんでちゅね~」
降旗もまたデレデレになってつい赤ちゃん言葉になる。セイはすでに成獣だが、マーゲイを思わせる幼めの整った顔のつくりをしており、たいそうな美猫である(降旗主観)。飼い主である赤司とのツーショットはちょっぴり歯噛みしたくなる、けれども目の保養になる一枚である(と降旗は思っている)。
「きみも大概甘々だと思うが」
セイ相手に甘ったるい声を上げる降旗に赤司が呆れたため息をつく。ペット二匹を侍らせて幸せに寝転がっているひとが何を、と降旗は胸中で突っ込んでおいた。
「そういやコウは? 毛布の下にいるよね?」
ひと通りセイといちゃついたあと、降旗がふと気になって尋ねると、赤司が毛布を腰のあたりまで引き下げ、ゆっくりと中を見せた。降旗の当初の予想通り、赤司の股ぐらでは柴に似た犬が丸まっていた。人間たちの声や動きに反応して耳介をぴくぴく動かし、時折うっすら目を開くが、危険はないとわかっているのか、起きようとはしなかった。
「ちょっと前までセイにちょっかい出されてつき合ってやっていたから、疲れたんだろう。セイ、あまり老体に無理をさせるなよ?」
赤司は、ソファのアームに浅く腰掛ける降旗の胸に抱かれたセイの顔に向け、つんと人差し指を向けた。セイはぷいっと露骨に顔を背けた。まあこいつはこういうやつだよな、とふたりは顔を見合わせて笑った。と、降旗がアームから離れてソファの前側に移動する。
「征くん、隣座っていい? スペース空けれそう?」
「ああ」
赤司はコウを落とさないよう慎重な動作で上半身を起こすと、ソファの左側に座った。空いた右側のスペースに降旗がぽすんと腰を下ろす。そして赤司の肩に頭を預けると、甘えるようにすりすりと小さく首を動かした。
「どうした? 体調悪くて心細いか?」
「んー……いまは征くんがいてくれるからそれは別に。むしろ安心してる。ただちょっと、妬いちゃったんだ」
「やいた?」
赤司が不思議そうにきょとんとする。降旗は照れくさそうにへへっと声を漏らした。
「俺は今夜征くんと一緒に寝られないのに、こいつらは寝られるのかと思うと、羨ましくて。いままで一緒に年越したことなかったからさ、せっかくならいちゃいちゃしたかったなー、なんて。まあ、風邪ひかなかったらそもそも一緒に過ごせなかったわけだけど」
「光樹……」
小声でそう話す降旗の頭を、赤司がそっと抱き寄せた。降旗は嬉しそうに赤司の腕にぴっとり体を寄せた。
「熱で具合悪いのは嫌だけど、そのおかげで征くんと年末年始一緒だと思うと、不謹慎だけどちょっと嬉しいんだ」
まだ少し高そうな降旗の体温を間近で感じた赤司は、
「光樹、パジャマのままでは体を冷やす」
コウを気遣いなるべく体を揺らさないよう気をつけながら半纏を脱ぐと、降旗の肩に掛けてやった。ありがとう、と半纏を羽織りながら、降旗はますますぴったり赤司に体を押し付けた。赤司の手が降旗の太腿に置かれ、ゆるゆるとさすりはじめる。降旗もまたパジャマ越しに赤司の腹部を撫でた。いつもならとっくにキスをしているシチュエーションだが、今日は感染防止のためお互いマスクをしているため、ままならなかった。もどかしい気持ちを愛撫に変換させるように、けれども体調を考えて緩やかに、お互いの体に触れ合う。せっかく貸された半纏が腰のあたりまでずり落ちかけたとき、降旗がピタと手を止めた。そして、おずおずと口を開く。
「征くん、ごめん、今日はあんま触らないでもらえるかな」
降旗の頼みに、赤司は名残惜しそうにしながらもすっと手を引いた。
「すまない、具合が悪いんだったな」
「いや……そうじゃなくて。もう大分体調はいいんだ。それで、あの……征くんに触られてると、セックスしたい気分になっちゃうから……」
高熱にうなされていたときは性欲なんて概念すら吹っ飛んでいるような有様だったが、快方に向かっているいま、本来一緒にいられない日を共に過ごしているという心理的な高揚感も手伝い、ひどく刺激された。瞳が潤んでいるのは、不調による発熱のためだけではないだろう。もじもじと恥ずかしげに見つめてくる降旗に、赤司は自身の心臓がどくんと大きく鳴るのを自覚した。
「こ、うき……」
彼のほうこそ熱に浮かされるように相手の名前を呼んだ。降旗はじぃっとその目をのぞき込んでいたが、程なくして、
「まあ風邪ひいてるから無理なんだけどね。直接病原菌渡すようなものだから」
色気も素っ気もない苦笑で先刻までの雰囲気を払ってしまうと、気を取り直すように言った。
「そうそう、新年の抱負じゃないけど、年明けにきみと最初に一緒にやりたいなって思ってることがあるんだ……いま言っちゃってもいい?」
「なんだ?」
「一緒にお風呂入ろ?」
斜め下からのぞくような角度でねだってくる降旗に、赤司が珍しく声を上擦らせる。
「……こ、光樹?」
「いやー、一緒にいるのにいちゃいちゃできなくてもどかしくてさ。さっき風呂入ったとき、いちゃいちゃしてるとこ妄想してつい長風呂しかけちゃった。ちゃんときみの忠告守って早めに出たけど」
だから、風邪治ったら一緒にお風呂入って存分にいちゃいちゃしよ? 上機嫌にそうねだる降旗に、赤司はらしくもなく口を小さくぱくつかせながらも、どうにかこうにか、「うん……」とだけ答えた。それに気をよくした降旗が、やったぁと無邪気に喜んだとき、テレビからよく知らないタレントの「あけましておめでとうございます」の声が聞こえてきた。
「あ、日付変わった。新年だ。あけましておめでとう」
「お、おめでとう」
「今年もよろしくね」
「ああ、よろしく」
新年に切り替わると同時にすっかりいつもどおりのテンションに戻った降旗は、これありがとうと半纏を赤司に返すと、ソファから立ち上がった。
「じゃあ、情緒もへったくれもないけど、無事に一緒に年越しできたことだし、体冷やさないうちに寝るよ。早く風邪治したいし。じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
ひらりと手の平を振りながら、降旗は寝室へと戻っていった。赤司は、時間差でかっと頬が熱くなるのを感じながら、光樹のやつ……と口を覆いながら呟いた。さっそく風邪がうつったのかと心配していると、彼の股ぐらでおとなしくしていたはずのコウがひょこっと顔を出してこちらを見上げてきた。物言わぬ犬は、しかしなんだか驚いたようにそわそわしている。赤司はその理由を察して、ちょっぴりばつが悪そうにぼやいた。
「ああ、悪いなコウ。びっくりさせたか。でも、悪いのはおまえの飼い主だからな……?」
いままでで一番格好がつかない年越しだと、赤司は額を押さえて深々とため息をついた。コウはびくびくしながら赤司の足の間を抜けだしていった。と、ふいに左の脛を何かが掠めるのを感じ、赤司は足元を見下ろした。床では、毛を逆立てたセイがフーッと怒りの声を上げながら、赤司の足に猫パンチを繰り出していた。
「おい、地味に痛いぞ。セイ、おまえ何を勘違いしてるんだ。こら、やめなさい」
赤司が制止するが、セイは威嚇の声を上げながら攻撃を続けてくる。それでも頭のよいセイは状況を考慮してか、大きな声は出さなかった。しかし十分迫力はある。
「そんな発情期みたいな声を出して……はしたないぞ?」
人語を理解してのことかどうかはわからないが、赤司のその言葉が癇に障ったかのように、セイはますます攻撃を激しくし、キックまで繰り出しはじめた。ソファの後ろ側ではコウが怯えてぷるぷる震えていたが、ソファで攻防を繰り広げるひとりと一匹は、そのことにしばらくの間気づかずにいた。 人語を理解してのことかどうかはわからないが、赤司のその言葉が癇に障ったかのように、セイはますます攻撃を激しくし、キックまで繰り出しはじめた。ソファの後ろ側ではコウが怯えてぷるぷる震えていたが、遠く聞こえる除夜の鐘などどこ吹く風で煩悩を投げ合うがごとくソファで攻防を繰り広げるひとりと一匹は、そのことにしばらくの間気づかずにいた。